2019年1月22日火曜日

フクモチック有限会社 代表取締役社長 茂木貴彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”フクモチック有限会社 代表取締役社長 茂木貴彦氏登場
本文より~

幼少期に培われた、商売への熱意。

1974年、群馬県藤岡市に生まれる。団塊ジュニアと呼ばれる、競争が激しい世代。茂木家は商売人一族で、曾祖父が骨董屋、祖父が団子屋、父は建築関係の商売をしていた。その為、茂木氏は物心つく頃から、商売をやることを考え、家業を継ぐつもりだった。
「自分が幼い頃、家はとても貧しかったです。生まれた家は、商店街の中の借り家でした。隣の呉服屋が大家でしたが、雨が降ると雨漏りがひどく、家じゅうに鍋や桶、ごみ箱などを置いて、雨を受けていたのを覚えています。曾祖父が遊び人で、お金を使い切ったと聞いています。祖父は病弱で50代で亡くなり、父は若い頃は苦労していたのだと思います」。
それなのに、母親が教育熱心だったこともあり、3歳の頃から、様々な習い事は始まった。音楽教室やお絵かき教室、習字に英語、学習塾など、様々な塾へ通った。
「母親からは『将来は大学へ行って、公務員になってね』と、いつも言われていました。しかし、どこかいい加減でいながらも成功していく父親を見ていて、『自分ならもっと上手に商売ができるのではないか』と思うようになり、商売への熱はさらに大きくなっていきました」。
小学校1年から始めた剣道では、県大会だけではなく、全国大会にも出場している。当時の剣道の世界は、上下関係がとても厳しく、過酷なイジメやシゴキを経験。「こんなにつらいことは、この先の人生では2度とないだろうな」という思いを、合宿などでは経験していたという。
剣道を続けながら、高校生活を経て、その後、帝京大学へ入学と同時に上京する。

アメリカの空の下で、世界を意識する。

東京で一人暮らしを始めると、今までの「受験勉強・学習塾・剣道・教育熱心な親」の束縛からの解放で、極端に遊ぶようになったという。
「母親はあいかわらず公務員や一般企業への就職を望んでいましたが、私の気持ちは家業を継ぐため、4年間だけ東京にいるつもりでした。サーフィン、スノーボード、パーティー、サークル活動、車など、アルバイトと遊びに精を出し、学校へは単位を取る為だけに必要最低限通っていました。今思えば、あの時にもっと経営を勉強していれば・・・と思いますね(笑)。経営学部だったのに、まったく勉強してなくて、卒業して経営者になってから経営本買って勉強してましたので。私立の大学なので、学費も高かったし、親が全額負担してくれたのに、親不孝だったなと思います」。
家業を継ぐための研修先として、埼玉県のサッシ問屋への就職を大学3年の時に決めた。その為、まともな就職活動もせず、のんきに大学生活を送っていたという。
しかし、大学4年の夏休みに行った初めての海外旅行が、彼の将来を全く別のものにするターニングポイントとなる。
カリフォルニアの州都、サクラメントの大学へ通っている友人宅に、3週間ホームステイをした。この時にカルチャーショックを受け、「世界」を感じることになる。
「このまま家業を継ぐために、群馬県に帰ることでいいのか、疑問に思いました。人生がそこで終わってしまうような気がして。世の中には、もっと大きな世界があると気づきました」。
子供の頃から、家業を継ぐことしか考えてなかったので、この時からタイムリミットとなる卒業まで、悩み続け、「あいつはおかしくなってしまった」と友人に心配されるくらいだったという。
その後、内定が決まっていたサッシ問屋へ断りを入れ、親に「自分のやりたいことができた。東京に残る」と伝えた。
そうして、アルバイトすらしたことがなかった「飲食業」の世界へ入ることとなる。
様々な店の中から調布にある創作和食の店を選び、門を叩く。海外で勝負するなら、「和食」だと考えたからだ。

下積みから、オックスフォードへ。

「母親からは、飲食業に入ることは、とても反対されました。飲食業をやらせる為に、大学に行かせたわけではないと。様々な塾へ通わせてくれたものが、すべて無駄になると思ったのでしょうね」。
そんな反対の中、飲食業へ足を踏み入れたが、その厳しさに最初はとても苦労することになる。
「大学時代、たくさんのバイトをしていたのに、飲食業はやってことがなかったのです。やっておけばよかった。笑。まったくのド素人でしたし、センスもなかったのですかね。試用期間3か月で、社員にしてもらえませんでした。そのまま試用期間を3か月継続って感じです。でも、やる気だけは誰にも負けなかったので、毎日料理本を読み、勉強していました。それを実践で試したいから、賄い係をやらせてくれと訴え、毎日賄いを作っていました。しかし、その賄い作りが遅くて、何時間もかけるので、ますます怒られていましたね」。
調布のビジネスホテルに併設する創作和食居酒屋だったが、70席ほどの店で、魚の捌き方から、焼き物まで、すべての調理をやらせてもらうことができたという。およそ2年間、下積みの修業はつづく。
就職と同時に、英会話教室にも通いはじめ、英語の勉強も続ける。
給料が安かったので、料理本を買うお金も満足になく、出勤前に毎日、図書館で料理本を読んで勉強をしていたという。
「2年が経過したころ頃ですね。友人から、イギリスで飲食店経営をしている香港人オーナーが「日本人のシェフを探している」という話がきました。それで、チャンスだと決断し、すぐに履歴書を英文で書いて送り、採用が決まりました」。
ロンドンから車で2時間ほどの距離にある学生の街、オックスフォードの中心にある、200席ほどの「モンゴリアンバーベキュー」の店がその香港人オーナーの店で、その地下に日本食レストランを作ったという。
「30席くらいの小さな店を作りました。やったことないのに寿司を握ったり、ラーメンも作りました。ラーメンのスープの作り方は、そのオーナーから教わりました。マグロが欲しいと伝えたら、まるまる1匹来たりして、15㎝くらいのアジ用の出刃包丁で、150㎝くらいあるマグロをさばきましたね」。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

0 件のコメント:

コメントを投稿