2018年2月13日火曜日

株式会社プロジェクトM 代表取締役 村山有志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社プロジェクトM 代表取締役 村山有志氏登場。
本文より~

野球部、キャプテン。

1975年12月26日、村山氏は東京都の下町、江戸川区新小岩に生まれる。父は看板業を営んでいる。物静かで、怒ることもない父親だった。2つ違いの姉と8つ離れた妹の3人姉弟。母の実家は山梨県の富士吉田。麓過ぎて富士山を仰ぎ観ることができなかったそうだ。
小学校から野球をはじめ、高校までつづけている。中学時代は副キャプテン、高校はキャプテンに選抜された。
「小学生の頃に、松坂大輔とか、石井一久がいた名門チームに誘われたことがあるんです。軟式野球でベストナインに選ばれていたのが目に留まったんでしょうね。ただ、背がちっこくて。2回、練習しただけで『もうこなくっていいよ』って」。
「なんだったんでしょうね、あれ」と笑うが、理不尽な話である。もっとも冷酷な話も村山氏本人は意に介さない。中学では、水泳大会にも学校代表として選出された。とかく運動神経のいい生徒だった。ただし、勉強は大の苦手。
「やったらできたんでしょって言われますが、ダメですね、たぶん。だって、そもそもしたくないし、しようと思っても、やり方をしらないから」。
スポーツなら「やり方」がわかった。だから、野球も、水泳も、それ以外のスポーツもたいていできた。巧くなる方法を知っているからだ。
「仕事でもおんなじだと思うんです、できるやつはできる。イチローは、サッカーでも大選手になっていたはずなんです」。人は、それを「才能」と表現したがる。しかし、村山氏は「やり方」を知っているかどうかだと表現する。もっとも、その先にはやはり「才能」という二文字でしか立ち入ることができない世界があるかもしれないのだが。

逃亡。


高校を卒業した村山氏は、家業の手伝いを始める。小さな頃からみてきた仕事である。従業員は4名。小さな作業場は、ペンキの匂いに包まれていた。
「今は、私が引き継いでいます。親父の代から売上は2倍になり、従業員数も倍増です」。「どうだ」と言わんばかりだが、これは今の話。当時、村山氏は父親からの逃亡を図っている。
「いやぁ、無理でしょ、ふつうは。給料は安い。仕事は長い。朝6時まで仕事をやらされて、7時か7時半には叩き起こされる毎日です」。
半年は我慢したが、それが限界だった。サーフィンが好きだったこともあって海のある街に逃げ込んだ。「あの時は『看板屋なんて、二度とするもんか!』って思っていました」。
寡黙な父親も、この時ばかりは鬼にみえたことだろう。
もっとも仕事をしないと生活はできない。サーフィンも怠けるとさびついてしまう。村山氏は、トラックの助手をスタートする。助手なら、そうしんどくもないだろう。ちから仕事なら自信もある。そう思ってスタートしたが、ここでも、とんでもないキャラが立ちはだかった。
「事務機器の運送がメインです。私たち助手は、荷物を運び入れるためや、ナビゲーターとして横に乗っているわけです。しかし、ナビゲートしようにも見慣れない地図です」。ちょっとでも反応が遅れると、殴られた。「殴るなんて、ましなほうで。もう、犯罪ですね。その運転手が助手にやっていたことは(笑)」。
だから、村山氏以外では、6ヵ月つづいたのが最高だった。
「トラックのなかの空気なんて最悪です(笑)。お互い口もきかない。でも、その運転手さんのおかげで、休むことなく、遅刻することもなく2年、つづけることができたのも事実です。怒られるのもイヤだし、怒られる原因をつくりたくなかったから(笑)」。
村山氏がいうように、その運転手は、村山氏の仕事観に一つのセオリーを叩きこんでくれた。仕事は、休んでも、遅れてもいけない。
・・・続き
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