本文より~
三宅島一周。
東京都といっても、本州から175キロメートル離れている。伊豆大島からでも57キロメートル南下しなければならない。今回、ご登場いただくエムピーキッチンの社長、村上 竹彦氏は1961年の5月5日に、この海の向こうに浮かんだ孤島、三宅島に生まれている。
両親は、ともに三宅島生まれ。父親は役場に勤務する役人だった。夏の間だけ、民宿も営んでいた。
村上氏は、3人兄弟の次男。兄とも弟とも一つ違い。
「私がはじめて東京に行くのは、小学4年生の時」と村上氏。10歳くらいの時だから1971年で、日本の中心である東京が、高度経済成長期の象徴として猛烈なスピードで発展していた頃である。少年の目に東京はどのように映ったのだろうか。ちなみに、村上氏がこの東京で暮らすようになるのは高校生から。
「中学校は三宅中学です」。三宅中学のホームページを観ると最初に、自然豊かな風景が飛び込んでくる。正式には「三宅村立三宅中学校」。当時、クラスは2クラスだけだったそう。
「競歩大会っていうのがあって、島を一周するんですが、そこで4位になりました。生徒会もやっていました。中学を卒業して、私は東京の高校に進むのですが、同様に東京の高校に進学したのは、わずかで3人しかいませんでした」。
島を離れる。東京に対する憧れか、それとも島を逃げ出すことが目的だったのだろうか。
両親は、ともに三宅島生まれ。父親は役場に勤務する役人だった。夏の間だけ、民宿も営んでいた。
村上氏は、3人兄弟の次男。兄とも弟とも一つ違い。
「私がはじめて東京に行くのは、小学4年生の時」と村上氏。10歳くらいの時だから1971年で、日本の中心である東京が、高度経済成長期の象徴として猛烈なスピードで発展していた頃である。少年の目に東京はどのように映ったのだろうか。ちなみに、村上氏がこの東京で暮らすようになるのは高校生から。
「中学校は三宅中学です」。三宅中学のホームページを観ると最初に、自然豊かな風景が飛び込んでくる。正式には「三宅村立三宅中学校」。当時、クラスは2クラスだけだったそう。
「競歩大会っていうのがあって、島を一周するんですが、そこで4位になりました。生徒会もやっていました。中学を卒業して、私は東京の高校に進むのですが、同様に東京の高校に進学したのは、わずかで3人しかいませんでした」。
島を離れる。東京に対する憧れか、それとも島を逃げ出すことが目的だったのだろうか。
東京暮らしは、ディスコとともに過ぎていく。
島を離れ進んだのは、都立千歳高校(現在は、東京都立芦花高等学校)といって、世田谷区にある高校だった。「私は下北沢に住んでいました。正直いって、カルチャーショックです。ファッションセンスって、そういう言葉自体、島じゃリアルじゃなかったですから」。
そりゃそうだろう。同じ東京都といっても、風景はまるで異なる。「割と硬派でね。長ランとか、短ランなどで決めていました。だから、そもそもファッションとは無縁だったんですが、高校生になって、カルチャーショックを受けて。基準がわからなくなって、1年の夏に、見事にディスコにハマってしまいました/笑」。
「学校にもあまり行かなかった」と村上氏は笑う。
「ディスコにハマったりして、実は、2学期からは学校にも行ってなかったんです。先生に諭され、なんとか踏みとどまることができました。それに、2年になると兄が上京してきたものですから、下北沢を離れ、登戸で兄といっしょに暮らすことになります。兄といっしょですから、そうそうディスコばかりも行けません」。
大学は、日本大学の法学部政治経済学科に進んでいる。ディスコは、早々と卒業し、勉強に明け暮れた証だろう。
「最初は、中央大学を狙っていたんですが、こちらはダメで、それで一浪して、日本大学に進みます。就職活動は、証券会社一本に絞っていました」。
そりゃそうだろう。同じ東京都といっても、風景はまるで異なる。「割と硬派でね。長ランとか、短ランなどで決めていました。だから、そもそもファッションとは無縁だったんですが、高校生になって、カルチャーショックを受けて。基準がわからなくなって、1年の夏に、見事にディスコにハマってしまいました/笑」。
「学校にもあまり行かなかった」と村上氏は笑う。
「ディスコにハマったりして、実は、2学期からは学校にも行ってなかったんです。先生に諭され、なんとか踏みとどまることができました。それに、2年になると兄が上京してきたものですから、下北沢を離れ、登戸で兄といっしょに暮らすことになります。兄といっしょですから、そうそうディスコばかりも行けません」。
大学は、日本大学の法学部政治経済学科に進んでいる。ディスコは、早々と卒業し、勉強に明け暮れた証だろう。
「最初は、中央大学を狙っていたんですが、こちらはダメで、それで一浪して、日本大学に進みます。就職活動は、証券会社一本に絞っていました」。
1000万円プレーヤーの証券マン、36歳で牛丼屋の店長をめざす。
希望通り、立花証券に入社する。入社3年目で1000万プレーヤーになった。バブル経済で日本中が浮かれまくった時代も、破綻後、日本中が暗く沈んだ証券不況時代も経験した。
この証券会社を退職したのは1997年。証券不況の真っただ中。
「今でも、相談せずに転職したって、妻に責められるんです」と笑いながら、当時の話をしてくれた。「証券不況でしょ。潰れる会社もあって。証券会社の社員のリストが転職マーケットに出回っていたんでしょうね。私の手元にも一通のダイレクトメールがくるんです。その内容が、熱いっていうか、くさいっていうか。それで印象に残って、面接に行ったら、あの人のパワーに圧倒されるんです」。
「あの人」と村上氏がいうのは、現ゼンショーホールディングスの会長兼社長の小川 賢太郎氏のことである。以来、20年の付き合いになるとは、互いに想像もできなかっただろう。
「当時、私は36歳です。子どもも3人いました。証券不況だったこともたしかですが、もう少し地味な仕事もしてみたいな、という思いがあったんです。そう思っていた時に、小川さんからのDMです。縁でしょうね。36歳の牛丼屋の店長もいいかって/笑」。
この証券会社を退職したのは1997年。証券不況の真っただ中。
「今でも、相談せずに転職したって、妻に責められるんです」と笑いながら、当時の話をしてくれた。「証券不況でしょ。潰れる会社もあって。証券会社の社員のリストが転職マーケットに出回っていたんでしょうね。私の手元にも一通のダイレクトメールがくるんです。その内容が、熱いっていうか、くさいっていうか。それで印象に残って、面接に行ったら、あの人のパワーに圧倒されるんです」。
「あの人」と村上氏がいうのは、現ゼンショーホールディングスの会長兼社長の小川 賢太郎氏のことである。以来、20年の付き合いになるとは、互いに想像もできなかっただろう。
「当時、私は36歳です。子どもも3人いました。証券不況だったこともたしかですが、もう少し地味な仕事もしてみたいな、という思いがあったんです。そう思っていた時に、小川さんからのDMです。縁でしょうね。36歳の牛丼屋の店長もいいかって/笑」。
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