本文より~
東京、あきる野市、生まれ。
丸山氏は1973年8月31日、秋川(現、あきる野)市に生まれる。父親は車関連の部品を製作する「丸山製作所」を経営。規模は小さいが、F1カーの部品も手がけた職人集団だ。
ところで、あきる野市といえば「東京サマーランド」が思い浮かぶ。その話をすると「そうですね、俺らの小さい頃からあったと思います。割引券とかもらって通っていましたから」と丸山氏。小さい頃を思いだすように目を細めた。
「親父は会社を経営する一方で、民謡の先生もしていました。お袋は踊りの先生です。俺もガキの頃から民謡を習っていました。子どもが民謡を歌うなんて珍しいでしょ。だから、じいさんやばあさんたちが、お小遣いをくれたりしてね。まだ、俺も可愛かったんでしょうね(笑)」。
小学校では空手。中学ではテニス。運動神経は良かったが、成績は体育と家庭科以外は、オール1。高校は2つ受けたが、2つとも落ち、結局、調理師の専門学校に進む。
「勉強がイヤというか、やる意味が見いだせなかったんですね。当時は、他校との抗争に追われていて、勉強どころじゃなかったのが、正直な話です」。
専門学校に進学してからは、暴走族にも入り、走り回った。警察に追いかけられたことは1度や2度ではないし、捕まったこともなくはないが、不思議なことに、免許は没収されなかった。
それだけ運転が巧かった証でもある。つまり、逃げ切ったわけだ。
盗んだバイクは、100台以上。
「いまは知りませんが、直結すれば取り放題です。自転車のカギはもっと簡単で、傘のポッチで、すぐに開けることができました」。なんでも、「足がいるなと思ったら、ちかくにあるバイクや自転車を物色し、カギを開けた」そうだ。
はたからすれば迷惑千万な話であるが、本人たちからすれば、至って、当然のことだった。
ところで、あきる野市といえば「東京サマーランド」が思い浮かぶ。その話をすると「そうですね、俺らの小さい頃からあったと思います。割引券とかもらって通っていましたから」と丸山氏。小さい頃を思いだすように目を細めた。
「親父は会社を経営する一方で、民謡の先生もしていました。お袋は踊りの先生です。俺もガキの頃から民謡を習っていました。子どもが民謡を歌うなんて珍しいでしょ。だから、じいさんやばあさんたちが、お小遣いをくれたりしてね。まだ、俺も可愛かったんでしょうね(笑)」。
小学校では空手。中学ではテニス。運動神経は良かったが、成績は体育と家庭科以外は、オール1。高校は2つ受けたが、2つとも落ち、結局、調理師の専門学校に進む。
「勉強がイヤというか、やる意味が見いだせなかったんですね。当時は、他校との抗争に追われていて、勉強どころじゃなかったのが、正直な話です」。
専門学校に進学してからは、暴走族にも入り、走り回った。警察に追いかけられたことは1度や2度ではないし、捕まったこともなくはないが、不思議なことに、免許は没収されなかった。
それだけ運転が巧かった証でもある。つまり、逃げ切ったわけだ。
盗んだバイクは、100台以上。
「いまは知りませんが、直結すれば取り放題です。自転車のカギはもっと簡単で、傘のポッチで、すぐに開けることができました」。なんでも、「足がいるなと思ったら、ちかくにあるバイクや自転車を物色し、カギを開けた」そうだ。
はたからすれば迷惑千万な話であるが、本人たちからすれば、至って、当然のことだった。
17歳の、金髪の少年がやってくる。
「調理師学校でも中学時代同様、授業に出てなくって、日数が足りなかったので、俺が卒業したのは、みんなより2ヵ月遅れの6月です。4月からの2ヵ月間、猶予をくれたんですね。代わりに、遅刻も欠席も許さないと。だから、調理師免許をいただくために、さすがにまじめに通いました」。2ヵ月間は、休まず通ったそうだが、それでも生活の中心は「仲間とバイクで走る」ことだった。
「卒業して『道とん堀』に就職するわけですが、なぜ『道とん堀』だったかというと、勤務時間が17時から22時だったんですね。それで、これなら朝までバイクに乗れるな、と。で、17時まで寝ていればいいと。こいつは最高だと思って(笑)」。
「17歳の選択なんてそんなもんだ」と笑う人もいるし、丸山氏も、たしかにそうだと頷くはずだが、1人だけ、人とは異なる思いで丸山氏をみていた人物がいた。「道とん堀」の社長だった。
「道とん堀」の社長は、17歳の、金髪少年を受け入れた。誰もつづかないと思ったが、社長は「あいつなら」と思ったそうだ。社長は、金髪の少年に賭け、その賭けは大きな宝をもたらすことになる。
ともかく、金髪の少年は、意外にも、素直で、まじめだった。
「寝ることもできたし、遊ぶこともできたわけで、俺にとっちゃ天国ですよね」。いまでは300店ちかくある「道とん堀」だが、当時はまだ2店舗。創業時である。「それで3店舗目の時、18歳で店長に大抜擢です。ただ俺が抜擢されたのは、俺しかいなかったから。入社して2年目でも、古株の1人だったんです。それから、更に1年経って、本部勤務を開始します。本部といっても、まだ6~7店舗しかない時だから、ちっちゃいです。フランチャイズを始めることになって、俺がその陣頭指揮を執ることになったんです」。
「卒業して『道とん堀』に就職するわけですが、なぜ『道とん堀』だったかというと、勤務時間が17時から22時だったんですね。それで、これなら朝までバイクに乗れるな、と。で、17時まで寝ていればいいと。こいつは最高だと思って(笑)」。
「17歳の選択なんてそんなもんだ」と笑う人もいるし、丸山氏も、たしかにそうだと頷くはずだが、1人だけ、人とは異なる思いで丸山氏をみていた人物がいた。「道とん堀」の社長だった。
「道とん堀」の社長は、17歳の、金髪少年を受け入れた。誰もつづかないと思ったが、社長は「あいつなら」と思ったそうだ。社長は、金髪の少年に賭け、その賭けは大きな宝をもたらすことになる。
ともかく、金髪の少年は、意外にも、素直で、まじめだった。
「寝ることもできたし、遊ぶこともできたわけで、俺にとっちゃ天国ですよね」。いまでは300店ちかくある「道とん堀」だが、当時はまだ2店舗。創業時である。「それで3店舗目の時、18歳で店長に大抜擢です。ただ俺が抜擢されたのは、俺しかいなかったから。入社して2年目でも、古株の1人だったんです。それから、更に1年経って、本部勤務を開始します。本部といっても、まだ6~7店舗しかない時だから、ちっちゃいです。フランチャイズを始めることになって、俺がその陣頭指揮を執ることになったんです」。
「FC。なんじゃそれ」が、メガフランチャイジーの始まり。
最初、フランチャイズと聞いて「なんじゃそれ」と思ったそうだ。「しくみもわかりませんが、とにかく、社長の言う通りやりゃいいと思って。FC1号店は、あきる野市にオープンしました。あきる野市の、お偉いさんがオーナーだったんです」。
コピー紙に文字を綴り、写真を貼り、レシピを解説した。マニュアルも手作り。もっとも丸山氏が乗り込んで陣頭指揮を執るのだから、マニュアルもあってないようなもんだった。そろそろ暴走族も引退かと思っていた時期だから、タイミングも良かった。朝から晩まで指揮を執りつづけた。
店は、既存の「道とん堀」同様、快調にスタートする。
そんなある日のこと。
「オーナーさんにも感謝してもらって。とてもいい仲になれたんですが、ある日、オーナーがPLをみせてくれて。今度は、『なんじゃこれ』ってなって(笑)」。
「朝から晩まで指揮を執る俺の給料が20万円で、なんにもしないオーナーの取り分が10倍の200万円。それをみて、俺は社長になるって決めたんです」。
コピー紙に文字を綴り、写真を貼り、レシピを解説した。マニュアルも手作り。もっとも丸山氏が乗り込んで陣頭指揮を執るのだから、マニュアルもあってないようなもんだった。そろそろ暴走族も引退かと思っていた時期だから、タイミングも良かった。朝から晩まで指揮を執りつづけた。
店は、既存の「道とん堀」同様、快調にスタートする。
そんなある日のこと。
「オーナーさんにも感謝してもらって。とてもいい仲になれたんですが、ある日、オーナーがPLをみせてくれて。今度は、『なんじゃこれ』ってなって(笑)」。
「朝から晩まで指揮を執る俺の給料が20万円で、なんにもしないオーナーの取り分が10倍の200万円。それをみて、俺は社長になるって決めたんです」。
・・・続き
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