in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ポッカクリエイト 代表取締役社長 上野 修氏登場。
本文より~
1961年、生まれ。
ポッカクリエイトは、1994年、株式会社プラザクリエイトとポッカコーポレーションの合弁で誕生する。主力ブランドは「カフェ・ド・クリエ」。「いっぱいのしあわせ」をブランドコンセプトにしたカフェチェーンである。店舗数は2018年8月現在で201店舗を数える。
さて、今回、ご登場いただいたのは、このポッカクリエイトの代表取締役社長、上野 修氏。1961年、大阪市の生野区で生まれている。
1960年代の大阪市内は大気汚染がひどく、その影響からか幼少の頃は病弱で、家に籠ることが多かった。母親の実家である倉敷に帰省する汽車に乗ることが楽しみで、鉄道好きなのもこの頃から。小学校に上がってからも本や地図が好きな、どちらかといえば大人しい子どもだった。
母親は教育熱心で、1年からそろばん、3年から習字、4年から英語を習わされた。当時、小学生から英語を習う少年は少なかった時代である。正直いずれも身に付いていない。人から「やらさせる」のは本意ではなく、これは今の仕事の考え方にも通じている。
体の方は、小学3年生の時大阪郊外の枚方市に引越したお蔭で、元気な体になった。枚方は府内とはいえ、自然豊かな丘陵地で住みやすかった。
スポーツ少年が多い飲食の経営者の中にあっては、珍しいタイプである。とはいえ、中学に入ると1年間とはいえバスケットボール部に所属。その後もワンダーフォーゲル部に所属している。
面白いのは、「落語研究会」にも所属したことだろうか。中学に、いわゆる「落研」があるというのは、初めて聞いた話である。
交野には、邪馬台国がある。
高校は、自宅よりさらに山に近い交野高校に進学した。こちらでも部活動はちょっとかわっていて「郷土史研究部」に入部している。さらに、「郷土史研究部」の先輩が立ち上げた「鉄道研究部」にも所属していたそう。
「交野や枚方のある北河内地方って歴史のある土地なんです。うちの高校も古墳の上に建っていて。裏山に行けば石窟もあって、畑からは土器の破片や矢じりも出てくるんです。それも、ふつうに/笑」。
「郷土史研究部」の新入生の勧誘がふるっている。
「邪馬台国は交野にあったかもしれない。一緒に探そう」だ。「いやそれはないだろう」と、絶対的に否定できないのが、歴史のロマンである。
「そうですね。邪馬台国で釣っても、部員は全部で10人くらいです。もっとも、もう一方の鉄道研究部は、最初は先輩と2人でしたから、10人でも多いですよね/笑」。
アルバイト先も変わっていて、「文化財研究調査会」という、なんとも歴史的な響きがする団体だった。
「日当は1000円、弁当付き。いくら昔とはいえ、こんなバイトってないですよね。でも、私たちには充分でした。仕事は何かというと、畑での土器の破片や矢じり探しとか古墳発掘のお手伝いです。アルバイト代としては安かったですが、当時同志社大学の考古学専攻を目指したのも、このゼミ出身の職員や先輩たちの影響です。中学の時はあまり勉強した記憶はないのですが、高校では先生にもめぐまれて。ハイ、勉強も楽しくなって、学年の上位になりました」。
周囲の意見もあり、結局同志社には行かず、1浪してキャンパスの美しさが気に入って関西学院大学に進んだそうだ。ちなみに、大学でも所属したのは「歴史探訪会」。この頃には鉄道の趣味が高じて、アルバイトをしては全国を鉄道で旅行した。今でいう「乗り鉄」。北海道は夏と冬各1周、九州・四国なども回った。鉄道と歴史好きは今も変わらない。
就活では食品メーカーを中心に、鉄道会社、テレビ局、公務員など受けた。だが、思うようにはいかない。最終的に選択したのは、内定をくれた「ポッカコーポレーション」だった。
「当時全く、社会人になるという就職観っていうのがなかったですね。今思うと、そりゃ、通りませんよ。今当社に面接に来る学生さんたちの中にも、いますね。昔の私そっくりな子が/笑」。
「私にそっくり」という言葉には、まだ就職観のない学生たちへの「励まし」が含まれている気がしなくもないのだが、どうなんだろう。ともかく、そうして、上野氏はポッカコーポレーションに入社する。
「1年で辞めて、再就職」が描いたシナリオ。
「もともと1年で辞めるつもりだった」と上野氏は笑う。「にもかかわらず、もう30年以上ですからね」と苦笑いしてから、理由を語ってくれた。
「ポッカは名古屋の会社で、関西の出身者が少なく、勤務地は大阪だろうと思っていたら、いきなり東京です。根っからの関西人にとってイヤだなと思ったんですが、初めて住んだ東京は魅力的で、また素晴らしい上司に恵まれました。それに当時、ポッカは業績が絶好調で、私が入社した2年目には上場も果たした頃で、毎日が充実していました」。
会社の売上も、上野氏が入社して5年で倍増したそう。その業績を牽引していたのが、何を隠そう上野氏が配属された東京支店の営業部だった。主力商品は、ポッカコーヒー。通称、顔缶もしくはショート缶。
たしかに当時、ポッカの缶コーヒーを街のあちこちでみかけるようになった気がする。
「当時は、UCCさんの缶コーヒーがトップブランドだったんですね。そのUCCさんのコーヒーをうちのコーヒーが猛追したんです」。
「時代背景も良かったんだと思います。コンビニが出店攻勢をかけ、自動販売機が次々、設置されていく時代です。私たち営業からすれば、正直、置けば売れていくような時代でした」。
だからといって、甘やかされたわけではない。
「同じ課の先輩からは、『食品メーカーの社員なんだから、食のプロでなければならない』『世の中で美味しい言われるものは何故か、身銭を切って考えろ』『東京は流行の最先端の都市だから、日々の変化を体感しろ』とか言われました」。
先輩の言に従って、身銭を切って食べ歩き、流行の発信地でもある渋谷や銀座などの街をせっせと歩きまわった。
「何ヵ月も続けていると、だんだん嗅覚っていうのかな、感度が鋭くなって。次にどんな店が流行るかもわかるようになるんです」。ネットもなくグルメ雑誌なども少ない時代に、自分の舌と足で得た体験や情報は自信にもなった。
そして、営業として7年が経ち、本社のマーケティング部門(食品部)に異動する。
「スープを2年、レモンを2年」と上野氏。
ご存知のようにレモンは、ポッカコーポレーションの創業からの主力製品であり、スープは飲料に次ぐ新たな柱を目指すカテゴリーだった。「こちらに異動してから、創業者の谷田利景社長から直接、薫陶を受けることができました。『あるべき姿を常に考えろ』『サラリーマン根性ではいけない』などなど。これらは今社長になった私にとって、何よりも大きな教訓となっています」。
たしかに、そうだろう。谷田氏といえば、バーを経営する時代にレモン液を開発し、一代で、上場企業を築き上げた人物だ。財産にならないわけがない。
「熱量がハンパじゃなかった」と上野氏は、そう語っている。
とにかく、その創業者から直接、薫陶を受けることができた。もっとも上野氏は「薫陶」といってから、「バトルだったかな」と言い直しているのだが。
「本社での4年間は内容の濃い期間でした。当時飲料全盛だったポッカの社内にあって、食品事業が将来の柱になると見据えて、当時は赤字事業だったスープ、創業の製品ではありながら注力されていなかったレモンのマーケティングに関わり、その後主力事業になっていったのはいい経験で、自信にもなりました」。