本文より~
インベーダーと大阪王将。
その昔、大阪では、国鉄の環状線はもちろん、私鉄のどの駅を降りても、駅前には「大阪王将」があった。メニューは、たしか餃子とビール。当時、高校生だった私は、友人といっしょに頻繁に餃子を食べに行った。「10人前食べれば、無料」。一度は、挑戦してみたかったが、いまだ出来ずじまいである。
ところで、以前、2代目社長である文野直樹氏を取材した際、昭和50年前半ばになって、業績が下降した要因としてインベーダーゲームの登場を挙げられていた。興味深い指摘だったので、いまも記憶している。
文野氏の言う通り、インベーダーゲームをはじめ、アーケードゲームの登場によって、「食」は、身近なレジャーの座を奪われたと言っていい。
ちなみに、当時、餃子1人前が100円。インベーダーゲームも100円。いままで100円玉をにぎって大阪王将に向かっていた学生たちが、同じように100円玉をにぎりゲームセンターへ向かった。いまになって思えば、インベーダーたちは、大阪王将のファンを狙い撃ちしたかのようである。
さて、その「大阪王将」。
いまではご存じのように、餃子とビール以外にも、バラエティ豊かな料理の数々がある。郊外に出店するなど、駅前というイメージも薄れてきているのではないか。その「大阪王将」を運営してきたイートアンドは、「大阪王将」以外にもラーメン店の「よってこや」など多数のブランドを展開している。
ただ、それだけではない。
文野氏を取材した際、今後は食品メーカーに舵を切るようなお話しをされていた。具体的には「中食」と「内食(冷凍食品)」を挙げられていたはずだ。
その一つ、「冷凍食品」がいまや外食と匹敵する規模に育っていると伺った。立役者は、ダイエーで勤務されてきた仲田浩康氏。今回、ご登場いただいた飲食の戦士である。
ところで、以前、2代目社長である文野直樹氏を取材した際、昭和50年前半ばになって、業績が下降した要因としてインベーダーゲームの登場を挙げられていた。興味深い指摘だったので、いまも記憶している。
文野氏の言う通り、インベーダーゲームをはじめ、アーケードゲームの登場によって、「食」は、身近なレジャーの座を奪われたと言っていい。
ちなみに、当時、餃子1人前が100円。インベーダーゲームも100円。いままで100円玉をにぎって大阪王将に向かっていた学生たちが、同じように100円玉をにぎりゲームセンターへ向かった。いまになって思えば、インベーダーたちは、大阪王将のファンを狙い撃ちしたかのようである。
さて、その「大阪王将」。
いまではご存じのように、餃子とビール以外にも、バラエティ豊かな料理の数々がある。郊外に出店するなど、駅前というイメージも薄れてきているのではないか。その「大阪王将」を運営してきたイートアンドは、「大阪王将」以外にもラーメン店の「よってこや」など多数のブランドを展開している。
ただ、それだけではない。
文野氏を取材した際、今後は食品メーカーに舵を切るようなお話しをされていた。具体的には「中食」と「内食(冷凍食品)」を挙げられていたはずだ。
その一つ、「冷凍食品」がいまや外食と匹敵する規模に育っていると伺った。立役者は、ダイエーで勤務されてきた仲田浩康氏。今回、ご登場いただいた飲食の戦士である。
高卒、巨大な流通企業で暴れる。
仲田氏は、1964年4月26日、大阪の豊中市に生まれる。3人きょうだいの長男。父親は印刷会社を経営していた。少年時代は、だれもが慕うリーダー的存在。
運動はできるほうだったが、勉強は「まぁまぁだった」と笑う。
「旅行に行った記憶は少ないですが、外食は多かったですね。昔ですからね。外食はそれほど、日常的ではなかった。そういう意味では、珍しいほうだったと思います」。もっとも、レストランと言えるようなシャレた店ではない。「ごはんやさんです/笑」と仲田氏。
「躾は、きびしくなかったんじゃないかな。ノビノビ、放任主義です」。少年野球ではキャプテン。人気者だった。
中・高は、仲田氏曰く、「なんちゃって」野球部。高校卒業後は大学に進学せず、はたらきはじめた。就職先は、当時、流通業界のトップランナーだったダイエーである。
「配属されたのは、魚売り場でした。いちおうサラリーマンなんですが、商売人ぽい仕事です」。実は、仲田氏。「父親をみていたから、経営者ではなくサラリーマンになりたかった」そう。経営の難しさを、理解していたからだろう。
「ただ、その一方で、商売に興味があったのは事実です」。
もともと、やんちゃな性格である。型にハマるのがいやだった。だから、お世辞にも態度がいいとは言えない。しかし、結果で周りを黙らせた。
23歳で主任に昇格。異例中の異例だったそう。学歴など関係なかった。商売人の素地が群を抜いていた証でもある。それからも目をひくように出世し、27歳でシニアマネージャー、31歳で課長、32歳で副支配人になっている。
「人生のターニングポイントを挙げると、3つです。一つは、ダイエーという巨大な流通会社に就職できたこと。そして、そのダイエーで経営のノウハウを吸収できたこと。もう一つはイートアンドの面接をうけたことです」。
副支配人といっても、巨大なダイエーからすれば、末端である。できることは、少ない。ならば、と転職を決意しても不思議ではない。
仲田氏のダイエー時代が幕を閉じる。
運動はできるほうだったが、勉強は「まぁまぁだった」と笑う。
「旅行に行った記憶は少ないですが、外食は多かったですね。昔ですからね。外食はそれほど、日常的ではなかった。そういう意味では、珍しいほうだったと思います」。もっとも、レストランと言えるようなシャレた店ではない。「ごはんやさんです/笑」と仲田氏。
「躾は、きびしくなかったんじゃないかな。ノビノビ、放任主義です」。少年野球ではキャプテン。人気者だった。
中・高は、仲田氏曰く、「なんちゃって」野球部。高校卒業後は大学に進学せず、はたらきはじめた。就職先は、当時、流通業界のトップランナーだったダイエーである。
「配属されたのは、魚売り場でした。いちおうサラリーマンなんですが、商売人ぽい仕事です」。実は、仲田氏。「父親をみていたから、経営者ではなくサラリーマンになりたかった」そう。経営の難しさを、理解していたからだろう。
「ただ、その一方で、商売に興味があったのは事実です」。
もともと、やんちゃな性格である。型にハマるのがいやだった。だから、お世辞にも態度がいいとは言えない。しかし、結果で周りを黙らせた。
23歳で主任に昇格。異例中の異例だったそう。学歴など関係なかった。商売人の素地が群を抜いていた証でもある。それからも目をひくように出世し、27歳でシニアマネージャー、31歳で課長、32歳で副支配人になっている。
「人生のターニングポイントを挙げると、3つです。一つは、ダイエーという巨大な流通会社に就職できたこと。そして、そのダイエーで経営のノウハウを吸収できたこと。もう一つはイートアンドの面接をうけたことです」。
副支配人といっても、巨大なダイエーからすれば、末端である。できることは、少ない。ならば、と転職を決意しても不思議ではない。
仲田氏のダイエー時代が幕を閉じる。
「大阪王将」に転職。
「まさか、私が社長になるとは思っていなかったし、打診された時も、実はお断りしたんです。文野会長とは5歳くらいしか離れていないし、禅譲なんてイメージでもなかったですからね/笑」。
本人がどう思ったとしても、文野氏は、もう決めておられたのだろう。食品事業の立役者である仲田氏以外、いまからの「大阪王将」の舵を取れる人間はいない、と。
すでに書いた通り、今では、外食事業と食品事業の事業比率は50対50となっている。仲田氏が仕掛けた「冷凍食品」、なかでも、<水も油もいらない羽根つき餃子>が急速に市場に浸透したからだ。(現在では<油・水・フタもいらない羽根つき餃子>へと進化している)
「ダイエーを退職して、イートアンドに転職したのは36歳。2000年の8月です。ええ、紹介やヘッドハンティングとかではなく、ふつうに転職雑誌をみて」。
給料も大幅に下がったそうだ。大阪王将では、一兵卒。経験でひいきもされなかったから、当然といえば当然だ。とはいえ、具体的な数字を聞いてわかったが、相当な落差があったのは事実。何が、それほどまでに仲田氏を惹きつけたのだろう。
「一口で言えば、『大阪王将』という会社の可能性かもしれません。私自身、一兵卒で入社するんですが、入社1年ぐらいで部門長に就任します。会社に、可能性があるからですね。当時の社長、文野からは『外食以外を大きくしてくれ』と言われます。当時は、外食が60億円、食品が5億円。外食以外を大きくするのが私のミッションですから、まずは、この5億円をどう大きくするか、です」。
実は、仲田氏は、イートアンドの株式上場にも貢献している。当時、常務だった仲田氏は、プロジェクトリーダーとなり、上場まで導いている。この上場においても、「食品事業」に対する評価はカギになったはずである。
「我々にとって大きな転機だったのは、生産事業に舵を切ったことだと思っています。外食事業も、食品事業も出口という発想です。つまり、収益の源泉がどこにあるかというと、外食でも、食品でもなく、生産機能なんです」。
むろん、「大阪王将」という絶対的なブランドがある。そのブランドによって、食品事業が成り立っているのは間違いない。つまり、「大阪王将」というブランドが、収益の根源でもあるのだ。このちからを、外食だけではなく、食品にも展開し、押し広げたことが仲田氏の功績だろう。
もっとも、いかに「大阪王将」のブランドをもってしても、「最初は、まるで相手にされなかった」と仲田氏はいう。いくぶんか怒りのニュアンスを含んだ、その口ぶりから、当時、第一線で奮闘した仲田氏の姿が思い浮かぶ。
ともかく、仲田氏の話を聞いていると、何度も「生産事業」というキーワードが登場する。この言葉が、ユニークだ。そもそも、外食企業が「食品事業」の比率を、これほどまでに高めた例はほかにないし、この言葉自体が「大阪王将」の原点回帰を表しているような気がするからだ。
本人がどう思ったとしても、文野氏は、もう決めておられたのだろう。食品事業の立役者である仲田氏以外、いまからの「大阪王将」の舵を取れる人間はいない、と。
すでに書いた通り、今では、外食事業と食品事業の事業比率は50対50となっている。仲田氏が仕掛けた「冷凍食品」、なかでも、<水も油もいらない羽根つき餃子>が急速に市場に浸透したからだ。(現在では<油・水・フタもいらない羽根つき餃子>へと進化している)
「ダイエーを退職して、イートアンドに転職したのは36歳。2000年の8月です。ええ、紹介やヘッドハンティングとかではなく、ふつうに転職雑誌をみて」。
給料も大幅に下がったそうだ。大阪王将では、一兵卒。経験でひいきもされなかったから、当然といえば当然だ。とはいえ、具体的な数字を聞いてわかったが、相当な落差があったのは事実。何が、それほどまでに仲田氏を惹きつけたのだろう。
「一口で言えば、『大阪王将』という会社の可能性かもしれません。私自身、一兵卒で入社するんですが、入社1年ぐらいで部門長に就任します。会社に、可能性があるからですね。当時の社長、文野からは『外食以外を大きくしてくれ』と言われます。当時は、外食が60億円、食品が5億円。外食以外を大きくするのが私のミッションですから、まずは、この5億円をどう大きくするか、です」。
実は、仲田氏は、イートアンドの株式上場にも貢献している。当時、常務だった仲田氏は、プロジェクトリーダーとなり、上場まで導いている。この上場においても、「食品事業」に対する評価はカギになったはずである。
「我々にとって大きな転機だったのは、生産事業に舵を切ったことだと思っています。外食事業も、食品事業も出口という発想です。つまり、収益の源泉がどこにあるかというと、外食でも、食品でもなく、生産機能なんです」。
むろん、「大阪王将」という絶対的なブランドがある。そのブランドによって、食品事業が成り立っているのは間違いない。つまり、「大阪王将」というブランドが、収益の根源でもあるのだ。このちからを、外食だけではなく、食品にも展開し、押し広げたことが仲田氏の功績だろう。
もっとも、いかに「大阪王将」のブランドをもってしても、「最初は、まるで相手にされなかった」と仲田氏はいう。いくぶんか怒りのニュアンスを含んだ、その口ぶりから、当時、第一線で奮闘した仲田氏の姿が思い浮かぶ。
ともかく、仲田氏の話を聞いていると、何度も「生産事業」というキーワードが登場する。この言葉が、ユニークだ。そもそも、外食企業が「食品事業」の比率を、これほどまでに高めた例はほかにないし、この言葉自体が「大阪王将」の原点回帰を表しているような気がするからだ。
・・・続き
0 件のコメント:
コメントを投稿