本文より~
野球と新聞配達の二刀流。
八幡町というより、徹夜踊りと城下町で有名な「郡上八幡」といったほうが、通りがいいだろう。岐阜県にある昔ながらの町である。今回、ご登場いただいた味の民芸フードサービス株式会社、代表取締役の大西氏は1962年、この郡上八幡に生まれている。
「長男だから両親は当然、期待します。でも、ぜんぜん勉強しない、期待外れの少年でした/笑」と大西氏。
「少年時代、自慢できるものっていったら。そうですね、小学4年生から夕刊を配りはじめて、高校3年まで9年間もつづけたことかな。これは、数少ない自慢の一つです」。
小学生から野球もはじめている。こちらも高校3年までつづけているから、野球と新聞配達の二刀流だ。
「お金が欲しいからじゃないです。先輩を真似て、一度、興味本位で試してみたら、案外、しんどくなくって。そもそも、一度始めれば、なかなか辞められない性格なんです」。
高校3年まで、ほぼ休んだ記憶はない。
だから、家族旅行の思い出もないそうだ。
「中学から、朝刊に替わります。部活があって、夕方は無理になったからです」。
中学進学。「辞める絶好のチャンスじゃないか」と、こちらはつい、そう思ってしまったが、そうじゃなかった。
朝、新聞を配る。それから、朝練。高校になれば、夜まで練習はつづいた。さすがに勉強の時間も、気力もない。「そうですね。ま、時間があっても勉強はしなかったと思いますが…/笑」。
進学するつもりもなかったそう。ただ、「就職もヤだな」と思っていたらしい。
「それで調理の専門学校に進みました。ちょうどいい選択かな、と。1年の執行猶予ですね」。
「長男だから両親は当然、期待します。でも、ぜんぜん勉強しない、期待外れの少年でした/笑」と大西氏。
「少年時代、自慢できるものっていったら。そうですね、小学4年生から夕刊を配りはじめて、高校3年まで9年間もつづけたことかな。これは、数少ない自慢の一つです」。
小学生から野球もはじめている。こちらも高校3年までつづけているから、野球と新聞配達の二刀流だ。
「お金が欲しいからじゃないです。先輩を真似て、一度、興味本位で試してみたら、案外、しんどくなくって。そもそも、一度始めれば、なかなか辞められない性格なんです」。
高校3年まで、ほぼ休んだ記憶はない。
だから、家族旅行の思い出もないそうだ。
「中学から、朝刊に替わります。部活があって、夕方は無理になったからです」。
中学進学。「辞める絶好のチャンスじゃないか」と、こちらはつい、そう思ってしまったが、そうじゃなかった。
朝、新聞を配る。それから、朝練。高校になれば、夜まで練習はつづいた。さすがに勉強の時間も、気力もない。「そうですね。ま、時間があっても勉強はしなかったと思いますが…/笑」。
進学するつもりもなかったそう。ただ、「就職もヤだな」と思っていたらしい。
「それで調理の専門学校に進みました。ちょうどいい選択かな、と。1年の執行猶予ですね」。
先生から告げられた。「住み込み付きの、いいバイトがある」。
「こうして振り返ると、ぜんぜん努力してないですね。たしかに、新聞配達はしましたけど、特別、苦にならなかっただけの話。部活も、お世辞にも一生懸命だったとは言えない。結局、調理の専門学校に決めたのも就職するのがイヤだっただけだし…」。
ご両親は、しきりに「公務員になれ」と勧められたそうだ。なるつもりはない。「そもそも、勉強もできないのに、なれるわけがないでしょ」と大西氏は笑う。ともかく、そういう経緯で、大西氏は専門学校に進んだ。
校舎は、名古屋にあった。八幡から通うには遠すぎる。
「それで、専門学校の先生に相談したら、住み込みのバイトがあるっていうんですね。いいでしょ。私にピッタリだ。それで、先生にお願いして。ええ、それがサガミとの出合いでした」。
住み込みのアルバイト。当然、学校とバイトの掛け持ち。「当時、私みたいな学生が10人くらいいたでしょうか」。
大西氏は「人生がかわったのは、サガミのおかげ」という。ボンクラだった人間に、一本の筋が通る、というイメージなんだそう。「ただね。そう思うのは、もう少しあとの話で、最初は、住むところがあったからだし、女の子が多いからいいやくらいに思っていたんです」とのこと。
八幡の田舎者にとって、名古屋は大都会だった。18歳の少年にとっては、それだけで胸がふくらんだ。
ご両親は、しきりに「公務員になれ」と勧められたそうだ。なるつもりはない。「そもそも、勉強もできないのに、なれるわけがないでしょ」と大西氏は笑う。ともかく、そういう経緯で、大西氏は専門学校に進んだ。
校舎は、名古屋にあった。八幡から通うには遠すぎる。
「それで、専門学校の先生に相談したら、住み込みのバイトがあるっていうんですね。いいでしょ。私にピッタリだ。それで、先生にお願いして。ええ、それがサガミとの出合いでした」。
住み込みのアルバイト。当然、学校とバイトの掛け持ち。「当時、私みたいな学生が10人くらいいたでしょうか」。
大西氏は「人生がかわったのは、サガミのおかげ」という。ボンクラだった人間に、一本の筋が通る、というイメージなんだそう。「ただね。そう思うのは、もう少しあとの話で、最初は、住むところがあったからだし、女の子が多いからいいやくらいに思っていたんです」とのこと。
八幡の田舎者にとって、名古屋は大都会だった。18歳の少年にとっては、それだけで胸がふくらんだ。
「ぼくはお金で動く男ではないですよ」。アルバイター、創業者に啖呵を切る。
バイトでは、一つだけ得意なことがあった。「料理のセットが、いちばん早かったんです。それで、重宝してもらって。バイトなんですが、オープニングには決まって呼ばれました。オープンは忙しいでしょ。だからね。ありがたかったのは、オープニングには創業者もいらっしゃるから、何かと声をかけていただいたことですね」。
一度、創業者から「学費は、ぜんぶだしてやる。だから、正社員になれ」と誘われたそうだ。「でも、あの頃から、生意気な奴でね。ぼくはお金で動く男ではないですよって、偉そうにね」。
当時、サガミチェーンは、出店ラッシュを開始するタイミングだったそう。新卒採用も積極的に行い、大西氏も結局、専門学校卒と同時に入社するのだが、その時は70人くらいの同期がいたという。「最初は、店長に歩き方が悪いなんて言われたもんです。でも、新卒で入社する時には、バイトですが、もう1年やっているから慣れたもんです。創業者にも知ってもらっていましたしね」。
最初から、頭一つ抜けていたのではないだろうか。トントン拍子で出世する。
一度、創業者から「学費は、ぜんぶだしてやる。だから、正社員になれ」と誘われたそうだ。「でも、あの頃から、生意気な奴でね。ぼくはお金で動く男ではないですよって、偉そうにね」。
当時、サガミチェーンは、出店ラッシュを開始するタイミングだったそう。新卒採用も積極的に行い、大西氏も結局、専門学校卒と同時に入社するのだが、その時は70人くらいの同期がいたという。「最初は、店長に歩き方が悪いなんて言われたもんです。でも、新卒で入社する時には、バイトですが、もう1年やっているから慣れたもんです。創業者にも知ってもらっていましたしね」。
最初から、頭一つ抜けていたのではないだろうか。トントン拍子で出世する。
あこがれは、やっぱり店長。
「当時店長はあこがれ、花形でしたね。ただ、サガミの店って、だいたい年商2億円くらいの大型店なんです。そう、簡単に店長にはなれません。だいたい6年くらいが、平均じゃないでしょうか」。そのなかで、大西氏は3年目で1号店本店と言われる店の店長になっている。
「評価して頂いたと思います。もちろん、当時は出店に次ぐ、出店。私だけではなく、みんなの昇格も早かった時代ですから」。
店長からマネージャーになり、平成11年には運営部長になっている。
「業績のピークは、だいたい2005年くらいじゃないですか。無謀な出店があだとなって、だんだんクオリティが下がっていきました。私は、のちに営業部長にもなるので、関西のお店も観に行くんですが、賃料が高く、立地も良くなくても、無理やり出店していましたから」。
サガミチェーンの話を整理するとこうなる。
1980年代に入り、チェーン化を加速。1991年には、名古屋証券取引所市場第二部に株式を上場。破竹のいきおいだったが、2005年以降、無理な出店も影響し、業績が陰り始める。リーマン・ショックで店舗は激減。特に、出店してまだ歴史の浅い関西で、多数の店をクローズする羽目になった。
大西氏が、創業者に「お金で動かない」と啖呵を切ってから、25年ちかく経った頃の話である。
「評価して頂いたと思います。もちろん、当時は出店に次ぐ、出店。私だけではなく、みんなの昇格も早かった時代ですから」。
店長からマネージャーになり、平成11年には運営部長になっている。
「業績のピークは、だいたい2005年くらいじゃないですか。無謀な出店があだとなって、だんだんクオリティが下がっていきました。私は、のちに営業部長にもなるので、関西のお店も観に行くんですが、賃料が高く、立地も良くなくても、無理やり出店していましたから」。
サガミチェーンの話を整理するとこうなる。
1980年代に入り、チェーン化を加速。1991年には、名古屋証券取引所市場第二部に株式を上場。破竹のいきおいだったが、2005年以降、無理な出店も影響し、業績が陰り始める。リーマン・ショックで店舗は激減。特に、出店してまだ歴史の浅い関西で、多数の店をクローズする羽目になった。
大西氏が、創業者に「お金で動かない」と啖呵を切ってから、25年ちかく経った頃の話である。
・・・続き
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