in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社かんながら 代表取締役 大舘 誠氏登場。
本文より~
愚痴を聞いて、奮い立つ。やっぱり「独立」だ。
大学は亜細亜大学。「進学して、すぐにお寿司屋さんでバイトを開始して、卒業するまではたらきます」。
小さなお店だったが、繁盛していた。
「店主も、板前さんも、面倒見がいい人で、私だけではなく、バイトはみんな長く勤めました。もっとも私の場合、長くつづいただけではなく、定休日以外に休んだのは4年間で2~3日だけ。社員と何らかわりません/笑」。
勤務は、18時~22時まで。時間は4時間だったが、休まない。
「サラリーマンのお客さんが多いお店だったんですね。彼らは、お寿司をつまみながら、陰口や愚痴ばかり。どうしても、うちの店主と比較してしまうんです。雇われている人と、そうでない人はこんなにも違うのか、と。私が独立しようと思ったきっかけです」。
もっとも、独立はそう簡単にできるものではない。
それくらいはわかっている。
関西へ修業の旅。
「本社のある『大阪』に行く、その1日前に両親にはじめて話ました。反対されるのがわかっていたから」。就職先の話である。「当時、飲食っていったらまだね、大学生の就職先じゃなかったんです。しかも、大阪にある会社でしょ。まだ8店舗だけでしたしね」。
反対の声を奇策で封じ込めた。その企業を選択したのは、「独立」の約束があったから。
「いまでは独立を支援する会社も少なくないですが、30年前の当時は少なかった。私が就職した会社は、その少ない会社の一つで、『全員を独立させる』っていうのが理念でしたし、そもそも独立を希望する者しか採用しない会社だったんです」。 ただ、関西にしか店舗がない。だから、大舘氏は、関西に向かう。単純なようだが、1人、関西へ。相当な覚悟がいったんじゃないだろうか。選択肢は、それだけでもなかったわけだから。
黙々と仕事する。すると、貼られたきらわれ者のレッテル。
「最初に勤務したのは、藤井寺市というところにあるショッピングセンター内のファミリーレストランです。朝から晩まで。わき目もふらず、黙々と勤務しました。評判になるくらいです。なかには、そんな私をみて、たいへんと思う人もいましたが、へんな話、私にとってはそっちのほうが楽だったんです。人と話さなくてもいい。話かけられもしない。そう、ひとみしりですから/笑」。
わからなくもない。
「ともかく、そんな仕事ぶりでしたが、上から高く評価してもらって、2年して、本店に異動することになったんです。でも、そこで評価がいっぺんするんです」。
いびつな上下関係もあった。
「私の部下となる子が、私よりも本店が長く、しかも、仕入れから、アルバイトやパートさんのシフトまですべて彼がやっている。つまり、彼が実権をにぎっていたわけです/笑」。
アルバイトやパートの評判も悪かった。
「もちろん、こちらでも朝から晩まで黙々とはたらきます。それしかできませんから。ただ、かえって、そういうのがいけなかったんでしょう。部下となった、その子から、『そんなにはたらいてもらっては困る』『朝も来なくていい』というきびしい言葉を叩きつけられるんです」。
だれよりも、無心に、熱心に、黙々と仕事をした。しかし、貼られたのはきらわれ者のレッテルだった。
「ひとみしり」からの脱出。
「性格ですからね。いまも昔とおなじ部分も少なくないです。でも、たしかにあの時は、少しだけかもしれませんが、私の性格はかわったと思います。重い殻を一枚、脱いだような」。
「社長のご子息が、その店の副店長だったんです。私が悩んでいることをご存知だったんでしょうね。一度、お茶に誘っていただいて、『どうしたんだ?』って聞いてくださったんです。で、事情を説明して、どうしたらいいでしょう?と伺った時に、『カーネギーなどを読んでみたら、どうだろう』って話だったんです。で、すぐに読んでみます/笑」。
ある意味、藁にも縋る思いだったのだろう。そこまで追い込まれていた、ともいえる。選択したのは、カーネギーの「人を動かす」。
「なにをやっても評判は悪いままだし。その時点で本店に異動して半年くらいは経っていましたから。どうにも、こうにも好転しない。その時に『人を動かす』です。もう、それ以上悪くはならないだろうから書いてある通りやってみようと思って、書いてある通りに実践するんです。いうならば、開き直り/笑」。
「それが不思議なほど、功を奏するんです。当然、もう『ひとみしり』なんて言ってられません。私から声をかけ、バイトを誘って飯にも行きました。そうすると、『大舘さんってあんな人やったんやね。聞いていたのとぜんぜん違う。ええ人やん!』なんて話になるんです」。
そのうえ、大舘氏を抑えていた部下が異動する。陰口を叩く者もいなくなった。「あの時は、私の心の革命みたいなもんです/笑」。
淡々と話すが、そうとう悩んでいたことがわかる。「観えた風景は、いままでとは、まるで異なるけしきだった」とも言っている。
むろん、それ以外にもいろいろあった。ありながらも、こちらの企業に合計8年半在籍する。
ぶれない独立心。
「邪魔者扱いされて、辞めようとは思わなかったんですか?」と直截に聞いてみた。すると「ぜんぜん」という言葉が返ってくる。
「だって、私は独立するために、この会社に来たわけです。志半ばで、逃げ出すわけにはいきません。高校時代に辞めて後悔しているでしょ。だから、逃げない。逃げれば、後悔することがわかっていましたから。だから、『独立』ということに関しては決死の覚悟だったんです」。
「合計8年半。どんな契約だったんですか?」
「勤務経験が8年以上で、店長経験3年以上です。それに、社長の経営講義を受け、試験に合格しないといけない。もちろん、人間性も試されます」。
「そういうのをクリアして、はじめてオープンをサポートいただけるようになります。ショッピングセンター内なんて、なかなか入店させてもらえませんから、ありがたい話です」。
自己資金は700万円。独立に向け、給料から自動で引き落とされていたものだ。「ほかに、銀行から融資を受けますが、会社が保証人になってくれました。1号店は、ザ・モール仙台長町に出店しました」。
看板は、もちろん、いままでといっしょ。「ポプリンキッチン」だ。「のれん分け」のようなスタイルだった。
・・・続き
有限会社かんながら 代表取締役 大舘 誠氏