2019年5月21日火曜日

株式会社ロイヤルストレートフラッシュ 代表取締役 類家令奈氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ロイヤルストレートフラッシュ 代表取締役 類家令奈氏登場
本文より~

ボンボン、裕福な少年時代を送る。

東京の赤羽に広い屋敷があった。
「子どもの頃は、とにかく裕福でした。父親は日産自動車から独立し、内装の会社を興します。会社もうまくいっていましたし、祖父の代からの資産もありましたから」。
なんでも、マンションも都内に2棟所有されていたそうだ。
「内装の仕事では飲食店も担当していて、あのグローバルダイニングやスターバックスも手がけていました。それもあって、グローバルダイニングの長谷川社長も何度かうちでおみかけしました。ええ、恰好いい人でした」。
長谷川幸三氏と言えば、モンスーンカフェなど、当時、もっとも斬新なブランドをリリースし、コンセプトレストランの道をひらいた人である。この長谷川氏のアイデアを、名料理人同様、形にしたのが、内装のスペシャリストである類家氏の父親だったのだろう。内装以外にも1店舗だが自身で飲食店も経営されていたそうだ。
ちなみに、父親の弟も、埼玉で飲食業を営んでいる。やがて、この叔父が類家氏の道をひらいてくれる恩人の1人になるのだが、それはまだ先の話。類家氏の子どもの頃に話をもどす。

ボンボンの定番。ゴルフとスキー。

「小学校は公立でしたが、中学からは私学に進みます。中学ではゴルフ、高校はスキー部です。部といっても、私ともう1人の2人で創部した、部員2名の小さな部です」。
小さいといっても、2人して海外にも遠征している。
「長野や新潟で合宿したり、フランスに渡ったりもしました。私はジャイアントスラロームという種目で、南関東大会で優勝しています」。
ただ、じん帯を切りスキーは辞めた。
「そうですね。このあたりまではボンボンまっしぐらですね/笑」。
たしかに、お金に困ったことがないし、困るということがピンとこなかった。
「大学に進学してからもマージャン、パチンコ…三昧です。ところが、私が21歳の時、親父が自己破産します。それから風景がいっぺんするんです」。

スパイ活動、はじまる。

独り小さなアパートに移った。何不自由ない暮らしが、一転。何かをするモチベーションもなくなった。
「就職活動もしません。気力がないというか。そんな時ですね、叔父がみかねて声をかけてくれるんです。『うちの会社で仕事をしないか?』って。ええ、叔父は親父と違って飲食で成功していましたから」。
高校時代に、スキー部を創設したことからもうかがえる通り、もともと創造的で、活動的でもある。だから、会社に入れば戦力化できるのは間違いない。
ただ、叔父はそう考えなかったようだ。
「ええ、与えられた仕事がちょっとかわっていて…。はい、それが、ずばり、スパイの始まりです/笑」。
スパイ?
「そうです。直接、叔父の会社に就職するのではなくって、ほかの会社でアルバイトをして、会社の様子やしくみなどを叔父に報告するんです。最初に潜入したのが、親父もかかわったグローバルダイニング。やるなら、いちばんの店だと思って」。
報酬は月10万円。バイト代とは、当然、別だから、22歳の青年には悪くない額となる。それ以上に、影の仕事は、ふさいでいた類家氏の心を動かした。
「いろんなミッションがあるんです。下っ端では、情報も入ってこないでしょ。だから、はやく上にならないといけない/笑。これも、ミッションの一つでした」。
「グローバルダイニング」が、アルバイトでも認めてくれる会社だというのはわかっていた。だから、仕事が終ってからも、仕事に没頭した。
「包丁もさわったことがないでしょ。ぜんぜん、ついていけない。だから、バイトが終わってからも、先輩たちの仕事ぶりをじっとみていました。これが、もう一つの仕事で、いうならば、これが私の修業でした」。
狙いはともかく、たしかに日々、業務を盗み、文字に起こす作業は、類家氏の言う通り貴重な修業となったことだろう。
多くの貴重な人脈も、この時にできている。

スパイ大作戦の終了と、もう一つの大作戦のはじまり。

「1つの会社に、1年くらいです。サントリー関連の店にも潜入しました。そして、最後が『てっぺん』です」。
潜り込んだのはよかったが、バイト4日目にして社長の大嶋啓介氏から「お前がいると周りまで腐るから辞めてくれ」と言われたそうである。思い切った一言だ。いまの経営者なら、放てない矢かもしれない。
「そうですね。きつい一言でしたが、薄々、私も合わないと思っていたんです。ただ、スパイの一件がありますからね。『わかりました』とは言えない。この時は、幸いというか、先輩がとりなしてくれたおかげで、なんとか乗り切ったんですが…。じつはそれが、地獄のはじまりだったんです/笑」。

スパイ活動、辞退す。

地獄という言葉が正しいかどうかわからないが、「てっぺん」を多少でも知っている人なら、類家氏が言わんとすることは想像できるだろう。つまり、命がけでないとついてはいけない。
「ともかくなじめない。何しろ、あの熱量でしょ。私は大きな声もだせないほうでしたから。それでも、スパイ活動のために『やる』と決めたからには、合う合わないなんて言っていられません。殴られるなんてしょっちゅう。朝から朝まで。月に5回、休めるかどうかではなく、うちに帰れるかどうかでした/笑」。
じつはそうこうしているうちに、目的まで見失ってしまったそう。次第に、大嶋氏に惹かれ、それ以上に「てっぺん」の朝礼にも魅了されてしまったからだ。スパイのはずが、すっかり取り込まれてしまった。
その頃になると、背中を押され、無理やり声を吐き出していた類家氏ではなくなっていた。「私は1年半で店長になります。記録的なスピードです。それだけかわったということです。写真でみれば明らかなんですが、入社した頃と比べれば、おなじ人間じゃない/笑」。
スパイ活動もつづけていけなくなった。叔父に「スパイを辞めたい」と告白すると、笑いながら「ようやく、みつけたか」と言ってくれたそう。
その時、初めて本来のミッションを知った。ともかく叔父が仕掛けた「スパイ大作戦」は、無事、コンプリートする。そして、ここからは、類家氏自身の大作戦の始まり、始まり、となる。

独立、たたかいの火蓋が切って落とされる。

「店長だった期間は7ヵ月と案外短いんです。8ヵ月目から、韓国に進出するための別会社『てっぺんコリア』の副社長に就任します」。
副社長といっても、第一線で仕事をする営業マンのようなものだそう。韓国にはむろん、何の縁もない。模索がつづく。「別会社だから、『てっぺん』からは給料もだせない」と大嶋氏から釘も刺されている。
「もう、やるしかないでしょ。とにかく日本と韓国を行き来しました。『てっぺん』の朝礼の話も盛り込みながら、コンサルも行いました。結局、お店をオープンするまでは1年半くらいかかりました。ただ、オープンしてからは爆発です。芸能人もいらっしゃるような店になり、新たな出店も行います。それで、計3年くらいで帰国します。ハイ、独立のために、です」。
いよいよ、次なる大作戦が開始する。28歳の8月。降り注ぐ、太陽に照らされながら、類家氏は、帰国する。そして、同年10月に1号店をオープン。「六本木なんかに出店すれば恰好よかったんですが、最初は、とにかく失敗できないですから」。「家賃第一」で、出店したそう。いちおう新宿エリアだが、離れの離れ。「ここでは、失敗する」とみんなから忠告されたそう。なかには、嘲笑する者もいた。それでも、火蓋は切って落とされた。
・・・続き

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