本文より~
スポーツ少年、ラグビーの日々で何を学ぶ。
山梨学院大学のちかくに学生の御用達でもある中華料理店がある。こちらが今回ご登場いただく雨宮春仁氏の実家である。
「私が3歳の時にお店を開いたそうです。もともと祖父が旅館を経営していて、そのちかくに店を建てたそうです」。
100席くらいある大きなお店なのに、夫婦2人で切り盛りされていたそうだ。だから、雨宮氏も小学校の頃から米を研ぎ、洗い物も手伝った。その一方で、スポーツに精をだし、小学生の頃は少林寺、水泳、バスケット、中学から野球、そして高校からラグビーを始める。
「ラグビーの早明戦を観て『これだ』って思って」と雨宮氏。「それで、山梨でいちばんラグビーがつよい日川高校に進学します」。
「ふつうはなかなか進めないんですが、お客さんに高校の先生がいたことと、私自身が相撲取りみたいにでっかかったもんですから」。ラグビー部の監督もOKしてくれて入学できたそうだ。
入ったはいいが、周りはバケモノのような生徒たちばかり。「私も90キロ。走れるデブたんですが。とても、とても」と雨宮氏。それでも、辞めずにつづけた。
2年時にチームは全国大会でベスト4に食い込んでいる。「あの時は、悔しかった。あと一歩で、優勝した伏見高校に勝てていたんです」。
「辛かった」とは思うが「やっていてよかった」とも思う。辛かった時を思い出しては、勇気を奮い立たせる。
「私が3歳の時にお店を開いたそうです。もともと祖父が旅館を経営していて、そのちかくに店を建てたそうです」。
100席くらいある大きなお店なのに、夫婦2人で切り盛りされていたそうだ。だから、雨宮氏も小学校の頃から米を研ぎ、洗い物も手伝った。その一方で、スポーツに精をだし、小学生の頃は少林寺、水泳、バスケット、中学から野球、そして高校からラグビーを始める。
「ラグビーの早明戦を観て『これだ』って思って」と雨宮氏。「それで、山梨でいちばんラグビーがつよい日川高校に進学します」。
「ふつうはなかなか進めないんですが、お客さんに高校の先生がいたことと、私自身が相撲取りみたいにでっかかったもんですから」。ラグビー部の監督もOKしてくれて入学できたそうだ。
入ったはいいが、周りはバケモノのような生徒たちばかり。「私も90キロ。走れるデブたんですが。とても、とても」と雨宮氏。それでも、辞めずにつづけた。
2年時にチームは全国大会でベスト4に食い込んでいる。「あの時は、悔しかった。あと一歩で、優勝した伏見高校に勝てていたんです」。
「辛かった」とは思うが「やっていてよかった」とも思う。辛かった時を思い出しては、勇気を奮い立たせる。
大学進学。飲食に進むと決意する。
「ラグビーばかりで、全然、勉強しませんでした。ラグビーで就職できるちからもない。推薦をいただいた大学もあるにはありましたがトップクラスじゃない。それで、ちゃんと大学に進もうと思って勉強を開始するんですが、2年かかってしまいました」。
なんでも、予備校の先生に言わせると、「中学生程度の学力しかなかった」そうだ。ただし、やるといえばやる。さぼらず1日10時間、勉強した。いつしか、教師になりたいと思うようになる。
「それで教員免許が取れるということで、帝京大学に進みます」。
山梨からとびだし、独り住まいも開始する。アルバイトもしたが、授業をおろそかにすることはなかった。「教員免許を取るって宣言していましたから、それは取んないといけない。ただ、一方で、飲食にも惹かれていきました。ええ、そうです。アルバイトで、料理っていうか、その楽しみに目覚めてしまうんです」。
このあたりは雨宮家のDNAのなせる業なのだろうか。
「昔は、飲食なんて頭になかったんですが、たしかに、影響があったかもしれません。小さな時から米を研いでいますからね(笑)」。
教員免許は宣言通り、取得した。中学の社会科の先生らしい。ただ、卒業時に教師になることは選択肢のなかに残っていなかった。「就職活動すら念頭になかった。飲食でアルバイトをして、その店に就職しようと思っていたんです」。
雨宮氏が就職を前提に選択したのは、当時、府中にオープンした株式会社ラムラの和食ブランドである「土風炉」だった。
「こちらに6年勤め、とあるホテルに転職します。ただ、ホテルにいたのは1年くらいです」。
27歳くらいの頃から、「いつか7店舗を経営しよう」と思っていたそうだ。うち4店がラムラで学んだ「和食店」。残りの3店で異なった業態を展開するために「洋食を勉強したくて、転職した」という。
ラグビーの話もそうだが、これだと思えば一途に突き進む。それが雨宮氏の真骨頂だろう。
なんでも、予備校の先生に言わせると、「中学生程度の学力しかなかった」そうだ。ただし、やるといえばやる。さぼらず1日10時間、勉強した。いつしか、教師になりたいと思うようになる。
「それで教員免許が取れるということで、帝京大学に進みます」。
山梨からとびだし、独り住まいも開始する。アルバイトもしたが、授業をおろそかにすることはなかった。「教員免許を取るって宣言していましたから、それは取んないといけない。ただ、一方で、飲食にも惹かれていきました。ええ、そうです。アルバイトで、料理っていうか、その楽しみに目覚めてしまうんです」。
このあたりは雨宮家のDNAのなせる業なのだろうか。
「昔は、飲食なんて頭になかったんですが、たしかに、影響があったかもしれません。小さな時から米を研いでいますからね(笑)」。
教員免許は宣言通り、取得した。中学の社会科の先生らしい。ただ、卒業時に教師になることは選択肢のなかに残っていなかった。「就職活動すら念頭になかった。飲食でアルバイトをして、その店に就職しようと思っていたんです」。
雨宮氏が就職を前提に選択したのは、当時、府中にオープンした株式会社ラムラの和食ブランドである「土風炉」だった。
「こちらに6年勤め、とあるホテルに転職します。ただ、ホテルにいたのは1年くらいです」。
27歳くらいの頃から、「いつか7店舗を経営しよう」と思っていたそうだ。うち4店がラムラで学んだ「和食店」。残りの3店で異なった業態を展開するために「洋食を勉強したくて、転職した」という。
ラグビーの話もそうだが、これだと思えば一途に突き進む。それが雨宮氏の真骨頂だろう。
30歳で独立。40歳の時には7店舗を出店。これが、ゴール。
「ただ、そのホテルの料理が、言い方は悪いんですが、料理と言える代物じゃなかったんですね。缶詰だったり、チンするだけだったり。勉強する意味がないと思って、1年で退職し、もう一度、ラムラに戻りました」。
なんでも、尊敬する先輩から何度もお誘いがあったそうだ。
「ホテルの時は正直、収入もきつかったですね。手取りで10万円くらい。それじゃ暮らしていけないから、仕事が終わってからも、別の店でバイトしていました」。
朝7時に出勤し、夕方に仕事が終わり、それから深夜までバイトをする。体力があるからできたことだろう。「そういう時ですね。ラグビーをやっていてよかったなって思うのは。だって、当時と比べれば、それでも、全然、楽ですから(笑)」。
スポーツを経験してきた経営者がよくいう一言である。スポーツのスパルタ体質は、けっして賞賛されるものではないが、その一方で、精神的にも、肉体的にもつよい人を育ててきたのは、事実だろう。ともかく、ラグビーで培った根性で、修業時代を乗り越える。
独立したのは、30歳の時だ。
「30歳で独立と思っていたので、こちらは目標通りですね。ただ、40歳まで7店舗というのは、2年遅れてしまいました」。
「言ったことは実現する」。それが雨宮氏の信念である。
「うそつきになりたくないんです」。いうならば有言実行タイプなのだろう。ただ、このタイプは、ともすれば大風呂敷を広げがちだが、雨宮氏はそうではない。
「お金儲けにも、株式を上場することにも、まったく興味がない」という。現在でこそ、2020年に10店舗という、当初の目標を超える出店計画を掲げているが、当初からゴールは「7店舗」と決めていたらしい。それ以上は、雨宮氏の頭になかった数字である。
「お金儲けだけだったら、1店舗だけの時がいちばんよかったかな」と笑って、「でも、お店ってお金儲けのためだけじゃないでしょ」とつづける。
「ちょっとお金が儲かり始めると、そっちばかりに興味がいって、それで店を潰してしまうオーナーもいるじゃないですか。みんな独立した時のことを忘れている。つくった料理をお客さんに食べていただいて『旨い』って言ってもらうのが、そもそもの始まり。この原点を忘れちゃいけないんです」。
たしかにそうだ、と思う。とはいえ、店を拡大し、利益を上げ、スタッフたちに、年齢や仕事に見合った給料を渡す。それも経営者のちからであり、責任でもある。「休みもそうですね。なんとか月8日にしていますが、そういうのも、より良くしていかなければならない。だからたいへんです」と今の心境を教えてくれた。
ゴールを駆け抜けた今の話をしたが、もう一度、話をスタートラインに戻そう。30歳で、独立。果たして、結果は?
なんでも、尊敬する先輩から何度もお誘いがあったそうだ。
「ホテルの時は正直、収入もきつかったですね。手取りで10万円くらい。それじゃ暮らしていけないから、仕事が終わってからも、別の店でバイトしていました」。
朝7時に出勤し、夕方に仕事が終わり、それから深夜までバイトをする。体力があるからできたことだろう。「そういう時ですね。ラグビーをやっていてよかったなって思うのは。だって、当時と比べれば、それでも、全然、楽ですから(笑)」。
スポーツを経験してきた経営者がよくいう一言である。スポーツのスパルタ体質は、けっして賞賛されるものではないが、その一方で、精神的にも、肉体的にもつよい人を育ててきたのは、事実だろう。ともかく、ラグビーで培った根性で、修業時代を乗り越える。
独立したのは、30歳の時だ。
「30歳で独立と思っていたので、こちらは目標通りですね。ただ、40歳まで7店舗というのは、2年遅れてしまいました」。
「言ったことは実現する」。それが雨宮氏の信念である。
「うそつきになりたくないんです」。いうならば有言実行タイプなのだろう。ただ、このタイプは、ともすれば大風呂敷を広げがちだが、雨宮氏はそうではない。
「お金儲けにも、株式を上場することにも、まったく興味がない」という。現在でこそ、2020年に10店舗という、当初の目標を超える出店計画を掲げているが、当初からゴールは「7店舗」と決めていたらしい。それ以上は、雨宮氏の頭になかった数字である。
「お金儲けだけだったら、1店舗だけの時がいちばんよかったかな」と笑って、「でも、お店ってお金儲けのためだけじゃないでしょ」とつづける。
「ちょっとお金が儲かり始めると、そっちばかりに興味がいって、それで店を潰してしまうオーナーもいるじゃないですか。みんな独立した時のことを忘れている。つくった料理をお客さんに食べていただいて『旨い』って言ってもらうのが、そもそもの始まり。この原点を忘れちゃいけないんです」。
たしかにそうだ、と思う。とはいえ、店を拡大し、利益を上げ、スタッフたちに、年齢や仕事に見合った給料を渡す。それも経営者のちからであり、責任でもある。「休みもそうですね。なんとか月8日にしていますが、そういうのも、より良くしていかなければならない。だからたいへんです」と今の心境を教えてくれた。
ゴールを駆け抜けた今の話をしたが、もう一度、話をスタートラインに戻そう。30歳で、独立。果たして、結果は?
・・・続き
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