本文より~
大陸の大草原。
「横川四兄弟」と言われている。「すかいらーく」の創業者である四人兄弟のことをそう言う。今回、ご登場いただいたのは、三男の横川竟氏。兄弟のなかでも、創業時に果たした役割はもっとも大きい。
「兄たちは頭のできもよくて、弟もよかったもんだから、ぼくばかりが目立っちゃった」と竟氏。勉強がキライで、中学を卒業すると同時に上京し、就職する。
「ぼくは3歳から6歳まで大陸で暮らしていました」。
竟氏が大陸というのは中国・満州のことで、竟氏が暮らしたのはロシアとの国境ちかくの町。山もなく、どこまで行っても平原。「360度、地平線が広がっているんです。そんな大草原のなかで、羊や山羊や豚といっしょに暮らしていました」。
竟氏が大陸に渡ったのは、教育者でもあった父親が「横川中隊」という開拓団をつくり、大陸に渡ったからだ。しかし、竟氏が6歳の時、父親が亡くなり、両親の故郷である長野にもどる。勉強がキライというのは、帰国してからの話である。
「勉強はしませんが、仕事はしました。小学3年生から新聞配達をはじめ、そのお金で山羊や兎や鶏、一時期は牛も飼っていました。学校から帰って新聞を配ります。配り終えてから、今度は餌を積んで帰宅する。時間は、もう夜8時です」。
冬になれば、気温はマイナス7度。部屋に飾った花は、一晩で凍った。「ぼくは、中学を卒業してから上京して、東京の築地で仕事をするんですが、ぜんぜん苦じゃなかった。それまでと比べれば、白ご飯を腹いっぱい食べられるだけで、天国だったんです」。
「兄たちは頭のできもよくて、弟もよかったもんだから、ぼくばかりが目立っちゃった」と竟氏。勉強がキライで、中学を卒業すると同時に上京し、就職する。
「ぼくは3歳から6歳まで大陸で暮らしていました」。
竟氏が大陸というのは中国・満州のことで、竟氏が暮らしたのはロシアとの国境ちかくの町。山もなく、どこまで行っても平原。「360度、地平線が広がっているんです。そんな大草原のなかで、羊や山羊や豚といっしょに暮らしていました」。
竟氏が大陸に渡ったのは、教育者でもあった父親が「横川中隊」という開拓団をつくり、大陸に渡ったからだ。しかし、竟氏が6歳の時、父親が亡くなり、両親の故郷である長野にもどる。勉強がキライというのは、帰国してからの話である。
「勉強はしませんが、仕事はしました。小学3年生から新聞配達をはじめ、そのお金で山羊や兎や鶏、一時期は牛も飼っていました。学校から帰って新聞を配ります。配り終えてから、今度は餌を積んで帰宅する。時間は、もう夜8時です」。
冬になれば、気温はマイナス7度。部屋に飾った花は、一晩で凍った。「ぼくは、中学を卒業してから上京して、東京の築地で仕事をするんですが、ぜんぜん苦じゃなかった。それまでと比べれば、白ご飯を腹いっぱい食べられるだけで、天国だったんです」。
1970年、1号店オープン。
採用の条件は、朝・昼・晩、従業員全員の飯をつくることだった。「独立するつもりだからね。食品は倒産する確率の低い商売だと思ったから、それを勉強するために築地に行ったんです。中卒で、学歴もないわけでしょ。できることも限られている。しかも、まだ小僧です」。
「ずっとオヤジの顔色をうかがっていた」と竟氏は言う。追い出されたらどこにも行くところがないとわかっていたからだ。言われたことは素直に吸収した。箸の上げ下げから、教えられたそうだ。「キホンの『キ』ですね。商売の原理・原則。そういうのもすべて叩き込んでいただきました」。
そういう意味では「すかいらーく」の源流は、築地にあると言っていい。
「私たち兄弟が、はじめて店を出したのは1962年、私が24歳の時です」。
4年間、築地で学んだ知識を総動員し、兄弟3人を集め、起業する。薄給のなかから、月々、貯めたお金が元手になる。店名は「ことぶき食品」。現在、すかいらーくのHPには、小さなひもの食品店とあるが、竟氏に言わせれば、いまのコンビニのリッチ版ということだ。オープンから、大量に客が押し寄せた。
「私たちは、ダイエーを追いかけていたんですが、スーパーには勝てなかった。それがわかったから、1970年に今度は飲食で勝負しようと、すかいらーくの1号店、国立店(府中市)をオープンするんです」。
1970年といえば、大阪で万国博覧会が開催された年である。ちなみに翌1971年には、銀座に日本マクドナルドの1号店が誕生している。
「なぜレストランだったかといえば、ビジネスとしていちばん遅れていたからです」。キャバレーか、レストランか、最終的にはこの2つの選択肢が残ったそうだ。「それで、キャバレーはちょっとなっていうことで、レストランになったんです(笑)」。
「当時から日本一を目指されていたんですか」と伺うと、首をふり「それは違う。日本一になるために、遅れていたレストランビジネスに的を絞って打って出たんです」と、こちらを諭すように語る。レストランビジネスを選択した時点で、竟氏のなかでは、すでに「日本一」が既定路線だったのかもしれない。
ともかく、それが「すかいらーく」の始まりである。
「ずっとオヤジの顔色をうかがっていた」と竟氏は言う。追い出されたらどこにも行くところがないとわかっていたからだ。言われたことは素直に吸収した。箸の上げ下げから、教えられたそうだ。「キホンの『キ』ですね。商売の原理・原則。そういうのもすべて叩き込んでいただきました」。
そういう意味では「すかいらーく」の源流は、築地にあると言っていい。
「私たち兄弟が、はじめて店を出したのは1962年、私が24歳の時です」。
4年間、築地で学んだ知識を総動員し、兄弟3人を集め、起業する。薄給のなかから、月々、貯めたお金が元手になる。店名は「ことぶき食品」。現在、すかいらーくのHPには、小さなひもの食品店とあるが、竟氏に言わせれば、いまのコンビニのリッチ版ということだ。オープンから、大量に客が押し寄せた。
「私たちは、ダイエーを追いかけていたんですが、スーパーには勝てなかった。それがわかったから、1970年に今度は飲食で勝負しようと、すかいらーくの1号店、国立店(府中市)をオープンするんです」。
1970年といえば、大阪で万国博覧会が開催された年である。ちなみに翌1971年には、銀座に日本マクドナルドの1号店が誕生している。
「なぜレストランだったかといえば、ビジネスとしていちばん遅れていたからです」。キャバレーか、レストランか、最終的にはこの2つの選択肢が残ったそうだ。「それで、キャバレーはちょっとなっていうことで、レストランになったんです(笑)」。
「当時から日本一を目指されていたんですか」と伺うと、首をふり「それは違う。日本一になるために、遅れていたレストランビジネスに的を絞って打って出たんです」と、こちらを諭すように語る。レストランビジネスを選択した時点で、竟氏のなかでは、すでに「日本一」が既定路線だったのかもしれない。
ともかく、それが「すかいらーく」の始まりである。
日本一、うまいハンバーグ。
「すかいらーくが、大ヒットしたのは、簡単です。アメリカのシステムを採り入れたジャパニーズレストランだったからです」。
レストランのメイン料理はハンバーグ。
「日本一おいしいハンバーグをつくろうってね。みんなでがんばったんです。いまの人は、うそだと思うでしょうが、当時、スーパーに並んでいるハンバーグの中身は、ウサギやウマの合いびき肉です。そういうのが主流の時代に、うちは、ちゃんとした豚と牛の合いびき肉でハンバーグをつくりました。しかも、380円です。ホテルの有名シェフを口説き落として、最高のソースもつくりあげ、メニューの幅も広げました。お客様が来ない方がおかしいでしょ」。
「1日1000人は来た」と竟氏はいう。
「用意しておいたランチが、15分でなくなちゃう。うちは11時からオープンするんですが、11時30分からランチのお客様でごったがえすんです。お客様らからすれば、早くいかないとランチがなくなっちゃうから」。
大げさな話ではない。当時、ファミリーレストランは子どもたちの憧れだった。休日になれば、ファミリーが大挙して押しかけオープン前から列をつくった。
「お金がなかったから、たんぼのなかにつくった」と竟氏は言うが、モータリゼーションを見越した戦略だったに違いない。広い駐車場を設けたレストランは、ファミリーレストランとも言われ、巨大なマーケットをつくり、自らそのマーケットを押し広げた。
「日本一の300店になったのは、昭和56年です。それまで赤字店はゼロです」と竟氏は胸を張る。
「すかいらーくが成長できた最大の要因を探ろうと思えば、昭和48年までさかのぼらなければなりません。当時、オイルショックでインフレが起こり、景気は逆に落ち込んでいた。その時、すかいらーくは『5年間、価格を上げない』と宣言します。人件費だけで18%上がる時代です。価格に転嫁しないとやっていけない。それでも、すかいらーくは380円のまま。しかも、味も一切、落とさなかった。それが評価されました。いうならば、これがすかいらーくの流儀です」。
お客様のため。
それが原点であり、商売の原理、原則である。
「私の好きな本田宗一郎さんは、汗をかきながら自転車を漕ぐ人をみて、カブをつくりました。私も、商売はそうあるべきだと思うんです」。
レストランのメイン料理はハンバーグ。
「日本一おいしいハンバーグをつくろうってね。みんなでがんばったんです。いまの人は、うそだと思うでしょうが、当時、スーパーに並んでいるハンバーグの中身は、ウサギやウマの合いびき肉です。そういうのが主流の時代に、うちは、ちゃんとした豚と牛の合いびき肉でハンバーグをつくりました。しかも、380円です。ホテルの有名シェフを口説き落として、最高のソースもつくりあげ、メニューの幅も広げました。お客様が来ない方がおかしいでしょ」。
「1日1000人は来た」と竟氏はいう。
「用意しておいたランチが、15分でなくなちゃう。うちは11時からオープンするんですが、11時30分からランチのお客様でごったがえすんです。お客様らからすれば、早くいかないとランチがなくなっちゃうから」。
大げさな話ではない。当時、ファミリーレストランは子どもたちの憧れだった。休日になれば、ファミリーが大挙して押しかけオープン前から列をつくった。
「お金がなかったから、たんぼのなかにつくった」と竟氏は言うが、モータリゼーションを見越した戦略だったに違いない。広い駐車場を設けたレストランは、ファミリーレストランとも言われ、巨大なマーケットをつくり、自らそのマーケットを押し広げた。
「日本一の300店になったのは、昭和56年です。それまで赤字店はゼロです」と竟氏は胸を張る。
「すかいらーくが成長できた最大の要因を探ろうと思えば、昭和48年までさかのぼらなければなりません。当時、オイルショックでインフレが起こり、景気は逆に落ち込んでいた。その時、すかいらーくは『5年間、価格を上げない』と宣言します。人件費だけで18%上がる時代です。価格に転嫁しないとやっていけない。それでも、すかいらーくは380円のまま。しかも、味も一切、落とさなかった。それが評価されました。いうならば、これがすかいらーくの流儀です」。
お客様のため。
それが原点であり、商売の原理、原則である。
「私の好きな本田宗一郎さんは、汗をかきながら自転車を漕ぐ人をみて、カブをつくりました。私も、商売はそうあるべきだと思うんです」。
・・・続き
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