2019年8月26日月曜日

株式会社175 代表取締役 出野光浩氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社175 代表取締役 出野光浩登場
本文より~

スキーとサッカーと神のような指導者。

「月寒」と書いて「つきさむ」と読む。今回、ご登場いただいた株式会社175の代表取締役、出野光浩氏の生まれ故郷の地名である。出野氏は1983年12月28日に、この寒月月寒に生まれている。
「北海道ですから、私も小さな3歳頃からスキーを始めます。小学4年生頃までですが、大人が取るインストラクターの資格も取得しています」。
小さな頃から運動神経は抜群だった。ただ、北海道生まれなのに、寒いのが苦手。「それで、サッカーに転向した」とこちらを笑わせる。
チームは弱かったが、出野氏は1人、選抜にも選ばれている。
中学になっても、サッカーをつづけた。
進学したのは全国大会に出場するような強豪校。
ここで1人の神のような指導者に出会う。
「顧問の先生です。先生はサッカーのことより、普段の生活態度に厳しい人だったんです。練習だって2時間くらいしかしない。先生はサッカー経験もない。それでも、5年連続で全国大会に出場するようなチームを作るんですからね。とんでもない指導者でしょ」。
公立高校公立中学校だから、特別な選手が入学してきたわけではない。練習量もけっして多くない。にもかかわらず、みんながグングン巧くなる。
小学校では弱小チームだった面々が、ピッチを自在に駆け、大会で優勝する。何が何かわからなかったが、紛れもない事実だった。
先輩たちと比べ、出野氏らの代は、けっして強くなかったそうだが、それでも出野氏は推薦で北海高校に進んでいる。
「先生の教えは、いまも私の信念となっています。『やれば、できる人間として何が正しいか』です。じつは、盛和塾の稲盛和夫塾長さんの教えと共通してにも似てといるんです」。
時に訓話は1時間に及んだらしい。長い話だったが少年たちは黙って耳を傾けた。出野氏のチームメイトではないが、その長い訓話は、プロのサッカー選手まで生み出している。サッカー以外のどんな部活を指導しても全国に導くまさに、神のような指導者だ。

起業を志すまで。

出野氏が進んだ「北海高校」はスポーツの名門校だ。神の先生が育てた方が監督。ただ、名門だけあって、練習もハンパなかった。新入生100人が入部したが、3日で3分の1になったというから、練習のレベルも想像できる。
「1週間経った頃には5分の1の20人です/笑」と出野氏。
高校を卒業した出野氏は、自動車短期大学に進む。車の仕組みが知りたかったからだ。飲食のバイトをはじめたのは、短大に進学してから。
学生バイトだが19歳で店長になる。担当店舗の社員、アルバイトスタッフ約40名は全員年上、バイトからいきなり店長になったのだからナメられ人の管理の大変さを痛感し悩み10kgほど痩せたが水商売の原点を体に叩き込んだ。
「17歳くらいの時に、「社長になろう」と思っていたんです。きっかけは思考は現実化するというビジネス書を読んだこと。学生時代は全く勉強してこなかったのですが、ビジネス書にはまりました。飲食関係の仕事をしているうちに、そういう思いがだんだんと膨らんでいって…」。
サラリーマンというものに対しても、いささか抵抗があった。じつは、不動産会社に一度、就職しているのだが、やはり性に合わなかったらしい。
ともかく、心は起業である。

一品勝負という、羅針盤。

「上京したのは、21歳の時です。北海道では、飲食はもちろんですが、工場勤務、運送の仕事やの仕事などいろいろ経験しました。そのなかで、飲食業がやはりいちばんマッチしました。それで、独立という目標を抱いて上京します。最初に働いたのが、お台場にある中華料理店でした」。
店長として4年つづけた。その店で、独立の羅針盤を手にする。
それが、「究極に高めた一品」のちから。
「『究極の一品』のちからを知って、なら、好きだった担担麺で勝負しようと決めたんです」。
やるなら、とことん。
「175の創業は2013年なんですが、これは、その5年前くらいの話ですね。最初に思い浮かんだのは単純なことで、究極までこだわったらどんな担担麺が生まれるんだろうか、ということでした。戦略というより、純粋な好奇心ですね。最高の担担麺をつくって食べてみたいっていう」。
・・・続き
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