本文より~
怖い父と、次男と。
大阪市浪速区恵美須町は難波や日本橋から少し外れる。日本橋からは、天王寺の方向に向かえばいい。「まさにTHE大阪だった」と笑うのは、「和食さと」などを運営するSRSホールディングス(株)の3代目社長、重里政彦氏である。
「父が、当社の前身である『株式会社尼崎すし半本店』を設立したのは、私が生まれた1968年のことです」。お父様の印象は?とうかがうと、「とにかく、怖い人だった。仕事一本っていうか。私は、子どもの頃からできるだけ父に近づかないようにしていたくらいです」との返答。
仕事一本。重里氏が小学生になる頃には、すでに100店舗を出店されていたようだが、住まいにも無頓着だったようだ。「ネズミが走り回っていた」と重里氏は笑う。
「父が怖いと言いましたが、小学生の頃は、それ以外では結構自由にさせてもらっていました。あの頃がいちばん賢くて、中学生の頃は医者になろうと思っていました。職業にも惹かれていましたが、いちばんは父から口出しされないだろうと思ったからです」。
釣好きの父は、釣りに向かうたびに重里氏を連れだした。怖い父とわがままな少年。2人の距離は、近くない。次男ということもあったのだろう。事業を継ぐつもりも、さらさらなかったようだ。
高校3年の時、父親に医学部への進学を打ち明けると、猛反対されたそう。戦略を立て、医学部への進学を試みたが、けっきょく、父親の思いが勝った。それで、東大? 「そうです。理3はさすがに無理だったんで、理2で受験し、獣医学を専攻します。父ですか? ええ、東大へ行ってもらいたかったんでしょうね。大はしゃぎしていました」。
父親は乱舞したが、息子はうかなかった。「京都府立医大に合格していたんで、そちらに進もうかとも思ったんですが、それはやばい、父が何をするかわからない、とみんなに諭されて」。
強烈な父親像と同時に創業者像が思い浮かぶ。「ああいう人じゃないと、創業者にはなれないんでしょうね。私には、独立や起業など思いも寄らないことですから/笑」。
どこかで理解し、どこかで反発する。それが、父と子というものなのだろうか。ともかく、そういう風にして、重里氏は赤門が待つ東京へ向かった。
「父が、当社の前身である『株式会社尼崎すし半本店』を設立したのは、私が生まれた1968年のことです」。お父様の印象は?とうかがうと、「とにかく、怖い人だった。仕事一本っていうか。私は、子どもの頃からできるだけ父に近づかないようにしていたくらいです」との返答。
仕事一本。重里氏が小学生になる頃には、すでに100店舗を出店されていたようだが、住まいにも無頓着だったようだ。「ネズミが走り回っていた」と重里氏は笑う。
「父が怖いと言いましたが、小学生の頃は、それ以外では結構自由にさせてもらっていました。あの頃がいちばん賢くて、中学生の頃は医者になろうと思っていました。職業にも惹かれていましたが、いちばんは父から口出しされないだろうと思ったからです」。
釣好きの父は、釣りに向かうたびに重里氏を連れだした。怖い父とわがままな少年。2人の距離は、近くない。次男ということもあったのだろう。事業を継ぐつもりも、さらさらなかったようだ。
高校3年の時、父親に医学部への進学を打ち明けると、猛反対されたそう。戦略を立て、医学部への進学を試みたが、けっきょく、父親の思いが勝った。それで、東大? 「そうです。理3はさすがに無理だったんで、理2で受験し、獣医学を専攻します。父ですか? ええ、東大へ行ってもらいたかったんでしょうね。大はしゃぎしていました」。
父親は乱舞したが、息子はうかなかった。「京都府立医大に合格していたんで、そちらに進もうかとも思ったんですが、それはやばい、父が何をするかわからない、とみんなに諭されて」。
強烈な父親像と同時に創業者像が思い浮かぶ。「ああいう人じゃないと、創業者にはなれないんでしょうね。私には、独立や起業など思いも寄らないことですから/笑」。
どこかで理解し、どこかで反発する。それが、父と子というものなのだろうか。ともかく、そういう風にして、重里氏は赤門が待つ東京へ向かった。
兄と弟と。
東京大学に進んだ重里氏は、大学時代6年間を、ふつうかなと表現している。将来の目標を失ったこともあり、特別なことは、とくになかったということだろう。ところで、6年というのは、むろん獣医学科だったからである。
大学を卒業した重里氏は、畑違いの商社に就職している。
「私は、総合商社のトーメンに就職します。その1年目ですね、親父が亡くなります。箱根で社員研修をしている最中でした。突然でしたから、それはもうたいへん。兄が社長となるわけですが、なんの準備もしていなかったから尚更だったようです」。
突然の交代。以降、兄の重里欣孝氏がどれだけ奮闘されたかは想像に難くない。その奮闘にも興味はあるが、今回の主役は弟の重里氏の話である。重里氏自身は意図して、兄とも会社とも距離をおいていたようだ。むろん、商社の仕事も面白い。 30歳の時には、海外勤務も経験している。
海外勤務は5年間に及んだ。経験にも、財産にもなった。もっとも、重里氏が帰国するタイミングでトーメンと豊田通商が合併する。表面上は対等合併だが、実質的には豊田通商による救済合併だった。少なくとも、その色合いが濃い。
「私がいた部署は、救済どころからファンドに売却されてしまいます。ファンドの下で仕事をするのも経験にはなりましたが、だんだん数字のみの仕事に疲れて、40歳になって初めて転職活動を開始します」。兄と2人っきりで話をしたのは、この時がはじめてだったそう。
兄と弟は年齢が離れていることもあってか、すれ違いが多かった。重里氏が40歳になって、ようやく2人は、おなじテーブルにつく。どんな会話がなされたのだろうか?
大学を卒業した重里氏は、畑違いの商社に就職している。
「私は、総合商社のトーメンに就職します。その1年目ですね、親父が亡くなります。箱根で社員研修をしている最中でした。突然でしたから、それはもうたいへん。兄が社長となるわけですが、なんの準備もしていなかったから尚更だったようです」。
突然の交代。以降、兄の重里欣孝氏がどれだけ奮闘されたかは想像に難くない。その奮闘にも興味はあるが、今回の主役は弟の重里氏の話である。重里氏自身は意図して、兄とも会社とも距離をおいていたようだ。むろん、商社の仕事も面白い。 30歳の時には、海外勤務も経験している。
海外勤務は5年間に及んだ。経験にも、財産にもなった。もっとも、重里氏が帰国するタイミングでトーメンと豊田通商が合併する。表面上は対等合併だが、実質的には豊田通商による救済合併だった。少なくとも、その色合いが濃い。
「私がいた部署は、救済どころからファンドに売却されてしまいます。ファンドの下で仕事をするのも経験にはなりましたが、だんだん数字のみの仕事に疲れて、40歳になって初めて転職活動を開始します」。兄と2人っきりで話をしたのは、この時がはじめてだったそう。
兄と弟は年齢が離れていることもあってか、すれ違いが多かった。重里氏が40歳になって、ようやく2人は、おなじテーブルにつく。どんな会話がなされたのだろうか?
改革者、現る。
「和食さと」は、関西のファミリーレストランの雄である。東の「すかいらーく」や「デニーズ」と比較すればわかりやすい。実は、これらのレストランには「ファミリー」という以外にも「セントラルキッチン」という共通項がある。故渥美俊一氏が提唱したチェーンストア理論から生まれた戦略だ。
「うちの親父はだれの言うことも聞きませんでしたが、渥美先生にだけは絶対服従でした/笑」。
故渥美俊一氏については、いうまでもないだろう。ちなみに、渥美氏が創設した「ペガサスクラブ」には、いまも錚々たる企業が名を連ねている。むろん、現在の「SRSホールディングス」も会員だし、渥美氏の論理・思考はいまも息づいている。
とはいえ、時代がかわれば、発想もかわる。主要な戦略だった「セントラルキッチン」を不要とする企業が現れているのも事実だ。とくに、リーマン・ショックから始まった不況下で、飲食の経営スタイルは何度目かの再考を迫られることになる。 「サトレストランシステムズ」もまた、埒外ではなかった。
ちなみに、サトレストランシステムズでも2012年に工場部門を閉鎖している。
ともかく、重里氏が、サトレストランシステムズに入社したのは、ちょうど、その時。重里氏は、いきなりきびしい状況に立たされることになる。「不安がなかったとは言いませんが、畑違いの飲食といっても経営はおなじです。私は、兄のサポートを行うという思いで入社します。当初は、海外戦略が、私の主戦場になるはずでした」。ところが、リーマン・ショックで、国内の立て直しが急務になる。入社した翌年には、重里氏はメインブランドである「和食さと」の事業トップに立つことになる。
ある意味、タイミングがよかったというのは、乱暴な物言いだろうか。ただ、この不況下に入社したことは、重里氏にとっても、会社にとっても、幸いだった気がする。改革が必要な時は、ピンチの時だ。改革者、現る。それも、こんな時だ。重里氏は、大胆な改革案を口にした。
「うちの親父はだれの言うことも聞きませんでしたが、渥美先生にだけは絶対服従でした/笑」。
故渥美俊一氏については、いうまでもないだろう。ちなみに、渥美氏が創設した「ペガサスクラブ」には、いまも錚々たる企業が名を連ねている。むろん、現在の「SRSホールディングス」も会員だし、渥美氏の論理・思考はいまも息づいている。
とはいえ、時代がかわれば、発想もかわる。主要な戦略だった「セントラルキッチン」を不要とする企業が現れているのも事実だ。とくに、リーマン・ショックから始まった不況下で、飲食の経営スタイルは何度目かの再考を迫られることになる。 「サトレストランシステムズ」もまた、埒外ではなかった。
ちなみに、サトレストランシステムズでも2012年に工場部門を閉鎖している。
ともかく、重里氏が、サトレストランシステムズに入社したのは、ちょうど、その時。重里氏は、いきなりきびしい状況に立たされることになる。「不安がなかったとは言いませんが、畑違いの飲食といっても経営はおなじです。私は、兄のサポートを行うという思いで入社します。当初は、海外戦略が、私の主戦場になるはずでした」。ところが、リーマン・ショックで、国内の立て直しが急務になる。入社した翌年には、重里氏はメインブランドである「和食さと」の事業トップに立つことになる。
ある意味、タイミングがよかったというのは、乱暴な物言いだろうか。ただ、この不況下に入社したことは、重里氏にとっても、会社にとっても、幸いだった気がする。改革が必要な時は、ピンチの時だ。改革者、現る。それも、こんな時だ。重里氏は、大胆な改革案を口にした。
部外者があげた号砲。
「最初は、兄も私を海外戦略のなかで役立てようと思っていたようです。しかし、そういう余裕もなくなってしまう。それで、私は、メインブランドである『和食さと』の事業トップに就きます。すぐに現金を生む仕事です」。
重里氏の改革案は大胆だった。10億円の経費削減。部外者があげた号砲である。調べてみると、当時の売上は全体で約250億円。目標とした削減幅は対売上4%以上の数字となる。
「チームをつくって、最初に取り組んだのは販促方法の改善、キッチン内の業務改善です。その一方で商品開発にも着手しました。『さとしゃぶ』は、その時に開発した新メニューです」。
そもそも鍋は、「和食さと」が得意なメニューだった。このメニューにアレンジを加え、食べ放題にする(詳細は、HPにて)。この「さとしゃぶ」を起爆剤に「和食さと」がV字回復を果たす。同時に、この結果は、重里氏の実力を内外に示すことになる。
とはいえ、まだまだ全体では業績好調とは言い難い。その時、新たなブランドとして「かつや」がスタートする。サトレストランシステムズ初のFCブランド。「ジー」、つまり、加盟店としてのスタートである。
「うちの会社は昔からそうですが、とにかく自前主義なんです。だから、この時も、『なんでFCに』って話がでたのは事実です。しかし、兄の欣孝社長が押し切ります。これは2010年のことです」。
リーマン・ショック以降の、デフレのど真ん中。専門業態がにわかにクローズアップされ、低価格が一段と進む。ハレの日を楽しむ余裕がある人は少なかった。
「これが、もうひとつの改革ですね。ここから『さん天』のプロジェクトも生まれ、現在第二のブランドに育っています」。むろん、「さん天」は自社ブランドあり、重里氏が、兄、欣孝氏のもと、指揮をとって進めた事業である。
「私自身は、外部で育った人間です。親父にもできるだけ近づかなかったから、飲食とはなにか、なんて話をされたこともない/笑。でも、外部で育った人間だからできることもある。兄は、そんな私に賭けてくれたんだと思うんです」。
脱、自前主義。老舗企業がかわり始める。
重里氏の改革案は大胆だった。10億円の経費削減。部外者があげた号砲である。調べてみると、当時の売上は全体で約250億円。目標とした削減幅は対売上4%以上の数字となる。
「チームをつくって、最初に取り組んだのは販促方法の改善、キッチン内の業務改善です。その一方で商品開発にも着手しました。『さとしゃぶ』は、その時に開発した新メニューです」。
そもそも鍋は、「和食さと」が得意なメニューだった。このメニューにアレンジを加え、食べ放題にする(詳細は、HPにて)。この「さとしゃぶ」を起爆剤に「和食さと」がV字回復を果たす。同時に、この結果は、重里氏の実力を内外に示すことになる。
とはいえ、まだまだ全体では業績好調とは言い難い。その時、新たなブランドとして「かつや」がスタートする。サトレストランシステムズ初のFCブランド。「ジー」、つまり、加盟店としてのスタートである。
「うちの会社は昔からそうですが、とにかく自前主義なんです。だから、この時も、『なんでFCに』って話がでたのは事実です。しかし、兄の欣孝社長が押し切ります。これは2010年のことです」。
リーマン・ショック以降の、デフレのど真ん中。専門業態がにわかにクローズアップされ、低価格が一段と進む。ハレの日を楽しむ余裕がある人は少なかった。
「これが、もうひとつの改革ですね。ここから『さん天』のプロジェクトも生まれ、現在第二のブランドに育っています」。むろん、「さん天」は自社ブランドあり、重里氏が、兄、欣孝氏のもと、指揮をとって進めた事業である。
「私自身は、外部で育った人間です。親父にもできるだけ近づかなかったから、飲食とはなにか、なんて話をされたこともない/笑。でも、外部で育った人間だからできることもある。兄は、そんな私に賭けてくれたんだと思うんです」。
脱、自前主義。老舗企業がかわり始める。
・・・続き