本文より~
漫才師志望。
「大学3年と4年の時ですね。2年間、休学して吉本興業の『東京NSC』に入学。相方をみつけて。そう、漫才です」。
漫才師。
「その時の校長がシャレにならないくらい、めちゃめちゃな人で。ええ、怖いんです。でも、不思議ですね、その時の教えは、今も忘れてませんもんね/笑」。
今回、ご登場いただいた有限会社幸永の平山敬裕氏は、1973年、東京の新宿に生まれている。4人きょうだいの長男。他は全員、女性。
「生まれてから、そうですね、7歳まではぼっちゃんです。でも、逆に7歳から14歳までは極貧。小学1年の時に、夜逃げも経験しています」。
当時の新宿は、どんな街だったのだろう。
「母は、夜の仕事をしていました。父親は3年くらい行方不明です/笑」。
「結構、頭はいいほうでした。中学受験して、早稲田実業の中等部へ進学します。はい、高校、大学と早稲田です。我が家は、私が12歳の時から母親がキムチの店をはじめて、極貧を脱出します。おかげ様で、中学時代の3年間は、野球漬け毎日を送ることができました。高校でもつづけたかったんですが、何しろ、早稲田実業ですからね。明らかにレベルが違いすぎて、断念しました」。
野球を断念し、アメフトに転向する。
高校時代3年間は、楕円形のボールを追いかけて過ぎていった。
漫才師。
「その時の校長がシャレにならないくらい、めちゃめちゃな人で。ええ、怖いんです。でも、不思議ですね、その時の教えは、今も忘れてませんもんね/笑」。
今回、ご登場いただいた有限会社幸永の平山敬裕氏は、1973年、東京の新宿に生まれている。4人きょうだいの長男。他は全員、女性。
「生まれてから、そうですね、7歳まではぼっちゃんです。でも、逆に7歳から14歳までは極貧。小学1年の時に、夜逃げも経験しています」。
当時の新宿は、どんな街だったのだろう。
「母は、夜の仕事をしていました。父親は3年くらい行方不明です/笑」。
「結構、頭はいいほうでした。中学受験して、早稲田実業の中等部へ進学します。はい、高校、大学と早稲田です。我が家は、私が12歳の時から母親がキムチの店をはじめて、極貧を脱出します。おかげ様で、中学時代の3年間は、野球漬け毎日を送ることができました。高校でもつづけたかったんですが、何しろ、早稲田実業ですからね。明らかにレベルが違いすぎて、断念しました」。
野球を断念し、アメフトに転向する。
高校時代3年間は、楕円形のボールを追いかけて過ぎていった。
なんでもできる。天才の憂鬱。
「大学時代は部活なしです。私が20歳の時に母はキムチ店をリニューアルし、焼肉店をオープンします。15坪で、30席です。私も手伝います」。
最初に言っておくと、こちらがいまの本店にあたる。
「母は根っからの商売人でだったので、常々『サラリーマンにはなるな』とヘンなハッパをかけられました。それで、というわけではないんですが…」。
冒頭で書いたように、漫才師をめざす。
むろん、成功するのはひとにぎり。平山氏も、漫才師になるべくスタートしてから2年後に大学にもどっている。
「ただ、大学だけではなく簿記の学校にも通っていました。起業するにしても、とにかく数字が読めないといけないと思ったからです」。
もともと頭はいい。漫才師は断念する羽目になったが、それとて挫折のなかには入らない。「やれば、たいていのことはできる」。自信だけは何故かある。
ただ、何をしたいのかがわからない。天才の憂鬱である。
むろん、過剰な自信だとは薄々気づいていた。たしかに、いままでなんでもできたのも事実だが、そんなにうまくいく時ばかりではないことも知っている。ただ、頭をうったことがなかった。
「なんでもできると思っていて、4年間くらいいろんなことをやったんですが、ぜんぜんうまくいきませんでした。それで、26歳の時ですね。母親に頭を下げ、母が経営する店に入れてもらったんです」。
模索時代を第一とすれば、第二の人生がスタートする。
垂れた頭が、2つの時代を明確にわけている。
最初に言っておくと、こちらがいまの本店にあたる。
「母は根っからの商売人でだったので、常々『サラリーマンにはなるな』とヘンなハッパをかけられました。それで、というわけではないんですが…」。
冒頭で書いたように、漫才師をめざす。
むろん、成功するのはひとにぎり。平山氏も、漫才師になるべくスタートしてから2年後に大学にもどっている。
「ただ、大学だけではなく簿記の学校にも通っていました。起業するにしても、とにかく数字が読めないといけないと思ったからです」。
もともと頭はいい。漫才師は断念する羽目になったが、それとて挫折のなかには入らない。「やれば、たいていのことはできる」。自信だけは何故かある。
ただ、何をしたいのかがわからない。天才の憂鬱である。
むろん、過剰な自信だとは薄々気づいていた。たしかに、いままでなんでもできたのも事実だが、そんなにうまくいく時ばかりではないことも知っている。ただ、頭をうったことがなかった。
「なんでもできると思っていて、4年間くらいいろんなことをやったんですが、ぜんぜんうまくいきませんでした。それで、26歳の時ですね。母親に頭を下げ、母が経営する店に入れてもらったんです」。
模索時代を第一とすれば、第二の人生がスタートする。
垂れた頭が、2つの時代を明確にわけている。
極ホルモンで、月商が1000万円アップする。
「当時、月商は300万円ないくらいでした。社長が親だからって甘えられない。母は、そういうのを許す人でもない。私の給料を払わないといけないから、営業時間も延長しました。私は、朝から晩まではたらき、メニューもすべて頭と腕に叩き込みます。仕入れにも行き、お肉屋さんとも親しくなります。『極ホルモン』を開発したのは、この頃です」。
「極ホルモン」は、脂身の甘味が旨く、「いままでのホルモンの常識を覆す」絶品だった。絶品のちからは、数字にもすぐに表れた。
「2年はかかったと思いますが、月商は300万円から1300万円まで跳ね上がります。ハイ、そうです。1000万円アップです」。
売り上げアップは嬉しいが、目が回る忙しさだった。オープンからクローズまで客が途絶えない。むろん、平日も、休日もおかまいなしに、客は来る。だから、平山氏のお休みは年10日だった。シャレにならない。
「そうですね。経営者だから許されるわけですが。ありえないですね。でも、大学の同期は、40代で年収1000万円を超えると思うんですね。だから負けたくない、と。ま、必死です/笑」。
勝ち負けが、原動力になるケースは少なくない。
ただ、経営者は突っ走るだけでは、務まらない。
「極ホルモン」は、脂身の甘味が旨く、「いままでのホルモンの常識を覆す」絶品だった。絶品のちからは、数字にもすぐに表れた。
「2年はかかったと思いますが、月商は300万円から1300万円まで跳ね上がります。ハイ、そうです。1000万円アップです」。
売り上げアップは嬉しいが、目が回る忙しさだった。オープンからクローズまで客が途絶えない。むろん、平日も、休日もおかまいなしに、客は来る。だから、平山氏のお休みは年10日だった。シャレにならない。
「そうですね。経営者だから許されるわけですが。ありえないですね。でも、大学の同期は、40代で年収1000万円を超えると思うんですね。だから負けたくない、と。ま、必死です/笑」。
勝ち負けが、原動力になるケースは少なくない。
ただ、経営者は突っ走るだけでは、務まらない。
・・・続き
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