in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏登場。
本文より~
都ホテル時代。1年目にして、銅メダル獲得。天才、現る?
東京都日野市。今回、ご登場いただいた株式会社オリエンタルフーズの米田社長は、1974年、この日野市に生まれる。父親は、ゴルフ関連の商社に勤め、のちに起業。兄は地元で飲食店を経営。兄弟は3人で、兄、姉、米田氏という順番。「末っ子だから甘やかされた」と米田氏は笑う。
専門学校を卒業し、進んだのは有名な「都ホテル」。
「当時、『HOTEL』っていうTVドラマがあって、そのドラマに影響されてホテル業界に進もうと専門学校に入りました。ただ、ホテルといったって、そう詳しくなかったもんですから、先生に『ココとココを受かったんですが、どっちがいいですか?』ってたずねているんですね。先生は、『そりゃこっちの、都ホテルだろ』って」。
米田氏にとって、ホテルにバーがあることを知らなかった。手に職をつけたかった。ただし、都ホテルの配属は希望制ではなかった。だから、バーに配属されるように、いろんな手を駆使したそうである。
「当時、都ホテルのバーは、都内でも5本の指に入るといわれていました。にもかかわらず教育方針は、ほかのバーとは異なり、若い頃からカウンターに入れて、やらせるというスタイルで進められました。私も1年目からカクテルをマスターし、実は、1年未満のキャリアで全国大会にも出場させていただき、銅メダルを獲得しました」。
米田氏は淡々というが、凄いことである。会場として選ばれたのは、帝国ホテル。その会場に集まったのは、選りすぐられたキャリアあるバーテンダーばかり。しかも、応募総数全国2000名。ふつうなら1年目の小僧など出番がない。かたい扉が閉ざされている。しかし、米田氏は、その門を1年足らずでこじ開け、しかも堂々3位に入賞し、銅メダルを獲得している。天才、登場である。しかし、本人は「あの時は、結構、緊張しました」というばかりだ。
オーストラリアで、関西弁の社長にまくしたてられる。
「都ホテルからスタートし、実はいろんな仕事についています。バーテンダーですか? そうですね。最初の1年でそれなりの結果を残すことができたことと、どうしても海外で生活経験をしたくて、それで、『都ホテル』を去りました」。
「それから、オーストラリアに渡りました。ええ、ワーキングホリディです。もともと、私は桜美林高校なんですが、その学校に進んだのも、英語が好きだったからなんです。いつか、英語が公用語の世界で生活したいと思っていたもんですから、この時、思い切って」。
思い切りすぎて、所持品はトランク一つ。知り合いもおらず、準備もないまま、オーストラリアに飛び立った。「いま思えば、あの時の1年がぼくを育ててくれたと思うんです。あれがなければ、いまこうしていることもないような気がします」。
「凝縮した1年だった」と米田氏はいう。知り合いもいないから、店の裏口をノックし「はたらかせてくれないか」と聞いて回った。そのうち、一つの店が、快諾してくれたそうである。その店は「YUTAKA」という日本料理店だった。
「オーナーが関西の人で、ぼく以外スタッフも全員、関西人です。関西弁と関西のノリに圧倒されました(笑)。ただ、みなさん、あたたかくて。生き様もそうですし。あの店で学んだことは、いまもぼくの一つの原点となっています」。
人の優しさも、味わった。シェアハウスを転々とし、慣れない土地での暮らしが、いつしかからだに馴染むようになっていた。
「今、うちの会社では、バングラデシュの人や、バリの人にはたらいてもらっているんです。あの時の、ぼくを助けてくれた人たちと同じように、彼らをサポートしてあげたくて。だって、ぼくといっしょでしょ」。
勇気をだして、異国の街に来た。たしかに、行為は、おなじ。国は違っても、人間はたぶん根っこはみんないっしょなのだ。
様々な、寄り道。
オーストラリアに向かってから、1年が経ち、帰国する。
「帰国してから、西新宿の新宿アイランドタワーにある『SPICE ROAD』という多国籍の料理店で勤務します。私は、フロントとバーを担当していました。勤務したのは2年半です。それから、半年ばかり親父の仕事を手伝ったりもしましたが、次に選んだ道は、恵比寿にあるカフェの立て直しです。そちらを半年くらいで立て直し、五反田のレストランで、4年勤務しました」。
その後、義理の兄の会社でも勤務している。「IT会社です。最初はサラリーマンもやってみたいと思って入社させてもらったんですが、半年もしないうちに、合わないなって」。
飲食にカムバックしたくなったそうだ。
「その時、義兄に『辞めるのはいいが、飲食に戻るなら1億円くらい売る仕事をやれ』ってハッパをかけられるんです。ええ、いまでもよく覚えています。あの言葉が、励みにもなりましたしね」。
飲食か、それ以外か。義兄の一言で、米田氏の迷いは吹っ飛んだのではないか。しかし、飲食といっても、どうカムバックすればいい?
「まず、知り合いから、バーを任せてもらって。ハイ、業務委託です。そのあと、これが起点にもなるんですが、東洋大学の学生食堂のなかにあるある店舗の経営が思わしくないので、『立て直して欲しい』というオーダーをいただくんです。それで、深夜の2時までバーをしながら、早朝から大学に行って、という生活がスタートします」。
米田氏が、担当すると魔法がかかったように、とたんに店は再生した。「いえ、特別なことはしていないです。ただ、ハンバーガーやサンドイッチ、ピザがメインだったのを、米モノにしたんです。学生は、いっても米です。米なら大盛りも有ですからね(笑)」。簡単にいうが、結果は凄まじい。それまで最低3万円だった日商が、最高15万円になったそうである。
株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏