in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社翠葉 代表取締役 浅野宜貴氏登場。
本文より~
中国、福建省。
福建省は、中国の南東部に位置する。今回、ご登場いただいた浅野宜貴氏が、福建省に生まれたのは1966年12月25日。六人兄弟の四男。
「私が生まれたのは、福建省のなかでも田舎のほうです。父は共産党員で、日本でいうならば公務員のような仕事をしていました。ただ日本と違って、当時の、中国の公務員の給料は、ぜんぜんです。私たちは、小さな頃から母といっしょに畑仕事をして暮らします」。
さつまいもを細く切って干す。それが、ひと冬明ければ、食料になる。ただ、両親と兄弟6人が食べていくだけの米がない。
「だから、お母さんは、ほとんど料理を口にしません。経済的には恵まれてなかったですが、親子はもちろん兄弟同士のきずなもつよく、両親は、私たちにちゃんと期待してくれていました」。
なかでも四男の浅野氏は、もっとも期待されていた。村いちばんの神童だったからである。
「当時は、中卒もふつうです。田舎ですからね。私の兄弟も、私以外はだれも大学に進んでいません。幸い、私は勉強ができたし、みんながそれを応援してくれたから、大学に進学できたんです」。
学校から帰ると、兄弟たちは畑仕事をはじめている。浅野氏は、料理などを担当した。いつのまにか、兄弟たちの期待も、浅野氏に寄せられていったのではないだろうか。
「田舎には、チャンスがないんです。私は、大学で都会に出ましたから。そのぶん、兄弟たちが観たこともない世界を観たとも言えますね」。
進んだのは、福建省にある、師範大学。先生養成学校だ。ただ、浅野氏は、せっかく入学した大学を中退する。そのいきさつを聞くと、改めて、当時の中国と日本の格差が浮かび上がる。
来日。時給500円のアルバイト。
「実は、次男が私より先に日本に渡ります。我が家の開運はそこからスタートします」。
次男が、日本で生活できるようになった頃、浅野氏も大学を中退し、来日する。
「日本という国に行けば、運が開ける。私も、それに賭けたんです。中国で大学生をするより、チャンスがある。やがて三男も、五男も、六男も。つまり、長男以外、全員、来日します。いまでは帰国した者もいますが、全員、日本で運を開いたといっていいでしょうね。日本は、そういう国だったんです。当時の我々、中国人からすれば」。
浅野氏が来日するのは、1988年。日本が、ある意味、いちばん光る時。異国の方からすれば、まぶしい国だったに違いない。
「最初は、兄の紹介で、横浜中華街で仕事をします。時給500円でした。兄は、コックでしたが、私はホール。でも、日本語ができません。お皿を下げるくらいしかできなかったですね。それから、日本語学校にも通います。葛飾区の平井駅のちかくです。」
時給500円。学校にも通っているから、長くは勤務できない。
「将来が心配ですね。どうしようか、と。ある人に相談し、兄に別れを告げて、東京で暮らしはじめます。新しい店は時給800円。終電ギリギリまではたらきました。そんな時、学校のともだちから、新しいバイト先を紹介してもらうんです。紹介されたのは、現場監督をされている人でした。私の恩人です」。
一号店、オープン。
「それまでは、飲食ですが、それから建設現場の仕事をはじめます。いわゆる3Kです。でも、お金がいい。1日はたらけば2万円。いいでしょ。現場監督をされている人にも親切にしていただいて、実は、外国人たちの元請けのようになり、月に200万円くらい稼ぐようにもなりました」。
月200万円とはすごい。
「もっとも稼いだお金は、仕送りしますから、手元には残りません。1990年に結婚するんですが、その時にも200万円くらいの借金があったくらいですから/笑」。
家族のため。兄弟のため。中国では、それが当然だった。むろん、妻のため、我が子のためもある。
「結婚して、そうですね。彼女も、中華街で仕事をしていたもんですから、結婚した平成4年に横浜市の南区に飲食店を開業します。ハイ、それが一号店です」。
新たな未来へための一歩。
この時のビルのオーナーとの出合いにも浅野氏は深く感謝している。
「だって、たいてい話も聞いてくれないんです。でも、そうでしょうね。実績もないにもないんだから。中華街に出店したかったんですが、まったく話になりません。だから、あのオーナーがいなければ、いまのうちはないんです」。
ただ、そのオーナーのビルは南区だった。中華街ではない。
「それがわからなかったんですね。だから、中華街と同じようにしてしまうんです。けっして高級店ではなかったんですが、それでも、酢豚1500円、エビチリ2000円です」。
最初は、よかったそうだ。まだ、バブルの余韻が残っていたから。月商は300万円。悪くない。
業績悪化とV字回復。神が舞い降りる。
「でも、だんだん下がって、200万円を切るようになります。そうなると、赤字です。どうしようもない。私はコックじゃないから、私だけ店を離れて昔の仕事をしようかとも考えました。でも、そうはいかない」。
いくら頑張っても振り向いてくれなかった運が、ほほ笑んだのは、ある物件を手にしてからだった。
「もう、追い込まれていたんですね。出前もするようにして。ただ、家賃もそうだし、人件費もそれなりに高かった。だから、いま言ったように昔の仕事をするかとも思ったんですが。そうじゃないな、と。ここは、攻め時だって、考えを改めたんです。そうしないと、いつまで経っても『あした』がない」。
平成9年になっていた。
一号店を出店して5年。
「不動産屋さんに声をかけていたんです。どこかにいい物件ないですか?って。その時に、紹介いただいたのが、いま本社ビルとなっている、ここです」。
もともとはラーメン店だった。立地は悪くないが、経営がうまくいかなかったようだ。ただ、浅野氏の目には、申し分なく映ったそう。最初は、居抜き。800万円で店だけ取得した。
「このあたりは東京で言えば、歌舞伎町なんです。深夜になっても客足が絶えません。ラーメンに、お酒に。月商は600万円になり、利益がでます。そして、これを境に、三号店、四号店と、私の快進撃が始まるんです。まるで、神が舞い降りたようなもんですね」。
この物件によって、人生がかわったと浅野氏は大げさなことをいう。しかし、浅野氏にとっては、まぎれもない事実だった。もちろん、それだけではない。出会った人、すべてを尊敬し、出会いに感謝する。
出会いから、生まれた人脈はいま、さらに広がっている。新聞社やTV局の経営者とも深くつながっている。
知人から勧められたゴルフを通して、輪はさらに広がった。
実はいま「ジュニア育成トーナメント」なるものまで開催している。