本文より~
サッカー少年。
「にいちゃんにくっついていた」と、今回ご登場いただいた井上氏は語る。井上氏が生まれたのは、埼玉県秩父市。「山の中」と井上氏がいうので調べてみると、たしかに山に囲まれている。
ウィキペディアによれば「秩父盆地の中央にあることから古くから物資の集散地として、また秩父神社の門前町として栄えた」らしい。この秩父で、井上氏は18歳になるまで暮らしている。
「小学校の頃は、時々、警報が出るんです。『熊がでたぞ』って。そのたびに学校で待機です」。たしかに熊も出そうな山間である。秩父市のホームページを観てみたが、いまも「クマに注意!!(クマ目撃最新情報)」というコンテンツがトップページにあった。その街で、兄の背中を追いかけていたのが子どもの頃の井上氏像である。
「私が、兄のあとを追いかけなくなったのは小学3年生頃からです。サッカーに取りつかれてしまったんです」。
足も速く、ボールさばきにも天性のものがあった。井上氏が6年になると、秩父エリアでは向かうところ敵なし。地方新聞には得点王として井上氏の名が何度も掲載された。
「監督のおかげですね。でも、むちゃくちゃな指導です」。試合に勝っても、2時間かけて試合が行われたグラウンドから走って帰らされた。「この相手に、なんだ、この点数は。少なすぎると怒鳴るんです(笑)」。
監督は怖かったが、それでもサッカーは楽しくてしようがない。監督がいう通りやれば、試合に負けることもなかった。「大好きでしたね。代わりに勉強はまったくしなかった。家に帰ってからも、勉強せずに、泣きながらサッカーの練習をしていました」。
いつかプロに行くと思っていた。「それは、目標じゃなく、私にとっては既定路線でした」。
ウィキペディアによれば「秩父盆地の中央にあることから古くから物資の集散地として、また秩父神社の門前町として栄えた」らしい。この秩父で、井上氏は18歳になるまで暮らしている。
「小学校の頃は、時々、警報が出るんです。『熊がでたぞ』って。そのたびに学校で待機です」。たしかに熊も出そうな山間である。秩父市のホームページを観てみたが、いまも「クマに注意!!(クマ目撃最新情報)」というコンテンツがトップページにあった。その街で、兄の背中を追いかけていたのが子どもの頃の井上氏像である。
「私が、兄のあとを追いかけなくなったのは小学3年生頃からです。サッカーに取りつかれてしまったんです」。
足も速く、ボールさばきにも天性のものがあった。井上氏が6年になると、秩父エリアでは向かうところ敵なし。地方新聞には得点王として井上氏の名が何度も掲載された。
「監督のおかげですね。でも、むちゃくちゃな指導です」。試合に勝っても、2時間かけて試合が行われたグラウンドから走って帰らされた。「この相手に、なんだ、この点数は。少なすぎると怒鳴るんです(笑)」。
監督は怖かったが、それでもサッカーは楽しくてしようがない。監督がいう通りやれば、試合に負けることもなかった。「大好きでしたね。代わりに勉強はまったくしなかった。家に帰ってからも、勉強せずに、泣きながらサッカーの練習をしていました」。
いつかプロに行くと思っていた。「それは、目標じゃなく、私にとっては既定路線でした」。
大学にいても、しょうがない。
車で1時間かかったそうだ。学校からクラブチームの練習が行われるグラウンドまでの距離である。中学になった井上氏は「上里ナポレオン」という秩父から少し離れたのクラブチームに所属する。「トレセンという、選抜チームにも選ばれ、試合にもでていました。土日は遠征です。父母が車で遠征先まで送ってくれました」。
「いくつかの高校からスカウトされました。そのなかで私は『正智深谷高等学校』に進みます。いまからちからを入れていくという段階だったものですから、私にとっては、それ自体、興味深かったんです」。
高校時代もトレセンに選ばれた。むろん、選ばれるのはごく少数のエリートたちである。「大学も推薦で埼工大深谷大学に進みました。だけど、1年で中退してしまいます」。
どうしてしまったんだろう。プロはどこに行ってしまったのか。
「高校時代ですね。プロは無理かもしれないと思いはじめたのは。私自身は背丈もそうあるほうでもないですし、ユースの選手たちと比較すると明らかにちからが劣った。いままでサッカーで飯を食っていくのが当然だと思っていたわけですよ。だから、あれ? どうした、みたいな」。
明確な理由もわからぬまま、大学に進んだ。しかし、大学でも霧は晴れなかった。1年で退部届をだし、ならばと授業に出てみたいが、まったく会話の意味すらわからなかった。「そりゃぁ、そうですね。サッカーしかしてこなかったんだから。だから、大学にいてもしょうがないと思って」。
「いくつかの高校からスカウトされました。そのなかで私は『正智深谷高等学校』に進みます。いまからちからを入れていくという段階だったものですから、私にとっては、それ自体、興味深かったんです」。
高校時代もトレセンに選ばれた。むろん、選ばれるのはごく少数のエリートたちである。「大学も推薦で埼工大深谷大学に進みました。だけど、1年で中退してしまいます」。
どうしてしまったんだろう。プロはどこに行ってしまったのか。
「高校時代ですね。プロは無理かもしれないと思いはじめたのは。私自身は背丈もそうあるほうでもないですし、ユースの選手たちと比較すると明らかにちからが劣った。いままでサッカーで飯を食っていくのが当然だと思っていたわけですよ。だから、あれ? どうした、みたいな」。
明確な理由もわからぬまま、大学に進んだ。しかし、大学でも霧は晴れなかった。1年で退部届をだし、ならばと授業に出てみたいが、まったく会話の意味すらわからなかった。「そりゃぁ、そうですね。サッカーしかしてこなかったんだから。だから、大学にいてもしょうがないと思って」。
1年もかからずつくった、300万円の借金。
「ここから先は、いままでのすべての反動ですね(笑)。勉強もしなかったですが、サッカー以外は、遊ぶこともしなかったわけで。ご想像におまかせしますが、今思えば、アホです」。
気づくと、300万円の借金を抱えていたそうだ。19歳の少年には莫大な金額である。「大学を辞め、ぷらぷらして、それで300万円です。何をやってもいいという親父が久々に怒ったのもこの時です。昔から『真剣にやるなら日本一をめざせ』という親父だったのですが、この時は、こういいました。『喧嘩をやりたければ、ボクシングで日本一になればいい。悪いことをしたけりゃ、その道で日本一になるか。中途半端なことはするな』って」。
300万円に膨れた借金と父親の一言で、流れに竿差し、新たな道を模索した。ともかく、借金を返さなくっちゃ。「だからうちの会社に入社したのも、借金返済が何よりの目的だったんです。当時は、まだ10店舗くらいで、閉店もつづいていた頃でした。最初はバイトだったんですが、『正社員になれば月24万円ある。そのなかから計画的に返済すればいい』という店長のアドバイスを聞いて、社員になり、それが正確にいうと今日までつづくんです」。
ちなみに、この300万円について、井上氏は「そりゃ、なかったほうがよかったですが、ある意味、あの借金があったことで、いまがある。そういう意味では、あってよかったとなるのかもしれませんね」と言って、笑った。
気づくと、300万円の借金を抱えていたそうだ。19歳の少年には莫大な金額である。「大学を辞め、ぷらぷらして、それで300万円です。何をやってもいいという親父が久々に怒ったのもこの時です。昔から『真剣にやるなら日本一をめざせ』という親父だったのですが、この時は、こういいました。『喧嘩をやりたければ、ボクシングで日本一になればいい。悪いことをしたけりゃ、その道で日本一になるか。中途半端なことはするな』って」。
300万円に膨れた借金と父親の一言で、流れに竿差し、新たな道を模索した。ともかく、借金を返さなくっちゃ。「だからうちの会社に入社したのも、借金返済が何よりの目的だったんです。当時は、まだ10店舗くらいで、閉店もつづいていた頃でした。最初はバイトだったんですが、『正社員になれば月24万円ある。そのなかから計画的に返済すればいい』という店長のアドバイスを聞いて、社員になり、それが正確にいうと今日までつづくんです」。
ちなみに、この300万円について、井上氏は「そりゃ、なかったほうがよかったですが、ある意味、あの借金があったことで、いまがある。そういう意味では、あってよかったとなるのかもしれませんね」と言って、笑った。
…続き
株式会社神戸らんぷ亭 取締役社長 井上陵太氏
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