2018年7月31日火曜日

東湖株式会社 代表取締役 徐 耀華(ジョ ヨウカ)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”東湖株式会社 代表取締役 徐 耀華(ジョ ヨウカ)氏登場。
本文より~

16歳の大学生。

湖北省は、揚子江の中流に位置する。かつては、楚の国でもあった。今回、ご登場いただく東湖株式会社の代表取締役、徐氏が生まれたのは、この湖北省の省都である武漢市。生年月日は1962年3月27日。徐氏は、4人姉弟の長男。姉2人、妹1人。長女は、やがて医師になり、国立病院の院長になられた。
長男の徐氏も、負けてはいない。「勉強に興味を持ったのは、小学生の後半」と徐氏。中学に進むと、いっそう勉強に注力し、なんと高校1年で、大学の受験資格を獲得。中国の重点大学の一つである「武漢大学」に進んでいる。いわゆる飛び級という奴だ。
「高校1年の時に、コンテストがあって上位3位に入りました。3位までに入れば、大学の受験資格が獲得できるんです。えぇ、それで私はおなじ武漢市にある武漢大学に進みます」。
高校1年、日本ならまだ15歳。その15歳の少年がいきなり、大学のキャンパスに現れる。何を専攻することにしたのだろう。「最初は、父親がエンジニアだったこともあって、ドイツ語を勉強したかったんですが、大学の方に日本語を勧められて、『日本の近代文学史』を専攻しました」。
なんでも、卒論は「芥川龍之介の小説の美学」だそう。大学院を卒業しても、まだ23歳。「当時の中国の大学は、授業料は全部国が負担していた。ただ、大学院を卒業すれば、進む道も自由に選択できます。私には南に進んで、今、IT都市としても有名な深センに行くか、北に進んで政府機関に入るかの2つの選択肢があって、それで、北に向かいます。そう、北京です」。

日本へ。23歳の外交官。

「私が23歳の時、1986年です。中国は様々な改革、開放が進んで、政府機関も人材不足の時代でした。私は文化部、日本でいう文部省に入省し、半年後に日本に派遣されました」。外交官の3等書記官となった徐氏は、元麻布の中国大使館に勤務するようになる。
「大学時代は日本の近代文学を専攻していましたが、日本に来て仕事をするとは思っていませんでした。当時の中国が今とまったく異なっているように、当時の日本は、バブル経済の真っ最中。今も先進国の一つですが、ぜんぜん異なる国のようでした。何しろ、世界を買ってしまうんじゃないかって言われていた時代です」。
文化も、テクノロジーもまったく異なる2つの国。東京で、見上げる摩天楼には、両国の経済力の差が映し出されていたのではないだろうか。

雲南料理。

「私が、外交官を辞め、いったん中国にもどり、民間で、中国と日本の橋渡しのような仕事ができないかと、90年に日本に再び来て、貿易やツアーの仕事を始めました。」徐氏、29歳の時である。「政治を離れて何ができるかが、日本での私のチャレンジです。起業した会社で、文化交流企画展や雲南省の有機食材を日本に輸入していたんです。それで、当時、珍しかった『雲南省の料理』を日本に紹介したいと思って、はじめたのが『御膳房』です」。
「雲南省」をネットで検索してみた。雲南省は、南西部にあり、ミャンマーなどにも隣接していることがわかった。漢族が60%くらいで、それ以外に、ペー族、タイ族、イ族、ナシ族などの少数民族が40%くらいを占めていて、これが料理にも影響しているようだ。「雲南料理は、日本で有名な四川料理系の漢族の料理と、ペー族などの少数民族料理からなっています。酸味、甘み、辛みが、混然一体となっている。食材では茸類が有名です」と徐氏。
実際に、雲南料理とはどんなものか、徐氏がオープンした「御膳房」のページをググった。
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2018年7月21日土曜日

青山学院大学にてサーフキャップの水口憲治社長が講義されました。

6月28日、青山学院大学・総合文化政策学部・堀内ゼミでサーフキャップの水口憲治社長がゼミ講義されました。

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「下町バルながおか屋」ラムチョップ100万本達成予想日募集キャンペーン。 

「下町バルながおか屋」を運営されている長岡商事様が、ラムチョップ100万本達成間近となり、ラムチョップ100万本達成予想日募集キャンペーンを実施されました。

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株式会社野乃鳥 代表取締役 野網厚詞氏登場.

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社野乃鳥 代表取締役 野網厚詞氏登場。
本文より~

大学で選択した「行動科学」。

行動科学という学問があるらしい。調べてみると「人間の行動の法則性を科学的に解明しようとする学問」だそう。今回ご登場いただいた野網氏は、大学時代、これを学んでいる。「大阪工業大学に進み、行動科学を勉強しました。もっとも、勉強したのは興味のあるこれだけで、あとはバイト漬けが正直なところです/笑」。
野網氏が、とくに興味をもったのは、モチベーションサーベイ。仕事に対するモチベーションだ。理由がある。「当時から25歳で起業しようと思っていました。やるなら事業化したいとも。だから、私はもちろんスタッフをマネジメントしていくうえで、モチベーションの正体を知るのは大事なことだったんです」。
当時は、デール・カーネギーの「人を動かす」「道が開ける」などが愛読されていた。野網氏も、もちろん読んでいる。「私自身は、このような先人たちの理論を実証してみるというもう一つのテーマを掲げていました。いわば、私の人生を通して行動科学という学問を実証してみようという試みです」。
自身のモチベーションは、25歳での起業。バイト先で芽生えたモチベーションだ。そんな話をまずしてみる。

3人兄弟の長男、バレー部ではキャプテンを務める。

野網氏が生まれたのは、1973年。出身は、大阪市阿倍野区。3人兄弟の長男である。父親の勧めで小学1年生から少林寺拳法を習い、中学2年生までつづけている。一方、中学からバレーボールをはじめ、キャプテンに。高校に進学したあともバレーはつづけ、近畿大会でベスト16まで進んでいる。
「寄せ集めのような部でしたが、なんとかベスト16まで進めたのは、ひそかな勲章です」。
家庭でも3人兄弟の長男。弟2人はもちろんだが、野網氏の背中を追いかけた人も多かったのではないだろうか。ちなみに、1つ下の弟は飲食店を起業し、6つ離れた弟はいま専務として、野網氏の会社ではたらいている。会社をいっしょに育てた人物は、中学時代の同級生だ。
「高校時代はバレー漬け。おかげで、入学時、300人のなかで8番だった成績が、一時、260番に急降下です。なんとか80番まで修正して、大学の推薦を手に入れました。そして、大阪工業大学に進んだわけです」。

大吉1号店、勤務。起業を志す。

「あの頃、親父の会社がなかなかうまく回っていなかったんです。設備関連の会社です。独立して、いち早くCADなども導入したんですが、うまくいきません。そのあたりのことも長男の私には語っていました。ええ、私も、時々、駆り出されました/笑」。
野網氏は「職人気質」という言葉を遣っている。職人仕事がCADによるコンピュータの仕事に置き換わる時期でもあったのだろう。CADを採り入れるなど先進的な父親と、職人気質のスタッフの間に溝が生まれても不思議はない。事業がうまく進まなかった一因かもしれない。
「大学時代は、うちの仕事以外に、いろんなバイトを経験しました。車も、服も買いたかったですしね。その時、そう大学2年生の時です。『やきとりの大吉』でアルバイトをはじめるんです。結果的には、大吉でのバイトが、私に起業というモチベーションを与えてくれました」。
なんでも、野網氏がアルバイトをはじめた大吉は「大吉1号店」だそう。それも、一つのモチベーションリソースとなっている。

25歳で独立。つくった工程表。

「やきとりの大吉」は、ご存じの方も多いと思うが、カリスマ経営者、辻成晃氏によって生み出された「独立支援システム」を軸とした事業体だ。正式社名は、ダイキチシステム株式会社。創業当時から直営店を1店ももたず、FC店のみで巨大な店舗網をつくりあげる。「大吉」を運営する独立心旺盛な人たちにも影響されたのだろう。飲食というビジネスにハマるとともに「25歳で起業」という目標をもつに至る。野網氏のそれまでを知れば、これは偶然ではなく、ある意味、必然だった。
「どうせなら、若いうちがいいだろうと。失敗するにしてもそのほうがリカバーできますしね/笑」。もちろん、志はハンパなものではなかった。当時から「やきとりで」とは決めていたが、料理を学ぶため、知り合いが経営する小料理屋で修業もしている。
「理系脳なんでしょうね。ゴールを設け、そこに進むためにどうすればいいか、というのをロジカルに考えます。かりに大吉で独立するにしても、料理の基礎は学んでおかないといけないと思っていたんです」。
大学時代に学んだ、行動科学。その科学を実証する手段も、次第に明確になっていく。
「私は23歳で結婚するんですが、大学時代から、独立を考えていたんで、お金もためていました。そして、25歳の時ですね。小さなお店ですが、池田に1号店をオープンするんです」。
・・・続き
株式会社野乃鳥 代表取締役 野網厚詞氏
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2018年7月11日水曜日

7月10日、千葉商科大学にてドリームリンク村上社長の講義でした。

7月10日、千葉商科大学・池田ゼミにてドリームリンクの村上社長の講義でした。
「もっと飲食業界に興味を持っていただこう」という思いでスタートし今年で7年目です。
私は参加できませんでしたが、次につながる大変いい内容だったようです。

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2018年7月10日火曜日

蒙古タンメン中本の株式会社誠フードサービス 代表取締役 白根 誠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”蒙古タンメン中本の株式会社誠フードサービス 代表取締役 白根 誠氏登場。
本文より~

「中国料理 中本」、閉店は、終わりの始まり。

「中本」のなかでも、「冷し味噌ラーメン」は群を抜いている。極度の辛さのためだろう。メニューには「初めての方はご注意ください」と警告文が添えられている。それだけ辛い。
「オレね、辛党じゃないんだけど、こいつにはハマっちゃった。ヤミツキです。あの頃の、オレの食生活は、『中本』と、それ以外が1対1。つまり、『中本のラーメン』で暮らしているようなもんだった。朝、昼、晩って日もあった」。
今回、ご登場いただいた、「中本」二代目店主、白根氏が「あの頃」というのは、長い期間を指す。「そうだね。20歳から39歳までだから20年くらい」と笑う。それだけ、通いつづけた。
もっとも、最初から2代目に手を上げようと思っていたわけではない。そりゃ、つくるより、たべるほうが楽だ。
「でもね、あれはオレが39歳の1998年だね。『中本』が12月に閉店するっていう噂が流れてさ。『え、どうすんだよ』って。何しろ、オレの半分は『中本のラーメン』でできているようなもんでしょ」。
真相を確かめるため、当時の店主の中本正氏に「おじさん、店、閉めるってほんとですか?」と声をかけた。かけたが、曖昧な返事しか返ってこない。
「立場はちがうけど、20年来の付き合いだ。『そりゃねぇだろう』って思った。中本さんは、店閉めたら、それで済むんだろうけど、オレたちはどうなんだ。結局、噂はほんとうで、1998年の12月に『中国料理 中本』はいったん幕を閉じます。オレたち中本フリークは、もうジプシーになるしかない/笑」。

激辛、激旨ラーメン。最初の印象は、「なんだこれ」。

白根氏は1960年、埼玉の熊谷に生まれている。日本でいちばんの猛暑を記録した町だ。小さい頃から野球が大好きで、長嶋選手に憧れる。いまでも「3」は、白根氏のキーナンバーだ。小・中・高と進み、中学から空手をはじめ、高校ではバイクにハマった。高校を卒業してからは、いろんな仕事に就いた。「中本」に出会ったのは、前述通り、20歳の頃で、最初は友人に連れられてのれんを潜ったそう。
「最初はなんじゃこりゃ、って感じ、旨いなんてぜんぜん思わなかった。でも、それがすべての始まりだから、人生って不思議なもんだ」。
「中国料理 中本」についても少し触れておく。「中国料理 中本」は、1968年9月、板橋区にオープンする。創業者は故中本正氏。オープン当初は、当時、どこにでもある中華料理店だったそう。ところが、中本氏自身が辛いモノが好きで、「辛い」メニューが「中国料理 中本」の代名詞となる。代表作は、一味唐辛子を大量に加えた激辛スープと太い麺のラーメン。白根氏が、好物だった「冷し味噌ラーメン」は、なかでもランキング1位の辛さだった。
「毎日、行列で、中本さんもたいへんだったろうけど、食べるこっちもたいへんだった。おくさんと中本さんだけで運営されていたんだけど、昼の2時でクローズ。でも、行列がつづいているから、最後尾の客がラーメンを食べて店をでるのは4時くらいだったかな。それだけ、長い行列でした」。そうまでして食べたい「ラーメン」。白根氏以外にも大量のファンがいたことがわかる。どれだけ惜しまれて閉店したかも、想像できるというものだ。

「そりゃだめだな」。冷徹な一言。

「で、閉店してしまったわけでしょ。でも、『中本』のラーメンはやっぱり『中本』でしか食べられない。それで3ヵ月くらい経った頃、もうがまんできなくなってさ。電話をかけたんです」。
幸い、電話番号は以前のままだった。
「20年も通いつづけていたでしょ。中本さんも、声でオレってわかったみたい。それで、『少しお話があるんですが』って切り出したわけ。頑固な親父さんなのに、その時は、向こうから出向いてくださいました。そして、うちの近くの喫茶店で再会したんです。目的ですか? 『中本』をオレにやらせて欲しかったんです」。
何と大胆な発想だろう。それまでの白根氏に飲食の経験はない。まして、料理の経験もない。
話は2時間に及んだそうだ。白根氏は「中本」に対する熱い思いを語る。中本氏が「うんうん」「そうだね」と頷くたびにテンションが上がった。「これは、いけるんじゃないかなって。でも、最後の最後に、『そりゃだめだな』って」。
茫然とした。脈があると思いかけていただけに、落胆もした。「だめだな」の一言は、有無を言わさないほど、冷徹な響きを含んでいた。
「あとで聞いた話だけど、当時、オレみたいな奴がたくさんいたそうなんだ。みんなに『ノー』と答えている。たぶん、大手の企業さんからも声がかかったはず。でも、頑固もんだから、お金を積まれても『ノーは、ノーだ』っていったんでしょうね。昔の職人さんだから、大企業だって敵わないわな/笑」。
「それから少したって、今度は無性に『冷し味噌ラーメン』を食べたくなるわけです。このメニューは、春分から秋分までの限定メニューで、ちょうど春分の頃だったから、思い出しちゃったんだろうね。それで、もう一度、電話番号をプッシュしたんです」。
丁寧に、丁寧に、話した。ただ、今度は断られないだろうと思っていた。「だって、1杯、よぶんにつくるだけだから」。
話の流れはこうだ。中本氏も「冷し味噌ラーメン」が好き→今もつくって食べているはず→その時、よぶんに1杯つくってもらって、それをいただけないか→むろん、これならOKがでるだろう→もちろん、お金はいくらでもだす。しかし、返答は「そりゃだめだねぇ」、前回とおなじ結末。
「あの時は、正直カチンときたね。ケチって/笑。でも、あとで聞くと、これもオレみたいな奴がたくさんいたそうで、1人だけ特別扱いはできないってことだったらしい。でも、こっちは、電話を叩き切りたくなるくらい腹が立っている。それでも、あの時は、ぐっと受話器を握りしめて、『おじさん、お酒は好きですか?』って切り出したんだ」。

「半端ないって」社長取材の数。

7月31日の更新で650連載となる“飲食の戦士たち”ですが、
新人営業マン2人が頑張ってくれ、
なんと社長取材数がこの2ヶ月で50社ほど入ってます。
ほんとこれこそ、「半端ないって」。
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株式会社ブランニュー 代表取締役 織野敏一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ブランニュー 代表取締役 織野敏一氏登場。
本文より~

国民食で勝負。

日本でもおなじみのカーネル・サンダース氏がケンタッキー・フライド・チキンを創業したのは65歳の時だそうだ。今回、ご登場いただいた織野氏は、カーネル氏より10歳若い55歳で「鶏唐揚専賣店」を創業した。
「おしながき」をご紹介すると、定番のしょうゆ、塩、にんにく入りのスパイシー、カレー、チーズ、甘だれ…、すべて100グラム、210円。お弁当もあり、こちらは税別で500円。毎日でも足が向く種類の数と値段だ。
ある調査によれば、「鶏の唐揚げ」は、人気ナンバー1の定番おかず。スーパーに行っても数十種類の「唐揚げ粉」が置いてある。それだけ、人気が高いということだ。
織野氏も「唐揚げは国民食でしょ。だから、勝負できると思ったんです」と語っている。
とはいえ、競争相手は少なくない。織野氏の経営手腕が問われる点だ。
では、その話に移る前に、いつも通り織野氏の足跡を追いかけてみよう。

テニス、スキー、飲み会、バイト、時々、勉強。

織野氏が生まれたのは1960年2月。品川で生まれ、横浜で育っている。2人兄弟の長男。
少年の織野氏は、当時は誰もがそうだったように野球が大好きだった。特定の球団はなく、とにかく強いチームが好きだったそうである。中学に進んでからはテニスを始め、高校時代には関東大会にも出場している。学業のほうも優秀で、高校は県内でもトップクラスの進学校に進んでいる。ところが、学業のほうは、高校入学後、徐々に順位を落としていったらしい。
「進学校ですから、ランク分けされるんです。AからEまで。このすべてにランクされた生徒はそういないんですが、私はAからEまで、すべて経験しました。学年トップクラスから、その逆まで。高校に進学してから、ぜんぜん勉強しなかったものですから/笑」。
高校時代はとにかくテニスと遊びに没頭した。学業はそっちのけ。
「大学は日本大学です。専攻は経済。こちらでも勉強より、テニスやスキーに飲み会やバイトっていう生活です。この時のバイトがきっかけで、大学卒業後、『ウエラジャパン』に就職します」。
どういうことだろう。
「バイト先の貸衣装店の社長が紹介してくれたんです。『君にピッタリのいい会社がある』と」。
織野氏が就職したのは、氏が22歳の時だから、1982年。「ウエラジャパン」が設立したのが、1972年だから設立から10年経過している。(ちなみに、2010年P&Gジャパンに統合され、現在、コンシューマー向けのウエラ製品は、コティ・プレステージ・ジャパンから発売されているそうだ)。
ともかく、バイト先の社長が、織野氏を紹介したのは、当然、織野氏を見込み、織野氏の性格も知ってのことだろう。
外資というのも、織野氏にとっては幸いしたのではないか。
こののち、織野氏はヘッドハンティングなどで転職を繰り返すが、当時の日本流の「はたらきかた」を知る者からすれば、枠にはまらない生き方自体が新しい。
ともかく、織野氏は、この「ウエラジャパン」で、織野氏はめざましい活躍をつづける。

打ち立てた金字塔。

入社しておよそ10年間、「社内の表彰を総なめにした」と織野氏は語る。入社、以来8年、つまり96ヵ月、連続で目標を達成しつづけたそうである。唯一、達成しなかったのは、入社1ヵ月目のみ。いまでも、そうそう破られることのない金字塔に違いない。
その活躍が、スカウトの目にとまる。
「ヘッドハンティングされて、ペットフードのメーカーに転職しました。そちらでも目標は常にクリア。1年後には東京支店の支店長に抜擢されました」。
独立採算制だったそうである。
「だから、そちらで経営全般を学ぶことができました。とくに流通や物流を学んだことが、そのあとの人生に役立ちます」。
やがて、二度目の転機を迎える。「また、ヘッドハンティングです/笑。今度は、美容室のチェーン店の本部です。そちらで110店舗の統括部長になります」。入社3年で31店舗のFC店をオープンし、敏腕ぶりを発揮する。
「こちらには8年いて、そこからまた引き抜かれて、大手の美容ディーラーに移ります」。
なんともはや。引っ張りだことは、こういうことを言うのだろう。
・・・続き
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