本文より~
アマ出身。
いいガタイをされている。だが、本人に聞くと「けっこうどんくさい少年だった」そう。小学生時代、人の輪ができる時も、一歩遅れることが多かったそう。代わりに好奇心は旺盛。当時の村上少年にとっては自転車もテクニカルな好奇心の対象で、壊れれば直るまで、必要であればバラバラに分解して、何日もかけて独学で構造を理解して直してしまったそうだ。「中学はバトミントンです。真剣にやっていて兵庫県の大会にも出場しています。え、勉強ですか? 勉強もどうしても興味があるものにかたよっちゃう。理科・数学は良かったですが、それ以外はぜんぜんだめでした/笑」。
高校は、尼崎の公立高校に進む。
「理科と数学で受験できる理数科があったからです。部活は、中学といっしょでバトミントンです。でも、高校では立派な幽霊部員でした/笑」。
高校時代の思い出は、コンビニのアルバイト。もっともアルバイトにも精をだしたせいか1浪。1年間の青春を受験勉強に捧げ、翌年、神戸大学に進んでいる。
高校は、尼崎の公立高校に進む。
「理科と数学で受験できる理数科があったからです。部活は、中学といっしょでバトミントンです。でも、高校では立派な幽霊部員でした/笑」。
高校時代の思い出は、コンビニのアルバイト。もっともアルバイトにも精をだしたせいか1浪。1年間の青春を受験勉強に捧げ、翌年、神戸大学に進んでいる。
神戸大学から大阪大学大学院へ。
「大学では、バイオ系の研究をしていました。でも、神戸大学と言っても悲しいかな、研究の予算が十分とは言えず不完全燃焼でした。思い切り研究ができる環境を求め大阪大学の大学院に進むことを決めました」。
村上氏は簡単にいうが、そうやすやすと大学院に入れるんだろか?
「試験も努力しましたが、研究室に入るのが難しかったですね、試験を受ける前から自分を売り込み、先生方に認めて頂かないといけないので。試験にも受かり、タンパク質の研究で当時の日本で一番進んでいる研究所に進めることになっていましたが、タイミングが悪く、助教授が栄転で離れ、助手も海外へ。2月になって教授から指導が既存の学生で手一杯と言われ、そこには私だけでなく皆入れなくなった」。
結局村上氏は、同じ理学研究科にあり興味があったもう一つの研究室でDNAの配列をコンピューターで分析する道に進む。それが、村上氏の最初のキャリアにつながるから、人生はわからない。
ともかく、大阪大学大学院理学研究科、これが村上氏の最終学歴。簡単に言えば、頭がいい。
村上氏は簡単にいうが、そうやすやすと大学院に入れるんだろか?
「試験も努力しましたが、研究室に入るのが難しかったですね、試験を受ける前から自分を売り込み、先生方に認めて頂かないといけないので。試験にも受かり、タンパク質の研究で当時の日本で一番進んでいる研究所に進めることになっていましたが、タイミングが悪く、助教授が栄転で離れ、助手も海外へ。2月になって教授から指導が既存の学生で手一杯と言われ、そこには私だけでなく皆入れなくなった」。
結局村上氏は、同じ理学研究科にあり興味があったもう一つの研究室でDNAの配列をコンピューターで分析する道に進む。それが、村上氏の最初のキャリアにつながるから、人生はわからない。
ともかく、大阪大学大学院理学研究科、これが村上氏の最終学歴。簡単に言えば、頭がいい。
26歳、初の転職。
頭がいいだけではない。先輩とともに在学中にバイオ系情報解析ベンチャーを起業するなど、エネルギッシュな一面もある。これが、その後の経営・事業企画のキャリアのスタートとなる。
「研究室に入って1年くらい経った時ですね、研究室の先輩、研究室外のエンジニアの3人で、研究内容そのままをサービスにして起業しました。私は研究をしながら、一方で、バイオ系の研究室への営業、技術者の採用、プログラマーとしてコードを書いたり、企業にシステム屋として常駐したり、経理・労務以外全部していました」。
八面六臂。
大学院を修了してからも、おなじ仕事を続けた。
「在籍したのは取締役としての任期3年です。当時は1日4時間くらいの睡眠時間以外はキーボードを叩いていました/笑」。
「システム開発の事業は社員数15名で年商2億円ちょっとまで育てることができました。ただ、社長でもある先輩が10数名でやっていたフィットネスクラブのフランチャイズの部署で『この事業に注力して上場する』と決めたんです。私は『それは俺の仕事じゃないな』と任期満了で退きました。これが、転職のきっかけです。初めての転職は26歳でした」。
ストックオプションもあったようで、もったいないような気もする。数千万円単位の個人保証までして立ち上げた会社なのに。
実は、この後も傍から見ると「もったいないな」と思う転職があるが、突き詰めれば村上氏は、お金・ポストよりも「その事業に心血を注げるか否か」を常に大事にしているようだ。言い替えれば、何かにしがみつくという感覚がなく、「その事業で自分がビジネスインパクトを生み出すコミットができるか」と考えているように見えた。
「そうですね。若かったってこともあるでしょうね。とにかく、これが人生初の転職です。この時、やりたかったことですか? この時は、経営企画ですね。すでに、研究より経営に関心が移っていました」。
「研究室に入って1年くらい経った時ですね、研究室の先輩、研究室外のエンジニアの3人で、研究内容そのままをサービスにして起業しました。私は研究をしながら、一方で、バイオ系の研究室への営業、技術者の採用、プログラマーとしてコードを書いたり、企業にシステム屋として常駐したり、経理・労務以外全部していました」。
八面六臂。
大学院を修了してからも、おなじ仕事を続けた。
「在籍したのは取締役としての任期3年です。当時は1日4時間くらいの睡眠時間以外はキーボードを叩いていました/笑」。
「システム開発の事業は社員数15名で年商2億円ちょっとまで育てることができました。ただ、社長でもある先輩が10数名でやっていたフィットネスクラブのフランチャイズの部署で『この事業に注力して上場する』と決めたんです。私は『それは俺の仕事じゃないな』と任期満了で退きました。これが、転職のきっかけです。初めての転職は26歳でした」。
ストックオプションもあったようで、もったいないような気もする。数千万円単位の個人保証までして立ち上げた会社なのに。
実は、この後も傍から見ると「もったいないな」と思う転職があるが、突き詰めれば村上氏は、お金・ポストよりも「その事業に心血を注げるか否か」を常に大事にしているようだ。言い替えれば、何かにしがみつくという感覚がなく、「その事業で自分がビジネスインパクトを生み出すコミットができるか」と考えているように見えた。
「そうですね。若かったってこともあるでしょうね。とにかく、これが人生初の転職です。この時、やりたかったことですか? この時は、経営企画ですね。すでに、研究より経営に関心が移っていました」。
村田製作所→コンサル会社→トリドール→そして。
話を先に進めると、この後、村上氏は村田製作所に入社。経営企画に所属し、新規事業や商品開発企画、また研究者と会社をつなぐ仕事を担当。新規事業の商品を携えて出向で米国法人にも赴任している。
そこから更に、修行と称し32歳の時にデロイト トーマツ コンサルティングに転職し、海外関連のプロジェクトで総合電機メーカーの新規事業、M&A後の人事制度構築、1兆円企業のシステム移行マネジメントなどいくつものプロジェクトを歴任する。
その後、「丸亀製麺」でおなじみのトリドールに転職する。「当時は、まだ売上800億円くらいの時です。これまでの経営・事業企画の力をフルに発揮すべく経営企画室を希望しました。コンサルの時のペースでやると事業会社では周囲とかみ合わずに空回りしそうでしたので、ゆっくり確実にスタートを切りました/笑」。入社当時の肩書きは、あえての課長補佐。
「初めはエリアマネージャーの方々の数値レビューや予算作成などを行っていました。入社半年くらい経った頃から海外事業を担当するようになり、社長や専務といっしょに世界中を回るようになり、例えばアジア各国やケニアなどに行っていました。この仕事を1年続けている中、IT部の部長を任され、それと同時に『毒を食らえば皿まで』と、デジタルマーケもやらせてもらうようにお願いしました」。
経営企画、海外事業担当、IT部の部長、デジタルマーケの立ち上げを進める村上氏は、様々な成果を挙げる。丸亀製麺アプリを初年度400万ダウンロード達成させたり、CMの出稿量を億単位で最適化したり、データ分析の部署の立ち上げを行ったりと四足も五足もの草鞋を履いて。特に、アプリが普及したことでビッグデータが活用できるようになり、顧客のリピートが上がったり、新規出店に結び付くデータなども提供が可能となった。
「トリドールにお世話になったのは3年ほどで、ITやデジタルだけではなく事業責任をもってビジネスインパクトを出したいという思いを強く持ち続けていました。当時、社内でも相談していましたが事はそううまく運ばず、そんな時、松田さんにお声を掛けてもらいました」。
村上氏が、松田さんというのはEGGS'N THINGS JAPANのオーナーであり、タリーズコーヒージャパンの創業者としても有名な松田公太氏のことである。
そこから更に、修行と称し32歳の時にデロイト トーマツ コンサルティングに転職し、海外関連のプロジェクトで総合電機メーカーの新規事業、M&A後の人事制度構築、1兆円企業のシステム移行マネジメントなどいくつものプロジェクトを歴任する。
その後、「丸亀製麺」でおなじみのトリドールに転職する。「当時は、まだ売上800億円くらいの時です。これまでの経営・事業企画の力をフルに発揮すべく経営企画室を希望しました。コンサルの時のペースでやると事業会社では周囲とかみ合わずに空回りしそうでしたので、ゆっくり確実にスタートを切りました/笑」。入社当時の肩書きは、あえての課長補佐。
「初めはエリアマネージャーの方々の数値レビューや予算作成などを行っていました。入社半年くらい経った頃から海外事業を担当するようになり、社長や専務といっしょに世界中を回るようになり、例えばアジア各国やケニアなどに行っていました。この仕事を1年続けている中、IT部の部長を任され、それと同時に『毒を食らえば皿まで』と、デジタルマーケもやらせてもらうようにお願いしました」。
経営企画、海外事業担当、IT部の部長、デジタルマーケの立ち上げを進める村上氏は、様々な成果を挙げる。丸亀製麺アプリを初年度400万ダウンロード達成させたり、CMの出稿量を億単位で最適化したり、データ分析の部署の立ち上げを行ったりと四足も五足もの草鞋を履いて。特に、アプリが普及したことでビッグデータが活用できるようになり、顧客のリピートが上がったり、新規出店に結び付くデータなども提供が可能となった。
「トリドールにお世話になったのは3年ほどで、ITやデジタルだけではなく事業責任をもってビジネスインパクトを出したいという思いを強く持ち続けていました。当時、社内でも相談していましたが事はそううまく運ばず、そんな時、松田さんにお声を掛けてもらいました」。
村上氏が、松田さんというのはEGGS'N THINGS JAPANのオーナーであり、タリーズコーヒージャパンの創業者としても有名な松田公太氏のことである。
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