2019年5月31日金曜日

5月29日、青山学院大学の堀内ゼミにて火の魂カンパニーの野沢社長に講義していただきました。

5月29日今期最初の講師として、火の魂カンパニーの野沢社長に朝イチ9時の講義にも関わらず、宇都宮から来て頂きました。
 2012年から飲食経営者と学生をつなぎ、飲食業界の奥深さを知ってもらおうと青山学院大学の堀内先生にお願いして始まった飲食経営者によるゼミ講義ですが、
堀内先生がご定年ということで、2019年度をもって最後のゼミ講義となりました。
(堀内先生と野沢社長 正門前にて)
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年5月29日水曜日

阪神食品株式会社 代表取締役 檜谷 進氏登場。

本文より~

島根県益田市匹見町。

「昔は、雪も1メートルは積もった」と、今回ご登場いただいた檜谷進氏は笑う。1949年生まれ。出身は島根県益田市匹見町。檜谷氏いわく、「中国山脈のど真ん中」。
地図で調べてみると益田市は島根県の西部で一部が山口県と接している。海にも面しているが、中国山脈のど真ん中というから、檜谷氏が育ったのは山間部のほうなのだろう。
「うちは、檜谷板金工作所っていう看板を掲げていました。もっとも堂々たる看板を掲げていても、社員は、社長の親父とお袋と、私です」。
檜谷氏は、7人きょうだい。「兄もいたんですが、兄は勉強ができたから、そっちは兄に任せて、私はうちの手伝いです/笑」
坂道を駆け上がったり駆け下りたり、海や川での素潜り山での収穫物体験自然のいとなみを十分堪能していました、記憶は曖昧と言いながらも、そのいくつかの思い出は、今も檜谷氏の財産だ。
「貧しかったですが、それを苦に思ったことはなかったですね。やがて、地元の工業高校に進むんですが、うちの手伝いは高校になってもつづけます。だいたい昼の3時くらいに学校が終わるでしょ。走って帰って、6時くらいまで仕事をしていました。手先は器用ではなくやらなければならないのでやっていました。
いま、益田市を写真でみると地方都市という風情だが、当時は檜谷氏がいう通り片田舎だったのだろう。高校を卒業した檜谷氏は、集団就職で都会にでる。「昔は、集団就職っていうのがあってね。文字通り、集団で都会に出て就職するんです。会社は予め決められています」
蒸気機関車。ボーと汽笛が鳴る。益田を離れる同級生と2人、何をしゃべって就職先がある大阪に向かったのだろう、覚えている事は「一旗上げんと帰れんのうと!!」。

プロボクサー。生涯ファイトマネー、4000円。

「ボンベに水素ガスなどを充填する仕事に就きました。2年くらいその仕事をつづけて、つぎはカフェでアルバイトです」。
「じつは、私、プロのボクサーだったんです」とこちらを驚かす。
「もっとも、リングに上がったのは25歳の時。ただ、それ一回きり。そう、一戦で、引退です。ファイトマネーは4000円でした/笑」。
奥様と出会ったのは、21歳の頃。リングを下りた檜谷氏、すでに子どもがいた。
「正直いうと、怖かったんです。後輩の顎が割れたのも、観ていましたし。でも、男の子どももいたでしょ。だから、一回は、プロのリングに上がらんと親としての格好がつかんと。で、上がったもんだから、もういいだろうって。それで、当時のバイト先だった株式会社加ト吉(現テーブルマーク株式会社)に就職します」。
「マネキン」といったそうだ。
「じつは、加ト吉でエビフライの試食販売の売り子(これがマネキン)のバイトをしていたんです。案外、これがうまくいって。アルバイトの時から一目置かれていました。その加ト吉を8年半で退職します。理由ですか?転勤できなかったんです。転勤したら、大好きなソフトボールを辞めなければならなかったから/笑」。
ジョークかとも思ったが、そうでもないらしい。ソフトボールは29歳から56歳までつづけ、「なみはや国体」にも出場されている。つまり、筋金が入っていたわけだ。
「そうですね。子どもの頃から勉強は苦手だったけれど、スポーツは万能でしたね。何しろ、中国山脈を根城にした野生児ですから/笑」。

「6年4組」。

会社は辞めたが、加ト吉との付き合いはつづいた。「取引先として、独立させていただくんです。独立1年目に1億円の売り上げを上げることができました。現在、39期目です」。
余談だが、1年目1億円をあげたときは、奥様と2人。売上額は異なったが、まるで昔の父親と同じだ。翌年、奥様の弟が参加。以降1年に1人は採用したが、じつは赤字つづきだったそう。
「交際費を年に300万円くらい使っていました。給料はちゃんと支給しました交際費が原因だってわかっていましたから。でも、10年間、そんな具合だった」。
数年経てば、社員は辞めた。つづかない。檜谷氏のかみなりが落ちるからだ。「私の問題です。ついつい、いらないことまでいってしまって創業者にある共通点です。今は、もうぜんぜん違うんですがね」。
まだまだ校長になれていなかった頃の話だ。
さて、今回、飲食の戦士たちにご登場いただいたのは、メディアなどにも度々取り上げられている「6年4組」のお話しもお伺いしたかったからである。
「これはね。親と子が教室で食事をするイメージで出店した居酒屋です。ノスタルジーというのか、小学生の頃にもどって楽しめるわけです」。
モデルは12歳のとき、父親の仕事を手伝いながら休憩時間に眺めていた益田市の岩倉分校だという。調べてみると、もう、廃校になっていたが、たしかに、昭和の温もりがあった。
ちなみに、「6年4組」は東京、大阪、名古屋、福岡にも分校がある。ホームページにある「皆さんの通学区域にあわせて、分校がたくさんあります」という一文も、なかなか気が利いている。
じつは、今、飲食事業も、阪神食品グループの一つの柱だ。
「6年4組」以外にも、「元祖343鮨」「割烹焼肉 松永牧場」「堺筋本町給油所(注意/ガソリンスタンドではない)」島根県浜田市と提携した「山陰浜田港」などユニークな店を展開されている。
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株式会社シゲキッチン 代表取締役 間宮茂雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社シゲキッチン 代表取締役 間宮茂雄氏登場
本文より~

ボンボンと言われた少年。中3で夜逃げを体験する。

別荘も箱根と静岡にあったし、30フィートの大型クルーザーもあった。夏休みの行事は、クルージングや海外旅行が、定番だった。欲しいといえば、何でもすぐに買って貰えた。
「かなりのボンボンでした」と、間宮氏は笑う。父親は「家具店」を経営されていたそう。従業員が50名くらいいたから、相当な規模である。「3人きょうだいの3番目なんですが、上2人が女ですから、私が長男。男だから、当然、チヤホヤされます。しかも、従業員の人らからは『若社長』っておだてられたりしていました」。
何不自由ない。間宮氏の子どもの頃は、まさにその言葉通りだった。お金もあるし、頭もいい。スポーツもできた。若社長と言われる少年。本人も、その気になっていたそう。実際、小学生の文集には「社長になる」と断言している。
「中学では、テニス部に入り、市内の大会で優勝しました」と間宮氏。何もかも、巧く行く。「しかし、それも中学3年生の夏までの話です。親父の会社が、倒産してしまいます。それで、夜逃げです」。
まだ、箱根に所有するホテルがあった。だから、箱根に向かい、そのホテルに滞在し、1週間、みんなで姿をくらました。
「父と母と姉2人と私の5人です。気晴らしだと、ゲームセンターにも連れて行って貰ったんですが、ぜんぜん楽しくない/笑。そりゃそうですね。ただ、そう悲壮感もなかった。何しろ、尊敬する親父がいるんですから。いう通りにすればいい、と」。

きょうだい3人の暮らし。

「親父が『オレは責任を取るために旅にでる』と言い出しました。保険金の話です。私だって、親父が何を言っているか理解できました。母も『なら私も』と言い出し、私も、上の姉も『なら、いっしょに』って話になったんです。もし、あの時、いちばん上の姉が『私は、1人でも生きる』と言わなければ…」。
いちばんうえの姉の一言で、みんなの目がさめたという。「それで、子どもたちだけでも逃がしてやろうってことになって、私たちきょうだいは住んでいたマンションに戻ります。1ヵ月くらいいたでしょうか。毎日、取り立てが来て」。
風呂も夜中2時に、入らなければならなかったそう。「それで、私が賃貸を探してきて、子どもら3人で暮らし始めます」。親戚にも胸倉をつかまれ、「オヤジをだせ」と凄まれたらしい。むろん、相手も意味ないことと知りながら、そうでもしなければ、気が済まなかったのだろう。
家賃は7万円の3DK。みんなのアルバイト代で、支払った。3~4年、暮らした。
「いったん、ゴルフを始めます。お金もないから、大学も行けない。だから、『ゴルフをしろ』って。あれは、父親の作戦だと思うんです。あれがなければ、グレていたかもしれません。ただ、高校に入って、ゴルフの練習場に行くのにバイクを買うと、今度は、そっちにハマってしまって。もちろん、暴走族じゃない。白バイにも憧れたんですが、高卒だと白バイに乗れない/笑」。
大学に行く、頭はあったが、お金がない。
今度はないない尽くしとなる。
「最初は、公務員がいいなと思っていたんです。白バイもその延長です。でも、学歴社会なんですね。大学に行っていないとどうしようもないカベがあることを知りました。じゃ、どうすればいいか、それが起業。結局、親父のあとを追いかけます」。

間宮氏の磁力。


二十歳まで店をだす、と決めていたそう。ハンバーグショップからスタートしたが、ある時、父親に、ある焼肉店に連れていかれ、方向を定める。
「それから、すぐに焼肉店で修業を始めます。ハイ、目的がありましたから、誰よりも早く店にでて、包丁を研いで。そういうのをちゃんとみてくれていたんでしょうね。上司からも可愛がってもらいました。ただ、二十歳で起業しようと思っていたので、1年半くらい経った時に辞めさせてくださいっていうんです。でも、期待されているぶん、なかなか許していただけない/笑」。
真剣にはたらく、目標を追いかける人は、強烈な磁力を放つ。それが、出会いも生む。
「たまたま社長の知り合いという、ある会社の社長が店をだすというので、私が出向くことになったんです。実は、その店が、ここなんです」と、間宮氏は店内を見渡す。
「おわかりだと思うんですが、立地がよくありません。だから、ぜんぜんだめでした。ランチをやっても暇なんで、私は別の会社にアルバイトに行き、そちらでも修業させていただきました」。
昼、夜、深夜。本業以外でも、いい出会いがあった。
「株式会社ニュールックの金本社長です。今もぜんぜん頭が上がらない人です。私が、前オーナーから、この店を買い取ってスタートした時も、毎日のように金本さんのオフィスにお邪魔し、指導していただきました」。
オーナーがかわったって、突然、流行るわけはない。
「そうなんです。だから『どうしよう』『どうしょう』ばかりです。でも、金本さんは、『やっていることは間違っていないんだから、そのままでいい』と。ただし、『くさった肉は出すな。捨てる勇気をもて』と、いいつづけてくださいました。結果、1年はかかりましたが、給料も取れるようになり、天狗になれるくらいは、利益もでるようになりました/笑」。
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2019年5月22日水曜日

株式会社ブーランジェリーエリックカイザージャポン 代表取締役社長 木村周一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ブーランジェリーエリックカイザージャポン 代表取締役社長 木村周一郎氏登場
本文より~

木村屋總本店の、御曹司。

木村屋總本店。大看板に描かれた「木村家」の三文字は、幕末の偉人、山岡鉄舟の筆によるものだそう。創業は明治2年。明治7年に創業者の木村安兵衛が「酒種あんぱん」を考案、発売。この時に、日本のパンの歴史がはじまったと言っていい。今回、ご登場いただいた木村氏は、この木村屋總本店の6代目当主のご子息である。
幼稚舎から大学まで、慶應義塾。俗にいうエリートコースだ。小さな頃から活発な少年で、小学校からラグビーをはじめ、学外ではリトルリーグに所属。野球、ラグビーだけではなく、水泳もやっていたそう。そればかりか、実は5歳からスキーもやっている。このスキーは、高校でもやり、新潟にあるスキーのレーシングチームに入っている。
「中学生は、野球部です。思い出という意味では、中学の時に担任から『夏期講習に参加しろ』と言われて、実際に、参加したことですかね。『早慶開成コース』って奴です。最初は、断トツのビリ/笑。でも、10日間の講習が終わる頃には上位3分の1には入っていました。だからどうなんだ、って言われると困るんですが、もともと担任に言われていたのは、講習に参加して『自分を知る』ことだったんです。そういう意味では、少しは己を知ることができたと思いますね」。
高校では、前述した通り、スキーのレーシングチームに入り、雪山を滑りつづける。「大学も、スキーですね。いや、もうスキー一色でした」。1年~4年まで、監督の教え通り、スキー三昧。
実は、就職も、スキー部の先輩に誘われて、大手の生命保険会社に進んでいる。

就職して5年。いきなり「パンの世界に入れ」という指令が下った。

生命保険会社では、法人営業を担当した。300名以上の従業員がいる大手企業が対象だ。「1年間、研修があって、残り4年が営業ですから、計5年勤務したことになりますね。仕事ですか? そうですね。なかいい成績は残せませんでしたが、楽しかったですよ。特に退職する前には、転勤も決まっていましたから、ひそかに楽しみにしていたんです」。
退職理由は一つだけ。実家から突然「パンの世界に入れ」という指示が下ったから。
「突然のことですし、楽しみにしていた転勤ももうすぐでしょ。それで、当時の部長と、親父を誘って3人でゴルフに行ったんです。それが、いけなかったというか。あるラウンドでラフに打ち込み、グリーンにもどってきたら、部長がいきなり、『そういうことで、お前、会社を辞めることになったから…』って。こっちにすれば、『そういうこと、って…。おい! 何か意見を言ってくれるはずじゃなかったのか!』ってなるわけですよ。もちろん、口にはできませんが/笑」。
それで、パンの世界へ?
「そうです。ただ、パンの世界へ、ってことではなくて大きなプロジェクトが動いていたんです」。

アメリカ、カンザス州にある『米国立製パン研究所(AIB)』へ。

「当時、私は27歳でした。いうまでもなく、パンづくりは素人です。『素人に英才教育をしたら、どうなるだろう?』っていう、ある意味、無茶苦茶な試みを業界の重鎮たちが企画して、それで、私に白羽の矢が立ったんです。遺伝子という意味では、日本でも最高のパン職人のDNAを持っていますからね/笑」。
歴史も長い!
「そう、うちは、いうなら、日本のパンの歴史ですから」。
ともかく、「素人に英才教育をしたら、どうなるか」の、プロジェクトがスタートする。舞台は世界にも広がっていた。
「素人ですからね。まず、横浜のベーカリーでパン生地に慣れ、それからアメリカに渡り、カンザス州にある『米国立製パン研究所(AIB)』でパンづくりを基礎から勉強しました。学生時代、勉強なんかしたことがなかったんですが、ハイ、こちらでは猛勉強です。こちらで2年半滞在します。『米国立製パン研究所(AIB)』は、米食品医薬品局(FDA)唯一の研究機関で、パンづくりを理論的解析します。いっしょに学んでいるのは、理系の博士号を持っているような人たちでした」。
まったく、意味がわからない。ふつうなら、有名なベーカリーショップへ、入るはずだ。わざわざ小難しい、国立の製パン研究所とは? パン職人の修業、そのイメージからかけ離れている。
「もちろん、このあと、ニューヨークのベーカリーで仕事もするんですよ。ただ、治安も悪い時で、ホールはアメリカ人でも、裏方はスパニッシュばっかり。英語が少しわかりかけていた時に、今度は、スペイン語です/笑」。
言葉の違い、文化の違いには、ポジティブな木村氏といえども悩まされたようである。
重ねてと、なるが、ここまで木村氏が、経験したのは一般的にいう修業のアプローチとは異なる気がする。パンをみつめ、ロジカルな答えをだす。日本にない、発想だったに違いない。重鎮たちの狙いも、案外、そんなところにあったのかもしれない。ロジカルに語れるパン職人。ただ、その職人は、すでにフランスにいた。

本格的な修業時代、到来。

「パンづくりには、センスも大事ですが、まず、気配りがなくてはなりません。もちろん、体力もいる。『ちょっと、小麦粉もってこい!』で、1袋25キロですから/笑。私は、ニューヨークのあと、フランスに渡ります。いまパートナーであるエリック・カイザーに出会うのは、この時です。エリック・カイザーは、当時、『INBPフランス国立製パン学校』の指導員でした。50年に1人の天才と言われていた人です。私は彼に師事します。早朝から日が暮れるまで仕事をしました」。
海外で「木村屋」の名は通用しない。「木村屋の御曹司」と言っても、だれも意味がわからなかっただろう。のちに、木村氏は、このエリック・カイザーに認められ、「いっしょに日本でショップをやろう」と誘われるのだが、これは純粋に木村氏を評価してのこと。まざりっけは、何一つない。
「海外は合計3年半くらいですね。フランスから、イスラエルにも渡りました。やはり、印象的だったのは、エリック・カイザーですね。彼は、経験則でモノを言わないんです。『なんで?』というと、理論的な言葉が返ってきます。それだけパンのことを研究しているんですね。じつは、彼がつくる、つまり、うちも当然そうですが、パンの製造方法はほかとはまったく異なるんです。そもそも発酵から違いますから」。
むろん、その違いが、「旨いパン」のもとになる。
話はとぶが、いま、木村氏の店では小麦粉も、バターも特注品だ。すべて、究極のパンをつくるため、メーカーにオリジナルなものをつくってもらっている。このこだわりも、また、エリック・カイザー譲りかもしれない。
「彼は、私より5つ上です。質問に対して、理論的に解説できる職人はそういないんです。彼は、いうまでもなくその1人。ハイ、リスペクトしています」。
エリック・カイザー氏は、現在、株式会社 ブーランジェリーエリックカイザージャポンの取締役である。修業を通して、尊敬できる人との絆が生まれたということだろう。
素敵な出会いでもある。ただし、この出会い。偶然ではなく、必然と思うのは、私だけだろうか?
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2019年5月21日火曜日

株式会社ロイヤルストレートフラッシュ 代表取締役 類家令奈氏登場。

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本文より~

ボンボン、裕福な少年時代を送る。

東京の赤羽に広い屋敷があった。
「子どもの頃は、とにかく裕福でした。父親は日産自動車から独立し、内装の会社を興します。会社もうまくいっていましたし、祖父の代からの資産もありましたから」。
なんでも、マンションも都内に2棟所有されていたそうだ。
「内装の仕事では飲食店も担当していて、あのグローバルダイニングやスターバックスも手がけていました。それもあって、グローバルダイニングの長谷川社長も何度かうちでおみかけしました。ええ、恰好いい人でした」。
長谷川幸三氏と言えば、モンスーンカフェなど、当時、もっとも斬新なブランドをリリースし、コンセプトレストランの道をひらいた人である。この長谷川氏のアイデアを、名料理人同様、形にしたのが、内装のスペシャリストである類家氏の父親だったのだろう。内装以外にも1店舗だが自身で飲食店も経営されていたそうだ。
ちなみに、父親の弟も、埼玉で飲食業を営んでいる。やがて、この叔父が類家氏の道をひらいてくれる恩人の1人になるのだが、それはまだ先の話。類家氏の子どもの頃に話をもどす。

ボンボンの定番。ゴルフとスキー。

「小学校は公立でしたが、中学からは私学に進みます。中学ではゴルフ、高校はスキー部です。部といっても、私ともう1人の2人で創部した、部員2名の小さな部です」。
小さいといっても、2人して海外にも遠征している。
「長野や新潟で合宿したり、フランスに渡ったりもしました。私はジャイアントスラロームという種目で、南関東大会で優勝しています」。
ただ、じん帯を切りスキーは辞めた。
「そうですね。このあたりまではボンボンまっしぐらですね/笑」。
たしかに、お金に困ったことがないし、困るということがピンとこなかった。
「大学に進学してからもマージャン、パチンコ…三昧です。ところが、私が21歳の時、親父が自己破産します。それから風景がいっぺんするんです」。

スパイ活動、はじまる。

独り小さなアパートに移った。何不自由ない暮らしが、一転。何かをするモチベーションもなくなった。
「就職活動もしません。気力がないというか。そんな時ですね、叔父がみかねて声をかけてくれるんです。『うちの会社で仕事をしないか?』って。ええ、叔父は親父と違って飲食で成功していましたから」。
高校時代に、スキー部を創設したことからもうかがえる通り、もともと創造的で、活動的でもある。だから、会社に入れば戦力化できるのは間違いない。
ただ、叔父はそう考えなかったようだ。
「ええ、与えられた仕事がちょっとかわっていて…。はい、それが、ずばり、スパイの始まりです/笑」。
スパイ?
「そうです。直接、叔父の会社に就職するのではなくって、ほかの会社でアルバイトをして、会社の様子やしくみなどを叔父に報告するんです。最初に潜入したのが、親父もかかわったグローバルダイニング。やるなら、いちばんの店だと思って」。
報酬は月10万円。バイト代とは、当然、別だから、22歳の青年には悪くない額となる。それ以上に、影の仕事は、ふさいでいた類家氏の心を動かした。
「いろんなミッションがあるんです。下っ端では、情報も入ってこないでしょ。だから、はやく上にならないといけない/笑。これも、ミッションの一つでした」。
「グローバルダイニング」が、アルバイトでも認めてくれる会社だというのはわかっていた。だから、仕事が終ってからも、仕事に没頭した。
「包丁もさわったことがないでしょ。ぜんぜん、ついていけない。だから、バイトが終わってからも、先輩たちの仕事ぶりをじっとみていました。これが、もう一つの仕事で、いうならば、これが私の修業でした」。
狙いはともかく、たしかに日々、業務を盗み、文字に起こす作業は、類家氏の言う通り貴重な修業となったことだろう。
多くの貴重な人脈も、この時にできている。

スパイ大作戦の終了と、もう一つの大作戦のはじまり。

「1つの会社に、1年くらいです。サントリー関連の店にも潜入しました。そして、最後が『てっぺん』です」。
潜り込んだのはよかったが、バイト4日目にして社長の大嶋啓介氏から「お前がいると周りまで腐るから辞めてくれ」と言われたそうである。思い切った一言だ。いまの経営者なら、放てない矢かもしれない。
「そうですね。きつい一言でしたが、薄々、私も合わないと思っていたんです。ただ、スパイの一件がありますからね。『わかりました』とは言えない。この時は、幸いというか、先輩がとりなしてくれたおかげで、なんとか乗り切ったんですが…。じつはそれが、地獄のはじまりだったんです/笑」。

スパイ活動、辞退す。

地獄という言葉が正しいかどうかわからないが、「てっぺん」を多少でも知っている人なら、類家氏が言わんとすることは想像できるだろう。つまり、命がけでないとついてはいけない。
「ともかくなじめない。何しろ、あの熱量でしょ。私は大きな声もだせないほうでしたから。それでも、スパイ活動のために『やる』と決めたからには、合う合わないなんて言っていられません。殴られるなんてしょっちゅう。朝から朝まで。月に5回、休めるかどうかではなく、うちに帰れるかどうかでした/笑」。
じつはそうこうしているうちに、目的まで見失ってしまったそう。次第に、大嶋氏に惹かれ、それ以上に「てっぺん」の朝礼にも魅了されてしまったからだ。スパイのはずが、すっかり取り込まれてしまった。
その頃になると、背中を押され、無理やり声を吐き出していた類家氏ではなくなっていた。「私は1年半で店長になります。記録的なスピードです。それだけかわったということです。写真でみれば明らかなんですが、入社した頃と比べれば、おなじ人間じゃない/笑」。
スパイ活動もつづけていけなくなった。叔父に「スパイを辞めたい」と告白すると、笑いながら「ようやく、みつけたか」と言ってくれたそう。
その時、初めて本来のミッションを知った。ともかく叔父が仕掛けた「スパイ大作戦」は、無事、コンプリートする。そして、ここからは、類家氏自身の大作戦の始まり、始まり、となる。

独立、たたかいの火蓋が切って落とされる。

「店長だった期間は7ヵ月と案外短いんです。8ヵ月目から、韓国に進出するための別会社『てっぺんコリア』の副社長に就任します」。
副社長といっても、第一線で仕事をする営業マンのようなものだそう。韓国にはむろん、何の縁もない。模索がつづく。「別会社だから、『てっぺん』からは給料もだせない」と大嶋氏から釘も刺されている。
「もう、やるしかないでしょ。とにかく日本と韓国を行き来しました。『てっぺん』の朝礼の話も盛り込みながら、コンサルも行いました。結局、お店をオープンするまでは1年半くらいかかりました。ただ、オープンしてからは爆発です。芸能人もいらっしゃるような店になり、新たな出店も行います。それで、計3年くらいで帰国します。ハイ、独立のために、です」。
いよいよ、次なる大作戦が開始する。28歳の8月。降り注ぐ、太陽に照らされながら、類家氏は、帰国する。そして、同年10月に1号店をオープン。「六本木なんかに出店すれば恰好よかったんですが、最初は、とにかく失敗できないですから」。「家賃第一」で、出店したそう。いちおう新宿エリアだが、離れの離れ。「ここでは、失敗する」とみんなから忠告されたそう。なかには、嘲笑する者もいた。それでも、火蓋は切って落とされた。
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2019年5月20日月曜日

わざわざ訪ねてくれるのは本当にうれしいです。

後輩で現在中学校の校長してる明田君が東京出張で顔出してくれ、30分程度でしたが会うことが出来ました。
考えてみると俺が高校卒業からなので、約40年弱振りかな。
Facebookでやり取りしてたので、そこまで久しぶり感なかったですが、わざわざ来てくれ、本当に嬉しいです。
また、校長って、カッコいいな、俺から見たら憧れです。
田舎の若者に何か役立つことあれば、最大限協力したいです。

2019年5月17日金曜日

EGGS'N THINGS JAPAN株式会社 代表取締役 村上卓也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”EGGS'N THINGS JAPAN株式会社 代表取締役 村上卓也氏登場
本文より~

アマ出身。

いいガタイをされている。だが、本人に聞くと「けっこうどんくさい少年だった」そう。小学生時代、人の輪ができる時も、一歩遅れることが多かったそう。代わりに好奇心は旺盛。当時の村上少年にとっては自転車もテクニカルな好奇心の対象で、壊れれば直るまで、必要であればバラバラに分解して、何日もかけて独学で構造を理解して直してしまったそうだ。「中学はバトミントンです。真剣にやっていて兵庫県の大会にも出場しています。え、勉強ですか? 勉強もどうしても興味があるものにかたよっちゃう。理科・数学は良かったですが、それ以外はぜんぜんだめでした/笑」。
高校は、尼崎の公立高校に進む。
「理科と数学で受験できる理数科があったからです。部活は、中学といっしょでバトミントンです。でも、高校では立派な幽霊部員でした/笑」。
高校時代の思い出は、コンビニのアルバイト。もっともアルバイトにも精をだしたせいか1浪。1年間の青春を受験勉強に捧げ、翌年、神戸大学に進んでいる。

神戸大学から大阪大学大学院へ。

「大学では、バイオ系の研究をしていました。でも、神戸大学と言っても悲しいかな、研究の予算が十分とは言えず不完全燃焼でした。思い切り研究ができる環境を求め大阪大学の大学院に進むことを決めました」。
村上氏は簡単にいうが、そうやすやすと大学院に入れるんだろか?
「試験も努力しましたが、研究室に入るのが難しかったですね、試験を受ける前から自分を売り込み、先生方に認めて頂かないといけないので。試験にも受かり、タンパク質の研究で当時の日本で一番進んでいる研究所に進めることになっていましたが、タイミングが悪く、助教授が栄転で離れ、助手も海外へ。2月になって教授から指導が既存の学生で手一杯と言われ、そこには私だけでなく皆入れなくなった」。
結局村上氏は、同じ理学研究科にあり興味があったもう一つの研究室でDNAの配列をコンピューターで分析する道に進む。それが、村上氏の最初のキャリアにつながるから、人生はわからない。
ともかく、大阪大学大学院理学研究科、これが村上氏の最終学歴。簡単に言えば、頭がいい。

26歳、初の転職。

頭がいいだけではない。先輩とともに在学中にバイオ系情報解析ベンチャーを起業するなど、エネルギッシュな一面もある。これが、その後の経営・事業企画のキャリアのスタートとなる。
「研究室に入って1年くらい経った時ですね、研究室の先輩、研究室外のエンジニアの3人で、研究内容そのままをサービスにして起業しました。私は研究をしながら、一方で、バイオ系の研究室への営業、技術者の採用、プログラマーとしてコードを書いたり、企業にシステム屋として常駐したり、経理・労務以外全部していました」。
八面六臂。
大学院を修了してからも、おなじ仕事を続けた。
「在籍したのは取締役としての任期3年です。当時は1日4時間くらいの睡眠時間以外はキーボードを叩いていました/笑」。
「システム開発の事業は社員数15名で年商2億円ちょっとまで育てることができました。ただ、社長でもある先輩が10数名でやっていたフィットネスクラブのフランチャイズの部署で『この事業に注力して上場する』と決めたんです。私は『それは俺の仕事じゃないな』と任期満了で退きました。これが、転職のきっかけです。初めての転職は26歳でした」。
ストックオプションもあったようで、もったいないような気もする。数千万円単位の個人保証までして立ち上げた会社なのに。
実は、この後も傍から見ると「もったいないな」と思う転職があるが、突き詰めれば村上氏は、お金・ポストよりも「その事業に心血を注げるか否か」を常に大事にしているようだ。言い替えれば、何かにしがみつくという感覚がなく、「その事業で自分がビジネスインパクトを生み出すコミットができるか」と考えているように見えた。
「そうですね。若かったってこともあるでしょうね。とにかく、これが人生初の転職です。この時、やりたかったことですか? この時は、経営企画ですね。すでに、研究より経営に関心が移っていました」。

村田製作所→コンサル会社→トリドール→そして。

話を先に進めると、この後、村上氏は村田製作所に入社。経営企画に所属し、新規事業や商品開発企画、また研究者と会社をつなぐ仕事を担当。新規事業の商品を携えて出向で米国法人にも赴任している。
そこから更に、修行と称し32歳の時にデロイト トーマツ コンサルティングに転職し、海外関連のプロジェクトで総合電機メーカーの新規事業、M&A後の人事制度構築、1兆円企業のシステム移行マネジメントなどいくつものプロジェクトを歴任する。
その後、「丸亀製麺」でおなじみのトリドールに転職する。「当時は、まだ売上800億円くらいの時です。これまでの経営・事業企画の力をフルに発揮すべく経営企画室を希望しました。コンサルの時のペースでやると事業会社では周囲とかみ合わずに空回りしそうでしたので、ゆっくり確実にスタートを切りました/笑」。入社当時の肩書きは、あえての課長補佐。
「初めはエリアマネージャーの方々の数値レビューや予算作成などを行っていました。入社半年くらい経った頃から海外事業を担当するようになり、社長や専務といっしょに世界中を回るようになり、例えばアジア各国やケニアなどに行っていました。この仕事を1年続けている中、IT部の部長を任され、それと同時に『毒を食らえば皿まで』と、デジタルマーケもやらせてもらうようにお願いしました」。
経営企画、海外事業担当、IT部の部長、デジタルマーケの立ち上げを進める村上氏は、様々な成果を挙げる。丸亀製麺アプリを初年度400万ダウンロード達成させたり、CMの出稿量を億単位で最適化したり、データ分析の部署の立ち上げを行ったりと四足も五足もの草鞋を履いて。特に、アプリが普及したことでビッグデータが活用できるようになり、顧客のリピートが上がったり、新規出店に結び付くデータなども提供が可能となった。
「トリドールにお世話になったのは3年ほどで、ITやデジタルだけではなく事業責任をもってビジネスインパクトを出したいという思いを強く持ち続けていました。当時、社内でも相談していましたが事はそううまく運ばず、そんな時、松田さんにお声を掛けてもらいました」。
村上氏が、松田さんというのはEGGS'N THINGS JAPANのオーナーであり、タリーズコーヒージャパンの創業者としても有名な松田公太氏のことである。
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株式会社ISE広島育ち 代表取締役 小林直哉氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ISE広島育ち 代表取締役 小林直哉氏登場
本文より~

母が放ったもう一つのボール。

山なりのボールが返ってくる。キャッチボールの相手は、いつも母だった。
「小さい頃に両親が離婚して、私は、母に引き取られます。母は仕事をしていましたから、母方の祖母に育てられたようなものです。ええ、昔の人ですから、そりゃ、おっかなかった/笑」。
看護師だった母は、当時、企業に勤め、「衛生管理」という仕事をされていたそうだ。「仕事は忙しかったと思うんですが、時には、いっしょに遊んでくれました」。それが、冒頭の話。
「祖母もそうだし、母親も躾はきびしかったですね。とにかく、ひとに迷惑をかけるな、と」。一度、川に落ちたことがある。川に落ちたことより、「助けてくれたひとに、迷惑をかけた」と怒られた。
祖母も、母も、時に父親に代わって、愛する孫、息子を、叱り飛ばした。
「母からは、一芸ではだめと教えられました。だから、スポーツもいろいろやって。小学校では水泳です。ただ、やりたいと言って始めたものの、ともだちと遊ぶ時間がなくなって、辞めたくて仕方なくなってしまうんです。でも、母に言っても、途中では辞めさせてはくれません。結局、競技会で優勝して、ようやく辞めてもいい、と/笑」。
ひとに迷惑をかけない。ものごとは極める。この2つが、小林少年の指針になる。
これもまた、母が放った1つのボールである。

県、推薦で、日本体育大学へ。

「大学は日本体育大学です。広島県の県から推薦していただいて、進学させてもらいました。ハイ、水泳ではなく、ハンドボールの選手としてです」。
小林氏は中学から、バスケットボールを始める。バスケットボールでも頭角を現し、キャプテンも務めたが、高校ではハンドボールに転向。「いろいろなことを極める」という母の教育方針もあったが、じつは、高校のバスケットボール部がつよくなかったからだそうだ。
「それでつよいハンドボールに転向し、そのままハンドボールの選手として、大学に進みます」。
県が推薦するくらいだから、相当、巧かったはずである。実際、ハンドボールをする生徒たちの間で、小林の名は知れ渡っていた。「当時は、オリンピックも狙ったいた」と小林氏も言っている。それでも、進んだ日本体育大学のハンドボール部は当時、日本一。先輩は、小林氏からみても「バケモノばかりだった」らしい。
ただ、バケモンという意味では、きびしい規律が、もうひとつのバケモンを生みだしていた。「先輩」というバケモンである。寮生活。あまりのきびしさに、夜中に脱走する者も後を絶たなかったそうだ。
「先輩が『カラスは白』と言ったら、『白』っていう時代ですからね。推薦だったんで、ふつうお金はかからないんですが、授業料以外にもいろんな出費があって、母にもいろいろ苦労させました。おまけに3年の時に怪我をしてしまって」。
あと1年経てば、頂点だった。すべて、我が物顔で楽しめる。
「そうですね。でも、私は、あまり好きじゃなかった。だから、ここでも母に無理を言って、部を辞め、寮もでるんです」。
推薦で進学した場合、部を辞めるには、いろんな問題がある。幸い、県にも怪我が認められ、大学生活はつづけられたそう。その結果、オリンピックは断念することになったが、日本体育大学出身という「箔」はついた。実際、大手企業に就職できたのは、日本体育大学の肩書きがモノを言ったからだと小林氏は言っている。

「うちに来ないか」。友は、そういった。


小林氏が就職したのは、地元、広島の大手広告代理店。そこで、41歳まで19年勤務する。事業部長になり、年収は1000万円をオーバーするまでになった。
「転機が訪れるのは、39歳の時です。幼なじみから『うちの店のブランディングをして欲しい』と頼まれたのが、きっかけです」。
39歳。広告マンとして、脂がのっている頃だ。ただ、当時、いろんなことに直面していたのも事実。仕事でも、プライベートでも。そんな時、昔の友人がたずねてくる。
「彼がいう『うちの店』が『みっちゃん』なんです。ハイ、子どもの頃、遊びに行くと、決まってご馳走していただきました。だから、彼の父で、現会長のことも昔からよく知っていたんです。もっとも会長は、いまの広島流お好み焼きの生みの親ですから、広島県人ならだいたい知っています」。
ブランディングがきっかけで、仕事でも交流が生まれる。お互い心はハナから通じ合っている。やがて。友人は、小林氏に「うちに来ないか」と持ちかけた。
「1年くらいですか、断りつづけ、最後には、会長からも、『あいつを助けてやってくれ』、と。ええ、それが41歳の時です。私も、ちょうどゼロからもう一度スタートしたいと思っていた時でしたから、それで、了承します。でも、その時は、社長になるなんてもちろん思ってもいませんでした」
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RIZE株式会社 代表取締役 大間謙一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”RIZE株式会社 代表取締役 大間謙一郎氏登場
本文より~

日常に、暗雲がたち込める。

君津市は「新日鐵住金 君津製鐵所」で知られている。ネットで調べれば、1960年君津製鐵所の操業により人口が急増したとある。今回、ご登場いただいたRIZE株式会社の代表である大間氏のご両親が、九州から君津に移られたのも、その頃だ。
ご両親は、製鐵所ではたらく人々の胃袋をみたす飲食店を開始された。最盛期には同時に3店舗、結果的には7~8店舗出店していた。「玄界灘」と言えば、君津ではかなりの有名店だったそうである。
「私は1975年に君津で生まれます。ハイ、根っからの君津っ子です。父の店が最盛期だったのはバブルの頃でしたから、私が中学になる頃ですね。当時、シーマって車があったんですが、父は千葉で2番目の購入者だと威張っていました。それだけ、羽振りがいい時代だったんですね」。
ところが、だんだん雲行きが怪しくなる。「だんだん、親父の車のグレードが下がっていくんです」。それでも、うちにはお金があると思っていたそう。「だって、生活はなにも変わりませんでしたし…」。
まだ、中学生。知らないで当然だ。しかし、雲は、だんだんとあつくなる。

韋駄天。高校から走り去る。

小学校の頃から駆けっこが、はやかった。サッカーも巧く、運動神経は抜群。ただ、才能に溺れず、練習もした。「からだを痛めれば、それだけ巧くなれると信じていたんです」。
中学2年になると、3年も含め、大間氏の先を走る生徒はいなくなった。タイムを聞くと、100メートル11秒台。そりゃ、敵わないはずだ。
「女の子にもモテましたね。ええ、挫折なんて知りません。勉強だって、やればできるほうでしから。ただ、勉強はもちろんですが、サッカーや陸上にものめり込むことはできなかった。高校も、すぐに退学してしまったんです」。
高校に進んだはいいが、留年が1年の夏に早々と決定。2年になる前に高校を中退した。16歳。むろん、何もやることはない。

選択肢は2つ。東京か、アメリカか。

「うちから店まで、そう離れてはなかったんですが、当時は妹が私のごはんをつくってくれていました。私たちは3人きょうだいで、年の離れた弟がいます。まだ医大に進んでいます」。自慢の弟である。
「私は、16歳で高校を中退し、父親の紹介で東京にある割烹に就職します。就職といっても『小僧』の就職です。でも、いま私があるのは、その店のおかげです」。
「飲食の道に進もうと思っている」と打ち明けた大間氏に、父親は2つの選択肢を用意した。一つはアメリカ、もう一つは東京。「アメリカっていうのは、ステーキハウスの『紅花』でした。ただ、アメリカで仕事をするなんて想像もできないから、東京を選択します」。
小僧の修業は、たいへんだった。しかし、たいへんな道を進むのは、スポーツとおなじ。甘い仕事より、大間氏には向いていた。
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株式会社TAMAYA 代表取締役 菊地 勇氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社TAMAYA 代表取締役 菊地 勇氏登場
本文より~

勉強キライ。勉強する意味がわからなかったから。

父も母も、大手建設会社に勤めておられた。1人息子。小・中学校は水泳と野球。「勉強は好きじゃなかったですね。なぜか数学だけは得意だったんですが…」。高校は日本体育大学荏原高等学校に進学。体育大学だけあって、1日に2時間以上、体育の授業があったそう。
「高校でも野球をしようと思っていたんですが、結局、部活より、女の子と遊んだりするほうを選択しちゃいます/笑」。
大学には進学しなかった?
「そうですね。勉強も好きじゃなかったし…。高校を卒業してからは、2年半くらい新宿のクラブではたらきました。じつは、このとき、親しくなったお客様に、何度かホテルのレストランに連れていっていただいて…。ハイ、それで、私の人生が、一つ決まるんです」。
勉強がキライだから大学に進学しなかった。それも正しいが「何をしたいかわからなかったから」も正解だろう。そのまま大学に進んでも意味がない。菊地氏は、そんなクレバーな判断をする人だと思うから。
ともかく、「ホテル」に惹かれた菊地氏である。道が広がった。

一流ホテルで、ちからを磨く。

「やがて、ホテルの専門学校に進みます。『日本ホテルスクール』です。そのとき、研修をかねてアルバイトしたのが、『横浜インターコンチネンタル』でした。実は、アルバイトから、そのまま社員になり専門学校は中退しています」。
クラブ時代の収入と比べると、ホテルの収入は微々たるものだ。「月13万円くらいでだったので、びっくりしました」と菊地氏は笑う。それでも、ホテルの仕事は菊地氏を魅了する。
「結局、『横浜インターコンチネンタル』では4年半、勤務します。私の人生のなかでいちばん影響を受けた当時のマネージャーに紹介していただいて、『ホテル西洋銀座』に転職しました」。
「ホテル西洋銀座」では、ワインを徹底的に学んだ。28歳のときに、ワイン統括の責任者に抜擢されているくらいだから、相当、勉強したのだろう。こちらの在籍期間は、8年。
ちなみに、「ホテル西洋銀座」は映画館や劇場を併設した高級シティホテルである(現在は、閉館)。ワインにうるさい御仁も、結構、いらしたはずだ。それだけ、菊地氏のワインの知識が豊富だった証だろう。食事に訪れた時にみつけた未来のたねが、芽を吹きだし、もうすぐ開花する。

独立。前オーナー高田氏と共同で、1号店出店。

「クラブにいた頃から独立志向があった。コンチネンタルでも、西洋銀座でも、独立という思いがあったったから頑張れたんだと思います。実際に独立したのは、西洋銀座で8年勤めたあとですから、30歳ですね」。
起業の経緯はどうだったんだろう?
「じつは、大松グループで専務をされ、当時はもう独立して飲食店を経営されていた高田★★さんに相談にいったんです。ハイ、最初は私が、お客さんです。親しくなった頃に、相談にしたところ、『だったら、共同でやろうよ』って話になったんです。将来、私が代表になる約束で、最初は、まずいっしょに、という話でした」。
ありがたい話だった。
「だから、最初はTAMAYAに入社したようなイメージですね」。
ともかく、それが2010年のこと。沿革をみると、2010年2月、上野に「ワイン厨房 tamaya」開業。翌年2月、八丁堀に「beer&wine厨房 tamaya」開店。同年7月、法人化し、「株式会社 TAMAYA」を設立となっている。現在は、もちろん、菊地氏が代表。高田氏は退職され、独自に2店舗を経営されている。
34歳で結婚。奥様は大手企業で人事部に勤めておられるそうだ。
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2019年5月11日土曜日

最終回、5月10日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」はリライブ様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)

5月10日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」最終回の第30回(30社/30社)はリライブです。

2002年の設立で、現在、従業員数は7人ほどの講師を含め12人の社員と3人のパート従業員で合計15人です。65歳が定年ですが、本人の希望や条件が合えば70歳ぐらいまで働くことが可能です」と小川社長。「教育ビジネスのため、自己の経験を伝えるという意味においてシニアのメリットは大きいですね」と言う。15人のうち唯一のシニアは自身の経験をもとに「ベーカリーコース」で講師を務める部長の稲垣浩作氏(62)です。
  (夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。

【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2019年5月2日木曜日

株式会社move 代表取締役、河井俊輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社move 代表取締役、河井俊輔氏登場
本文より~

小学3年。スネ夫、返上。

今回、ご登場いただいた株式会社moveの代表取締役、河井俊輔氏は1979年2月17日に池袋に生まれている。河井氏の父方の祖父は、自転車店からスタートし、自動車の整備工場を経営するなど、当時では、先端の仕事をされていた。
「当時、町には整備工場は、祖父の工場しかなかったそうです」と河井氏。
その祖父の次男が河井氏の父親。
次男だからだろう。父親は、会社をつぐことなく、一部上場企業に就職されている。昭和を代表するようなサラリーマン戦士だったそうだ。
「私は、親父の会社の、池袋の社宅で生まれます。それから、練馬に移り住みました」。
のちに埼玉の西武球場のちかくに住む。それもあって、ライオンズファン。
河井氏は、「1つ上の姉は、まじめで優秀だった」と笑う。一方、自身は大人しく、自己主張するタイプでもなかったそう。「まるで、ドラえもんの『スネ夫』のようなイメージ」と語っている。
それが、小学3年までつづく。
しかし、小学3年生になって練馬に引っ越すと状況はいっぺんする。
「何かがわかったわけではないんですが…、突然、足が速くなって」と河井氏。
相対的なものだろう。
「そうですね。池袋ではぜんぜんだめだったのが、練馬に転校したとたんトップクラスです/笑」。
「すごい奴がやってきた」と噂が広がった。周りの観る目が異なった。
いうまでもなく、スネ夫、返上である。

サーフィンとアメリカ留学と。

「中学は受験して、獨協大学付属に進みます。おかげさまで、大学まで、エスカレーターで一直線です/笑」。受験も、成績も、気にしなくていい。中学では「高校生の」、高校では「大学生の」生活を先取りした。とくに高校時代はコンパに明け暮れる。
「大学に行くまで、たいていのことはしたんで/笑」と河井氏。
「ふつうの人は、大学でデビューしたりするじゃないですか。でも、もう、いろんなことを経験済だから、醒めていたんですね」。
では、どうしたんだろう。
「それで、実は、いままでやったことがないサーフィンです/笑」。
この「飲食の戦士たち」でも、サーフィン大好きな経営者を数多くご紹介してきた。やらない人間からすれば、「何が楽しくてそこまで」となるのだが、かれらはへっちゃらだ。河井氏もまた、まだ朝が明けきらないうちにエンジンをかけ、埼玉から千葉まで2時間かけてでかけている。もちろん、夏も、冬も、関係なし。
「お金がなかったから、バリ島専門ですが、海外にもけっこう波を追いかけてでかけました。私の大学時代は、バイトとサーフィン。この2つで、充分、語れます/笑」。
就職したのは、呉服の卸などを行う呉服関係の商社。
「採用してもらった会社には悪いんですが、『これ』って会社がぜんぜんなくって、まったく適当な選択です。案の定、2年で退職してしまいました」。
2年で早すぎる退職。ただ、今思えば、正解だったかもしれない。
「実は、そのあとアメリカに行っているんです。2年でだいたい200万円くらいお金を貯めていたんで、そのお金で日本の短大のような、コミュイティーカレッジに留学します。英語が学べるインターンシップのようなプログラムに惹かれたんです」。
もっとも、こちらも、熟慮の末だったわけではない。
営業の途中、ふらりと立ち寄った本屋でみつけた「留学プログラム」。それに乗っかった。ただ、思い付きのようなこの留学で、人生が広がるから不思議だ。何より「行動」が大事という証だろう。

河井氏の心を打った経営者。

留学したカレッジを2年で卒業し、帰国。
「留学を経験したことで、人生に対する意識はかわりましたが、だからって、何を仕事にしたいかというのは、都合よく生まれません。ひとまず、エージェントを通して、ある外資系商社に就職しますが、やはり長続きしなかったですね。わずか1年です」。
 大学時代は、サーフィンに熱中した。社会では、熱くなれるものがない。いったん、熱中という尺度を持つと、それが足かせとなってしまうケースも少なくない。
燃えない仕事はつまらないのだ。
「そして、その次に勤めたのが、飲食関連の展示会を主催する会社です。これが、飲食との再会です。ただし、今度は正社員です」。
「実は、」と河井氏。
「実は、私も、飲食店の社長さんたちに『なんで独立していたんですか?』なんてインタビューしていたんです」。そうか、そういう意味ではご同業だったわけだ。
当然、ネットワークが広がる。しかも、相手は、多くの場合、社長。
そんななか1人の社長が、河井氏を虜にする。
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株式会社火の魂カンパニー 代表取締役 野沢賢司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社火の魂カンパニー 代表取締役 野沢賢司氏登場
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テーブルに残された、1人分のステーキ。

商才があった。野沢氏の話ではなく、父親の話。野沢氏の父親はラーメンのFC店からスタートし、そこで儲けた資金で次々に事業を拡大していく。
「もともとはトラックの運転手だったそうです。儲かっていたラーメン店を4年で、さっさと手放すなど、たしかに商才はあったんでしょう。でも、子どもですからね。商才なんてわからないし、リスペクトなんかできない。ぼくは親父がぜんぜん好きじゃなかった」。
父親は、仕事第一。「1度だけ、家族5人でステーキを食べにいったことがあるんです」。じつは、外食の思い出は、これ一つ。末っ子の野沢氏は、テーブルを囲むみんなの顔を見渡してわくわくしていた。
「みんなで外食なんて、めったにないでしょ。ぼくのなかでは、これ、1回きりです。メニューをみて、母も笑っている。いいなぁ、いいなぁ、って思っていたら、親父のポケベルが鳴って…」。
手を付けられず残された1人分のステーキには、野沢家の有り様が映し出されていた。これが、子どもの頃の、野沢氏の記憶。

高校生、朝からパチンコ店に向かう。

中学生の時代。担任から「3バカトリオ」と言われていた。うち1バカは、当然、野沢氏だった。高校は姉にも勧められ、調理科がある高校に進学する。
「小さい頃から料理が好きだったから、悪くないなと思って進学するんですが。高校1年から授業にもでずに、朝からモーニングです。食べるほうじゃなくって。そうです、パチンコです」。
高校になっても、バカトリオの、バカから抜け出せなかった。しかも、バクサイがあったからタチが悪い。朝から数時間だけで軽く1万円くらい儲けていたそう。高校卒業後、いったん和食の職人をめざし、ロイヤルホテルに就職したが、20歳の時にパチプロに転向する。
「料理人になる」。いつしか、気力が削がれていたからだ。

パチプロへ。真剣勝負。

「パチプロ生活は5年くらいです。べつにパチンコが好きでもなんでもない。でも、簡単に儲かるから。1日10万円くらいはコンスタントには儲けていました。当時は、無駄遣いばかりしていました。どこに行くのもタクシーです。それでも、5年で結局、2000万円、貯まりました」。
2000万円?
さっそく勝つ方法を聞いてみたが、今はそういう時代ではないらしい。
「パチンコ台って、台にもよりますが、確率が公表されているんです。だから、方法は一つでしょ」。
う~ん?
「だいたい31日やって、30日は儲けられます。ただし、1人じゃだめ。ぼくも10人くらい下請けがいました。でも、だんだん儲けられなくなるんです」。
規制ですか?
「そうです。4号機とか、5号機っていうのがあるんですが、それが入れ替わったことで、パチプロはいなくなったんじゃないですか。確率的に儲けられなくなったからです。ハイ、私も、潮時だと」。
パチプロは辞めた。結婚相手もいた。しかし、金もある。仕事などしなくても、まぁ、大丈夫だった。「そう、それでニートになって、今度はゲーム三昧です/笑」。
ちなみに、こちらでも才能を発揮する。世界ランカーになり、ゲーム内にある極上の狩場を守るため、組織を構成し、配下もつくっている。数千万人に及ぶ世界中のプレイヤーが、野沢氏にひれ伏した。じつはお金も、儲けている。

夫の職業、ネットの住人とは書けず。

「でも、パチプロだった時みたいには儲かりません。もっともゲームは24時間ですから、そうお金も遣わないわけですが」。
それでも、結婚して、子どももできるとだんだん資産も目減りする。
「それで、お金がなくなってきて、奥さんが仕事にでるんですが、夫の職業の欄が書けないっていうんです。その時かな。これじゃ、親父以下だって/笑」。
「ええ、それで、一念発起っていうか、とにかく、『仕事をしなくっちゃ』と思って、ラーメン店を開業します。もともと和食の職人でしょ。ロイヤルホテルでも、それなりに評価されていましたし、賞も受賞しています。だから、『やる』と決めた時にはもう、頭のなかで行列ができていたんです/笑」。
30歳、ネット住人だった野沢氏が、5年ぶりにリアルな世界に舞い戻る。
決意を聞かされた時には、奥様もさぞ喜ばれたことだろう。
少なくとも、これからは夫の職業が書けるのだから。

明日はうまいラーメンがつくれますように。

「ポジティブっていうか、楽天家なんでしょうね。『うまくいくだろう』ってことしか頭にない/笑。1号店はロードサイドで300坪くらいでした。もっとも席数は20席くらいです。親父にも出資してもらってオープンします。だいたいこれくらいは、儲かるだろう、と。そういう計算は得意ですから」。
「でも、さすがにオープンがちかづくと不安もでかくなるんです。『料理人をしていた』って言ったって、ラーメンはつくったことがなかったわけですし」。
つくったことがない?
「ええ、もちろん、1杯だけとか、うちではつくっていますよ。でも、それだけです。それで、心配になって、オープン前日、採用した人にたずねたんです。『〇〇さんは、ラーメンをつくったことがありますか?』って。『え、ないですよ。ない。ない』『ですよねぇ~』って」。
かすかな希望も打ち砕かれ、天に祈るしかなかった。
「明日はうまいラーメンがつくれますように…」。

湯けむりの向こうには、鬼にがいた。

申し訳ない程度につくったチラシの宣伝が効いたのか、オープン前から、くらくらするほどの長蛇の列だった。「ぜんぜんオペレーションが回りません。正直、不味かったし、1杯つくるのにも時間がかかって、なかなかおだしできないし…。ええ、こっちもテンバっていますしね」。
「ラーメンってよく言うじゃないですか。『湯けむりの向こうに笑顔がある』って。あの時、必死で湯切りして、ふと湯けむりの向こうをみたら、もう全員、鬼の形相なんですよね。血の気がひくって、あのことです/笑」。
それでも、と野沢氏。
「いままでとは、まったくちがいます。パチプロでしょ。ネットのゲーマーでしょ。だいたいぼくは1人が好きなんです。なのにね…。これが、リアルな世界なんですよね。悪くない。ぜんぜん、悪くなかったですね」。
怒って帰る人もいた。だが、励ましてくれる人いた。「その時、ぼくができることといったら、感謝ですよね。いつも、頭を下げていました。精一杯にです」。
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