2019年4月18日木曜日

S.H.N株式会社 代表取締役 髙橋竜太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”S.H.N株式会社 代表取締役 髙橋竜太氏登場。
本文より~

母の再婚と新たな兄弟。

サッカー仲間だった。「小学2年生の時に、母が再婚することになって。うちの兄弟と向こうの兄弟が、一つの家族になりました。ええ、そうです。向こうの兄弟ともサッカー仲間でした」。
不思議な縁もあるものだ。「最初はなかなかお父さんと言うことができなくて」と髙橋氏。母親はママ友の紹介で、再婚相手の義父と結ばれたそう。
「再婚してからのほうが、母はやさしかったですね。女で一つと育てていかなければいけないっていう重荷が取れたのかもしれません」。
兄弟2人がある日から兄弟4人になる。子どもたちもそうだが、ご両親も戸惑われたことだろう。もっとも、全員サッカー少年という共通項のおかげで話は弾んだはずだ。
ちなみに、髙橋氏は、小学校に上がる前からクラブチームに入っていた。チームでは主要な選手の一人だったそう。再婚は、髙橋氏が小学2年の頃。小学校では、もうすでに有名だった頃。
「そうですね。小学校の頃にはかなり目立っていたと思います。もちろん、目標はプロサッカー選手です」。

「0」行進。

「中学になってちょっとやんちゃなほうに走ってしまいましたが、特待生のなかでも、スペシャルといって、いちばん上位の特待生として、岐阜の中京高校に進学します」。
「1年の時からレギュラーでフォワードでした。背番号は2年からエースナンバーです」。
部員は120名いて、4軍まであったそう。しかし、つくづくサッカー一家だったのだろう。髙橋氏の弟もおなじ中京高校に特待生で入学している。
高校を卒業して進んだのは、群馬のJFLのチーム。「今で言うJ3です」と髙橋氏。いかに髙橋氏が巧いといってもJ1までの道は遠かった。
「1節目は半分くらいだしてもらったんですが、0ゴール、2節目も。なかには給料をもらっている選手もいましたが、私たちは、無給です。当然、アルバイトしないと生活ができません。その頃ですね。人生で初めてバイト代っていう自由になるお金をもらって。サッカーしかしらなかった少年ですから、ちょっと違った方向にも進んでしまいました」。
3節目も0ゴール。精彩をかいたのか、周りのレベルが高かったのか。
「3年半所属していたんですが、何度目かの監督交代時に、クビになりました。ただ、私も『もうやめたいな』と思っていました。負け惜しみではなく、それは事実です」。
楽しかったサッカーがいつしか楽しくなくなっていた。ゴールポストを揺らすことができないもどかしさもあったことだろう。
年齢は21歳になっていた。

起業へ。その一歩。

「それから群馬にいてもしょうがないので実家に戻ります。ずっと、サッカーでしょ。サッカーとは別の、第二の人生なんて考えもしていなかったです」。
だから、「3ヵ月くらいニートだった」と笑う。次の目標はなかなかみつからなかった。そりゃそうだろう。しかし、雌伏の時に、人は己を見つめ直し、次の一歩を踏みだすチャンスをつかむ。
「サラリーマンとかそういうんじゃなくて、私自身で何かやりたいという思いが強くなって起業を計画します」。
起業といっても、当然、資本もない。
「最初は、佐川急便です。8ヵ月くらいかな。もう、当時の佐川急便は、そう儲からなかったです。そのあと居酒屋でアルバイトを始め、社員になります。2年ちょっとで1000万円をためて独立しました」。
さらりと凄いことを言う。年間500万円を貯蓄したことになる。たぶん、昼夜関係なく仕事をした結果だろう。
「ただ、独立しようと退職したものの、最初は店舗がみつからなくて、たいへんでした。だれも、相手にもしてくれません。ようやく、貸してもいいと言われたのが、いまもある赤坂のお店です。条件ですか? 今思えば、けっして好条件とは言えません。ただ、当時は、もうそこしかなかった。ほかに選択肢がなかったんですね。ただ、このおかげでうちの『空中作戦』がスタートします/笑」。
・・・続き
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