2018年5月29日火曜日

ハイライトインターナショナル株式会社 代表取締役 和田高明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ハイライトインターナショナル株式会社 代表取締役 和田高明氏登場。
本文より~

家族団らん。テレビはNHKと決まっていた。

今回、ご登場いただいた和田氏が生まれたのは1982年。出生地は東村山だが、すぐに町田市に引っ越している。兄弟は男子ばかりの3兄弟。父親はNTTの開発部長を務めた技術者。母は小学校の教師。英才教育と思いきや、案外、自由奔放な家庭だったそう。もっとも、父親の方針でバラエティ番組は禁止。7時からTVのチャンネルはNHKとなり、7時30分からは「クローズアップ現代」が定番だったという。「そういえば、ゲームも買って貰えませんでした。だから、自分で絵を描いて、当時は流行っていた『ストリートファイター』のオリジナル版をつくっていました。サイコロを投げて『1』がでれば『波動拳』みたいな/笑」。
ないものは、つくる。「ない」で終わらない。「そうですね。ゲームを買って貰えなかったおかげで、さみしい思いもしましたが、自分で工夫したり、発想したりすることはできるようになりました。そういう意味では、親父にも感謝です」。
TVは、NHK。ついでにいうと新聞は日経。だから、中学に上がる頃にはBSやPLを読むことができたそう。「だからといって、学校の成績がいいってわけではなかったです。テストはそう悪くなかったのですが、教師からみればやっかいな奴だったので/笑」。
「気に入らない奴は、殴った」と和田氏。高校に進むと、拍車がかかり、3年になって「退学をさせない」と謳う学校だったにもかかわらず、退学寸前まで追いやられた。真面目な父親に対する反抗もあったんでしょうか?と聞いてみた。「どうでしょう。子どもの頃って悪い奴に憧れるじゃないですか。私が16歳の頃は、ヒップホップやレゲエが流行っていたんです。『ボブ・マーリー(ジャマイカのレゲエミュージシャン)』の映像を観て、彼に憧れます。私がちょっと危ない道にそれたのも、そういう憧れの延長だったと思うんですが、たしかに、やりすぎました/笑」。
高校時代、和田氏の餌食になったのは、10人くらいに及んだ。素行と態度をみかねた当時の担任が、3年生の2月になって「大学に進学しろ」と迫った。大学進学か、退学かの二者択一だったかもしれない。
「そうですね。あの、先生の一言がなかったら、ちょっとヤバイ社会の方向に進んでいたかもしれません」。いまでも、その先生には感謝している。

新人が、1割以上の値上げを勝ち取る?

大学を卒業し、和田氏が入社したのは、米久株式会社という静岡県沼津市に本社がある一部上場の畜産メーカー(2016年に伊藤ハムと経営統合し、現在は「伊藤ハム米久ホールディングス」となっている)。むろん、和田氏が入社した頃は、ずいぶん前の話。この「米久」で、和田氏は1年目から頭角を現す。
「ふつう1年間はアシスタント的な仕事で、直接営業はさせてもらえないんですが、アシスタントっていうのが、どうもつまらなかった。だから、支店長にお願いして私だけ2ヵ月目から営業に出してもらいました。ええ、ぜんぜん、だめです。だって専門用語一つ知らないんです。それで、注文されたのと違う商品を納品したりして『ふざけんな、てめぇ』みたいな/笑」。それでもめげない?「そうですね。当時から独立しようと思っていましたから。やるからには、これくらいでめげていちゃだめで、少なくとも、『いちばん』を取るまで辞められないと思っていたんです。でも、なかなか売上数字は上がらないんです。それで」。
子どもの頃から、「ない」ものはつくってきた。「ある」ものは、それをもとに工夫してきた。実は、学生時代も、誉められたものではないが、いままでのしくみをアレンジし、独自のビジネスを行っていたことがある。その発想が、ここでも活きた。
「売上はどうしようもない。でも、利益だったら勝負できるんじゃないかなと。それで、当時、1キロ800円だったウインナーを100円、値上げしてみたんです」。
いきなり1割以上の値上げだ。乱暴すぎなかったのだろうか。「でもね、先輩に『何で800円ですか』って聞いても、みんな、『そういうもんだから』ってしか答えない。基準がないなら言ったもん勝ちかもしれないと、あるお得意さんに『900円になりました』って言ってみたら、『いいよ』って」。
なんのことはない。いままでが安すぎただけだった。何も知らない新人だからの、快挙である。これ以来、ウインナーの値段はキロ900円がスタンダードになる。
利益に目を向けた和田氏の快進撃はつづく。1年目から担当した顧客からの利益を2倍にする。翌年には3倍に。3年目には「大口顧客」を担当させて貰えるようになった。

めざすは、いちばん。

営業を4年やって、本部に2年。営業時代は、当初、目標とした「いちばん」を手放さなかった。「営業だけで1500人くらいいましたから、全指標でっていうのは無理でしたが、とにかく何かで「いちばん」になろうと、がむしゃらに頑張りました」。
米久時代を振り返って、「とっても勉強になった6年間だった」と和田氏はいう。長時間労働を改善する為に入社半年くらいで、当時の支店長を始めとする支店幹部に売上、利益を下げずに改善する提案を行ったそうだ。「本来ならば相手にされない、社会人に成り立てのド新人とも言うべき私の提案にも関わらず、当時の支店長をはじめとする幹部の方々は話を聞いてくださり、採用していただきました。とはいえ、それらは長年続いてきた慣習でしたので、変わるまでは2年かかりましたが/笑。ただ、そういった提案を受けてくださる風土、何より幹部のかたがたにすごく感謝していますし、それらが現在の弊社の風土のひとつでも活かされています」(生産性を高めて、短時間で最大の利益を追求する風土)。
また、仕入れと販路のつくりかた。いうならば「入口と出口の戦略を学んだ」という。
本部に行ってからは鶏肉を担当し、仕入れはもちろん、販売企画なども担当するようになる。「もっとも」と和田氏。「いちばん勉強になったのは、『へこたれない精神』だったかもしれません。何しろ、年末ともなれば激務です。休みも、ちょっとしかない。現在は労務環境が劇的に改善されているので、今じゃ考えられないですけど/笑。でも、私はあのおかげで、仕事の本質まで知った気がしています。だから、感謝です」。
5年目から本部に異動させられたくらいだから、和田氏に対する評価は高かったのだろう。しかし、和田氏は、そもそも会社という枠にはおさまらないタイプ。本人曰くは、「組織に属するのが、苦手なタイプだ」そうだ。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

0 件のコメント:

コメントを投稿