2018年12月29日土曜日

12月28日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、「イートアンド」様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)

12月28日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」の第12回(12社/30社)はイートアンド様です。 「社員とパートを合わせた従業員数は約1150人、定年は60歳ですが、以後は1年ごとの契約で上限はありません。シニア社員は3人ですが、皆さん経験を積み重ねた方ばかりです。そのシニア社員の1人が関西工場で品質管理を担当している北畑幸治氏(61)です。
(夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
ライター


【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年12月28日金曜日

株式会社カワイハイ 代表取締役 濱野健嗣氏登場。

本文より~

20歳の今と、タイムカプセルに書き記した予想と。

小中学校の頃は、スポーツが好きで活発な少年だったそうだ。しかし、教育システム・学校制度にどうしても慣れず、高校では退学。15~16歳の頃から土建屋で働いていたそうだ。
「18歳になった頃ですね。岡山にいても何もやることが見えなくなってしまい、一念発起して、東京に行きます。親父が東京で仕事をしていたもんですから」。
東京では、横浜のボクシングジムに通った。「有名なジムだったんですが、芽が出ず、2年でリタイアします」。
東京にでて、2年。20歳。転機は、意外なところに埋もれていた。 
「ちょうど、成人式だったと思うんですが、いったん岡山に帰るんです。でも、その時、みんなで小学校まで行ったんだったかな。とにかく、小学校の頃に埋めたタイムカプセルを開けるんです。そしたら…」。
拙い字で、<これを開けた時、君はボクサーか、料理人になっている>と書いてあったそう。
「小学生の私に背中を押されて、もう一度、東京に向かうんです。今度は、残された『料理人』になるためです」。
「東京にもどり、田町にあるレストランで8ヵ月勤務します。料理人になるためだったんですが、その時はキッチンが一杯で、ホールしかなかったんですね。ただ、ホールは、ホールで楽しくて。お酒にも興味がわいて、『バーもいいんじゃない』と思うんですね」。
一つひとつ、現在地にちかづいてくる。
「それで、西麻布のバーを紹介してもらうんですが、どちらかというとショーが中心のお店で、バーテンダーとしての業務はお酒を作るのが中心で、接客をメインでやりたかった私には物足りませんでした。でも、その店のオーナーが、マネージャーを通じて、一つのバーを紹介してくれるんです。ええ、それが『ドランカー』です」。

月商50万円まで落ち込んだドランカーの話。

ホームページには、<始まりは2000年8月 東京都港区西麻布のはずれ BAR ドランカー(1984年5月創業)を引き継ぐために作られた会社でした。ハワイが大好きだった 先代のマスターにちなんで ハワイ島の小さな町 ”Kawaihae” を元に名前が付けられました。>とある。
そして、当時の代表取締役は<ポール近藤>とある。
「そうなんです。『ドランカー』っていうバーのマスターが亡くなられて。そのバーを残したいからと常連だった4人の方が投資されて経営を引き継がれるんです。当初の代表取締役、ポールさんも、その1人です。そして、私がマスターに代わって、店に立つことになりました」。
最初は、「だれだ、お前?」だったそう。「そりゃそうですよね。マスターがいると思ってきたら、私なんですから」。客が来るたびに、怒られた」と笑う。もとのマスターのファンが姿を消す。300万円ほどあったという月商は50万円にまで落ちる。いっしょにはじめたアルバイトスタッフもいなくなってしまった。
「いやー、あのときは大変でしたですね。でも、なんか、仕事は楽しかったんです。もとのマスターのファンは離れていきましたが、なかには、『ドランカー』がいいと残ってくださるお客様もいたし私のファンも少しずつ。ハイ、それで、半年後にはなんとか、月商150万円くらいには切り返します」。
お客様との言葉のキャッチボール。
「東京に来てから、友達も少なく、話し相手もそんなにいなかったので。でも、『ドランカー』で仕事をしている時は、毎日が楽しくて。タダで、いろんな人と話ができるわけですから。それだけでウキウキしていました」。
西麻布。大使館もある。外国人の方もたくさんいらしたそう。
「そういう外国人たちにも刺激されて、お店を辞めて、1年間バックパッカーをします。22歳の時です。オーストラリアに8ヵ月。ケアンズから、ゴールドコースト、タスマニアにも渡り、パースでは4ヵ月くらい仕事をしながら生活しました」。東南アジア、ヨーロッパ、アメリカにも渡った。
「計1年ですが、私のなかでは、むちゃくちゃでかい経験ですね。お金がないから、ドミトリーっていう1泊8ドルとか10ドルの、そうですね、10人くらいいっしょの部屋に泊まります。最初は警戒心がありましたが、慣れてくると、逆に安全だと思うようになるんです。人と会話して、心を通わすことが、どれだけ大事かを知りました。もっとも、東南アジアでは40人いっしょ。1泊、150円くらいなんですが、僕にとっては居心地がよかった/笑」。
1年で帰国して、もう一度、「ドランカー」にもどっている。
・・・続き
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2018年12月22日土曜日

12月21日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、「牛繁ドリームシステム」様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)
本日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」の第11回(11社社/30社)は牛繁ドリームシステム様です。 同社の定年は60歳ですが、以後は1年ごとの契約で延長できるという。 この制度の下、現在も第一線で活躍しているのが店舗開発部長の仲嶺邦文氏(63)と武蔵小金井店店長の渡邉功氏(64)。 ともに飲食業界歴40年以上の超ベテランです。  
(夕刊フジより)
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2018年12月19日水曜日

有限会社幸永 代表取締役社長 平山敬裕氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社幸永 代表取締役社長 平山敬裕氏登場
本文より~

漫才師志望。

「大学3年と4年の時ですね。2年間、休学して吉本興業の『東京NSC』に入学。相方をみつけて。そう、漫才です」。
漫才師。
「その時の校長がシャレにならないくらい、めちゃめちゃな人で。ええ、怖いんです。でも、不思議ですね、その時の教えは、今も忘れてませんもんね/笑」。
今回、ご登場いただいた有限会社幸永の平山敬裕氏は、1973年、東京の新宿に生まれている。4人きょうだいの長男。他は全員、女性。
「生まれてから、そうですね、7歳まではぼっちゃんです。でも、逆に7歳から14歳までは極貧。小学1年の時に、夜逃げも経験しています」。
当時の新宿は、どんな街だったのだろう。
「母は、夜の仕事をしていました。父親は3年くらい行方不明です/笑」。
「結構、頭はいいほうでした。中学受験して、早稲田実業の中等部へ進学します。はい、高校、大学と早稲田です。我が家は、私が12歳の時から母親がキムチの店をはじめて、極貧を脱出します。おかげ様で、中学時代の3年間は、野球漬け毎日を送ることができました。高校でもつづけたかったんですが、何しろ、早稲田実業ですからね。明らかにレベルが違いすぎて、断念しました」。
野球を断念し、アメフトに転向する。
高校時代3年間は、楕円形のボールを追いかけて過ぎていった。

なんでもできる。天才の憂鬱。

「大学時代は部活なしです。私が20歳の時に母はキムチ店をリニューアルし、焼肉店をオープンします。15坪で、30席です。私も手伝います」。
最初に言っておくと、こちらがいまの本店にあたる。
「母は根っからの商売人でだったので、常々『サラリーマンにはなるな』とヘンなハッパをかけられました。それで、というわけではないんですが…」。
冒頭で書いたように、漫才師をめざす。
むろん、成功するのはひとにぎり。平山氏も、漫才師になるべくスタートしてから2年後に大学にもどっている。
「ただ、大学だけではなく簿記の学校にも通っていました。起業するにしても、とにかく数字が読めないといけないと思ったからです」。
もともと頭はいい。漫才師は断念する羽目になったが、それとて挫折のなかには入らない。「やれば、たいていのことはできる」。自信だけは何故かある。
ただ、何をしたいのかがわからない。天才の憂鬱である。
むろん、過剰な自信だとは薄々気づいていた。たしかに、いままでなんでもできたのも事実だが、そんなにうまくいく時ばかりではないことも知っている。ただ、頭をうったことがなかった。
「なんでもできると思っていて、4年間くらいいろんなことをやったんですが、ぜんぜんうまくいきませんでした。それで、26歳の時ですね。母親に頭を下げ、母が経営する店に入れてもらったんです」。
模索時代を第一とすれば、第二の人生がスタートする。
垂れた頭が、2つの時代を明確にわけている。

極ホルモンで、月商が1000万円アップする。

「当時、月商は300万円ないくらいでした。社長が親だからって甘えられない。母は、そういうのを許す人でもない。私の給料を払わないといけないから、営業時間も延長しました。私は、朝から晩まではたらき、メニューもすべて頭と腕に叩き込みます。仕入れにも行き、お肉屋さんとも親しくなります。『極ホルモン』を開発したのは、この頃です」。
「極ホルモン」は、脂身の甘味が旨く、「いままでのホルモンの常識を覆す」絶品だった。絶品のちからは、数字にもすぐに表れた。
「2年はかかったと思いますが、月商は300万円から1300万円まで跳ね上がります。ハイ、そうです。1000万円アップです」。
売り上げアップは嬉しいが、目が回る忙しさだった。オープンからクローズまで客が途絶えない。むろん、平日も、休日もおかまいなしに、客は来る。だから、平山氏のお休みは年10日だった。シャレにならない。
「そうですね。経営者だから許されるわけですが。ありえないですね。でも、大学の同期は、40代で年収1000万円を超えると思うんですね。だから負けたくない、と。ま、必死です/笑」。
勝ち負けが、原動力になるケースは少なくない。
ただ、経営者は突っ走るだけでは、務まらない。
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株式会社てりとりー 代表取締役 福本浩幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社てりとりー 代表取締役 福本浩幸氏登場
本文より~

負けるが、勝ち。

祖父は「雀荘」を経営していた。祖父の背中をみて、育った。今回、ご登場いただいた株式会社てりとりーの代表取締役、福本浩幸氏の話である。
「両親は公務員ですから、どちらかというと、私は祖父に影響されているかもしれませんね。何しろ80歳まで仕事をしていましたから。そういう意味でも尊敬します」。
だからと言って、子どもの頃は、起業なんてことは考えなかった。
もっぱら、人生は野球。
「小学生の頃から野球です。正確には9歳から、27歳の社会人野球まで」。小・中の時には、チームは、大会で好成績を収めた。
「じつは、中学で私は補欠です。それが、ある意味、すべての始まりというか」と福本氏。とんでもなく、悔しかった。27歳まで野球をつづけた理由だともいう。
いや、それだけではない。どうすれば、いいか。ゴールから逆算して、プロセスを組み立てるという、戦略的な思考と手法を、この時、編み出している。
「そうですね。抜け道が好きで、抜け道を探すのも好きなタイプなんです。いまあるものじゃなく、潜在的なものを掘り起こすような」。
抜け道ではないが、大学進学もオリジナルの戦略で、見事、突破している。進学先は神戸大学。こっそり、その方法を聞いてみた。「秘策でもなんでもないんですが」と笑いながら教えてくれる。
「野球部の受験勉強は、3年の夏以降です。そこからが本番。進学するなら野球部があって強い、筑波か、横浜国立か、神戸か、だったんですが、神戸がちかいでしょ。だから、神戸だと。でも、そう簡単ではないですよね。で、計画を立て、後期試験に絞り込んですべてを賭けるんです。後期は、倍率は高いですが、センター試験の成績と実技だけなんです。私の場合は野球と小論文。こいつに賭けて、勝負です」。
なるほど。取捨選択とでもいうのだろうか。それにしても、この一連の話が、中学時代の補欠の話から始まっているのが凄い。ともかく、「負けるが、勝ち」。一度の負けから、福本氏は多くのことを学んでいる。

起業をめざし、酒造メーカーへ。

大学でも野球をつづけた。プロに進みたかったが、ドラフトのハードルはさすがに高い。ともかく、就職。起業をめざし、「某ビールメーカー」に就職する、そんなプランだった。
ところが、「某ビールメーカー」は最終面接で、まさかの不合格。「最終面接のために東京まで行って。大阪での面接で偉い人とビアガーデンで固く握手したはずなのに。なんでなんですかね/笑」。
それで、「宝酒造」?
「そうです。こちらで5年ですね。体育会系だし、背も声もでかいし、同期のなかではけっこう数字もいいほうだったと思います」。
担当していたのは、業務用酒販店。もちろん、その先の飲食店もフォローしていたそう。独立志向が刺激されないわけがない。
「ですね。私は、宝酒造を退職してから、1年半修業するんですが、うち1年修業させていただいたのは、当時、担当していたお客様です」。
「じつは、いまうちは沖縄料理がメインなんですが、その源流も、このお店なんです。夏だけですが、沖縄フェアみたいなことをされていたんですね。それをみて、『オレも沖縄だ』って」。
なんでも、福本氏は、沖縄出身でもなんでもないらしい。
ところで、仕事の一方で、福本氏は、社会人野球もマジメに取り組んでいる。しかも、23~27歳まではチームのキャプテンだった。その話も少し。

飲食を超えて行け

「社会人チームでキャプテンになりました。大学でも副キャプテンだったんですが、社会人チームとなると、やっぱりぜんぜん違います。年齢だってバラバラだし、バックグラウンドが異なります。しかも、上手下手もある/笑」。
大学では右向け、右でよかった。でも、そうならない。だから目標を設定した。
「京セラドームで行われる日本選手権出場」。
目標を立てればいい、と思っていたが、メンバーは動かない。どうすればいい。ゴールは設定したし、プロセスも立てたが、メンバーが動かない。
「そりゃそうですよね。じぶんじゃない人を動かすのに、いくら戦略を立てたって無駄だったんです。だから、みんなを試合が行われる、『京セラドーム』に連れていったりしてね。『ここで、プレーしたない?』『プロといっしょのグラウンドやで』。そういいながら、みんなにゴールをイメージしてもらったんですね。『京セラでプレーしたい』⇒『だから、勝ちたい』。心を動かすことはこういうことだったんですね。このクラブチームで、キャプテンを務めたことで、その意味を知りました。ハイ、今でも生きています」。
「飲食を超えて行け」。
話は飛ぶが、いま、福本氏は、スタッフにそう語っているそうだ。
「それも、一つのゴールだと思うんです。飲食ではたらいているのは、だいたい中卒や高卒の人たちです。それがいけないというのではないですが、中卒や高卒だからって、限界を決めてしまって欲しくないんです。給料だってそうです。飲食だから、いい給料をもらえへんと…。だから、いま私は『飲食を超えて行け』ってみんなに言っているんです」。
その先になにがあるか。いくつかの指標はあるが、福本氏もすべてを知るわけではない。
・・・続き
株式会社てりとりー 代表取締役 福本浩幸氏
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2018年12月17日月曜日

12月14日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、「小松庵」様です。

60代〜70代で頑張ってる人を応援!(キイストン寄稿)

12月14日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」第10回(10社/30社)は小松庵様(小松社長)です。
「現在、全従業員は49人で、そのうちシニアの従業員は製粉担当者とドライバーなどをお願いしている2人ですが、今後は積極的に採用していこうと考えています」と語って頂いています。

今回ご搭乗は製粉の責任者である黒澤昌宏氏(60)です。
(夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
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2018年12月14日金曜日

12月4日(火)発行の週刊写真誌『FLASH』に焼肉店“牛将”の橋本羅名さんが載りました。

12月4日(火)発行の週刊写真誌『FLASH』の“われら中年転機をつかむ”に焼肉店“牛将”の橋本羅名さんの記事が掲載されました。
Yahoo!ニュースにも載りました。
(われら中年転機をつかむより)
(FLASH)
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2018年12月11日火曜日

モンテステリース有限会社/株式会社花たぬき 代表取締役社長 星山真也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”モンテステリース有限会社/株式会社花たぬき 代表取締役社長 星山真也氏登場
本文より~

兄の背中を追いかけ、プロのドラマーをめざす。

「兄が始めた『ドラム』に興味を持ち、中学校3年生からバンドを組んでドラムを担当しました。高校生になると、学業よりも、バンドのほうがメインになります」。
今回、ご登場いただいた「花たぬき」の創業者、星山氏の回顧である。「高校2年生のときに、バンドはいったん解散しました。私は年上のバンドのメンバーとなり、活動をつづけます」。
ホームの京都はもちろん、大阪、兵庫、ときには千葉にまで遠征していたというから、ホンモノだ。ちなみに、兄は、そのままプロの道へと進み、有名アーティストのバッグでドラムを叩くまでになっている。
「一方、私のほうは悩みます。20歳のときです」。
二者択一。
「東京にいくか、バンドをやめるか」。
ずいぶん迷ったことだろう。ただ、答えは、ひょんなことから導き出される。
「当時、お好み焼き店でバイトをしていたんですが、絶妙なタイミングで正社員のオファーをいただいたんです」。
背中を押された格好だった。
「プロのミュージシャンをめざしていたんですが…」と星山氏。つよく思っていた。
逆説的な言い方だが、だから、きっぱりと、卒業できたのかも知れない。本人も「真剣にやればやるほど、厳しさを実感した」と語っている。
ともかく、ここまでが第一章。おそくなったが、生年月日は、1975年9月5日。京都市出身。

お好み焼き店で手にした、もう一つの目標。

「合計2年くらい」と星山氏。だから、独立はちょうど22歳のとき。たいていの大学生が、卒業する年齢だ。
「特別、何かをやりたくて、社員になったわけじゃありません」。
ほかに適当な道がなかったから、進んだにすぎない。しかし、それが星山氏のターニングポイントになる。
「いま思えば、20歳の選択がいまにつながっているのですから、たしかにターニングポイントです。アルバイトの時もそうでしたが、社員になってからは益々、信頼いただき、仕事も任されます。そうこうしているうちに、私でもできるんじゃないかと思ったのが独立のきっかけです。若かったから、できたことでしょうね。まったくの見切り発車です/笑」。
できるんじゃないか、という単純な思いつき。事業計画ひとつわからないし、みたこともない。ただ、走り出したら止まらない。資金を確保する前に、いさみあしで物件を押さえてしまった。「銀行からなんとか融資をいただき、周りの方にも助けていただいて、なんとか、なんとかオープンできました」。
むろん、オープンが起業の目的ではない。スタートラインに立ったばかりだ。そういう意識はあったんだろうか。
「そこからが、たいへんでした。創業店は『四条大宮』といって、繁華街から少し西に行ったところでオープンしました」。
チェーン店化をめざしていた。だから、創業店にもかかわらず、わざわざ「四条大宮店」と銘打った。
しかし…。

神かもしれない、おっさんズ。

「京都の幹線道路沿い。13坪・25席です。まぁ、だめでしたね」と星山氏は、苦笑する。むろん、当時は、笑うこともできない。
「中・高からのともだちが来てくれたおかげで、暮らしてはいけましたが、売上はぜんぜん立たないし…。現金商売なのに、現金がない/笑」。
カードローンにも頼った。
「今思えば、すべてが甘かったですね。お好み焼きをちょっとかじっただけ。鉄板料理いうたかって何も知らん素人ですよ。流行るわけもあらへん/笑」。
「だけど、ヘンな自信だけはあった。だから、たたむこともできへんかったんです」。
そんな日々が、5年間つづいた。
星山氏のねばりにも感心するし、通いつづけたともだちらの友情にも頭が下がる。ただ、その一方で、これが「粉もん」のちからだと思った。
もともと関西人は、「粉もん」との親和性が高い。いわゆる「粉もん」好きである。毎日はオーバーだが、つい食べたくなる。しかも、毎日、通ったとしても、財布はそれほどいたまない。
そのぶんライバル店は少なくないが、繁盛する素地はあるということだ。あとは、どう工夫するか。創業して5年、青息吐息でつづけた店に、春が来る。
ちなみに、春をよびこめたのは、神かもしれない、おっさんズのおかげである。
「どこの町でもそうやと思いますけど、京都にも『お好み焼きの通』みたいな人がいるんですわ。で、うちの店にも何人か、そういう方がいらっしゃるわけです。店主が20そこそこでしょ。だから、あれ、これと、アドバイスっていうかね/笑」。
「○○ちゅう店が旨いでぇ。行ってみぃ」。
週1回のやすみ。言われた通り、店を探す。
「そうやって、べた焼きを知るんです」。
「あの口数のへらへん、おっさんたちがいたから、いまがある。少なくても、『べた焼き』はしてへんのとちゃいますか。もっと恰好ええのんしてたと思うな/笑」。
・・・続き
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2018年12月10日月曜日

12月8日(土)、日刊ゲンダイの “グルメ社長の食い倒れ日記”は「SFPホールディングス」佐藤 誠社長が掲載されました。

日刊ゲンダイの “グルメ社長の食い倒れ日記”は12月8日(土)よりSFPホールディングス」佐藤 誠社長が5回にわたり掲載スタートしました。(取材協力 キイストン)

(日刊ゲンダイより)
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12月7日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、カフェ・ド・クリエを展開されてる「ポッカ・クリエイト」様です。

60代〜70代で頑張ってる人を応援!(キイストン寄稿)

12月7日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」第9回(9社/30社)は、カフェ・ド・クリエを展開されてるポッカ・クリエイト様(上野社長)です。

社員の定年は60歳ですが65歳まで延長されていますがその中で、シニアの方は現在5人ほど。
そのシニアの1人が東京・大森山王店で働いているパートの田中初美さんです。
(夕刊フジより)
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2018年12月4日火曜日

「ボヘミアン・ラプソディ」2回も観てきました。

中学の時、親友のマックの影響で雑誌『ミュージックライフ』を不定期で見てましたが、クイーンは、よく表紙に載ってたな・・・・。
そんなこともあってボヘミアン・ラプソディ」をフレディ・マーキュリーの命日の日の11月24日と先日は4DXでも観に行きました。
超感動しました。

株式会社シャノアール 代表取締役 中村成佑氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社シャノアール 代表取締役 中村成佑氏登場
本文より~

1965年、創業の老舗カフェ。

4代目になる。今回、ご登場いただいた株式会社シャノアールの代表取締役社長、中村氏のことである。創業は1965年。中村氏が生まれる20年近く前の話だ。
「祖父が蕎麦屋をしていたんですが、そちらが立ち退きになり、代わりに不動産事業をスタートし、その時、もう一つ開始したのが、現在につづく飲食事業です」。
1号店は、今の『あきる野市』にオープンしたそうだ。
当時は、経済成長期。「シャノアール」も、次々、出店を重ねていく。ところが、1990年代に入ると、バブルが破綻し、経済の雲行きが悪くなる。ダウンサイジングが起こり、淘汰の時代がスタートする。
「最盛期は、245店舗ですね。私が生まれたあたりから出店が加速したんじゃないでしょうか。ただ、時代とともに、シャノアールの立ち位置もかわってきます」。
スターバックスなど、米国スタイルのコーヒーショップも台頭する。「シャノアール」もけっしてすべてが順風満帆ではなかったはず。なかでも、創業者である、中村氏の父親が倒れた時は、最大のピンチだったはずだ。
「そうですね。2004年に父が倒れた時は突然で、母が継ぐことになりました」。
いったん、社長の座を譲ったこともあったが、中村氏が社長に就任するまでの13年もの間、母がシャノアールを守り、育てたのは事実である。
ちなみに、中村氏が社長に就任したのは、2017年のことである。

めざすは、ビリヤードのプロ。

「中学受験して、私立中学に進みます。最初は、バスケットボール部に所属する、ふつうの生徒だったんですが」。そう言って中村氏が笑うのは、中学時代、スイッチが入ったように、ビリヤードにハマってしまったからである。
ビリヤードにハマったことで、バスケットボールも退部。「プロ」を目標にかかげ、一目散に突っ走る。
高校に進んでも、ビリヤードの熱は冷めない。
「ビリヤードの大会は、夜なんですね。それに合わせて、昼・夜逆転の生活をしていました。そんな生活ですから、高校に行くのもたいへんで。一度進んだ私立高校を辞めて、通信制高校に編入します」。
プロの道を進むための、覚悟の一つだった。

アメリカで知った世界の広さ。

高校を卒業すれば、いうまでもなくプロ試験を受ける。これが、中村氏の想定だった。ところが、試験の前に父親が倒れて亡くなってしまう。これが、2004年のことで、当時、「シャノアール」は、アルバイトだけでも3000人、抱えていたという。
むろん長男の中村氏も、もう「ビリヤードのプロ」とは言っていられなくなる。
「翌年の2005年です。新卒者といっしょにシャノアールに入社しました。それから2年間、店長も務めましたが、いったん、シャノアールを退職するんです」。
どういうことだろう。
「実は、店舗の運営だけではなく、マーケティングやファイナンスなど経営者にとって必要な知識を身に着けるためにニューヨークにある市立大学に留学したんです。あの時、様々な国の価値観と、その違いに驚き、世界の広さというのをリアルに体験したのは、いまでも私の大きな財産です」。
それ以外にも中村氏は、ニューヨークで日本とは違う「食」に関する価値観やカフェのあり方に出会う。現在の商品開発やマーケティング活動に活かされているのも、ニューヨークで得た経験だ。
モーニングメニューで採用しているカイザーパンやホットドッグで使用しているライ麦パンもまた、ニューヨークで得た知識がヒントになっている。
・・・続き
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2018年12月3日月曜日

11月30日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、「フォーシーズ」様です。

60代〜70代で頑張ってる人を応援!(キイストン寄稿)

11月30日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」第8回(8/30社)は、フォーシーズ様(浅野社長)です。

フォーシーズ外食事業本部のアルバイト・パート従業員数は2000人。そのうちシニアは、「吉祥庵」の瀬尾京子さん(61)と「本場香川 宮武讃岐うどん」の久須美順一氏(61)の2人を含む77人も在籍。
(夕刊フジより)
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2018年11月30日金曜日

営業マンの能力アップするにはセンスよりも場数(量)。量が質を生む。

プロスポーツの世界で、試合に出てないと試合の勘がなかなか取り戻せないように営業マンも一緒。
営業の場数積んだ営業マンとほぼ商談してなく動いてない営業マンでは全く違う。
雑談できる知識があっても話せる状況を作れる関係性が大事。
日本アシスト会計グループ事務所通信より
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2018年11月28日水曜日

株式会社ASU 代表取締役 平野二三夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ASU 代表取締役 平野二三夫氏登場
本文より~

キャプテン。「とにかくオレにボールをまわせ」と叫ぶ。

「キ・ミ・シ・ョ・ウって聞いたことはないけど、けっこうやるよな」。
相手選手から、そんな声が漏れてきた。相手は、その年の全国優勝チーム、習志野高校。
「私がサッカーをはじめるのは中学校から。すぐに好きになって。監督もいないチームだったんですが、案外、タレントがそろっていて、そこそこの成績。中3になって、私がキャプテンになると更につよくなる/笑」。
どんなキャプテンだったんですか? と伺うと、「とにかく、オレにボールを回せってタイプだった」と笑う。「そのなかのメンバーたち数人といっしょに、君津商業に進学します。こういっちゃいけないんでが、先輩たちの代はそうでもなかった。でも、私らが入って、1年からレギュラーとなり試合に出場するようになるとドンドン成績があがっていきました」。
最高順位は県ベスト8。「習志野とたたかったのも、その頃です。ほかのチームは8対0とか、ともかく、当時の習志野は手がつけられなかったんですが、なんとか2対0に。もちろん、負けちゃったんですが、向こうの選手にもけっこうやるじゃん、みたいなね/笑」。
校長先生にもホメてもらった、そう。
サッカーの何がいいのかと聞くと、「ほかのスポーツには、やれ背丈とか、運動神経うんぬんとかがあると思うんですが、サッカーだけはそうじゃない。努力するほど巧くなる。だから、大好きなんです」。
「サッカーから教わったことは少なくない」と平野氏はいう。努力はうそをつかないも、その一つに違いない。ちなみに、平野氏は1956年生まれ。まだまだ野球が、全盛期の頃。突然、ヒーローが現れたのは、1968年のメキシコオリンピック。この大会で7得点を挙げた天才ストライカー、釜本 邦茂氏だ。
当然、釜本氏は、当時の子どもたちの憧れになる。平野氏も、ちょうど13歳。平野氏にとって、釜本選手はどんな存在だったのだろう。

マルチ商法。のめり込んだ先の残ったものは。

高校を卒業した平野氏は、市役所に勤めを開始する。「受験したら不思議なことに合格してしまって」と平野氏。本人は、大学に進んでサッカーをしたかったそう。市の職員になってからも、実は、社会人のサッカークラブでサッカーをつづけた。
「市の職員っといっても、年中、お酒は飲んでいたし、マージャンもしていた。車が好きだから、暴走もした。え、配属ですか? 市民税課です。そうそう、あの時、税金だけで、オレの1年ぶんの給料より高い人がいるのを知って。いつかオレもと思いました。いま思えば、独立心は、あの時に芽生えたんです。きっと/笑」。
ちょうどいい具合に、役所の上司が、とあるビジネスに誘ってくれた。
石鹸の販売だった。しかも、マルチ商法。
「最初は、いい感じだったから、それで、ハマっちゃうんですよね。このぶんならポルシェだって買えんじゃなぇかって」。
あいにく、そう巧くはいかない。市役所まで辞めて、のめり込んだ結果、800万円の借金だけが残った。
「言い訳にはなりませんが、まだ20歳でしたからね。何がいいかわるいかも知らなかった。そのマルチから抜けたのが21歳です。800万円の借金でしょ。もう、どうすればいいわからない私を救ってくれたのが、日本マクドナルドの創業者、藤田田さんの『ユダヤの商法』でした」。
目から鱗だったそう。起業するなら「おんな」と「口」をねらえ。その指示に従って、23歳の時、鮪も食べられないのに鮨屋の門を叩いた。起死回生のすべてを「食」に託した。

酒も飲めない、年下の兄弟子たち。

「いま、何がいちばん辛かったかっていうと、やっぱりあの時かな。鮨屋といっても、割と大きな店だったから、私とおなじように修業に来ている子らもいます。しかも、みんな私より先に入っているから先輩です。こっちは車も運転できるし、酒だって大っぴらに飲めるもう、22ですからね。でも、」
「でも、16や17の子から、叱られる。罵声ですよね。あの時ほど、みじめだったことはない。でも、一度、マルチで失敗しているでしょ。だから、頑張るしかなかったんです」。
知り合いを通し、休日もほかの店で仕事をした。尊敬する先輩のあとを追うように、和食の店でも修業した。「修業って、そりゃ辛い/笑」。そうでなきゃ、修業じゃないとでもいいたげ。「和食に店に移ってからも、辛かったですね。でも、独立するつもりでしたから、ちょっとやそっとで、こっちだって音をあげません」。
洗いものをしながら、「6年後には店やるべ」と舌を噛んだ。そう思うと、心も落ち着いた。「和食の最初は伊東だったんですが、そのあとも伊豆に行ったり、東京でも、はたらきました。そして、そう、28歳ですね。『さるとび』をオープンするんです」。
「オレのあしたをみていろよ」と言いつづけた青年が、ようやく、その「あした」に到達する。
「君津の駅から離れていました。24坪です。立地とかもわからないし、相場っていうのも知らなかった。ただ、1984年という時代は悪くなかったですね。なんでも儲かった。スナックでも、バーでも、どこもいっぱいです。うちも、3ヵ月目からは、連日、満員になりました」。
いまでいう寿司居酒屋、「その走りだ」と平野氏はいう。「それから、1991年にオープンした2号店が、『蟹工船』です。何年経ってもかわらない。素材で勝負できる、そんなお店をつくりたくて。もう、あれから27年経ちますが、いまもうちのメインブランドです/笑」。
「蟹工船」といえば小林多喜二著の日本を代表する文学作品の一つだが、平野氏がオープンした「蟹工船」にも文学的な響きがある。美しい川床を配した店内からは、「和」が織りなす唄が、響く。
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株式会社ASU 代表取締役 平野二三夫氏
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