2018年2月21日水曜日

株式会社ミールワークス 代表取締役社長 小島由夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ミールワークス 代表取締役社長 小島由夫氏登場。
本文より~

受験は一度だけのエリートコース。

「私のちからで、オリンピックにでるか、でないか」。
祖父がいつものように二者択一の問題をだす。
「あれは、私が大学生で、フェンシングの大会で準優勝したりとそれなりの結果を残していた時です。祖父は、もと東京大学の教授で、明治大学の学長も務めた人です。オリンピックの委員にもなっていたものですから、人選にも影響力を持っていたんでしょう。『でたいなら、だしてやる。もっとも、予備選手だから試合にはでられないがな』という話でした」。
答えはいうまでもなく「でない」。つまり、「ノー」だ。「でも、正直悩んでしまいましたね。参加することができるんなら、そりゃね。最高の思い出にもなるでしょ。もちろん、私が、ひとつの枠を取っちゃうわけですから、そりゃできません。『でない』といったら、祖父はにっこり笑ってね。『それが正解』っていうんです。」
小島氏が生まれたのは、1952年。父親は、音楽家。その父親の教育方針なのだろう。小島氏は0歳からピアノを習わされた。「ピアノに、バイオリンでしょ。みんなで野球をやっていても、私1人うちに帰って、ピアノやバイオリンのレッスンです。イヤですよ。そりゃね」。
小学校入学時に受験し、「成蹊学園」に進む。「大学まで一直線ですよ。だから、勉強もしなかった」。
音楽は中学で辞める。「才能がなかったから」と小島氏。「好きなわけでもなかったからね。親父も、こいつには無理だと思ったんでしょう。認めてくれました」。
音楽を辞め、柔道を開始。高校時代には、フェンシング部をつくり、大学でもフェンシング、一本。冒頭に書いたのは、その時の祖父と小島氏の話である。年代からいえば、「ミュンヘンオリンピック」だろうか。

JALに追加されたもう一つの採用枠。

「JALってあるでしょ。祖父に『JALがいい』というと、叔父がJALの専務だったもんですから、採用枠をひとつ追加して、成績ではけっして入社できない私を拾ってくれようとしたんです。でも、この時ね。専務の叔父が『採用する』って言ってんだから、もう決定だと勘違いして、試験も受けずにスキーとかにいっちゃって。そりゃ、試験も受けないんだから、採用もできないわけで。そりゃぁ、もう大目玉です。それでも、『ジャルパック』って子会社を勧めてくれて、入社できる手はずを整えてくれていたんです。面接は、いきなり社長です。ただ、面接で仕事内容を知って、『そんな仕事はやりたくないです』って、叔父の顔にまたまた泥を塗るわけです」。
「社会常識がぜんぜんなかった」と、小島氏。つぎに紹介してもらった「博報堂」でも、いきなり最終面接だったが、「代理店はそんなもんだろう」と、私服で臨んでしまい、あっけなく不合格。
今度は祖父でなく、父親の紹介で、マルハ(現マルハニチロ)株式会社の親会社である大東通商株式会社に向かう。「当時は丸ビルの6階にオフィスがありました。実は、父方の祖父は一時、マルハ専属の医師をやっていて、この時、私がたずねたのと同じフロアで仕事をしていたそうなんです」。
縁というものがある。
「マルハっていうのは、有名な企業ですし、プロ野球球団ももっていたんで、知ってはいたんですが、むろん、常識がないですからね、知っていたのはそれくらい。向こうのほうが、私のことを知っていまして。『面白い奴だな。キミは』って。何もいう前からです(笑)」。
「面白い奴」といったのが、中部氏だったかどうかは記憶の外だが、その面接官のなかに、生涯の恩師ともなる中部氏もいたのはたしか。中部氏は、マルハの創業者一族。ここで言う中部氏は、のちにマルハの会長になり、横浜ベイスターズのオーナーにもなる中部慶次郎氏のことである。
恩師になるわけだから、試験は合格。無事、大東通商に就職することができた。

くっつけ役になる。


「中部さんから『何ができるんだ』と聞かれた時に、『たぶん、第一線の営業にはなれません。ただ、みんなをつなぐことはできる。そんなことをしたいと思います』と答えたんですね。そういう奴が1人くらいいてもいいんじゃないかって思われたんでしょう。ただ、野放しにはできないから、いきなり中部さん、直轄です」。
公私ともに中部氏に、付き添い、寄り添う人生が始まる。
余談だが、入社後の研修は、首相官邸で行われたそうだ。
「講師は中曽根さん、海部さん、最後に三木首相からお話をいただきます。贅沢な研修ですよね」。この研修には、様々な企業から精鋭が参加して、マルハから参加したのは2人だけで、小島氏はその1人。精鋭たちのなかで小島氏だけ、「浮いていた」と笑う。「くっつけ役」をめざす人は、そう多くない。
ところで、大東通商に入社し、中部氏の側近となった小島氏。ただ、それだけでは、小島氏と飲食のつながりがイメージしにくい。
「社内で『外食も研究しないといけない』ってことになって、私をヨーロッパに送り出してくれたんです。そう、イタリア、フランス、ドイツ…。経費で、食べて、飲んで。で、一つだけわかったのは、企業型の飲食と、個人型の飲食というのが2つあるってことですね。効率優先と、真心とクオリティの勝負です。ロケーションだって、企業型はお金があるからね。そういうのをリサーチして、1年弱で帰国します」。
外食と、マルハをくっつける。「くっつけ役」には、ある意味、最適な仕事だ。「そして、私が30代前半の時ですね。3億円かけて、表参道に『マンボウズ』をオープンします」。
小島氏は「好き勝手に店をつくった」と言っている。そりゃぁ、そうだろう。3億円もあればたいてい好きなようにできる。地下1階のワンフロア。22メートルの大水槽を設置した。
「シーフードレストランです。芸能人もけっこういらっしゃいました。連日、大盛況です。しかし、イニシャルコストが高すぎて、なかなか利益はでなかった。誤算といえば、誤算ですが、宣伝効果を加味すれば、充分、元は取れたと思っています。ただ、社内での評判がイマイチだったのはたしかですね」。
・・・続き
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