2019年8月29日木曜日

8月27日(火)発行の夕刊フジに8月にOPENされた小松庵銀座店が取り上げられました!

8月27日(火)発行の夕刊フジに8月にOPENされた小松庵銀座店が取り上げられました

銀座で味わう『TOKYO蕎麦』
「始まりの蕎麦」で知る蕎麦の真骨頂

1922年創業の江戸前蕎麦の伝統を受け継ぐ「小松庵総本家」(東京都豊島区、小松孝至社長、)が、去る8月1日、中央区銀座の中心、4丁目交差点から2分ほどの場所に「小松庵総本家 銀座」をオープンした。
「人を結ぶ蕎麦」というコンセプトのもと、明るく柔らかな光に満たされた店内、3面が特殊ガラスで囲まれた麺打ちスペース、コンパクトなBARカウンター、壁にはアート作品がバランスよく展示され、テーブルや椅子も適度な間隔で整然と配置されており、心地よい空間が構成されている。またフロワー奥には茶室の躙(にじ)り口の戸を思わせる潜り戸を設けて内部にはピアノが据えられた「隠れ部屋」的な空間も大きな特徴にもなっている。
このような特徴を備えている同店では、「和食の職人のほかフレンチ、イタリアンの料理人たちが集まり、蕎麦という素材を大きな視野で捉え魅力を引き出そうという江戸前蕎麦とは違う『TOKYO蕎麦』に取り組んでいます」(小松社長)。
さらに小松社長は「どんな楽しみ方でも構わないと思いますが、産地も味わいも違う2種類の蕎麦を召し上がっていただき蕎麦の魅力を堪能する『はじまりの蕎麦』を提案しています。これは今までにない楽しみ方なので、ぜひ、味わっていただきたいですね」と続けた。
また「銀座」という立地を生かし、美術工芸分野といったような異業種とコラボレーションし『TOKYO蕎麦』に舌鼓をうちながら作品を鑑賞する催事、「隠れ部屋」での集まりや会合など、これまでの「蕎麦屋」にはない広範囲な取り組み、利用も考えられる。こうした可能性も「人を結ぶ蕎麦」という同店の思想に裏付けされたものの一つではないだろうか。
銀座のど真ん中。静寂で洗練された空間に身を置き、吟味をされた素材を使った蕎麦を食べる。こうした「贅沢な時間」を過ごしてはどうだろうか。

 (はじめの蕎麦)
  (奥の隠し部屋)
  (銀座店・店内風景)
 (小松社長と専務)

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8月27日(火)発行の日刊ゲンダイにグルメ杵屋の椋本充士社長の記事が取り上げられました!

8月27日(火)発行の日刊ゲンダイ・『社長の私生活』にグルメ杵屋の椋本充士社長の記事が大きく載りました!
この5月、ORA(社団法人大阪外食産業協会)の第16代会長にも就任されました。
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K&BROTHERS株式会社 株式会社D.K INTERNATIONAL 代表取締役 岩谷良平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”K&BROTHERS株式会社 株式会社D.K INTERNATIONAL 代表取締役 岩谷良平氏登場
本文より~

初出馬、初当選。

「客引き禁止の条例をつくった」と岩谷氏は、議員時代の話をする。岩谷氏が大阪維新の会から出馬したのは2011年。岩谷氏が30歳の時。維新の会の面接では3つのことを聞かれたそうだ。
「選挙資金はありますか?」「ボランティア30人くらい集められますか?」「どこの地区から出馬しますか?」
最後の質問には、「どこでも行きます」と答えた岩谷氏はいわゆる落下傘候補者として大阪市東成区で立候補し、600票差で当選している。当然のこと、飲食店の経営者としては、異例の経歴である。
「東成区は、人口8万人。選挙資金は、借金でした。そうですね。4万枚の名刺を刷って一軒、一軒、ご自宅を訪問しました。おかげさまで当選し、4年間議員として活動させていただきました。客引き禁止の条例は、その時の話です」。
岩谷氏は1980年、生まれ。兄弟は10人いる。「私は5番目です。祖父が町工場をしていて、父親は不動産会社を経営していました。尊敬するビジネスマンの1人です」。
岩谷氏は、ビジネスマンではなく、弁護士をめざしていたようだ。「そうです。昔から弁護士になりたくて、法学部をめざします。ただ、早稲田の法学部に進学したものの、司法試験に落ちてしまいます」。
わずか1点足りなかったそうだ。「この時が一つ目のターニングポイントです。なにしろ、私にとって最初の挫折ですから」。その後、いったん父親が経営する会社に就職するも、半年で退社。今度は上野で行政書士事務所を立ち上げたが、仕事もなくたいへんだったと語っている。

政治家でなくても、できる社会貢献。

「行政書士を2年やりまして、そのあと出馬します。これが、2つ目のターニングポイントですね。議員を続けるつもりだったのですが、家業の都合で事業を引き継ぐ決心をしました。兄弟が10人もいますからね。もともと私が引き継ぐという選択肢は頭になかったんですが」。
1年目は専務としてはたらき、2年目からは社長となる。しかし、不動産よりも、飲食に興味が移る。「食べることが好きだったこと。多くの人に関われること。一度、始めると、これが楽しくて仕方なかった。それで不動産は兄弟が引き継いでくれたので、私は飲食に没頭します」。
ここまでが、岩谷氏の経緯である。多くの人に関わるという点で、飲食は政治の世界とどこか似ている。案外、影響力も似ていなくもない。マクドナルドやケンタッキーが日本にもたらしたものを想像すれば、あながち間違った比較ではないだろう。
岩谷氏が会社を設立したのは、2016年12月。このインタビューは、2019年6月に行っているので、現時点ではまだ3年も経っていないが、すでに店舗数は「Greenberry’s COFFEE」の9店舗をはじめ、20店舗まで広がっている。東京・大阪、神戸、奈良と半径も広い。
「Greenberry’sは、アメリカ版のコメダコーヒーのような存在なんです。FCを含め、100店舗まで展開できればいいな、と思っています」。
すごい話だ。
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スタースリー株式会社 代表取締役 坂口文彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”スタースリー株式会社 代表取締役 坂口文彦氏登場
本文より~

中学から全寮制の学校に進む。

4代目といえば、4代目。ホテルも、飲食店もあったが、いまはすべて手放した、と笑う。「小さい頃から、仕事を手伝っていた」と坂口氏。ホテルと我が家はつながっていて、我が家の玄関は、ホテルの厨房につづいていた。
「小学生までは、もちろん親元で育ちますが、中学からは寮生活です。広島市内にある中・高一貫の男子校に進みます。小学生の時に、近所の子が受験するというというから、じゃオレも、と。ホームシックはなかったですが、門限や上下関係、お小遣いにも制限があって。ええ、部屋は4人部屋です」。
中学の3年間は、寮生活。高校からは独り暮らし。早くから親離れしている。「最初は、私より、親のほうがさみしがっていたようですね」。
中学は、生徒数も少なく濃厚な付き合いだったが、高校になると生徒数はとたんに膨らんだ。進学校だったし、スポーツでも注目されている高校だったから。

大学卒業、修業スタート。

「大学は親が『東京の大学へ行け』というので、その時、初めて広島を離れます。大学ではアメリカンフットボールの同好会に入ります。大学時代は、あっという間だったですね。ただ、時間が経つのが早過ぎて、就活も何もしないうちに終わりかけてしまうんです/笑」。
「それで、どうしようかという時に、やはりホテルの4代目ですからね。広島にもどって、最初に就職したのは日本料理の喜多丘さんです。いくつかのお店をみて、ピンと来たもんですから。ただ、2人の兄さんがいたもんですから、紹介で、わりとゴリ押しで入社します。住まいは二段ベッドの2段目。兄さんのいびきが下から響きます/笑」。
「喜多丘」はミシュランで星を獲得している日本料理の名店だ。
「喜多丘にいたのは4年ちょっとです。料理の基本はぜんぶ、こちらで教わりました。ただ、私が就職してすぐ1人の兄さんがいなくなり、もう1人の兄さんも辞めてしまうんですね。それで、私1人です。ぜんぶ、私がやんなきゃいけない。だから、たいへんでした。でも、それが財産になったのも事実です」。
「辞めさせていただいたのは、昔から『海外に行きたい』という思いがあって。それがだんだん強くなって。それで色々調べて、ついにワーホリでカナダに行くことが決まったからなんです」。

MORIMOTOのオヤジ。

「もともと、森本さんとは2度お会いしていたんです」。ここで、坂口氏が「森本さん」といっているのは、世界的なシェフの1人である森本正治氏のことだ。
「『喜多丘』に2度いらしたんです。その時、うちの女将さんが、私が海外に行きたいのを知っていましたから、『この子、海外に行きたいんだけど、森本さんところはどう?』みたいな話をしてくださっていて」。
いろんな人が坂口氏を支援する。
「そうですね。そういうこともあって、森本さんが独立し、1号店の『MORIMOTO』をオープンする時に色々な人のご縁があり、カナダはやめ森本さんの下ではたらくことにするんですが、そう簡単にはいきません。ビザの関係もあって、私はけっきょくオープンから2ヵ月遅れで参戦です」。
「MORIMOTO」がフィラデルフィアにオープンしたのは、2001年11月のこと。
「とんでもなかったですね。森本さんは、もうすでに著名なシェフでしたから。客層も著名人ばかりですし…。そうですね、2005年からアメリカでも『アイアン・シェフ・アメリカ』っていう番組が始まるんですね。森本さんは、そちらでも鉄人を務めているんですが、それからはさらに拍車がかかりました。週末の売上は、とんでもなかったです/笑」。
「森本のオヤジの下で8年」と坂口氏。フィラデルフィア店のExecutive sous Chefにもなった坂口氏は、森本氏のエキスをたっぷり吸い込み、新たな人生をスタートする。
さらば、フィラデルフィアですね?
「まさに、そうですね」。
そう言って坂口氏は軽快に笑った。
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2019年8月26日月曜日

株式会社175 代表取締役 出野光浩氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社175 代表取締役 出野光浩登場
本文より~

スキーとサッカーと神のような指導者。

「月寒」と書いて「つきさむ」と読む。今回、ご登場いただいた株式会社175の代表取締役、出野光浩氏の生まれ故郷の地名である。出野氏は1983年12月28日に、この寒月月寒に生まれている。
「北海道ですから、私も小さな3歳頃からスキーを始めます。小学4年生頃までですが、大人が取るインストラクターの資格も取得しています」。
小さな頃から運動神経は抜群だった。ただ、北海道生まれなのに、寒いのが苦手。「それで、サッカーに転向した」とこちらを笑わせる。
チームは弱かったが、出野氏は1人、選抜にも選ばれている。
中学になっても、サッカーをつづけた。
進学したのは全国大会に出場するような強豪校。
ここで1人の神のような指導者に出会う。
「顧問の先生です。先生はサッカーのことより、普段の生活態度に厳しい人だったんです。練習だって2時間くらいしかしない。先生はサッカー経験もない。それでも、5年連続で全国大会に出場するようなチームを作るんですからね。とんでもない指導者でしょ」。
公立高校公立中学校だから、特別な選手が入学してきたわけではない。練習量もけっして多くない。にもかかわらず、みんながグングン巧くなる。
小学校では弱小チームだった面々が、ピッチを自在に駆け、大会で優勝する。何が何かわからなかったが、紛れもない事実だった。
先輩たちと比べ、出野氏らの代は、けっして強くなかったそうだが、それでも出野氏は推薦で北海高校に進んでいる。
「先生の教えは、いまも私の信念となっています。『やれば、できる人間として何が正しいか』です。じつは、盛和塾の稲盛和夫塾長さんの教えと共通してにも似てといるんです」。
時に訓話は1時間に及んだらしい。長い話だったが少年たちは黙って耳を傾けた。出野氏のチームメイトではないが、その長い訓話は、プロのサッカー選手まで生み出している。サッカー以外のどんな部活を指導しても全国に導くまさに、神のような指導者だ。

起業を志すまで。

出野氏が進んだ「北海高校」はスポーツの名門校だ。神の先生が育てた方が監督。ただ、名門だけあって、練習もハンパなかった。新入生100人が入部したが、3日で3分の1になったというから、練習のレベルも想像できる。
「1週間経った頃には5分の1の20人です/笑」と出野氏。
高校を卒業した出野氏は、自動車短期大学に進む。車の仕組みが知りたかったからだ。飲食のバイトをはじめたのは、短大に進学してから。
学生バイトだが19歳で店長になる。担当店舗の社員、アルバイトスタッフ約40名は全員年上、バイトからいきなり店長になったのだからナメられ人の管理の大変さを痛感し悩み10kgほど痩せたが水商売の原点を体に叩き込んだ。
「17歳くらいの時に、「社長になろう」と思っていたんです。きっかけは思考は現実化するというビジネス書を読んだこと。学生時代は全く勉強してこなかったのですが、ビジネス書にはまりました。飲食関係の仕事をしているうちに、そういう思いがだんだんと膨らんでいって…」。
サラリーマンというものに対しても、いささか抵抗があった。じつは、不動産会社に一度、就職しているのだが、やはり性に合わなかったらしい。
ともかく、心は起業である。

一品勝負という、羅針盤。

「上京したのは、21歳の時です。北海道では、飲食はもちろんですが、工場勤務、運送の仕事やの仕事などいろいろ経験しました。そのなかで、飲食業がやはりいちばんマッチしました。それで、独立という目標を抱いて上京します。最初に働いたのが、お台場にある中華料理店でした」。
店長として4年つづけた。その店で、独立の羅針盤を手にする。
それが、「究極に高めた一品」のちから。
「『究極の一品』のちからを知って、なら、好きだった担担麺で勝負しようと決めたんです」。
やるなら、とことん。
「175の創業は2013年なんですが、これは、その5年前くらいの話ですね。最初に思い浮かんだのは単純なことで、究極までこだわったらどんな担担麺が生まれるんだろうか、ということでした。戦略というより、純粋な好奇心ですね。最高の担担麺をつくって食べてみたいっていう」。
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株式会社かどや 代表取締役社長 清家幹広氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社かどや 代表取締役社長 清家幹広氏登場
本文より~

愛媛県宇和島市。

「山の幸も、海の幸もあった」と「かどや」の社長、清家氏はいう。愛媛県宇和島市出身。1953年生まれ。「愛媛は、みかんでしょ。むかしはうちもみかん農家だったんです。ただ、私の父の代になって、『食』にかわるんです」。
清家氏の父親は7人きょうだいの長男だったそうで、もともと農家の跡取りである。
「父の弟、私には叔父ですが、その叔父といっしょにお菓子の製造・販売と食堂をはじめます。まだ戦後ということもあったんでしょうね。『これからは食だ』と10坪程度の食堂をはじめます。それが『かどや』のはじまりです」。
「最初は食堂と言っても素人の『うどんや』ですが、父が寿司を修業に行ったりしてメニューも本格化します。昭和40年代には、そのあたりではいちばん背が高いビルを建てていましたから、相当、儲かってもいたんでしょうね」。
地方といっても、父親は、それなりの事業家となる。
「ただ、小っちゃい頃は、食堂屋の子って言われるのが、イヤでした。中学までは家と店がいっしょでしたから、とくにそう思ったのかもしれません」。
とはいえ、その食堂屋のおかげで、不自由な思いはしたことがない。「中学はテニスです。バスケは高校からですね。当時ですか? 飲食には進みたくないと思っていました。朝から夜まで仕事でしょ。休みも年に数回。そういう父と母を観ていますからね、そりゃ、やりたいって思わないでしょ。ふつうは」。
いつしか、父親とは距離ができ、高校生になった頃からは口もきかなくなったらしい。ひたすら事業に打ち込む父親が、理解できなかったのかもしれない。

守りと攻め。父と子、それぞれの意見。

「大学は東京の『東京経済大学』に進みます。就職したのは、広島にある飲食会社です。そちらで2年はたらき、25歳の時に『かどや』に転職します。母が亡くなったのが、大きな理由です」。
母親がいなくなると「かどやもこれで終わり」と、囁かれたらしい。「かどや」にとって母親は、それほど偉大な存在だった証である。「たしかに、母の接客は心が行きとどいていましたね。いまでいえば、最高レベルの接客といってもいいんじゃないでしょうか」。
母親のためにも、「かどや」をこのままにはできないと思ったのだろう。「そうですね。2年ですが、飲食の経験がありますからね。じつは父とも、少しずつ話をするようにもなっていたんです。とはいえ、父は経営者であると同時に、職人気質の人でもあります。私は、料理もできないし、そもそも経営者志向ですからね」。
意見が衝突したことも少なくなかったそうだ。「まだ、私も若かったから、父の厳しい創業者精神が理解できなかった。今なら、もちろんわかることばかりなんですが(笑)」。
父親と清家氏。
清家氏は何度も出店しましょうと迫ったが、父親は頑なに首を縦にふらなかった。業績は悪くない。冒険を犯す理由はなかったのだろう。でも、業績だけの話なんだろうか。
どうしてでしょう?と話をふってみた。
「どうでしょう。とにかく出店したいと、それしか思ってなかったからでしょうね。それじゃだめだ、と。じつは、私をOGMの榊さんの講演に誘ってくれたのも父なんです。まだまだ、経営者として私の思いも、言葉も軽かったんでしょうね」。
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2019年8月19日月曜日

7月20日(土)からの日刊ゲンダイの“グルメ企業社長の食い倒れ日記”4連載は南国酒家・宮田順次社長でした。

7月20日(土)~8月10日(土)の4連載の日刊ゲンダイ“グルメ企業社長の食い倒れ日記”は南国酒家・宮田順次社長でした。
(7/20掲載分) 
(7/27掲載分)
(8/3掲載分)
(8/10掲載分)
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

夕刊フジ「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にて珈琲館様を掲載させて頂きました。

8月2日(金)8月9日(金)8月16日(金)の3連載で珈琲館様を掲載させて頂きました。
(8/2発行 電子版/カラー)
(8/9発行 電子版/カラー)
 (8/16発行 電子版/カラー)
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2019年8月14日水曜日

8月13日(火)発行の日刊ゲンダイにT.H.Sの金本正彦社長(64歳)の記事が大きく取り上げられました!

8月13日(火)発行の日刊ゲンダイ・『社長の私生活』にT.H.Sの金本正彦社長(64歳)の記事が大きく載りました!
なんと理髪店(ヘアーサロン カルダン)、飲食店(百年味噌ラーメン マルキン本舗他)、そして高級食パン専門店「純生食パン工房HARE/PAN」も展開されております。
今年度で「純生食パン工房HARE/PAN」の出店数50店舗くらい狙っておられます!
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2019年8月13日火曜日

ピカチュウ大量発生チュウ!2019 in みなとみらい

ピカチュウ大量発生チュウ!2019 in みなとみらい。
みなとみらいはいろんなイベントがあり、楽しいところです。

有限会社かんながら 代表取締役 大舘 誠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社かんながら 代表取締役 大舘 誠氏登場
本文より~

愚痴を聞いて、奮い立つ。やっぱり「独立」だ。

大学は亜細亜大学。「進学して、すぐにお寿司屋さんでバイトを開始して、卒業するまではたらきます」。
小さなお店だったが、繁盛していた。
「店主も、板前さんも、面倒見がいい人で、私だけではなく、バイトはみんな長く勤めました。もっとも私の場合、長くつづいただけではなく、定休日以外に休んだのは4年間で2~3日だけ。社員と何らかわりません/笑」。
勤務は、18時~22時まで。時間は4時間だったが、休まない。
「サラリーマンのお客さんが多いお店だったんですね。彼らは、お寿司をつまみながら、陰口や愚痴ばかり。どうしても、うちの店主と比較してしまうんです。雇われている人と、そうでない人はこんなにも違うのか、と。私が独立しようと思ったきっかけです」。
もっとも、独立はそう簡単にできるものではない。
それくらいはわかっている。

関西へ修業の旅。

「本社のある『大阪』に行く、その1日前に両親にはじめて話ました。反対されるのがわかっていたから」。就職先の話である。「当時、飲食っていったらまだね、大学生の就職先じゃなかったんです。しかも、大阪にある会社でしょ。まだ8店舗だけでしたしね」。
反対の声を奇策で封じ込めた。その企業を選択したのは、「独立」の約束があったから。
「いまでは独立を支援する会社も少なくないですが、30年前の当時は少なかった。私が就職した会社は、その少ない会社の一つで、『全員を独立させる』っていうのが理念でしたし、そもそも独立を希望する者しか採用しない会社だったんです」。 ただ、関西にしか店舗がない。だから、大舘氏は、関西に向かう。単純なようだが、1人、関西へ。相当な覚悟がいったんじゃないだろうか。選択肢は、それだけでもなかったわけだから。

黙々と仕事する。すると、貼られたきらわれ者のレッテル。

「最初に勤務したのは、藤井寺市というところにあるショッピングセンター内のファミリーレストランです。朝から晩まで。わき目もふらず、黙々と勤務しました。評判になるくらいです。なかには、そんな私をみて、たいへんと思う人もいましたが、へんな話、私にとってはそっちのほうが楽だったんです。人と話さなくてもいい。話かけられもしない。そう、ひとみしりですから/笑」。
わからなくもない。
「ともかく、そんな仕事ぶりでしたが、上から高く評価してもらって、2年して、本店に異動することになったんです。でも、そこで評価がいっぺんするんです」。
いびつな上下関係もあった。
「私の部下となる子が、私よりも本店が長く、しかも、仕入れから、アルバイトやパートさんのシフトまですべて彼がやっている。つまり、彼が実権をにぎっていたわけです/笑」。
アルバイトやパートの評判も悪かった。
「もちろん、こちらでも朝から晩まで黙々とはたらきます。それしかできませんから。ただ、かえって、そういうのがいけなかったんでしょう。部下となった、その子から、『そんなにはたらいてもらっては困る』『朝も来なくていい』というきびしい言葉を叩きつけられるんです」。
だれよりも、無心に、熱心に、黙々と仕事をした。しかし、貼られたのはきらわれ者のレッテルだった。

「ひとみしり」からの脱出。

「性格ですからね。いまも昔とおなじ部分も少なくないです。でも、たしかにあの時は、少しだけかもしれませんが、私の性格はかわったと思います。重い殻を一枚、脱いだような」。
「社長のご子息が、その店の副店長だったんです。私が悩んでいることをご存知だったんでしょうね。一度、お茶に誘っていただいて、『どうしたんだ?』って聞いてくださったんです。で、事情を説明して、どうしたらいいでしょう?と伺った時に、『カーネギーなどを読んでみたら、どうだろう』って話だったんです。で、すぐに読んでみます/笑」。
ある意味、藁にも縋る思いだったのだろう。そこまで追い込まれていた、ともいえる。選択したのは、カーネギーの「人を動かす」。
「なにをやっても評判は悪いままだし。その時点で本店に異動して半年くらいは経っていましたから。どうにも、こうにも好転しない。その時に『人を動かす』です。もう、それ以上悪くはならないだろうから書いてある通りやってみようと思って、書いてある通りに実践するんです。いうならば、開き直り/笑」。
「それが不思議なほど、功を奏するんです。当然、もう『ひとみしり』なんて言ってられません。私から声をかけ、バイトを誘って飯にも行きました。そうすると、『大舘さんってあんな人やったんやね。聞いていたのとぜんぜん違う。ええ人やん!』なんて話になるんです」。
そのうえ、大舘氏を抑えていた部下が異動する。陰口を叩く者もいなくなった。「あの時は、私の心の革命みたいなもんです/笑」。
淡々と話すが、そうとう悩んでいたことがわかる。「観えた風景は、いままでとは、まるで異なるけしきだった」とも言っている。
むろん、それ以外にもいろいろあった。ありながらも、こちらの企業に合計8年半在籍する。

ぶれない独立心。

「邪魔者扱いされて、辞めようとは思わなかったんですか?」と直截に聞いてみた。すると「ぜんぜん」という言葉が返ってくる。
「だって、私は独立するために、この会社に来たわけです。志半ばで、逃げ出すわけにはいきません。高校時代に辞めて後悔しているでしょ。だから、逃げない。逃げれば、後悔することがわかっていましたから。だから、『独立』ということに関しては決死の覚悟だったんです」。
「合計8年半。どんな契約だったんですか?」
「勤務経験が8年以上で、店長経験3年以上です。それに、社長の経営講義を受け、試験に合格しないといけない。もちろん、人間性も試されます」。
「そういうのをクリアして、はじめてオープンをサポートいただけるようになります。ショッピングセンター内なんて、なかなか入店させてもらえませんから、ありがたい話です」。
自己資金は700万円。独立に向け、給料から自動で引き落とされていたものだ。「ほかに、銀行から融資を受けますが、会社が保証人になってくれました。1号店は、ザ・モール仙台長町に出店しました」。
看板は、もちろん、いままでといっしょ。「ポプリンキッチン」だ。「のれん分け」のようなスタイルだった。
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株式会社石川 代表取締役 石川敏樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社石川 代表取締役 石川敏樹氏登場
本文より~

反則的、でかさ。

すれちがった誰もが小学生とは思わなかったのではないか。小学6年生の時には、182センチの堂々たる体躯となっていた。野球ではエースで四番。球速は最速136キロだったというから驚く。高校進学前には、スカウトが鈴なりになったそうだが、当然のことだろう。
「小学生当時の住まいはUR住宅だったかな。そう、裕福でもなかったですね。兄弟は2人。私が弟です。小学1年の頃は、運動が得意だったんですが、だんだん太っちゃって。3年生のマラソン大会では、後ろから4番目。翌年もだめで。それが悔しくて、毎日、走っていたら、マラソンでは1位になるし、野球でも四番でエースになっちゃった。当時は電車も好きで、母の実家がある静岡の菊川まで各駅停車で行ったりしていました。こんなヘンな奴は、そういないですよね/笑」。
石川氏はいまも110キロとでかいが、小学6年生で180センチオーバーとは…。子どものなかに、大人がいるようなものだ。
「そう、ですね。4年生の時にはもう160センチあって、5年で170センチ、6年で182センチです。さっきも言ったように5年くらいから、体格がひきしまり、野球でもパフォーマンスをだせるようになりました。そうなると、軟式で130キロオーバーですからね、中学生レベルでは、もうだれも打てません。進学前にスカウトがきましたが、そういうのは断って、兄が通った公立高校に進学します。兄もこちらでエースだったんですね。ええ、当然、野球部です。でも、すぐに肩を壊しちゃうんです」。
絶対的なエースになるはずが、肩を壊して思い通りの投球ができなくなった。「人生のなかでも、トップクラスの挫折ですね/笑」。
それでも、1年半は野球を続けた。「だけどね。ベンチ外です。いま思えば、あの立ち位置はいい経験になったんじゃないかな」と石川氏。むろん、それは、いま思えば…、の話である。

みとれた。どこまでも高い、コック帽。


野球の代わりに始めたバイトで、大人の世界を垣間見る。17歳。新宿二丁目ではたらいた時には、間一髪の状況から逃げだしている。
銀座のスナックでもはたらいた。当時、月給が15万円。使い道がわからないから、財布にはいつも20万円くらいあった。「ファミレスくらいしか知らないから、たらふく食べても5000円くらいでしょ。そりゃ、なくならないです/笑」。
秋になると、仲間たちも野球を卒業する。「で、その時に、仲間4人で記念旅行をするんですが、その旅行で、俺たちの人生が決まるんです。え? なんでかって?」。
なんでも、いちはやく部活を卒業した石川氏はバイト生活を送りつつ、大学は無理だが、専門学校なら大丈夫だろうと進学先を調べていたそう。取り寄せたパンフレットのなかに「大阪あべの辻調理師専門学校」があり、「1日体験、交通費支給」と書いてあったらしい。
「でね。『いいじゃん、これ!』ってなるわけですよ。バカばっかりだから。何をするのか知らないけど、1日体験したら、とにかく往復料金がただなわけでしょ。料理なんて、だれ一人興味がなかったのに、『いいね、いいね』ってなって/笑」。 もちろん、石川氏も興味のない1人だ。
4人のうち3人はまだ、いがぐり頭。それでも、「通天閣」「なんば」「たこ焼き」…、なにわの夜が、頭のなかを駆け巡る。
「俺たちにしてみたらさ。体験なんてうっとうしいだけ。だりぃな、なんて思いながら、何がはじまんだろうって観てたらさ」。
一瞬だったらしい。「そう、一発でノックアウト。『すげぇ』って。心を鷲掴みにされるって、あるんですね。びっくりしちゃった/笑」。
もう、なにわの夜どころじゃなくなった。
「埼玉にもどった時には、料理は男子一生の仕事だって、4人が4人とも関西弁でまくしたてていたんです/笑」。
実際、石川氏ともう1人が「辻調理師専門学校」に入学し、残り2人も料理人のトビラを叩いている。
「オレは、コックになる」。
今度は、志高く、新幹線に乗り込んだ。和・洋・中。選択したのは、どこまでも高くつづくコック帽に憧れ、フレンチ。もっとも、いくら高い帽子でも、石川氏からすれば目の下にあったかもしれないが。
そして、1年が経つ。
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2019年8月9日金曜日

創業50周年「珈琲館」来年から新型FC契約を導入 確立された収益プランで安定利益!!

創業50周年「珈琲館」来年から新型FC契約を導入 確立された収益プランで安定利益

「一杯のコーヒーに心をこめて」という企業ポリシーのもと、直営店とFC加盟店とを合わせて253店舗を運営する「珈琲館」(東京都渋谷区)が、創業50周年を迎える来年、新しい形のFC契約を導入する。

「ビジネス・ファシリティー・リース(BFL)といい、具体的には当社から既存の直営店を丸ごとリースし店舗運営を委託する契約のことです」と友成勇樹社長。

店舗があり、かつ設備が整っているためイニシャルコストが少なくて済むのは大きなメリットだ。その上、「実績のある既存店の運営ですから売り上げや利益など収益プランも確立されていますし予測も立ちやすく、リスクを抑えて開業することができます」(友成氏)。
BFL契約に必要な初期費用(加盟金と保証金の合計)は、新規加盟の場合か既存のFC加盟店の2号店としての場合かでは若干の違いがあるが、300万~350万円。契約期間は3年で条件によっては更新も可能だ。また加盟金は、2号店では100万円、3号店以後は50万円と段階的に低くなり、複数店舗経営のハードルも低くなる。

次に収益面をみてみよう。
「売り上げ総利益から人件費を含む店舗発生経費、BFLマージンやロイヤリティー、BFL料などの本部請求を差し引くと、通常は15万円、人件費のコントロールなど状況によって30万円以上の営業利益が確保できます。ということは、初期費用も早ければ1年未満で回収できることになります」(同)
「さらに複数店舗を展開することで事業として拡大していくことも決して夢ではありません」と語る。
小さなリスクと約束された安定的な利益。BFLは、魅力にあふれた方式だ。
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