2018年2月27日火曜日

株式会社MUGEN 代表取締役 内山正宏氏登場。

本文より~

父親に連れられ、割烹に通う。

「ファミリーレストランに行ったことが一度もない」と内山氏は笑う。1974年生まれの内山氏が子どもの頃といえば、ファミリーレストラン全盛期。
「親父が、料理人に憧れていたんです。だから、連れて行かれるのはいつもカウンターがある割烹です。『息子に肉でも焼いてやってくれ』と親父がいうと、神戸牛のヒレがでてくるようなお店ばかりでした」。
豪勢な話だが、内山氏にすれば「一度は、ファミリーレストランへ」という思いもあったに違いない。親子3人で仲良くテーブルを囲む。そういう光景は、頭に浮かばない。
「ぼくが子どもの頃に、両親は離婚します。ぼくと母親は、それまで暮らしていた豊田市(愛知県)から離れ、母方の親戚がいる川崎市に引っ越しました。その時、何かと母の相談に乗ってくれたのが親子で通っていた、ある割烹のオーナーだったんです」。
「同年代の子どもがいたから」と内山氏。オーナーは、内山氏が川崎に引っ越してからも、何かとよくしてくれた。内山氏も甘えるようにして、長期の休みになるとのれんを潜った。
「3日とか5日とかの短期間ですが、アルバイトをさせてもらいました。お客様にお茶をお出ししたりして。帰る時には、だいたい5万円くらいいただきました。いいアルバイトでしょ(笑)」。
内山氏のなかでの父親像は、この店のオーナーによって焦点が結ばれる。オーナーといっしょの部屋で寝泊まりし、朝の仕入れにも連れて行ってもらったことがある。
「最初は、ぼくだけが特別だと思っていたんです。でも、アルバイトをしていてわかったことなんですが、オーナーは、ぼく以外の子どもも預かっていましたし、だれにも、やさしく接していました」。
だから、いつも店には客が溢れた。
「料理が巧いだけじゃなんだな。料理人って、最後は人間力なんだなって。そう思うと、飲食の世界がとても素敵に思えてきたんです」。
高校を卒業するまで、何かにつけ内山氏は、このオーナーに相談している。

専門学校に進むか、オーナーの下に進むか。

高校までテニスをつづけていた内山氏は、大会でも優秀な成績を残してきた。母親一人である。経済的にも、大学進学は簡単な選択ではない。
「最初は推薦で大学へ、と思っていたんです。実際、それくらいの成績は残していましたから、お声もかかるだろうと高をくくっていました。だけど…」。
結局、天の声は降りてこなかった。大学進学をあきらめた内山氏は、はじめて飲食の道に進むことを決意し、母親に頭を下げ「専門学校に行かせて欲しい」と言葉をつむいだ。
「オーナーにも当然、相談しました。すると『専門学校に進むぐらいだったら、うちにすぐ来い』って。でも、まだ若いでしょ。オーナーの下に行くと青春がなくなっちゃうと思って、誘いは全力でお断りしました(笑)」。
専門学校では、たしかに青春を謳歌した。授業の成績は、そこそこ。ホテルを受検すると言った時には「受かる訳がない」と断言されている。
「それでも怖いもの知らずで、ロイヤルパークホテルを受検します。ところが、合格しちゃうんですね。当時はバブル全盛で、まだ開業して1年も経っていなかったから人手不足だったんでしょう。ラッキーといえばラッキーな話です」。
たしかにラッキーな話だった。待遇にも恵まれていた。
「仕事は朝7時半から終電まででしたが、休みも当時から月8日あった。給料も総額で20万円くらい」。
たしかに、恵まれている。料亭や割烹であれば、極貧生活が待っていたはずである。「しかも、すぐに魚にも触らせてもらいましたし、いいことずくめです。ところが、ホテルのなかで尊敬していた先輩が出身の割烹に戻るというので、迂闊にも『連れて行ってください』って言っちゃうんです。これが地獄の始まりです(笑)」。

料亭へ。地獄の始まり。

「ぼくが21歳の時です。浅草橋にある江戸時代からつづく有名な料亭でした。料理人はぼくをいれて6人。料理長と、そのぼくが尊敬していた先輩、それとあとは、ほぼ同年代。もちろん、ぼくがいちばん下っ端です」。
調子にのって決めてしまったことを何度、後悔したか。
「半年に一度のペースで辞めたくなるんです」。
仕事は朝から深夜まで。寮があったとはいえ、給料は10万円。仕事といっても雑用ばかり。
「料理長のシャツやネクタイ、靴下のアイロンがけ、靴磨き、あと国宝級のお皿があったんで、それを桐の箱にしまうのも、ぼくの仕事。何をしに来たのか、わかりません」。
寝泊まりするのは、店の近くにある寮の6畳一間。「2段ベッドが2つデンとあって。そう4人部屋です(笑)」。給料10万円。独り暮らしができるわけもない。おまけに、先輩に誘われ、仕方なくキャバクラ通い。借金も相当な額になった。
「ある意味、地獄でしたが、親父がいないぼくがどこで人間形成したかというとやはり間違いなく、あの料亭だったと思います。その意味をどこかでわかっていたから、辞めたいと何度も思いながら、逃げ出さず5年もつづいたんだと思います」。
最終的には、刺身を切る板場に立つようになり、3番手となった。「料亭っていうのは、これが一つの区切りなんです。3番手の仕事ができるようになるといったん店を離れ、外で修業をするというのがだいたいの流れなんです。ところが、ぼくはそうなってもまだ店を辞めようと思っていました。辞めるというのは、縁を切るという意味です」。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年2月23日金曜日

Facebookを更新してましたが・・・。

今まで仕事のことをFacebookを更新してましたが、キイストンが何をやってるかも伝わってきたのと、他社がやってない試みを多く仕掛けてるため、これからの2年はあまり表に出さないで行こうと決めました。

飲食業界対象の求人関連企業も続々と誕生してるので、キイストンしかできないこと、独自の戦略と世の中の流れを読み、アッと驚くことをやっていく予定です。

そもそも飲食業界に行こうと思う方が少ないのと、新卒で入社、もしくは飲食業界に携わり3年未満の方は10人いれば7〜8人は他業界に流れています。
その逆の他業界から飲食業界へは10人で1人もいないのではないかと思います。

普通じゃなかなか人材集まらないですからね・・・・。
常にチャレンジの精神で26年目も進みます。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2018年2月21日水曜日

株式会社ミールワークス 代表取締役社長 小島由夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ミールワークス 代表取締役社長 小島由夫氏登場。
本文より~

受験は一度だけのエリートコース。

「私のちからで、オリンピックにでるか、でないか」。
祖父がいつものように二者択一の問題をだす。
「あれは、私が大学生で、フェンシングの大会で準優勝したりとそれなりの結果を残していた時です。祖父は、もと東京大学の教授で、明治大学の学長も務めた人です。オリンピックの委員にもなっていたものですから、人選にも影響力を持っていたんでしょう。『でたいなら、だしてやる。もっとも、予備選手だから試合にはでられないがな』という話でした」。
答えはいうまでもなく「でない」。つまり、「ノー」だ。「でも、正直悩んでしまいましたね。参加することができるんなら、そりゃね。最高の思い出にもなるでしょ。もちろん、私が、ひとつの枠を取っちゃうわけですから、そりゃできません。『でない』といったら、祖父はにっこり笑ってね。『それが正解』っていうんです。」
小島氏が生まれたのは、1952年。父親は、音楽家。その父親の教育方針なのだろう。小島氏は0歳からピアノを習わされた。「ピアノに、バイオリンでしょ。みんなで野球をやっていても、私1人うちに帰って、ピアノやバイオリンのレッスンです。イヤですよ。そりゃね」。
小学校入学時に受験し、「成蹊学園」に進む。「大学まで一直線ですよ。だから、勉強もしなかった」。
音楽は中学で辞める。「才能がなかったから」と小島氏。「好きなわけでもなかったからね。親父も、こいつには無理だと思ったんでしょう。認めてくれました」。
音楽を辞め、柔道を開始。高校時代には、フェンシング部をつくり、大学でもフェンシング、一本。冒頭に書いたのは、その時の祖父と小島氏の話である。年代からいえば、「ミュンヘンオリンピック」だろうか。

JALに追加されたもう一つの採用枠。

「JALってあるでしょ。祖父に『JALがいい』というと、叔父がJALの専務だったもんですから、採用枠をひとつ追加して、成績ではけっして入社できない私を拾ってくれようとしたんです。でも、この時ね。専務の叔父が『採用する』って言ってんだから、もう決定だと勘違いして、試験も受けずにスキーとかにいっちゃって。そりゃ、試験も受けないんだから、採用もできないわけで。そりゃぁ、もう大目玉です。それでも、『ジャルパック』って子会社を勧めてくれて、入社できる手はずを整えてくれていたんです。面接は、いきなり社長です。ただ、面接で仕事内容を知って、『そんな仕事はやりたくないです』って、叔父の顔にまたまた泥を塗るわけです」。
「社会常識がぜんぜんなかった」と、小島氏。つぎに紹介してもらった「博報堂」でも、いきなり最終面接だったが、「代理店はそんなもんだろう」と、私服で臨んでしまい、あっけなく不合格。
今度は祖父でなく、父親の紹介で、マルハ(現マルハニチロ)株式会社の親会社である大東通商株式会社に向かう。「当時は丸ビルの6階にオフィスがありました。実は、父方の祖父は一時、マルハ専属の医師をやっていて、この時、私がたずねたのと同じフロアで仕事をしていたそうなんです」。
縁というものがある。
「マルハっていうのは、有名な企業ですし、プロ野球球団ももっていたんで、知ってはいたんですが、むろん、常識がないですからね、知っていたのはそれくらい。向こうのほうが、私のことを知っていまして。『面白い奴だな。キミは』って。何もいう前からです(笑)」。
「面白い奴」といったのが、中部氏だったかどうかは記憶の外だが、その面接官のなかに、生涯の恩師ともなる中部氏もいたのはたしか。中部氏は、マルハの創業者一族。ここで言う中部氏は、のちにマルハの会長になり、横浜ベイスターズのオーナーにもなる中部慶次郎氏のことである。
恩師になるわけだから、試験は合格。無事、大東通商に就職することができた。

くっつけ役になる。


「中部さんから『何ができるんだ』と聞かれた時に、『たぶん、第一線の営業にはなれません。ただ、みんなをつなぐことはできる。そんなことをしたいと思います』と答えたんですね。そういう奴が1人くらいいてもいいんじゃないかって思われたんでしょう。ただ、野放しにはできないから、いきなり中部さん、直轄です」。
公私ともに中部氏に、付き添い、寄り添う人生が始まる。
余談だが、入社後の研修は、首相官邸で行われたそうだ。
「講師は中曽根さん、海部さん、最後に三木首相からお話をいただきます。贅沢な研修ですよね」。この研修には、様々な企業から精鋭が参加して、マルハから参加したのは2人だけで、小島氏はその1人。精鋭たちのなかで小島氏だけ、「浮いていた」と笑う。「くっつけ役」をめざす人は、そう多くない。
ところで、大東通商に入社し、中部氏の側近となった小島氏。ただ、それだけでは、小島氏と飲食のつながりがイメージしにくい。
「社内で『外食も研究しないといけない』ってことになって、私をヨーロッパに送り出してくれたんです。そう、イタリア、フランス、ドイツ…。経費で、食べて、飲んで。で、一つだけわかったのは、企業型の飲食と、個人型の飲食というのが2つあるってことですね。効率優先と、真心とクオリティの勝負です。ロケーションだって、企業型はお金があるからね。そういうのをリサーチして、1年弱で帰国します」。
外食と、マルハをくっつける。「くっつけ役」には、ある意味、最適な仕事だ。「そして、私が30代前半の時ですね。3億円かけて、表参道に『マンボウズ』をオープンします」。
小島氏は「好き勝手に店をつくった」と言っている。そりゃぁ、そうだろう。3億円もあればたいてい好きなようにできる。地下1階のワンフロア。22メートルの大水槽を設置した。
「シーフードレストランです。芸能人もけっこういらっしゃいました。連日、大盛況です。しかし、イニシャルコストが高すぎて、なかなか利益はでなかった。誤算といえば、誤算ですが、宣伝効果を加味すれば、充分、元は取れたと思っています。ただ、社内での評判がイマイチだったのはたしかですね」。
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2018年2月14日水曜日

とんきゅう様がとんかつとんQ つくば本店に『つくば とんかつ様』を開設!!

つくばに本社のあるとんきゅう様がなんと受験生応援フェア(1月22日~3月31日)としてとんかつとんQ つくば本店(茨城県つくば市東新井13-12)に神社でご祈祷された必勝・合格祈願の守り神「つくば とんかつ様」を設置されました。

うちの永野君、拝んでました(笑)
そのおかげか、営業実績が絶好調に売れに売れています。
永野が売れてるのはこのおかげか・・・(笑)
店頭の絵馬も増えすぎて第一陣は裏側に・・・


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千葉商科大学池田ゼミ生へのお礼にと・・。

昨年、千葉商科大学池田ゼミ生による、24時間居酒屋『酔っ手羽』プロジェクトM様の事前課題発表会のお礼にと村山社長に食事招待してもらいました。


やはり学生からの目線でお店やメニューを見ることって大事ですね。
村山社長含めたプロジェクトM、またキイストンの担当も大変勉強になったようです。

池田先生ありがとうございました。
(ゼミ学生の半分以上がバイトや用事変更して参加してくれました)
(酔っ手羽小岩店にて 村山社長と一緒に)
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2018年2月13日火曜日

株式会社プロジェクトM 代表取締役 村山有志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社プロジェクトM 代表取締役 村山有志氏登場。
本文より~

野球部、キャプテン。

1975年12月26日、村山氏は東京都の下町、江戸川区新小岩に生まれる。父は看板業を営んでいる。物静かで、怒ることもない父親だった。2つ違いの姉と8つ離れた妹の3人姉弟。母の実家は山梨県の富士吉田。麓過ぎて富士山を仰ぎ観ることができなかったそうだ。
小学校から野球をはじめ、高校までつづけている。中学時代は副キャプテン、高校はキャプテンに選抜された。
「小学生の頃に、松坂大輔とか、石井一久がいた名門チームに誘われたことがあるんです。軟式野球でベストナインに選ばれていたのが目に留まったんでしょうね。ただ、背がちっこくて。2回、練習しただけで『もうこなくっていいよ』って」。
「なんだったんでしょうね、あれ」と笑うが、理不尽な話である。もっとも冷酷な話も村山氏本人は意に介さない。中学では、水泳大会にも学校代表として選出された。とかく運動神経のいい生徒だった。ただし、勉強は大の苦手。
「やったらできたんでしょって言われますが、ダメですね、たぶん。だって、そもそもしたくないし、しようと思っても、やり方をしらないから」。
スポーツなら「やり方」がわかった。だから、野球も、水泳も、それ以外のスポーツもたいていできた。巧くなる方法を知っているからだ。
「仕事でもおんなじだと思うんです、できるやつはできる。イチローは、サッカーでも大選手になっていたはずなんです」。人は、それを「才能」と表現したがる。しかし、村山氏は「やり方」を知っているかどうかだと表現する。もっとも、その先にはやはり「才能」という二文字でしか立ち入ることができない世界があるかもしれないのだが。

逃亡。


高校を卒業した村山氏は、家業の手伝いを始める。小さな頃からみてきた仕事である。従業員は4名。小さな作業場は、ペンキの匂いに包まれていた。
「今は、私が引き継いでいます。親父の代から売上は2倍になり、従業員数も倍増です」。「どうだ」と言わんばかりだが、これは今の話。当時、村山氏は父親からの逃亡を図っている。
「いやぁ、無理でしょ、ふつうは。給料は安い。仕事は長い。朝6時まで仕事をやらされて、7時か7時半には叩き起こされる毎日です」。
半年は我慢したが、それが限界だった。サーフィンが好きだったこともあって海のある街に逃げ込んだ。「あの時は『看板屋なんて、二度とするもんか!』って思っていました」。
寡黙な父親も、この時ばかりは鬼にみえたことだろう。
もっとも仕事をしないと生活はできない。サーフィンも怠けるとさびついてしまう。村山氏は、トラックの助手をスタートする。助手なら、そうしんどくもないだろう。ちから仕事なら自信もある。そう思ってスタートしたが、ここでも、とんでもないキャラが立ちはだかった。
「事務機器の運送がメインです。私たち助手は、荷物を運び入れるためや、ナビゲーターとして横に乗っているわけです。しかし、ナビゲートしようにも見慣れない地図です」。ちょっとでも反応が遅れると、殴られた。「殴るなんて、ましなほうで。もう、犯罪ですね。その運転手が助手にやっていたことは(笑)」。
だから、村山氏以外では、6ヵ月つづいたのが最高だった。
「トラックのなかの空気なんて最悪です(笑)。お互い口もきかない。でも、その運転手さんのおかげで、休むことなく、遅刻することもなく2年、つづけることができたのも事実です。怒られるのもイヤだし、怒られる原因をつくりたくなかったから(笑)」。
村山氏がいうように、その運転手は、村山氏の仕事観に一つのセオリーを叩きこんでくれた。仕事は、休んでも、遅れてもいけない。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2月13日発行の日刊ゲンダイに「株式会社クールジャパン at City」倉本潤社長の記事出ました。

2月13日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”にシティコミュニケーションズグループの
株式会社クールジャパン at City」倉本潤社長の記事掲載されました。
(日刊ゲンダイより)

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2018年2月6日火曜日

株式会社エヌクリエート 代表取締役 山本敦之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エヌクリエート 代表取締役 山本敦之氏登場。
本文より~

孤独な少年。

4歳の時に、両親が離婚。その時の記憶はまだ鮮明だ。それ以来、育ての親は、祖父と祖母だった。祖父からもぶん殴られて育った。「父からも、好かれてはいなかった」という。
4歳から剣道を習った。全国大会出場の常連になる。中野区の大会では優勝は、いつも山本氏のものだった。いまも中野区では名前が残っているそうだ。「認められたかったんだったと思う」と山本氏はもらす。
2つ違いの兄と比べられたことも少なくない。「お小遣いも、明らかに違った」と笑う。いま思えば、それらすべてがバネになった。
中・高は、ケンカの日々だった。目立っていたのだろう。なにがあっても、山本氏が原因と決めつけられた。
「私にとって、祖父が大きなカベでした。いつか超えてやると思っていました。どうしてでしょうね。たぶん理不尽だったんです。たとえば私が、剣道でいくら優勝してもぜんぜん認めてくれない。そういうことに対して、反抗していたんだと思います」。
心のなかに、いつもモヤモヤと何かがくすぶっていた。
高校を卒業してからは、外国語の専門学校に進んだ。昔から英語が得意で、商社で勤務しようと思っていたからだ。ただ、道は違う方向につながっていた。

結婚を転機に、無謀なチャレンジを開始する。

「18歳からサーフィンを始めたんです。これが、楽しくて、そちらが主になっちゃうんです。サーファーなのにサラリーマンのヘアスタイルっていうのは、どうかなって(笑)。それで、当時、バイトをしていた内装業者に、そのまま就職することにしました」。
商社と内装業者。失礼な話だが、まるで異なる職業だ。「でも、若い時って、そんなもんでしょ」と山本氏。選択が間違っていたという思いはないようだ。
「ただ、しばらくして転職します。小さな会社だったもんですから。22歳の時に、規模の大きなゼネコンに移りました」。
職人をつづけながら、「監理」の仕事もするようになった。給料は悪くなかった。その一方で、サーフィンはつづけた。サーフィンをするために、海外まで出かけたことがある。
「あの頃、頭のなかはサーフィンのことで埋め尽くされていました。でも、どこかで、こういう生活をつづけていてはいけないなと思ってもいたんです。そんなときに、ひとりの女性と知り合いました」。
それがいまの奥様だ。
ふつう結婚ともなれば、そうそう転職はできない。しかし、山本氏は、真剣に仕事をするために、もう一度ステージを回転させた。
無謀といえば無謀だろう。山本氏が選んだのは、ラーメン。むろん、料理の経験はない。真っ白な素人である。

逃げ出さなかったのは、それだけラーメンに惹かれたからかもしれない。

それから山本氏は4年半に亘り、永福町にある、都内でも、最もきびしいと評判のラーメン店で勤務する。
「ラーメンが好きだったんです。真剣に仕事に打ち込むなら、これだと。いくつかあるなかで、最高の一杯だったラーメン店の門を叩きます」。
面接はなんと7回を数えたそうだ。
「それくらいは、当然の店です。だって、みられているのは、根性だけですから」。
休みは、ない。
「月に3日。休みがあるにはあったんです。でも、休みの日も『4~5時間は、はたらくもんだ』と言われて」。むろん、拘束時間は長い。1日15時間。
新婚なのに、山本氏が、妻と過ごす時間は限られていた。しかも、自宅でも、山本氏はラーメンをつくった。食材を調べては、新たな味の掛け合わせを追求する。奥様とはすれ違いの日々。一心不乱にラーメンづくりに没頭する山本氏をみて、奥様はどう思われていたんだろう。
「きつかったですね。あの頃は相当。私もだし、女房も」。いつのまにか、食卓には、離婚届がおかれるようになっていたそうである。
「どうしてでしょうね。あの頃は、根性だけはだれにも負けないと思っていたもんですから、折れることができなかったんです。それに、結婚して、逃げ道もなかった。だから、やるしかなかったし、ラーメンが、それだけ私を惹きつけたとも言えるじゃないでしょうか」。
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2018年2月1日木曜日

大和串Planning株式会社 代表取締役社長 多々納大展氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”大和串Planning株式会社 代表取締役社長 多々納大展氏登場。
本文より~

「しんどなって、やめました」。

大阪、難波は雑多な街である。心斎橋筋、宗右衛門町、戎橋、御堂筋。バブルの頃は灯りが消えることはなかった。多々納氏の実家は、40年以上、この街で飲食店を経営されている。
多々納氏が生まれたのは、1972年8月22日。大阪府吹田市で万国博覧会が開催されてから2年。高度経済成長期、真っ只中でもある。第二次ベビーブームはちょうどこの頃だろうか。
「運動神経はいいほうでした。小学校の時は、陸上で短距離。中学・高校では硬式テニスをしていました」。たしかに、巧かった。大学は「テニスで行けるのでは」と思っていたほど。しかし、スカウトも観に来たが、最終的には声がかからなかった。推薦で受験したものの不合格。「しんどなって、やめました」。「やめた」というのは大学進学のことである。

「後悔せぇへんこと」。

「テニスをしていた時に1回だけやらかしたことがあるんです。最後の大会の団体戦。私が勝てば、相手に勝って、より大きな大会に進める、そんな試合でした。マッチポイントです。相手がミスショットして、ボールがネットに当たったんです。いつもなら、最後まで走りぬくというのが信条だったんですが、その時は『勝ったぁ』って思いこんでしまって」。
ボールはネットをくるりと反転させ、こちらのコートにぽろりと落ちた。「人前であんなに泣いたことはない」と多々納氏はいう。いろんな思いが胸をよぎり、それが嗚咽となった。小さい頃から何事にも動じない少年が、見事に泣いた。泣き切ったというのが正しいかもしれない。
「悔しかったですねぇ。あれからです。もう、後悔するようなことはしないって。だから、大学に進まなかったことも、飲食を始めたことも、ぜんぜん後悔していないんです」。

「知り合いは300万円の借金をつくって、トンブラです」。

大学に進まず就職したのは、法善寺「串の坊」。いうまでもなく、関西の名店だ。「3~4店舗くらいに絞って、食べに行っていちばんええなと思ったのが『串の坊』さんでした。こちらで4年、修業させていただきます」。
実家ではたらく選択肢はなかったんですか?
「なかったですね」と多々納氏。
「ただ、飲食に進んだのは親の影響があったからだと思いますし、高校時代から飲食でバイトをしていましたから、抵抗もありませんでした」。
「串の坊」の門を叩き、4年、経った。それがちょうど1995年。「私が『串の坊』を辞めた時、阪神大震災が起こるんです。あの時は、ちょうど無職で。やることも別になかったもんですから、すぐにボランティアに向かいました」。
「困ったことはないか」と聞いて回る役割が与えられた。「そのなかで『車をなんとか手に入れたいんやけど』、なんていうのがあって。それがきっかけで、実は、それから2年くらい車屋をするんです」。
オークションで車を仕入れ、販売する。差額が利益になった。「1人でしたから、贅沢さえしなければそれなりに食べていけました」。1台、販売すれば5万円、高い車になれば30~40万円の利益が出たそうだ。
「そうですね。車だけの時はよかったんですが、保険も扱うようになって。そのあと、知り合いと手を組むんですが、結局、その知り合いは300万円の借金をつくってトンズラです(笑)」。
・・・続き
大和串Planning株式会社 代表取締役社長 多々納大展氏
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