2018年8月17日金曜日

株式会社一期一会 代表取締役社長 本間儀彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社一期一会 代表取締役社長 本間儀彦氏登場
本文より~

就職先は、父親も勤めた「大手商社」。

本間氏が生まれたのは、1965年。前年には東京オリンピックが開催され新幹線も開通している。日本経済が再起動し、ちから強く歩み始めた頃だ。大手商社に勤めていた本間氏の父は、経済の発展の一翼を最前線で担っておられたことだろう。
「私は東京の世田谷に生まれるのですが、小学6年の時に神戸に移り住みます。ええ、父親の転勤です。一時、父親とともにニーヨークで暮らしたこともあるのですが、半年ほどで母と我々、子ども達は帰国しました」。
本間氏は、小学3年からリトルリーグに入団し、野球を始めている。荒木大輔と同い年。もっとも向こうは雲の上の存在である。神戸に引っ越ししてからは、中学でもシニアリーグに入るが、2年の時に退団。中学から私立大学の付属中学に進み、大学までストレートに進学している。ちなみに、私立に進んだ理由は、当時、公立高校はすべて坊主頭だったから。小学6年生にとっては、ヘアスタイルが一大事だったのだろう。
中・高一貫。高校時代には、大学生となった先輩の車に乗り、波乗りやスキーに明け暮れたそうだ。そのまま、大学に進学し、父親も勤めた大手商社に就職する。その一方、父親は本間氏が高校3年の時に独立し、大手商社から離れておられるから、同時に在籍とはいかなかったようだ。

大手商社を退職し、カフェでアルバイトを開始。

「今思えば、アホな理由なんですが」と本間氏。「合コンするとするでしょ。大手商社っていえば、かっこういいじゃないですか」と、就職時の話をして笑う。
中学進学では、「ヘアスタイル」、就職では「合コン」が選択のキーワードとなっている。他人事であれば、何とも馬鹿らしく映るが、実は、時代の先端で仕事をする人には、その手の人が多い。
「そういう狙いもあって、大手商社に入社するのですが、3年目で、海外赴任することになって…。ぜんぜん合コンなんてできなかった。いっしょに酒を飲むのは、商売相手ばかりです/笑」。
毎晩、円卓を囲んで飲む。人と人のつながりが商社にとっては大きな価値なのだろう。美酒と美食を媒介として、話が進み、心がつながる。人を見抜くことに長けた商売相手に、本間氏は試されていったのだろう。たぶん、商売の胆力も鍛えられたはずだ。
「スポーツ・ファッションをメインにする子会社に異動したのは、このままだと何十年も中国にいることになると思ったからです。ええ、それで子会社です。しかし、転籍といっても会社を辞めることが前提でした」。
父親が会社を興していたのも、大胆になれた理由だという。精鋭がそろった父親の会社は、世界中の国にネットワークを張り巡らせていたらしい。
「もっとも、父の会社に就職するつもりはありませんでした。いざとなったら、くらいです」。
実際、本間氏は、退職後、先輩が経営するカフェでアルバイトを始めている。

アパレル×Eコマース。新たな事業を切り開く。

そのカフェにふらりと1人のオーストラリア人がやってきた。大手商社時代の知人である。カフェではたらく本間氏をみて、ゲラゲラ笑ったそう。似合っていなかったのだろうか。
「そのオーストラリア人にスカウトされ、日本法人の立ち上げに参加します。30歳の頃です。当時は、セレクトショップが勃興する頃で、私たちは主にヨーロッパからアパレルや雑貨を輸入し、卸していました。ただ、5年くらいです、つづけたのは。業績は良く、利益も上がっていたんですが解散することになりました」。
「今度は、証券会社の知人に相談され、ある会社の社長になります。ええ、いろんな経験をさせてもらいました。「資金をどう手にするのか」もその一つですし、Eコマースなど、今までとは異なった領域も経験します。ただ、なかなか利益がでなかったのも事実です。同業で、頭一つ抜けたのが『ZOZOTOWN』ですね」。
本間氏の話を聞いて、しくみのすべてを理解できたわけではないが、当時、ファッション・アパレルではSPAが主流となる。昔からの習慣だった委託販売の形式が崩れていった時代でもあったのだろう。
Eコマースは、そのなかで重要な役割を担っていたはずだ。運営会社がディベロッパーとなり、場を提供することでメーカーと消費者がダイレクトにつながる。これによって製造小売業、つまりSAPが成立する。
実は、本間氏は今も残るある百貨店のEコマース事業にも関与している。今考えれば、飲食とはまるで異なる世界で活躍されていたことになるが、本間氏にすれば案外、同じなのかもしれない。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年8月13日月曜日

8月5日、大山の阿夫利神社本社登ってきました。

8月5日、大山の阿夫利神社本社登ってきました。
右足首骨折から約5ヶ月、リハビリ兼ねて登りましたが、暑さも
あり想像以上に険しい山でした。
ども
でも気持ちよかったです。

8月7日発行の日刊ゲンダイに「株式会社シゲキッチン」の間宮茂雄社長の記事出ました。

8月7日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に「株式会社シゲキッチン」の間宮茂雄社長の記事掲載されました。
(日刊ゲンダイより)

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年8月9日木曜日

日刊ゲンダイで好評の「グルメ社長の食い倒れ日記」第3クールは“赤坂璃宮”譚彦彬オーナーシェフでした。

日刊ゲンダイで4月からスタートした好評の連載記事「グルメ社長の食い倒れ日記」の第3クールは広東名菜“赤坂璃宮”譚彦彬オーナーシェフでした。



PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社ビープラウド 代表取締役 大山 淳氏登場。

本文より~

スポーツも、勉学も、よくできる少年、大山。

インド人と日本人のハーフなんだそう。「私がこどもの頃はまだハーフっていうのが珍しくって、イジメに遭ったこともある」と笑う。今回ご登場いただいたのは、「淡路島カレー」で有名な株式会社ビープラウドの代表取締役 大山 淳氏である。
「私は大阪の吹田市で生まれました。育ったのは豊中市です。父親がインド人で、母親が日本人。5つ離れた姉がいます。大山家のはじまりは、父方の祖父が貿易の仕事で来日したのがきっかけです。父親も貿易の仕事をしていましたので、その関係で私もよくアメリカに行っていました」。
もっともそれは、小学6年生までの話。小学6年生の時に父親が亡くなってしまう。「小学生の頃からサッカーをはじめ、中学に上がってからも、サッカーをつづけます。高校は、自宅からそうかからない家チカをキーワードにして選択しました」。「家チカ」。そうはいっても、校名を聞いてわかったのだが、大山氏が進んだのは、関西でも有名な超進学校だった。

アルバイトは、ヨーロッパをめぐるブランドもの、買い付けの旅。

「大学は、『関西大学工学部応用化学学科』に進みました」。なにやらむずかしそうな学科名だ。「進んだのはいいんですが、もっぱらバイトです。工学部ですから、勉強しなくっちゃいけないんですが/笑」。
なんでも、経験したバイト数は、50以上に及ぶそう。なかでも、「ブランド品の買い付けのバイトがいちばん面白かった」と語っている。
話を聞いていると、たしかにわくわくする。
「当時は、今以上にブランドものが高く評価されていて、私の仕事は、そのブランドもののバッグなどの買い付けです」。
およそ2週間、北欧からスタートし、イタリアまで南下。そのなかで、ブランド品を次々、購入していく。「ブランド品は、同じモノを何個も買えないんです。怪しまれるんですね。だから、いろんな方法を考えて」と大山氏。
旅費はもちろん食費もただ。収入はというと「2週間で40万円くらいになった」というからうらやましい。
「ところで、その当時から、起業すると思っていましたか?」。そんな質問を直截にぶつけてみると大山氏は、首を縦に振り、ちから強く答える。「たぶん、父親の背中をみていたからでしょう。それも、大きかったはずです。その一方で、人に使われるサラリーマンにはなりたくなかった。だから、答えは一つです」。
バイトもただ、バイト代確保のためだけではない。目的がある人はつよい。ただ、バイトに精を出しすぎて、卒業まで6年かかっている。

「企業」の二文字にも惹かれ、ベンチャー・リンク入社。

起業という目標を高いレベルで実現するために、就職時に選択したのがコンサルタント会社の「ベンチャー・リンク」。「ベンチャー・リンク」については、改めて言うまでもないが、「サンマルク」や「牛角」などを大企業に育てた会社である。
 「ユニークなビジネスを探し出し、全国的なフランチャイズブランドに育成するのが、ベンチャー・リンクのビジネスモデルです。私は、赤字を抱えたフランチャイズ店をバックアップする部署にいました。勤務期間は、合計7年です」。
様々な経験ができた。聡明な大山氏のことである。フランチャイズビジネスを体験することで、本質を咀嚼し、強みも、弱みもすべて理解したのではないか。少し先走るが、それが今に生きている。
「今だから言えますが、月に480~500時間はたらいていました。勤務時間だけではありません。担当するのは、50代、60代の経営者です。生活がかかっています。若造の意見なんて、聞いてもくれない人もたしかにいました。だから、なにより結果にこだわりました。信じてもらわないと、サポートもできませんから」。
大山氏は大学卒業するまで6年かかっているから、7年で、30歳。
「そうなんです。30歳までに起業しようと思っていました。もちろん、そう簡単じゃないことはわかっていました。だから、初期投資は少なく。失敗しても大丈夫な額だと。そういう意味では腹をくくっていました」。
独立するにあたって、つい背伸びをして、大金を投じてしまう経営者は少なくない。ただ、リスクはそのぶん、大きくなる。そもそも、起業はギャンブルではあってはならないと思う。そういう意味でいえば、日本はまだそのあたりのセーフティネットが整備されていない。
「ともかく、お金をかけたくないので、スタートしたのは移動販売です」。リスクが少ないため、失敗しても、次のチャンスが残る。「ところで、移動販売って、目立つように車に商品名をバーンと描くでしょ。あれ、なんでかな、って思っていたこともあって、うちのは車体には手を加えず、看板に商品名をドーンと載せました。すると、看板をかえるだけで、いろんな商品を販売できます。今日は暑いからクレープ、今日は寒いからから揚げといった具合です」。
いいアイデアだった。だが、そううまくいかなかったのも事実である。
「私が起業したのが2009年です。この仕事の一方で、ベンチャー・リンク時代からの流れで、コンサルタントをしていました。こちらのフィーで、なんとかトントンといった感じでした」。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年8月3日金曜日

祝 650連載 株式会社Picnic with Sugar 代表取締役 鶴野太郎氏登場。

祝 650連載

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Picnic with Sugar 代表取締役 鶴野太郎氏登場
本文より~

セネガルで、偏食を治す?

じゃがいもと米が主食でおかずだった。お菓子も、ハンバーグも食べなかった。「とにかく、偏食だったから」と笑うのは、「Picnic with Sugar」の代表取締役、鶴野太郎氏である。
旅行代理店を経営していた父親がベジタリアンで食材や調味料についても注文が煩かったそう。ふつうの砂糖もだめだったらしい。
「だからでしょうか。母の料理はどうも旨くなくって、中学からは弁当なんですが、残す時も多くて。母に申し訳ないので、わからないよう捨てていたこともありました/笑」。
父親の会社は、東京、大阪、ジャマイカに支店があり、父親はジャマイカに行って、数ヵ月、滞在することも少なくなかった。鶴野氏も父親に連れられ、ジャマイカなどを旅したことがある。なかでも、中学2年の時、父親がセネガルを旅するツアーを企画し、鶴野氏も同乗したのだが、その時の印象がいまも鮮明に残っている。
「実は、セネガルで、それまでの偏食と潔癖症がいっぺんに治ったんです」と鶴野氏。「食べざるをえない状況下で、すべてが吹っ切れた」と笑う。ちなみに「セネガル」は、西アフリカ、サハラ砂漠西南端に位置する共和制国家である。中央アメリカにある「ジャマイカ」とは大西洋を経て、ほぼおなじ緯度にあるような国だ。太古の習慣が残るこの国で、偏食を治したのは、あとにもさきにも鶴野氏くらいだろう。
ところで、鶴野氏は、小さい頃から合気道とピアノを習っている。合気道は父親のススメ、ピアノは母親のススメである。もっとも、どちらも好きじゃなかった。中学から水泳をはじめ、高校でも、水泳部に所属する。偏食がなくなり、潔癖症も治った鶴野氏に、今度は恋心が動き出す季節が到来する。

映画「未来日記」の主人公に抜擢される。

「中学は公立ですが、高校は中央大学杉並高等学校に進みます。こちらでも水泳部で真面目にはやっていたんですが、ちょうど3年の時かな。『未来日記』っていうドキュメンタリー映画に出演して、一時、時の人になりました/笑」。
鶴野氏が出演した「未来日記」は、テレビで放映されていた「未来日記」の映画版で、3人の高校生の、ひと夏の体験がつづられている半ドキュメンタリー映画。調べてみるとキャストのいちばんうえに、鶴野氏の名があった。
「いちばんびっくりしたのは、私ですね。たまたま、理科の実験で気になる子がいて、その子が『未来日記』のことをいろいろ言っていたもんですから、オーディションにハガキを送って、会話のネタにしようと思ったんです。だから、そもそもオーディションに合格するつもりもなかったんです。でも、あれよ、あれよってうちに」。
「3000人くらいはいた」と鶴野氏。そのなかで、主演の3人、そのうちの1人に抜擢される。
「映画が放映されると、街を歩いていても声をかけられるんです。女の子から、あんなにモテたのは、あとにも、さきにも、あの時だけですね/笑」。
はっきりいって、「勘違いしていた時もあった」そう。

大学時代に、先輩たちと起業し、カフェをオープン。

平穏な生活がもどってきたのは、いつ頃だろう。高校3年から大学1年までもてはやされたそうだ。むろん、未来日記には、そこまでの人生は書かれていない。
「高校3年の時に、インドに友だちと旅行します。デリーから南下し、ゴアのあたりまで。ええ、1ヵ月5万円くらいで生活できますから、安い旅です。大学生になっても、何度かインドを旅しています。向こうにいる時は、もう2度と来ないと思うのに、また、時間が経てば足が向いてしまうんです」。
旅好きは父親の影響もあるのだろう。大学ではユースホステル研究会なるサークルに入っている。そんな大学時代にも、新たな旅を始めている。
「大学の3~4年の時です。ゼミのテーマであるマーケティングやプロモーションをリアルに体験してみようってわけで、私たち学生だけでカフェをオープンするんです。これが、なかなか儲からなくって。ほかでバイトして補填するみたいな/笑」。
なんでも、花屋さんから夜だけスペースを借りて運営していたそう。「だいたい家庭のキッチンレベルでしたし、ノウハウもない。だから、当初目的としていたマーケティングやプロモーションを実践するまでにも至りませんでした」。
ただし、何も手に入らなかったわけではない。
「飲食業ってたのしい、そう思ったのはこの時です」。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)