本文より~
部屋に残された、6本の哺乳瓶。
首から下げた紙のボードには、母の字で行き先が書いてあった。幼稚園から小学校の低学年まで、長期の休みとなれば、初日から親戚宅に行くのがルールのようになっていた。「休みの初日に新幹線に乗せられて、登校日の前日に帰宅。それが定番」と、今回ご登場いただいた有限会社プロスパーの代表取締役 伴 克亘氏。
長期休暇になれば、京都駅のホームで1人、伴少年はボードを下げて新幹線を待っていた。それを「ヘンだ」と思ったことはない。「こどものことですからね。親戚の家に行くのも楽しみだし。なかには『ぼっちゃん1人でどこ行くの?』って言いながら、お菓子とかをくれたりする人もいたし…」。
親戚宅に向かう理由は、ご両親が仕事で忙しかったから。だが伴氏は「貧乏だったからだ」と表現する。「こどもの頃はぜんぜんそんな風には思っていなかったんです。でも、私の姉は、養女にだされていますし、住まいだって6畳一間。トイレ、風呂なし、です」。
伴氏は、生まれた時から「かぎっ子」だったらしい。両親は、6畳一間に伴氏と哺乳瓶6本を残して仕事にでたそうだ。おむつは、朝から母親が帰宅するまで、おなじもの。むずかって泣いても、だれも手を差しのべてはくれない。
「たまたま、哺乳瓶に気づいて飲んでいたんでしょうね。ごっつい生命力ですよね。我ながら/笑」。
むろん、哺乳瓶を一人で抱えて飲んだ記憶はない。しかし、「自立」という意味では、象徴的な話である。
「うちの両親は、親戚がやっている着物の染工場ではたらいていました。小学校の高学年になる頃には、私も手伝っていました。私の仕事は、親戚や工場のスタッフみんなで食べる晩御飯の用意です」。学校が終わると買い物籠を抱えて、商店街に向かう。肉に、魚に、野菜に。つまりは、買い出し部隊。
たいへんですね、というと、「ぜんぜん」と伴氏。馴染みになった肉屋のおばさんが、コロッケをくれたりしたそう。だから、せっせと買い物に向かった。もっとも近所の悪ガキにみつかり、せっかく貰ったコロッケを取り上げられたりもしたそうだが。
ところで、伴氏が購入した食材がテーブルにならぶと、とたんに争奪戦がはじまったそうだ。「はよ食べな、なくなるでしょ。16人くらいおるからね。そら、戦争ですわ」と伴氏は笑いながら、当時を思い起こした。
長期休暇になれば、京都駅のホームで1人、伴少年はボードを下げて新幹線を待っていた。それを「ヘンだ」と思ったことはない。「こどものことですからね。親戚の家に行くのも楽しみだし。なかには『ぼっちゃん1人でどこ行くの?』って言いながら、お菓子とかをくれたりする人もいたし…」。
親戚宅に向かう理由は、ご両親が仕事で忙しかったから。だが伴氏は「貧乏だったからだ」と表現する。「こどもの頃はぜんぜんそんな風には思っていなかったんです。でも、私の姉は、養女にだされていますし、住まいだって6畳一間。トイレ、風呂なし、です」。
伴氏は、生まれた時から「かぎっ子」だったらしい。両親は、6畳一間に伴氏と哺乳瓶6本を残して仕事にでたそうだ。おむつは、朝から母親が帰宅するまで、おなじもの。むずかって泣いても、だれも手を差しのべてはくれない。
「たまたま、哺乳瓶に気づいて飲んでいたんでしょうね。ごっつい生命力ですよね。我ながら/笑」。
むろん、哺乳瓶を一人で抱えて飲んだ記憶はない。しかし、「自立」という意味では、象徴的な話である。
「うちの両親は、親戚がやっている着物の染工場ではたらいていました。小学校の高学年になる頃には、私も手伝っていました。私の仕事は、親戚や工場のスタッフみんなで食べる晩御飯の用意です」。学校が終わると買い物籠を抱えて、商店街に向かう。肉に、魚に、野菜に。つまりは、買い出し部隊。
たいへんですね、というと、「ぜんぜん」と伴氏。馴染みになった肉屋のおばさんが、コロッケをくれたりしたそう。だから、せっせと買い物に向かった。もっとも近所の悪ガキにみつかり、せっかく貰ったコロッケを取り上げられたりもしたそうだが。
ところで、伴氏が購入した食材がテーブルにならぶと、とたんに争奪戦がはじまったそうだ。「はよ食べな、なくなるでしょ。16人くらいおるからね。そら、戦争ですわ」と伴氏は笑いながら、当時を思い起こした。
昭和の真ん中、その時代。
「貧乏だ」と言いながら、中学から私学に通っている。「そうですね。相当、無理したんとちゃいますか? 学校も大阪でしたし、私学に行くために、塾にも行かせてくれはりましたから」。
私学に進学はしたが、お金ができたわけではない。
「学校には食堂ってあるでしょ。うちの学校の食堂の食券は10円の綴りやったんです。で、端数がでるでしょ。それを貰いまくっとったんです。食堂のおばさんには『今日はきれいやなぁ』なんておべんちゃらを言うたりしてね。そういうたら、カレーを多目によそってくれはるんです/笑」。
食事にかかわる話は多い。
「ともだちの家に行くでしょ。そしたら晩御飯とか出してくれはるんです。その晩御飯が、もうぼくにしたら、レストランのディナーなんですよ。で、『むちゃむちゃうまいやんけ!』なんて言うてたら、お母さんが『毎日、食べにおいで』って。そりゃ、ありがたい話です」。
「そうですね。子どもの頃から誰彼なしに、可愛がって貰ったように思います。そういう才能はあったんだろうと思います。こいつちょっとかわいがったろか、みたいなね/笑」。
ともだちの弁当を分けてもらっていたら、翌日から2人分の弁当が用意されていたこともあったそうだ。昭和の真ん中は、そういう時代でもあったのだろう。
私学に進学はしたが、お金ができたわけではない。
「学校には食堂ってあるでしょ。うちの学校の食堂の食券は10円の綴りやったんです。で、端数がでるでしょ。それを貰いまくっとったんです。食堂のおばさんには『今日はきれいやなぁ』なんておべんちゃらを言うたりしてね。そういうたら、カレーを多目によそってくれはるんです/笑」。
食事にかかわる話は多い。
「ともだちの家に行くでしょ。そしたら晩御飯とか出してくれはるんです。その晩御飯が、もうぼくにしたら、レストランのディナーなんですよ。で、『むちゃむちゃうまいやんけ!』なんて言うてたら、お母さんが『毎日、食べにおいで』って。そりゃ、ありがたい話です」。
「そうですね。子どもの頃から誰彼なしに、可愛がって貰ったように思います。そういう才能はあったんだろうと思います。こいつちょっとかわいがったろか、みたいなね/笑」。
ともだちの弁当を分けてもらっていたら、翌日から2人分の弁当が用意されていたこともあったそうだ。昭和の真ん中は、そういう時代でもあったのだろう。
お客様は神さんです。
中学では卓球、高校ではアイスホッケー。「アイスホッケーなんて、大阪、ぜんぶ入れても3校しかありません。だから大阪大会では、絶対3位以内に入れるんです。うちは、弱かったから3位ばっかりでしたけど/笑」。伴氏はマネージャーだったらしい。
この頃は、「法律にも関心があった」と伴氏はいう。実際、大学も法学部に進んでいる。「そうなんです。法学部に進むのはええんですが、大学に進学して、初めてぼくは、うちが貧乏やと気づくんです。それで、迷惑はかけられへんから、学費も、生活費も、ぜんぶバイトで捻出し、仕送りまでしていました。だから、学生時代はバイト漬けなんです」。
当時の話を聞くと、バイトというイメージでは収まりきらない仕事ぶりである。「小さい頃から、勝手に料理をしていたんです。お袋が遅いとお腹が減るから。その料理を両親が食べて『旨い』ってホメてくれたこともあって。そういう原体験があったからでしょう。バイトは迷わず、飲食。当時、流行りだした『カラオケパブ』でバイトをはじめます。ぼくは、接客担当なんですが、そうですね、いちばんええ時には、月に40万円くらいもろてました」。
40万円。休みなくはたらいたのだろうと思っていたら、「自由出勤で、その額」という。なんでも、学生にもかかわらず、4店舗のマネージャーを務めていたそうだ。
「ぼく自身が楽しかったんやと思うんですわ。お客様ともいっしょに話もしますから、いろいろ教えてもらえる。啓発本っていう本があるのも初めて知りました。それに、話が盛り上がってきたらビールをぽんと開けて『のみぃや』でしょ。お金払ってもろて、いろいろ教えてもろて。なかには、休みの日に飲みに連れてくりゃはるお客さんもいたはりました。お客さんは、ほんま神さんです」。
「そうそう、思い出した」と言って、次のような話もしてくれた。「あいつにまけたくないとか、思うでしょ。でも、それって、勝ったら終わりやないですか。だから、『そんな仕事の仕方はあかん』って、お客さんに教えてもろたことがあって、ずいぶん長い間、ぼくの信念みたいになっていました」。
「なんのためにするか、ですよね。『お客様のためなら、一生やろ』って。そうですよね。たしかに、一生、終わることがない。貧乏もね。イヤヤ、イヤヤ言うてても、切りがあれへん。頑張って、貧乏やなくなっても、それで終わりでしょ。これ、真理ちゃいますか」。
この頃は、「法律にも関心があった」と伴氏はいう。実際、大学も法学部に進んでいる。「そうなんです。法学部に進むのはええんですが、大学に進学して、初めてぼくは、うちが貧乏やと気づくんです。それで、迷惑はかけられへんから、学費も、生活費も、ぜんぶバイトで捻出し、仕送りまでしていました。だから、学生時代はバイト漬けなんです」。
当時の話を聞くと、バイトというイメージでは収まりきらない仕事ぶりである。「小さい頃から、勝手に料理をしていたんです。お袋が遅いとお腹が減るから。その料理を両親が食べて『旨い』ってホメてくれたこともあって。そういう原体験があったからでしょう。バイトは迷わず、飲食。当時、流行りだした『カラオケパブ』でバイトをはじめます。ぼくは、接客担当なんですが、そうですね、いちばんええ時には、月に40万円くらいもろてました」。
40万円。休みなくはたらいたのだろうと思っていたら、「自由出勤で、その額」という。なんでも、学生にもかかわらず、4店舗のマネージャーを務めていたそうだ。
「ぼく自身が楽しかったんやと思うんですわ。お客様ともいっしょに話もしますから、いろいろ教えてもらえる。啓発本っていう本があるのも初めて知りました。それに、話が盛り上がってきたらビールをぽんと開けて『のみぃや』でしょ。お金払ってもろて、いろいろ教えてもろて。なかには、休みの日に飲みに連れてくりゃはるお客さんもいたはりました。お客さんは、ほんま神さんです」。
「そうそう、思い出した」と言って、次のような話もしてくれた。「あいつにまけたくないとか、思うでしょ。でも、それって、勝ったら終わりやないですか。だから、『そんな仕事の仕方はあかん』って、お客さんに教えてもろたことがあって、ずいぶん長い間、ぼくの信念みたいになっていました」。
「なんのためにするか、ですよね。『お客様のためなら、一生やろ』って。そうですよね。たしかに、一生、終わることがない。貧乏もね。イヤヤ、イヤヤ言うてても、切りがあれへん。頑張って、貧乏やなくなっても、それで終わりでしょ。これ、真理ちゃいますか」。
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