本文より~
フランス料理と少年。
「料理天国」というTV番組があった。1975年にスタートし、1992年までオンエアされていたから、長寿番組の一つに数えてもいいだろう。「料理バラエティ番組」の走りともなる番組だ。料理の監修は「大阪あべの辻調理師専門学校」だ。
「うちの母親が料理上手だったんです。PTAで料理教室を開いていたくらいで。その母の手伝いをしているうちに、私自身も料理の道をめざすようになりました。フランス料理に興味をもったのは、TV番組の『料理天国』がきっかけです」。
こう語るのは、株式会社ひらまつの代表取締役社長 陣内 孝也氏。
もう一度、「料理天国」に目を向けると、スタートが1975年。ちょうど、陣内氏が10歳の頃である。10代の前半で、料理に興味をもつ男子は、そういないのではないか。しかも、陣内氏が興味をもったのはフランス料理。ふつう、10歳の少年と、フランス料理は、そうつながらない。
中学に入り、陣内氏は吹奏楽を始めた。その一方で、この頃からすでに「辻調理師専門学校」に関心があったそうで、パンフレットも入手していたというから驚く。
「高校を卒業してから、大阪です。関東に『辻調理師専門学校』がなかったからです」。思い切った行動に映るが、それまでの陣内氏を知れば、当然の道だとわかる。
「当時は1クラス200人で、20クラスありました。そう、4000人ですね」。
4000人。調理師になる学生が、集った。
「大阪阿倍野の学校を卒業したあと、私はおなじ辻調理師専門学校のフランス校に進みます。秋のコースだったので、半年間です。フランスにある現地のレストランでも研修を受けました」。
10月に帰国。そして「株式会社ひらまつ」に入社している。
「うちの母親が料理上手だったんです。PTAで料理教室を開いていたくらいで。その母の手伝いをしているうちに、私自身も料理の道をめざすようになりました。フランス料理に興味をもったのは、TV番組の『料理天国』がきっかけです」。
こう語るのは、株式会社ひらまつの代表取締役社長 陣内 孝也氏。
もう一度、「料理天国」に目を向けると、スタートが1975年。ちょうど、陣内氏が10歳の頃である。10代の前半で、料理に興味をもつ男子は、そういないのではないか。しかも、陣内氏が興味をもったのはフランス料理。ふつう、10歳の少年と、フランス料理は、そうつながらない。
中学に入り、陣内氏は吹奏楽を始めた。その一方で、この頃からすでに「辻調理師専門学校」に関心があったそうで、パンフレットも入手していたというから驚く。
「高校を卒業してから、大阪です。関東に『辻調理師専門学校』がなかったからです」。思い切った行動に映るが、それまでの陣内氏を知れば、当然の道だとわかる。
「当時は1クラス200人で、20クラスありました。そう、4000人ですね」。
4000人。調理師になる学生が、集った。
「大阪阿倍野の学校を卒業したあと、私はおなじ辻調理師専門学校のフランス校に進みます。秋のコースだったので、半年間です。フランスにある現地のレストランでも研修を受けました」。
10月に帰国。そして「株式会社ひらまつ」に入社している。
「ひらまつ亭」の仕事。
陣内氏が人生のたいはんを過ごすことになる「株式会社ひらまつ」についても触れておこう。
「ひらまつ」は1982年、西麻布にオープンした24席のフランス料理店「ひらまつ亭」が起源である。平松シェフと奥様、ほか2名の従業員でスタートしたそうである。
「当時は、フランス料理ブームだったこともあって、『ひらまつ亭』にはたくさんのお客様がおみえになり、ランチでも行列が絶えず、1日の売上は40~50万円になったと聞いています」と陣内氏。
1988年、広尾に移転し、拡張。1991年には初のレストランウエディング事業を開始。1993年には広尾に「カフェ・デ・プレ 広尾」をオープンし、カフェ事業をスタート。1994年に、法人登記し、現在の株式会社ひらまつを設立。それ以降も、クオリティの高い店舗を出店し、日本にフランスの文化を定着させていく。
印象的なのは、2001年、パリに「レストランひらまつ サンルイアンリル」をオープンしたことだ。更に翌2002年には、ミシュランガイドで一つ星を獲得している。オープン4ヶ月での星獲得はミシュラン史上最短ということだ。
更に現在では、株式も東証一部に上場。
高級飲食店での上場は世界をみても数少ない。
平松シェフは、「ひらまつ亭」という種を蒔き、日本にフランスの文化を育てた。その一方で、数多くのプロフェッショナルを育成してきた。その1人が、陣内氏というわけだ。
現在、平松氏は会長となり、陣内氏が社長となっている。また近年は「滞在するレストラン」というコンセプトでホテル事業を展開し、陣内氏もこれに尽力している。
「ひらまつ」は1982年、西麻布にオープンした24席のフランス料理店「ひらまつ亭」が起源である。平松シェフと奥様、ほか2名の従業員でスタートしたそうである。
「当時は、フランス料理ブームだったこともあって、『ひらまつ亭』にはたくさんのお客様がおみえになり、ランチでも行列が絶えず、1日の売上は40~50万円になったと聞いています」と陣内氏。
1988年、広尾に移転し、拡張。1991年には初のレストランウエディング事業を開始。1993年には広尾に「カフェ・デ・プレ 広尾」をオープンし、カフェ事業をスタート。1994年に、法人登記し、現在の株式会社ひらまつを設立。それ以降も、クオリティの高い店舗を出店し、日本にフランスの文化を定着させていく。
印象的なのは、2001年、パリに「レストランひらまつ サンルイアンリル」をオープンしたことだ。更に翌2002年には、ミシュランガイドで一つ星を獲得している。オープン4ヶ月での星獲得はミシュラン史上最短ということだ。
更に現在では、株式も東証一部に上場。
高級飲食店での上場は世界をみても数少ない。
平松シェフは、「ひらまつ亭」という種を蒔き、日本にフランスの文化を育てた。その一方で、数多くのプロフェッショナルを育成してきた。その1人が、陣内氏というわけだ。
現在、平松氏は会長となり、陣内氏が社長となっている。また近年は「滞在するレストラン」というコンセプトでホテル事業を展開し、陣内氏もこれに尽力している。
料理人には、向かない、という一言で胸のつかえがとれた。
さて、陣内氏が入社したのは20歳で、平松氏もまだ30代半ば。「ひらまつ亭」は、平松シェフを中心に、若手のメンバー10名で運営されるようになる。
「私は、当然、料理人希望です。ただ、当時は、お客様と接することを勉強してからということで、1年間、ホールでサービスを学びました。案外、向いていたのかもしれません。そして、1年後から厨房に入ることになりました」。
人気のフレンチ「ひらまつ亭」の厨房だ。胸も高まったことだろう。ただ、厨房の世界はきびしい。
「料理が好きなだけでは務まらないきびしさを感じました。ですが、厨房内でうまく立ち回れないとシェフに怒られるんですが、先輩たちもいっしょになって怒られてくれたりしてね。ええ、とにかく、つながりがつよかったです」。
平松シェフは厳しい人だったが、それは料理だけではなく、人づくりにも妥協しなかったからだろう。
「給料は、ぜったい手渡し。そして、1人1人にちゃんと声かけてくださるんです。その心遣い一つからも、シェフが我々をどう思ってみているか。私たちはちゃんとわかっていました」。
「メンバーからすれば、オヤジみたいな存在で」と陣内氏。ただ、このオヤジと慕う平松氏から、ある時、辛辣な言葉をかけられてしまう。
「そうなんです。ある日、シェフから『ハッキリいうと、陣内は、一流の料理人になれないと思う』って、そう言われてしまいます。でも、その一方で『一流のサービス人にはなれると思うよ』と言われたんです」。
料理人には向かない、というのがその意味だろう。
「私も実をいうと、その頃、料理より、サービスに興味があったんです。ただ、料理人への気持ちがゼロじゃなかったし、怒られて逃げ出すようなことはしたくなかったので、意地で頑張っていたんです。だから、実はこの一言は私にとっては、救いの一言だったんです」。
「私は、当然、料理人希望です。ただ、当時は、お客様と接することを勉強してからということで、1年間、ホールでサービスを学びました。案外、向いていたのかもしれません。そして、1年後から厨房に入ることになりました」。
人気のフレンチ「ひらまつ亭」の厨房だ。胸も高まったことだろう。ただ、厨房の世界はきびしい。
「料理が好きなだけでは務まらないきびしさを感じました。ですが、厨房内でうまく立ち回れないとシェフに怒られるんですが、先輩たちもいっしょになって怒られてくれたりしてね。ええ、とにかく、つながりがつよかったです」。
平松シェフは厳しい人だったが、それは料理だけではなく、人づくりにも妥協しなかったからだろう。
「給料は、ぜったい手渡し。そして、1人1人にちゃんと声かけてくださるんです。その心遣い一つからも、シェフが我々をどう思ってみているか。私たちはちゃんとわかっていました」。
「メンバーからすれば、オヤジみたいな存在で」と陣内氏。ただ、このオヤジと慕う平松氏から、ある時、辛辣な言葉をかけられてしまう。
「そうなんです。ある日、シェフから『ハッキリいうと、陣内は、一流の料理人になれないと思う』って、そう言われてしまいます。でも、その一方で『一流のサービス人にはなれると思うよ』と言われたんです」。
料理人には向かない、というのがその意味だろう。
「私も実をいうと、その頃、料理より、サービスに興味があったんです。ただ、料理人への気持ちがゼロじゃなかったし、怒られて逃げ出すようなことはしたくなかったので、意地で頑張っていたんです。だから、実はこの一言は私にとっては、救いの一言だったんです」。
・・・続き
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