本文より~
14歳、旅のはじまり。
ある年の夏。三重県の伊賀上野市にある、近鉄線の駅のホームで1人の少年が電車を待っていた。「中学2年の夏のことです」。向かうのは、終着駅でもある「近鉄難波」駅。
「夏休みですから、旅行者だと思う人もいたと思いますが、ぜんぜんちがいます。大阪で暮らそうと思っていたんです。ハイ。あては何もありませんでした/笑」。
貼り紙でみつけた中華料理店に住み込みでやとってもらった。
「正体は、薄々、気づいていらしたようですが、黙認してくださったようです。仕事はホールじゃなく、キッチンでした」。この時から、料理の世界に入るのだが、それは、たまたまの話。異なる貼り紙をみつけていたら、違う仕事をしていたかもしれない。
「私が大阪に来たのは、音楽がしたかったからです。小さな頃は野球が好きで、小学3年くらいからは、四番でエース。実は、中学でも評価していただいて、1年の時から四番で、エース。スカウトの目にもふれていたようです。私自身も、プロ野球選手にって思っていたんですが/笑」。
何気なく観ていたテレビで、「X JAPAN」を観る。それが、すべてのはじまりだった。「YOSHIKIさんを観て、突然、何かが弾けて。まだ、野球もつづけていましたが、小学6年生からドラムも独学ではじめます。音楽への思いが、だんだん大きくなって」。
その思いを抑えきれなくなったのが、中学2年の時。
「このまま『伊賀上野』ではあかんだろうと、大阪に出るんです」。
それが、14歳。旅のはじまりである。
「夏休みですから、旅行者だと思う人もいたと思いますが、ぜんぜんちがいます。大阪で暮らそうと思っていたんです。ハイ。あては何もありませんでした/笑」。
貼り紙でみつけた中華料理店に住み込みでやとってもらった。
「正体は、薄々、気づいていらしたようですが、黙認してくださったようです。仕事はホールじゃなく、キッチンでした」。この時から、料理の世界に入るのだが、それは、たまたまの話。異なる貼り紙をみつけていたら、違う仕事をしていたかもしれない。
「私が大阪に来たのは、音楽がしたかったからです。小さな頃は野球が好きで、小学3年くらいからは、四番でエース。実は、中学でも評価していただいて、1年の時から四番で、エース。スカウトの目にもふれていたようです。私自身も、プロ野球選手にって思っていたんですが/笑」。
何気なく観ていたテレビで、「X JAPAN」を観る。それが、すべてのはじまりだった。「YOSHIKIさんを観て、突然、何かが弾けて。まだ、野球もつづけていましたが、小学6年生からドラムも独学ではじめます。音楽への思いが、だんだん大きくなって」。
その思いを抑えきれなくなったのが、中学2年の時。
「このまま『伊賀上野』ではあかんだろうと、大阪に出るんです」。
それが、14歳。旅のはじまりである。
14歳の、ドラマー。
中学2年。ご両親も、よく許してくれたものだ。
「長男ですからね。私も反対されると思っていたんですが、ぜんぜんOKでした。ほんまにええんか?ってこっちが心配になるほどでした。でも、『行くからには、一切援助しない。ぜんぶ1人でやれ』と言われました」。
きびしくされたのは、息子の覚悟を大事にしたかったからだろう。その一方で、一度、言い出したら聞かない性格も、わかっていらっしゃったはずだ。
「学校には、時々、顔をだしました。ええ、先生も公認です。無事、卒業はできて、卒業証書は郵送されてきました。もちろん、高校なんて考えません」。
肝心の音楽のほうはどうだったんだろう。
「こっちもライブハウスの貼り紙でメンバーを募集しているところをみつけて。そうですね。特定のファンの方はいらっしゃいましたが。まぁ、そんな感じだったですね。なんといっても、大阪ですから、音楽の世界ではローカルです。メジャーなんて話になるには、やっぱり東京だと、19歳の時に1人、新幹線に乗りました」。
当時のメンバーは5人いたそうだ。全員18歳、オーバー。
年下の14歳の林氏をみんなが、かわいがってくれた。林氏のパートは、ドラムと、ボーカルだったそう。練習は、真夜中から朝まで。「独学ですね。楽譜を買うお金もなかったですから、耳で聴いて、それで楽譜をつくって」。
「長男ですからね。私も反対されると思っていたんですが、ぜんぜんOKでした。ほんまにええんか?ってこっちが心配になるほどでした。でも、『行くからには、一切援助しない。ぜんぶ1人でやれ』と言われました」。
きびしくされたのは、息子の覚悟を大事にしたかったからだろう。その一方で、一度、言い出したら聞かない性格も、わかっていらっしゃったはずだ。
「学校には、時々、顔をだしました。ええ、先生も公認です。無事、卒業はできて、卒業証書は郵送されてきました。もちろん、高校なんて考えません」。
肝心の音楽のほうはどうだったんだろう。
「こっちもライブハウスの貼り紙でメンバーを募集しているところをみつけて。そうですね。特定のファンの方はいらっしゃいましたが。まぁ、そんな感じだったですね。なんといっても、大阪ですから、音楽の世界ではローカルです。メジャーなんて話になるには、やっぱり東京だと、19歳の時に1人、新幹線に乗りました」。
当時のメンバーは5人いたそうだ。全員18歳、オーバー。
年下の14歳の林氏をみんなが、かわいがってくれた。林氏のパートは、ドラムと、ボーカルだったそう。練習は、真夜中から朝まで。「独学ですね。楽譜を買うお金もなかったですから、耳で聴いて、それで楽譜をつくって」。
メジャーデビューをめざして、上京。
せっかく出会ったメンバーと別れてまで、上京する。それが、19歳の時の覚悟。
「まず、新宿ですね。もともと大阪でも、中華以外に少しだけイタリアンをやっていたもんですから、新宿のウエディングイタリアンのレストランで。そうですね、1年半くらいはたらきます。1年もいると東京のこともわかってきて、そりゃ、やっぱり渋谷だろう、と、渋谷のイタリアンカフェに移ります。ここで、すべてがかわりました」。
どういうことだろう。
「あくまで仕事は音楽のためです。ただ、その一方で、料理が好きになっていきます。14歳から中華でしょ。そして、イタリアンです。キャリアも、それなりにあるわけですから、自信も少しばかり出てきます」。
そんなある日のことだったそう。
「1人のお客さんが、『このパスタをつくったのは、だれだって』って凄い剣幕でキッチンまでずかずかやってくるんです。もう、怖くって。渋谷っていうのは、こういう怖い客がいるんかって/笑」。
ただ、すぐにわかったことだが、林氏が「客」といったのは、そのカフェを経営する会社の部長で、2代目社長候補だった。しかも、その会社は、林氏いわく「でかい会社」で、実際、日本の食に大きな影響力をもつ食品会社だった。
「こわごわ、『ハイ』っていうと。『そうか。ちょっとうえに行って話そうか』と言われて」。
一口のパスタが、林氏の、もう一つの人生の、はじまりだった。「その部長さんは、なんでも私のいうことを聞いてくれました。音楽のことにも理解を示してくれて。そのうえで、いろんな便宜を図ってくださいました。1人ではいけない高級なディナーを食べに連れてくれたり。いや、とんでもない待遇でした」。
「まず、新宿ですね。もともと大阪でも、中華以外に少しだけイタリアンをやっていたもんですから、新宿のウエディングイタリアンのレストランで。そうですね、1年半くらいはたらきます。1年もいると東京のこともわかってきて、そりゃ、やっぱり渋谷だろう、と、渋谷のイタリアンカフェに移ります。ここで、すべてがかわりました」。
どういうことだろう。
「あくまで仕事は音楽のためです。ただ、その一方で、料理が好きになっていきます。14歳から中華でしょ。そして、イタリアンです。キャリアも、それなりにあるわけですから、自信も少しばかり出てきます」。
そんなある日のことだったそう。
「1人のお客さんが、『このパスタをつくったのは、だれだって』って凄い剣幕でキッチンまでずかずかやってくるんです。もう、怖くって。渋谷っていうのは、こういう怖い客がいるんかって/笑」。
ただ、すぐにわかったことだが、林氏が「客」といったのは、そのカフェを経営する会社の部長で、2代目社長候補だった。しかも、その会社は、林氏いわく「でかい会社」で、実際、日本の食に大きな影響力をもつ食品会社だった。
「こわごわ、『ハイ』っていうと。『そうか。ちょっとうえに行って話そうか』と言われて」。
一口のパスタが、林氏の、もう一つの人生の、はじまりだった。「その部長さんは、なんでも私のいうことを聞いてくれました。音楽のことにも理解を示してくれて。そのうえで、いろんな便宜を図ってくださいました。1人ではいけない高級なディナーを食べに連れてくれたり。いや、とんでもない待遇でした」。
・・・続き
0 件のコメント:
コメントを投稿