本文より~
あんこやのセガレ。
「横浜港から船でハバロスクに向かって、そこからシベリア鉄道に乗って、そうやって昔はヨーロッパの山を登りに行ったんだ。手をふりながら、『あぁ、オレも行きてぇなぁ』って」。
ヨーロッパの山に向かうともだちを見送った時のことはいまも鮮明に記憶している。
小学1年生の時。ボーイスカウトの仲間と山に登ったのが、山好きになったきっかけ。日本大学の商学部に進んでからはワンダーフォーゲル部に入り、次々と山を制覇した。その数は、もうすぐ100に達するという。
「いまで97。あと3つだね」。
山登り同様、アップダウンだった人生を、これからも楽しむように、まだ矢田部氏は前を向いている。
矢田部氏は、1948年、茨城県下妻市に生まれる。下妻市は内陸にあり、昔は人口も少ない都市だった。矢田部氏の実家は、この下妻市で、「あんこや」を経営されていた。
「姉弟は4人いたんですが、男は私だけです。父親は20歳の時に単身中国に渡り、ビジネスを起こしたりしたそうです。そういうことも含め、私は小さい頃から父親を尊敬して育ちます」。
「いずれ父親の店を継ぐもの」と思っていた。事実、小学6年から高校3年まで、「学校の時間以外は、あんこやの手伝いをさせられていた」と語っている。準備は、整っていたわけだ。
「大学を卒業したら店を継ぐ、というのが親父との約束で、既定路線です。でもね。ともだちを横浜で見送ったり、ワンダーフォーゲル部でいっしょだった仲間が、商社に入ったりしてね。なんだか、オレの人生それでいいのかなって。もちろん、一度はもどりました。朝4時に起きて、あんこをつくっていました。これが、あんこやのセガレの人生なんだとジブンに言い聞かせて」。
ヨーロッパの山に向かうともだちを見送った時のことはいまも鮮明に記憶している。
小学1年生の時。ボーイスカウトの仲間と山に登ったのが、山好きになったきっかけ。日本大学の商学部に進んでからはワンダーフォーゲル部に入り、次々と山を制覇した。その数は、もうすぐ100に達するという。
「いまで97。あと3つだね」。
山登り同様、アップダウンだった人生を、これからも楽しむように、まだ矢田部氏は前を向いている。
矢田部氏は、1948年、茨城県下妻市に生まれる。下妻市は内陸にあり、昔は人口も少ない都市だった。矢田部氏の実家は、この下妻市で、「あんこや」を経営されていた。
「姉弟は4人いたんですが、男は私だけです。父親は20歳の時に単身中国に渡り、ビジネスを起こしたりしたそうです。そういうことも含め、私は小さい頃から父親を尊敬して育ちます」。
「いずれ父親の店を継ぐもの」と思っていた。事実、小学6年から高校3年まで、「学校の時間以外は、あんこやの手伝いをさせられていた」と語っている。準備は、整っていたわけだ。
「大学を卒業したら店を継ぐ、というのが親父との約束で、既定路線です。でもね。ともだちを横浜で見送ったり、ワンダーフォーゲル部でいっしょだった仲間が、商社に入ったりしてね。なんだか、オレの人生それでいいのかなって。もちろん、一度はもどりました。朝4時に起きて、あんこをつくっていました。これが、あんこやのセガレの人生なんだとジブンに言い聞かせて」。
現実からの逃避行。
「合計、2年間くらいです。父親を尊敬しているでしょ。親の面倒もみなくちゃいけない。それでも朝4時から、夕方まで、黙々と仕事をつづけるわけです。食べていくには、困らない。でも、それでいいのかって」。
悩みに悩みまくった末、矢田部は、そっと家を出る。そうするしかなかった。
「現実から逃げ出したんです。でも、もうそれしかなかった。両親には申し訳ないって。何度も頭を下げながらです。でも、あれがすべてのスタートですね。私の、ホントの人生の」。
アメリカに渡るために、トラックに乗った。3ヵ月で80万円を貯蓄する。コーヒーの原液をはこぶ、重労働だったそうだ。
ところで、山登りの一方で、矢田部氏は、旅も好きだ。あんこやで勤務している時も、3ヵ月の休みをもらって念願のヨーロッパに出かけている。のちには、インドのカルカッタからドイツのフランクフルトまで、9ヵ月かけ1人でオートバイの旅をしている。
奥様は、イギリス人。こちらは東京で出会われたそうだ。奥様との出会いは、矢田部氏にとって、大きな人生の転機ともなった。その話は、のちにする。
悩みに悩みまくった末、矢田部は、そっと家を出る。そうするしかなかった。
「現実から逃げ出したんです。でも、もうそれしかなかった。両親には申し訳ないって。何度も頭を下げながらです。でも、あれがすべてのスタートですね。私の、ホントの人生の」。
アメリカに渡るために、トラックに乗った。3ヵ月で80万円を貯蓄する。コーヒーの原液をはこぶ、重労働だったそうだ。
ところで、山登りの一方で、矢田部氏は、旅も好きだ。あんこやで勤務している時も、3ヵ月の休みをもらって念願のヨーロッパに出かけている。のちには、インドのカルカッタからドイツのフランクフルトまで、9ヵ月かけ1人でオートバイの旅をしている。
奥様は、イギリス人。こちらは東京で出会われたそうだ。奥様との出会いは、矢田部氏にとって、大きな人生の転機ともなった。その話は、のちにする。
とんかつ店「とんQ」オープン。
「25歳で運転手やったあと、会社を立ち上げました。商社です。仲間と2人で。それで実は、3000万円の借金をつくっちゃうんです」。
当時、付き合っていた奥様のビザも、もう更新できないまでになっていた。「それで籍を入れて親父に頭を下げて、2人ではたらかせてもらうんです。これが私の転機ともなりました」。
最初は反対されていたんだろうか。一時は、奥様を東京のアパートに残したまま、矢田部氏1人、実家にもどり、父親が経営する「あんこや」に通い、仕事をしていたそうだ。そして、奥様が店に入られるようになると、夫婦2人の、あんこづくりが始まった。その姿をみて、ご両親も結婚を許された。
「とにかく、この時、3000万円も借金があったわけで。だから、『なんとかしなくっちゃ』と思って。それで『とんかつ』の店をオープンします。当時、つくばも、まだまだ小さな町でした。しかし、筑波大学ができ、デパートができ、日本でも屈指の都市になるのがわかっていたから、そこに賭けてみようと」。
ただ、「あんこ」はつくったことがあるが、「とんかつ」はない。知り合いに紹介してもらった横浜の名店で修業する。たった3ヵ月だが、人生を賭けた修業である。血肉もなった。
ただ、矢田部氏は、面白いことを言っている。
「ふつう料理がうまい人は、安い素材からでも旨い料理をつくるでしょ。でも、私はそれができないから、素材でカバーしたんです」。
いまも「とんかつとんQ」は、日本のトップブランドである、農林水産大臣賞を受賞した国産ブランド『やまと豚』を使用している。
ともかく、33歳の時、矢田部氏は「とんかつとんQ」をオープンする。夫婦2人。オープン初日からイギリス人のおかみさんが、お客様を魅了する。
当時、付き合っていた奥様のビザも、もう更新できないまでになっていた。「それで籍を入れて親父に頭を下げて、2人ではたらかせてもらうんです。これが私の転機ともなりました」。
最初は反対されていたんだろうか。一時は、奥様を東京のアパートに残したまま、矢田部氏1人、実家にもどり、父親が経営する「あんこや」に通い、仕事をしていたそうだ。そして、奥様が店に入られるようになると、夫婦2人の、あんこづくりが始まった。その姿をみて、ご両親も結婚を許された。
「とにかく、この時、3000万円も借金があったわけで。だから、『なんとかしなくっちゃ』と思って。それで『とんかつ』の店をオープンします。当時、つくばも、まだまだ小さな町でした。しかし、筑波大学ができ、デパートができ、日本でも屈指の都市になるのがわかっていたから、そこに賭けてみようと」。
ただ、「あんこ」はつくったことがあるが、「とんかつ」はない。知り合いに紹介してもらった横浜の名店で修業する。たった3ヵ月だが、人生を賭けた修業である。血肉もなった。
ただ、矢田部氏は、面白いことを言っている。
「ふつう料理がうまい人は、安い素材からでも旨い料理をつくるでしょ。でも、私はそれができないから、素材でカバーしたんです」。
いまも「とんかつとんQ」は、日本のトップブランドである、農林水産大臣賞を受賞した国産ブランド『やまと豚』を使用している。
ともかく、33歳の時、矢田部氏は「とんかつとんQ」をオープンする。夫婦2人。オープン初日からイギリス人のおかみさんが、お客様を魅了する。
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