in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社フードイズム 代表取締役 跡部美樹雄氏登場。
本文より~
勉強ギライ。家庭科の授業で何を学ぶ。
9×9を諳んじられるようになったのは、小学6年生の時と跡部氏はいう。勉強にはまったく興味がなかったようだ。「兄貴は大学まで進みましたが、父親も、母親も中卒。私も専門学校卒です」。
跡部氏によれば、勉強しなくても怒られたことがなかったそう。「何をしても、文句は言われない。自由奔放。ただし、人の道に外れたことをした時は烈火のごとく、怒られました。そんな時の親父はハンパなく怖い。だって、ジャリトラの運転手でパンチパーマです。怒ると、そりゃ、むちゃくちゃ怖い」。
跡部氏が育ったのは、東京都のベッドタウン、千葉県野田市。跡部氏が進んだ公立小学校は生徒数、3000人のマンモス校。途中で分校したが、それでも生徒数は多かった。「生徒数が多いですから、頭のいいのも、悪いのもたくさんいます」。
もともと、ガラがいいエリアではなかった、と跡部氏。跡部氏自身は、中学からバレーボールをはじめ、部活に熱を入れるのだが、そうでなければどうなっていたかわからない。
こどもの頃の思い出を聞くと、小学校の家庭科の話が登場した。「授業で、りんごの皮をむくっていうのがあったんですが、私は1回でできちゃった。それで、ちょっと料理に興味がでて、小学生から天ぷらを揚げたりしていました」。もっとも当時から料理人になろうとは思ってもいなかったらしい。ただ、高校を卒業する際、「料理人」を選択した背景の一つであることは間違いない。さて、家庭科の授業は、どんな料理人を生み出すのだろうか。
就職前のモラトリアムと、寿司割烹で知った現実。
高校に進んだ跡部氏は、やはりバレー部に所属。「偏差値は県内でも下から数えたほうが早い高校です。しかも、私自身、高校生になってもまったく勉強しない。大学には行きたくないと思っていたし、そもそも合格できる大学もないと思っていたんですが、だからと言って、就職も頭になかった。もう少し自由でいたかったんです。実は、ただそれだけの理由で、専門学校に進みます」。
これは、卒業時の話。
専門学校は、都内にある「服部栄養専門学校」。「1年制の学校です。和・洋・中とあるなかで、私が選択したのは『和食』です。どうして、『和食』だったのか、今でも謎です。たぶん、フレンチも、イタリアンも知らなかったからでしょうね」。 専門学校でも熱心な生徒ではなかった。
「学校を卒業すると、就職です。私が進んだのは、立川で100年以上歴史のある寿司割烹の名店です。以来、数年、私の言葉は、基本『はい』だけです」。
めちゃめちゃ厳しかったと、跡部氏。給料は手取りで7万円。寮費3000円。朝8時から深夜まで仕事がつづく。むろん、失敗すれば罵声がとぶ。それでも、なんとか貫き通した。
「どうしてでしょうね。ただ、どこかで逃げちゃだめだって思っていたんでしょう。勤め始めて、3年。オヤジさんから初めて指令があって、『これからは、この店ではたらけ』と。ま、和食の職人はそうやって進んでいくのはわかっていましたし、そもそも『はい』としか言えないので、言われるままです」。
これが、社会に出て知った跡部氏の現実世界。一般的にみれば、特殊で、極めて厳しい世界だ。
駄目だ、の一言に救われた料理人、人生。
跡部氏の次の店は、砂町にある『割烹』。店主と奥様、そして兄弟子がいた。「ところが、兄弟子がしばらくして退職してしまうんです。すると、店主と奥様と3人です。新たなオヤジである店主には気を遣っていただいていたんですが、ある時、ふと、『俺って何をしているんだろう』って思っちゃうんです。朝から晩まで仕事です。昔の知り合いが、年齢給くらいもらっているに、20万円にもならない。そういうので頭が一杯になって、店にいるのが息苦しくなって。そして、涙を流しながら、店主に『辞めさせてください』っていって」。
頭を下げた。下げつづけたが、答えは『駄目だ』の一言だった。「涙まで流してお願いしたんですが、店主に『駄目だ』って言われると反論できません。そういうのがもうからだに染みついていて、条件反射です。ただ、そのあと、店主がうちの父親と母親を店に呼んで謝ってくれたんです。もうこれは裏切れないと、強烈に思いました。今でも、あの時の、店主の「駄目だ」の一言には感謝しています。あの一言のおかげで今があるんですから」。
実は、跡部氏、オートバイが好きで、整備工にでもなろうと思ってもいたそうだ。しかし、店主の言葉とやさしさが、跡部氏を料理の世界に引き留めた。
結局、和食の世界に跡部氏は10年いた。次に門を叩いたのは竹橋にある「うなぎ割烹」の名店。料理もそうだが、「熱」を知ったという。「私は、二番手として採用いただいたわけですが、その時の料理長が、たまらなく格好いい人で。初対面では、とても怖く気合いの入った職人という方でした。しかし、気持ちが熱く人を大切にする方なんだ」と、時間を共有する毎にわかってきた。
この時の料理長もまた、今でもリスペクトする1人。24歳から26歳まで、その先輩の下にいたことが「いちばん大きな経験であり、財産だ」と跡部氏は語っている。
脱、料理人。今度は、どこに行く?
「最後は、新橋にある和食店で、頭をはらせていただきました。給料も30万円。年齢給以上になりました」。頭となって、自由度を得た跡部氏は店の売上をとたんに伸ばした。「魚をずっとやってきたでしょ。だから、目利きもできる。それでオーナーに頼んで仕入れを任せてもらったんです。私自身が『これだ』と思う魚を仕入れて、さばいて、お出しするわけでしょ。お客様も、喜んでくださいますよね。それで、どんどん売上が伸びていったんです」。
たしかに売上は好調。ただ、その一方で、跡部氏は料理長になって、初めて「料理人」という仕事に対して疑問を抱いている。今度は、どうしようもない思いだった。
「ある常連さんが2人で来られた時の話で、連れの子がアパレルで働いていると聞くと、その常連さんは洋服は売るものじゃなくて着るものだぞとおっしゃていたんです。その時、あれ?おれも料理を作りたいのも事実だけど、食べることの方が好きだ!と気づいたんです」。
さらに、その頃デザイナーズレストランが流行りだし、老舗が廃業していく流れに時代は移り変わっていくタイミングだった。
「今までの師匠のように料理一本で生きていける時代ではなくなるのでは?このまま料理人でいいのか?と疑問を持つようになりました」。
「常連さんにオムライスのお店を経営されている人がいらっしゃったんです。話を聞いて、耳を疑いました。一杯500円のオムライスで、1日30万円だっていうんです。あるわけないでしょ。いや、あって欲しくなかった。だって、こちらは朝から晩まで仕事しているのに、ぜんぜん儲けがちがう。それで、考え方を変えたんです」。
考え方を変えたといっても、「食」にはもちろんかかわった。
「ちょうど、そのオムライスのオーナーが中国に出店するって話があって。私も海外に興味があったもんですから、手を挙げるんです。それが、27歳の頃です」。料理人の道は、ひょんな方向につながっていた。
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株式会社フードイズム 代表取締役 跡部美樹雄氏