2018年2月1日木曜日

大和串Planning株式会社 代表取締役社長 多々納大展氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”大和串Planning株式会社 代表取締役社長 多々納大展氏登場。
本文より~

「しんどなって、やめました」。

大阪、難波は雑多な街である。心斎橋筋、宗右衛門町、戎橋、御堂筋。バブルの頃は灯りが消えることはなかった。多々納氏の実家は、40年以上、この街で飲食店を経営されている。
多々納氏が生まれたのは、1972年8月22日。大阪府吹田市で万国博覧会が開催されてから2年。高度経済成長期、真っ只中でもある。第二次ベビーブームはちょうどこの頃だろうか。
「運動神経はいいほうでした。小学校の時は、陸上で短距離。中学・高校では硬式テニスをしていました」。たしかに、巧かった。大学は「テニスで行けるのでは」と思っていたほど。しかし、スカウトも観に来たが、最終的には声がかからなかった。推薦で受験したものの不合格。「しんどなって、やめました」。「やめた」というのは大学進学のことである。

「後悔せぇへんこと」。

「テニスをしていた時に1回だけやらかしたことがあるんです。最後の大会の団体戦。私が勝てば、相手に勝って、より大きな大会に進める、そんな試合でした。マッチポイントです。相手がミスショットして、ボールがネットに当たったんです。いつもなら、最後まで走りぬくというのが信条だったんですが、その時は『勝ったぁ』って思いこんでしまって」。
ボールはネットをくるりと反転させ、こちらのコートにぽろりと落ちた。「人前であんなに泣いたことはない」と多々納氏はいう。いろんな思いが胸をよぎり、それが嗚咽となった。小さい頃から何事にも動じない少年が、見事に泣いた。泣き切ったというのが正しいかもしれない。
「悔しかったですねぇ。あれからです。もう、後悔するようなことはしないって。だから、大学に進まなかったことも、飲食を始めたことも、ぜんぜん後悔していないんです」。

「知り合いは300万円の借金をつくって、トンブラです」。

大学に進まず就職したのは、法善寺「串の坊」。いうまでもなく、関西の名店だ。「3~4店舗くらいに絞って、食べに行っていちばんええなと思ったのが『串の坊』さんでした。こちらで4年、修業させていただきます」。
実家ではたらく選択肢はなかったんですか?
「なかったですね」と多々納氏。
「ただ、飲食に進んだのは親の影響があったからだと思いますし、高校時代から飲食でバイトをしていましたから、抵抗もありませんでした」。
「串の坊」の門を叩き、4年、経った。それがちょうど1995年。「私が『串の坊』を辞めた時、阪神大震災が起こるんです。あの時は、ちょうど無職で。やることも別になかったもんですから、すぐにボランティアに向かいました」。
「困ったことはないか」と聞いて回る役割が与えられた。「そのなかで『車をなんとか手に入れたいんやけど』、なんていうのがあって。それがきっかけで、実は、それから2年くらい車屋をするんです」。
オークションで車を仕入れ、販売する。差額が利益になった。「1人でしたから、贅沢さえしなければそれなりに食べていけました」。1台、販売すれば5万円、高い車になれば30~40万円の利益が出たそうだ。
「そうですね。車だけの時はよかったんですが、保険も扱うようになって。そのあと、知り合いと手を組むんですが、結局、その知り合いは300万円の借金をつくってトンズラです(笑)」。
・・・続き
大和串Planning株式会社 代表取締役社長 多々納大展氏
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