2018年11月30日金曜日

営業マンの能力アップするにはセンスよりも場数(量)。量が質を生む。

プロスポーツの世界で、試合に出てないと試合の勘がなかなか取り戻せないように営業マンも一緒。
営業の場数積んだ営業マンとほぼ商談してなく動いてない営業マンでは全く違う。
雑談できる知識があっても話せる状況を作れる関係性が大事。
日本アシスト会計グループ事務所通信より
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2018年11月28日水曜日

株式会社ASU 代表取締役 平野二三夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ASU 代表取締役 平野二三夫氏登場
本文より~

キャプテン。「とにかくオレにボールをまわせ」と叫ぶ。

「キ・ミ・シ・ョ・ウって聞いたことはないけど、けっこうやるよな」。
相手選手から、そんな声が漏れてきた。相手は、その年の全国優勝チーム、習志野高校。
「私がサッカーをはじめるのは中学校から。すぐに好きになって。監督もいないチームだったんですが、案外、タレントがそろっていて、そこそこの成績。中3になって、私がキャプテンになると更につよくなる/笑」。
どんなキャプテンだったんですか? と伺うと、「とにかく、オレにボールを回せってタイプだった」と笑う。「そのなかのメンバーたち数人といっしょに、君津商業に進学します。こういっちゃいけないんでが、先輩たちの代はそうでもなかった。でも、私らが入って、1年からレギュラーとなり試合に出場するようになるとドンドン成績があがっていきました」。
最高順位は県ベスト8。「習志野とたたかったのも、その頃です。ほかのチームは8対0とか、ともかく、当時の習志野は手がつけられなかったんですが、なんとか2対0に。もちろん、負けちゃったんですが、向こうの選手にもけっこうやるじゃん、みたいなね/笑」。
校長先生にもホメてもらった、そう。
サッカーの何がいいのかと聞くと、「ほかのスポーツには、やれ背丈とか、運動神経うんぬんとかがあると思うんですが、サッカーだけはそうじゃない。努力するほど巧くなる。だから、大好きなんです」。
「サッカーから教わったことは少なくない」と平野氏はいう。努力はうそをつかないも、その一つに違いない。ちなみに、平野氏は1956年生まれ。まだまだ野球が、全盛期の頃。突然、ヒーローが現れたのは、1968年のメキシコオリンピック。この大会で7得点を挙げた天才ストライカー、釜本 邦茂氏だ。
当然、釜本氏は、当時の子どもたちの憧れになる。平野氏も、ちょうど13歳。平野氏にとって、釜本選手はどんな存在だったのだろう。

マルチ商法。のめり込んだ先の残ったものは。

高校を卒業した平野氏は、市役所に勤めを開始する。「受験したら不思議なことに合格してしまって」と平野氏。本人は、大学に進んでサッカーをしたかったそう。市の職員になってからも、実は、社会人のサッカークラブでサッカーをつづけた。
「市の職員っといっても、年中、お酒は飲んでいたし、マージャンもしていた。車が好きだから、暴走もした。え、配属ですか? 市民税課です。そうそう、あの時、税金だけで、オレの1年ぶんの給料より高い人がいるのを知って。いつかオレもと思いました。いま思えば、独立心は、あの時に芽生えたんです。きっと/笑」。
ちょうどいい具合に、役所の上司が、とあるビジネスに誘ってくれた。
石鹸の販売だった。しかも、マルチ商法。
「最初は、いい感じだったから、それで、ハマっちゃうんですよね。このぶんならポルシェだって買えんじゃなぇかって」。
あいにく、そう巧くはいかない。市役所まで辞めて、のめり込んだ結果、800万円の借金だけが残った。
「言い訳にはなりませんが、まだ20歳でしたからね。何がいいかわるいかも知らなかった。そのマルチから抜けたのが21歳です。800万円の借金でしょ。もう、どうすればいいわからない私を救ってくれたのが、日本マクドナルドの創業者、藤田田さんの『ユダヤの商法』でした」。
目から鱗だったそう。起業するなら「おんな」と「口」をねらえ。その指示に従って、23歳の時、鮪も食べられないのに鮨屋の門を叩いた。起死回生のすべてを「食」に託した。

酒も飲めない、年下の兄弟子たち。

「いま、何がいちばん辛かったかっていうと、やっぱりあの時かな。鮨屋といっても、割と大きな店だったから、私とおなじように修業に来ている子らもいます。しかも、みんな私より先に入っているから先輩です。こっちは車も運転できるし、酒だって大っぴらに飲めるもう、22ですからね。でも、」
「でも、16や17の子から、叱られる。罵声ですよね。あの時ほど、みじめだったことはない。でも、一度、マルチで失敗しているでしょ。だから、頑張るしかなかったんです」。
知り合いを通し、休日もほかの店で仕事をした。尊敬する先輩のあとを追うように、和食の店でも修業した。「修業って、そりゃ辛い/笑」。そうでなきゃ、修業じゃないとでもいいたげ。「和食に店に移ってからも、辛かったですね。でも、独立するつもりでしたから、ちょっとやそっとで、こっちだって音をあげません」。
洗いものをしながら、「6年後には店やるべ」と舌を噛んだ。そう思うと、心も落ち着いた。「和食の最初は伊東だったんですが、そのあとも伊豆に行ったり、東京でも、はたらきました。そして、そう、28歳ですね。『さるとび』をオープンするんです」。
「オレのあしたをみていろよ」と言いつづけた青年が、ようやく、その「あした」に到達する。
「君津の駅から離れていました。24坪です。立地とかもわからないし、相場っていうのも知らなかった。ただ、1984年という時代は悪くなかったですね。なんでも儲かった。スナックでも、バーでも、どこもいっぱいです。うちも、3ヵ月目からは、連日、満員になりました」。
いまでいう寿司居酒屋、「その走りだ」と平野氏はいう。「それから、1991年にオープンした2号店が、『蟹工船』です。何年経ってもかわらない。素材で勝負できる、そんなお店をつくりたくて。もう、あれから27年経ちますが、いまもうちのメインブランドです/笑」。
「蟹工船」といえば小林多喜二著の日本を代表する文学作品の一つだが、平野氏がオープンした「蟹工船」にも文学的な響きがある。美しい川床を配した店内からは、「和」が織りなす唄が、響く。
・・・続き
株式会社ASU 代表取締役 平野二三夫氏
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2018年11月26日月曜日

営業マンには伸び伸びと、しかし謙虚な姿勢もしっかり教育しないと・・・。

若い営業マンには、自信付けさせるために伸び伸びとさせる方がいい。
しかし、常に謙虚であることを教えておかないと他人から教えてもらえないし、人の上に立った時にリーダー不適合の人材になってしまう

【謙虚さがなくなる14の兆候】
  
01. 時間に遅れだす
 
02. 約束を自分から破りだす
 
03. 挨拶が雑になりだす
 
04. 他人の批判や会社の批判をしだす
 
05. すぐに怒りだす ( 寛容さがなくなる )
 
06. 他人の話を上調子で聞きだす
 
07. 仕事に自信が出てきて勉強しなくなる
 
08. 物事の対応に緩慢になる
 
09. 理論派になりだす
 
10. 打算的になりだす ( 損得勘定にしがみつく )
 
11. 自分が偉く思えて他人が馬鹿に見えてくる
 
12. 目下の人に対してぞんざいになる
 
13. いいわけが多くなる
 
14. 「ありがとうござます」という言葉が少なくなる ( 感謝がなくなる )

著書『素心のすすめ池田-繁美 より
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2018年11月23日金曜日

「キイストンみらいプロジェクト」スタート。

「キイストンみらいプロジェクト」スタート。
今まで皆のやり方や常識もぶちこわし、
キイストンの強みをもっと生かし、
仲間と外部ブレーンの皆さんとの関係強化し
経営理念をもっと形にできるよう組織作っていきます。
5年先を見据え、まずは3ヶ年計画を練っております。

そういえば自分が独立した歳が29歳だったので今の営業幹部よりも若い。
もう一人前なんで、営業面だけでなく経営面・管理職として部下指導や戦略、クレーム対応等も教えて、
頼りになる人材に育てたいし育ってほしい。

そのためにはまず自分から成長しないとな・・・。
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2018年11月22日木曜日

11月20日発行の日刊ゲンダイに「株式会社創業新幹線」の藤原 亮社長が取り上げられました。

11月20日(火)、日刊ゲンダイ“社長の私生活”に株式会社創業新幹線の藤原 亮社長が取り上げられました。
(日刊ゲンダイより)
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文京学院大学のインターンシップ報告会・懇親会に参加してきました。

この夏休みに2週間(10日間)、文京学院大学から毎年インターンシップの学生を受け入れております。
その報告会&懇親会に参加してきました。
もう6〜7年、学生さんに学びの場を提供してますが、今回来てくれた2人のYさんとY君に飲食の経営者の取材を3社取ろうとという目標に対し、見事に2人共大変達成してくれました。
そのおかげで、私たちも仕事につながっています。
(教育担当の永野とインターン2人)
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10月20日発行の『FLASH』にめんこやを運営されている「株式会社ドリームハーバー」 小林 正治社長が掲載されました。

10月20日(火)発行の週刊写真誌『FLASH』の“われら中年転機をつかむ”に手打ちうどんのめんこやを運営されている「株式会社ドリームハーバー」 小林 正治社長が掲載されました。
Yahoo!ニュースにも載りました。
(われら中年転機をつかむより)
(FLASH)
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2018年11月20日火曜日

株式会社SFPホ-ルディングス 代表取締役社長 佐藤 誠氏登場。

本文より~

食が細く、ガリガリの少年。まさかの「ジャイアン」になる。

「かつらむき」は、大根等を筒切りにして、帯状に薄く、むくように切る料理の技である。刺身のつまやあしらいなどが、この技法で用意される。
「これがどうにも、こうにも」と笑うのは、今回、ご登場いただいた株式会社SFPホ-ルディングスの代表取締役社長、佐藤誠氏である。
「かつらむき」と格闘していた頃は、現在の地位を手にするとは思ってもいなかった。これが、飲食の不思議という奴なのだろう。
では、いつも通り、佐藤氏の生い立ちから追いかけてみることにしよう。
佐藤氏は、1963年、横浜に生まれる。2人きょうだいの、兄で、長男。父親は、叔父といっしょに包装用パックなどの製造会社を経営されていたそうだ。
「今じゃ、うそみたいな話なんですが、子どもの頃はガリガリで。両親をまじめに心配させたそうです。『環境が悪い』と茅ヶ崎に引っ越したくらいですから。私が幼稚園に入学する前の話です/笑」。
まさか、ご両親も食が細い佐藤氏が、のちに180センチを超す、健康優良児に育つとは想像もされていなかったことだろう。
ともかく茅ケ崎への引っ越しは、効果テキメンだった。とたんに、料理を残さず平らげるようになった。
「昔の茅ケ崎ですから、そりゃ広々です」。佐藤氏は目を細める。道をまっすぐ行けば、海が姿をみせる。潮の風が吹く。空は青々として、澄んでいる。
「肉ばっかり食っていました。そのおかげで、今度は、からだが大きくなりすぎて/笑」。
からだは、日に日に大きくなり、小学生になるとジャイアンになる。体形もそうだが、ふるまいも似てきた。「けっこう威張っていたような/笑」と佐藤氏。
からだは、いつのまにか、全校でも上から3番以内に入るくらいになったそうだ。拡大率では、おそらくナンバー1だったろう。

サンディエゴ。ボディランゲージで会話する高校1年生。

中学校ではバスケットボールをはじめた。当時は、175センチ。70キロくらいだった。「背が高かったからか、1年生の時からレギュラーにまじって練習をさせてもらいました。2年生からは、晴れてレギュラーです」。
地区大会でも優勝したそうだ。たのしかった。高校でも、バスケットボールをつづけ、今度は1年生からレギュラー。進んだのは、小田原にある私立高校。
「マンモス校です。勉強ですか、ぜんぜんしてない/笑。共学です。敷地もだだっ広い。高校では1年からレギュラーでした。もう、182センチ。ええ、当時では、バスケの選手のなかでも小さくはなかったですね」。
「ただね。当時、クラスから1人、海外に行けるなんて制度があって、手を挙げちゃうんです。1人なんですが、私以外にはだれも手を挙げなかったもんだから、選ばれちゃって。それで、レギュラーだったのに、夏休み一杯、お休みしちゃうんです/笑」。
大ひんしゅくだったそうだ。
「でも、海外に行くなんて。当時は、一生に一度ってイメージです。だから、部長さんにも『行かせてください』っていって」。
海外は、そうまでしていく価値があった。暮らしたのは、アメリカ、サンディエゴ。ホームステイだ。文化の違いも目の当たりした。
「英語ができないから、ボディランゲージなんです。そりゃ、少しずつ単語も分かってくるんですが、深い話できないんですね。語学が大事だと、さすがにあの時は思いましたね」。
帰国後は、やはりバスケットの日々。
これが、佐藤氏の青い記録。

セイヤー、国士館。

大学は、国士館に進んでいる。けっして優等生ではなかったが、小学校から高校生までは学校を休んだとこはなかった。その反動だろう。大学では遊び倒してやろうと決意していたらしい。
実際、アルバイトに、旅行に、時間はいくらあってもたりなかった。
「バイトは、大手高級焼肉店でしていました。当時の国士館の選択肢としては、体育の先生でしょ。警察官や消防、役所というのが、オーソドックスなんですが、私が選択したのは、バイトの影響が大きく、飲食でした。それで、卒業後、実は、調理師専門学校に入学します」。
飲食。
当時、大学をでて、その道を進む人は少なかった。年齢も同期と比べると上。職場に入っても、中卒や高卒の、年下の先輩が少なくなかった。
修業もまた厳しかった。いわゆる職人世界の修行が当たり前だった。
「しかし、そこは国士館出身です。多少の威圧は、へでもない。からだも、180以上でしょ。さすがに、だれもかかってこなかった/笑」。
「ともかく、そうやって飲食に進み、最初にお世話になったのが、銀座のレストラン『たかまつ』で、配属されたのは和食部門です」。
「かつらむきが難しかった」というのは、この頃の話である。
・・・続き
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2018年11月19日月曜日

11月16ページ日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、デイネット様(武本社長)です。

60代〜70代で頑張ってる人を応援!(キイストン寄稿)

11月16日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」第7回(7/30社)はデイネット様(武本社長)で、飲食業のほかに不動産事業、海外事業、M&A事業など多彩な事業を展開しておられます。その一つの法人の「クロスドッグ」で取締役営業部長の杉山栄敏氏(63)を紹介させていただきました。

取材は弊社の元編集プロダクション社長で70歳の土金氏です!

(夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
ライター

【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2018年11月13日火曜日

株式会社NATOMICS 取締役社長 関 斉寛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社NATOMICS 取締役社長 関 斉寛氏登場
本文より~

チャンネル登録数、1万人オーバー/2018年8月現在

インタビューさせていただいてから、この記事を書くまで1ヵ月程度、空白があった。その間、関氏の動画のチャンネル登録数は1000以上アップし、9月現在、1万人をオーバーしている。
「動画を作成し、アップしたのは2018年からです。実は、昨年、中国の蘇州にある調理師学校にお招きいただいて、その時、動画という手もあるなと思ったのがきっかけ。動画なら何万人もの人を相手にお料理を教えて差し上げられる。その一方で、実は私も楽しんでいるんです。和食の料理人がつくるイタリアンとかね。お店とは違ったアイデアを盛り込んだりして。リクエストも楽しみの一つなんです」。
たしかに、画面に登場する関氏は、楽しくてしかたがないように観えるし、関氏の人間性も、よく表現されている。
「ただ、これでは利益がでないでは?」と貧乏性のこちらは心配になるのだが、「利益じゃないんです。お料理の楽しさをたくさんの人に伝えていきたいんです」と、キラキラした目でいう。たいしたものだ。
今回は、そんなユーチューバー?でもある関氏に話をうかがった。

小学2年、まぐろの漬け丼をふるまう。

父親は、工学博士。人口雪の研究をされていたそうで、現在も大学で教鞭をとられているという。母親は、大手重工メーカーで事務をされていたが、調理師の免許もお持ちだったそうで、関氏も少なからず影響を受けている。
関氏が生まれたのは1984年。小学1年生の時に、厚木から千葉県佐倉市に引っ越している。小学1年生から母の料理の手伝いをし、小学2年生には『まぐろの漬け丼』をつくっていたそう。ともだちが来ると、得意の料理をふるまったというから、筋金入りだ。
スポーツはサッカーにのめり込んだ。スポーツ推薦で高校にも進んでいる。
「でも、高校生になってからは、ぜんぜんサッカーはしなくって。ちょっと悪ぶっていた時代ですね。そっちのほうがもてるかなって/笑」。
軽い気持ちだったのだろうが、一度、悪い方向に進むと、なかなかもとにもどれない。「実は、高校3年になった時には、卒業まで怪しくなって/笑。さすがに焦ります。とにかく『高校だけはでてくれ』と母親に泣かれたこともあって…」。
なんとかしなくっちゃ。ただ選択肢は、そう多くない。
「そのままでは、卒業もできそうになかったもんですから、通信制の『翔洋学園高等学校』に転校しました」。通信制といっても、校舎があった。そちらにも通いつつ、この頃から料理と真剣に向き合いはじめる。

「おいしかったよ」「ごちそうさま」に、魅了されて。

関氏の歩みを伺っていると、まさに「ザ・飲食の戦士」である。
とにかく、料理をはじめた年齢も若く、キャリアも長い。しかも、何より料理が大好き。
料理の前では「無垢」になれる人なのだろう。今日は、どんなふうにお客様が喜んでくださるだろうか。料理をしている間、関氏の頭にあるのは、ただ、それだけのような気がする。
関氏が小学校の頃から友人に料理をふるまっていることはすでに書いた。母親の影響が大きい。
高校1年。サッカーの推薦で高校に進学した関氏だったが、サッカーはそっちのけで、悪ぶるなどしたことも、すでにお話した。ただ、まだお話していないことが一つある。
高校1年からはじめた飲食の仕事である。
「高校1年から、ガソリンスタンドでバイトをはじめるんですが、やっぱりその頃からお料理が好きだったんでしょうね。中華料理店にチェンジして。ハイ、最初はホールでしたが、まかないでチャーハンをつくらせてもらって、それで『キッチンにはいってもいいよ』と。高校3年から通信制の学校に転校したこともあって、べつのお店で仕事をしていたんですが、こちらのお店の店長がお休みの時には、私が臨時で、店長をしていました」。
「おいしかったよ」「ごちそうさま」。料理をつくらせてもらって、そのうえ、感謝も、お金もいただける。こんないい仕事ほかにない。この仕事でやっていこう。
バイトだったが、心は、料理人へ、まっすぐに動きだす。
・・・続き
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2018年11月11日日曜日

キイストンだから出来ることを追求していきます。

「飲食の戦士たち」で社長取材させていただいたおかげで
経営者と経営者とのセッティングを今年はたくさんやっております。

キイストンとしてどれだけ関係する企業様に役立つことが出来るか、またそのセッティングの質の高さはどうか検証しています。

おかげさまで自分が思っている以上のセッティングができてるので、これはキイストンの付加価値になりそうです。

今後のキイストンを考え、「キイストンみらいプロジェクト」も私のブレーンと一緒に社内で取り組んでいきます。

平成から次の新元号になるのでキイストンも時代のニーズにあわせ成長していきたいです。
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11月9日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、トーホーエージンシー様(山崎社長)です。

60代〜70代で頑張ってる人を応援!(キイストン寄稿)

11月9日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」第6回(6/30社)は、トーホーエージンシー様(山崎一彦社長)で、パート45人中8人がシニア世代が在籍されています。
取材は弊社の元編集プロダクション社長で70歳の土金氏です!
(夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
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【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2018年11月6日火曜日

イートアンド株式会社 代表取締役社長 仲田浩康氏登場。

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本文より~

インベーダーと大阪王将。

その昔、大阪では、国鉄の環状線はもちろん、私鉄のどの駅を降りても、駅前には「大阪王将」があった。メニューは、たしか餃子とビール。当時、高校生だった私は、友人といっしょに頻繁に餃子を食べに行った。「10人前食べれば、無料」。一度は、挑戦してみたかったが、いまだ出来ずじまいである。
ところで、以前、2代目社長である文野直樹氏を取材した際、昭和50年前半ばになって、業績が下降した要因としてインベーダーゲームの登場を挙げられていた。興味深い指摘だったので、いまも記憶している。
文野氏の言う通り、インベーダーゲームをはじめ、アーケードゲームの登場によって、「食」は、身近なレジャーの座を奪われたと言っていい。
ちなみに、当時、餃子1人前が100円。インベーダーゲームも100円。いままで100円玉をにぎって大阪王将に向かっていた学生たちが、同じように100円玉をにぎりゲームセンターへ向かった。いまになって思えば、インベーダーたちは、大阪王将のファンを狙い撃ちしたかのようである。
さて、その「大阪王将」。
いまではご存じのように、餃子とビール以外にも、バラエティ豊かな料理の数々がある。郊外に出店するなど、駅前というイメージも薄れてきているのではないか。その「大阪王将」を運営してきたイートアンドは、「大阪王将」以外にもラーメン店の「よってこや」など多数のブランドを展開している。
ただ、それだけではない。
文野氏を取材した際、今後は食品メーカーに舵を切るようなお話しをされていた。具体的には「中食」と「内食(冷凍食品)」を挙げられていたはずだ。
その一つ、「冷凍食品」がいまや外食と匹敵する規模に育っていると伺った。立役者は、ダイエーで勤務されてきた仲田浩康氏。今回、ご登場いただいた飲食の戦士である。

高卒、巨大な流通企業で暴れる。

仲田氏は、1964年4月26日、大阪の豊中市に生まれる。3人きょうだいの長男。父親は印刷会社を経営していた。少年時代は、だれもが慕うリーダー的存在。
運動はできるほうだったが、勉強は「まぁまぁだった」と笑う。
「旅行に行った記憶は少ないですが、外食は多かったですね。昔ですからね。外食はそれほど、日常的ではなかった。そういう意味では、珍しいほうだったと思います」。もっとも、レストランと言えるようなシャレた店ではない。「ごはんやさんです/笑」と仲田氏。
「躾は、きびしくなかったんじゃないかな。ノビノビ、放任主義です」。少年野球ではキャプテン。人気者だった。
中・高は、仲田氏曰く、「なんちゃって」野球部。高校卒業後は大学に進学せず、はたらきはじめた。就職先は、当時、流通業界のトップランナーだったダイエーである。
「配属されたのは、魚売り場でした。いちおうサラリーマンなんですが、商売人ぽい仕事です」。実は、仲田氏。「父親をみていたから、経営者ではなくサラリーマンになりたかった」そう。経営の難しさを、理解していたからだろう。
「ただ、その一方で、商売に興味があったのは事実です」。
もともと、やんちゃな性格である。型にハマるのがいやだった。だから、お世辞にも態度がいいとは言えない。しかし、結果で周りを黙らせた。
23歳で主任に昇格。異例中の異例だったそう。学歴など関係なかった。商売人の素地が群を抜いていた証でもある。それからも目をひくように出世し、27歳でシニアマネージャー、31歳で課長、32歳で副支配人になっている。
「人生のターニングポイントを挙げると、3つです。一つは、ダイエーという巨大な流通会社に就職できたこと。そして、そのダイエーで経営のノウハウを吸収できたこと。もう一つはイートアンドの面接をうけたことです」。
副支配人といっても、巨大なダイエーからすれば、末端である。できることは、少ない。ならば、と転職を決意しても不思議ではない。
仲田氏のダイエー時代が幕を閉じる。

「大阪王将」に転職。

「まさか、私が社長になるとは思っていなかったし、打診された時も、実はお断りしたんです。文野会長とは5歳くらいしか離れていないし、禅譲なんてイメージでもなかったですからね/笑」。
本人がどう思ったとしても、文野氏は、もう決めておられたのだろう。食品事業の立役者である仲田氏以外、いまからの「大阪王将」の舵を取れる人間はいない、と。
すでに書いた通り、今では、外食事業と食品事業の事業比率は50対50となっている。仲田氏が仕掛けた「冷凍食品」、なかでも、<水も油もいらない羽根つき餃子>が急速に市場に浸透したからだ。(現在では<油・水・フタもいらない羽根つき餃子>へと進化している)
「ダイエーを退職して、イートアンドに転職したのは36歳。2000年の8月です。ええ、紹介やヘッドハンティングとかではなく、ふつうに転職雑誌をみて」。
給料も大幅に下がったそうだ。大阪王将では、一兵卒。経験でひいきもされなかったから、当然といえば当然だ。とはいえ、具体的な数字を聞いてわかったが、相当な落差があったのは事実。何が、それほどまでに仲田氏を惹きつけたのだろう。
「一口で言えば、『大阪王将』という会社の可能性かもしれません。私自身、一兵卒で入社するんですが、入社1年ぐらいで部門長に就任します。会社に、可能性があるからですね。当時の社長、文野からは『外食以外を大きくしてくれ』と言われます。当時は、外食が60億円、食品が5億円。外食以外を大きくするのが私のミッションですから、まずは、この5億円をどう大きくするか、です」。
実は、仲田氏は、イートアンドの株式上場にも貢献している。当時、常務だった仲田氏は、プロジェクトリーダーとなり、上場まで導いている。この上場においても、「食品事業」に対する評価はカギになったはずである。
「我々にとって大きな転機だったのは、生産事業に舵を切ったことだと思っています。外食事業も、食品事業も出口という発想です。つまり、収益の源泉がどこにあるかというと、外食でも、食品でもなく、生産機能なんです」。
むろん、「大阪王将」という絶対的なブランドがある。そのブランドによって、食品事業が成り立っているのは間違いない。つまり、「大阪王将」というブランドが、収益の根源でもあるのだ。このちからを、外食だけではなく、食品にも展開し、押し広げたことが仲田氏の功績だろう。
もっとも、いかに「大阪王将」のブランドをもってしても、「最初は、まるで相手にされなかった」と仲田氏はいう。いくぶんか怒りのニュアンスを含んだ、その口ぶりから、当時、第一線で奮闘した仲田氏の姿が思い浮かぶ。
ともかく、仲田氏の話を聞いていると、何度も「生産事業」というキーワードが登場する。この言葉が、ユニークだ。そもそも、外食企業が「食品事業」の比率を、これほどまでに高めた例はほかにないし、この言葉自体が「大阪王将」の原点回帰を表しているような気がするからだ。
・・・続き
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2018年11月5日月曜日

NewsTVに、武田あかねが出演。

NewsTVにうちの武田あかねが出演し、ドクターシーラボCEO城野氏と、アクアコラーゲンゲルについて語ってます。
↓ 

11月2日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」)はビープラウド様(大山社長)です。

60代〜70代で頑張ってる人を応援!(キイストン寄稿)

11月2日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」第5回(5/30社)は、ビープラウド様(大山社長)とそこで活躍されてる猿田留美子さん(60)です。
35歳から70歳までの男女から応募あり選考の結果、猿田さんが採用されました。

http://www.zakzak.co.jp/eco/news/181104/eco1811040001-n1.html

取材は弊社の元編集プロダクション社長で70歳の土金氏です!

(夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
ライター


【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2018年11月1日木曜日

株式会社パズルフードサービス 代表取締役 奥村 啓氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社パズルフードサービス 代表取締役 奥村 啓氏登場

本文より~

高校生まで。

今回はご登場いただいた奥村氏は、1967年2月7日、愛知県の東部に位置する新城市(当時は南設楽郡鳳来町/2005年に編入合併)に生まれる。
ご両親と兄と妹の5人家族。少々、複雑な家庭で、実母は、奥村氏が生まれた頃に他界されている。当然、今の母は義母で、その親子の関係が、多少なりとも奥村氏の人生に影を落としている。
「兄が頭のいい人で、その兄とことあるごとに比較されて育ちました。でも、べつに兄弟の仲が悪いわけでも、義母との関係が悪いわけでもなかったんですが/笑」。
奥村氏が生まれた頃の、新城市はどんな街だったのだろう。
「今は、新城インターができたんで、もっと近いですが、昔は豊川インターが最寄りで、40分くらいかかりました」。
「小学校は、全校で生徒80人」とも言っているから、都会から離れた街だったのだろう。
この街で、義母は、実母の仕事も引き継ぐようにして、祖母といっしょに衣料店を経営した。父は、上場企業である「トピー工業」の豊川支店で勤務されていた。
奥村氏と言えば、とにかく、引っ込み思案で、素直だったそうだ。
ただ、引っ込み思案と言いながらも、小学生時代から副児童会長を務めている。
「中学からテニスをはじめました。私とテニスがマッチしたんでしょうね。副キャプテンを務め、なかりいい成績を残しました。でも、いい成績を残したのに、高校に進学してもテニス部から声がかからない。『アレ?』って感じで。ハイ、高校からは卓球です/笑」。
テニスや卓球をやりながら、実は、中・高でも生徒会の役員を務めている。みんなから推薦されるタイプなのだろう。ちなみに、高校での成績は入学当初13位。卒業する頃は30位。卓球や生徒会に奔走しながら、成績をちゃんとキープしているからすごい。
「すごいですか? なんだかんだいって、この頃がいちばんしんどかったですね。兄と比べられる。そのプレッシャーもハンパなかったですし、勉強の意味もわからなかった。親からも、みすてられていましたし…」。
「みすてられていた」と、奥村氏は辛辣な言葉を遣う。「高校時代には、もうもどりたくないですね」。その一言は、あながち、うそではないようだ。体より、心が疲れた3年間だったのかもしれない。

銀行、退職まで。

「高校を卒業したら、東京へ」と思っていた。
もっとも、父親からは「愛知大学へ行け」と言われていたそうだが。とにかく、早稲田、中央、明治を受け、なんとか明治の経営学部に滑り込む。
住まいは、三鷹に設けた。ちなみに、仕送り100,000円。当時なら、充分な額だ。
「そうですね。バイトはあんまりしてないですね。しないっていうか、できなかったというのが正直なところで」。
大学に進学すると、誘われるまま、すぐに合気道部の門を叩いた。女子もたくさんいたが、上下関係は、一般の部活動以上にきびしかった。返事に「NO」はない。
「私は、2年から明治大学の全部活43部をまとめる本部会に役員として参加します。たまたま輪番制でうちの部から1人ださないといけなかったんですね。それで、『奥村、行け』と/笑」。もちろん、「NO」はない。
有無もなく、参加した本部会だったが、ある意味、これが奥村氏の人生のターニングポイントとなる。
「学園祭などのイベントの企画・立案・実行。学園祭ともなれば大学全体ですから、予算もかなりの額です。また、各部のキャプテンとマネージャーで行う合宿を企画・実行したのも、いい思い出ですね」。
思い出だけではない。社会にでてからも、そうそう経験できない大規模なイベントの企画や立案、実行を通して、ちからと自信を育てた。それは、独りで生きていくという自信を生み出したのではないだろうか。
やがて明治大学を卒業した奥村氏は、都市銀行に就職。融資課に配属され、高い成績を残したが、お役所的な上司をみて興味をなくし、2年で、その銀行を退職している。
・・・続き
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