2019年8月26日月曜日

株式会社かどや 代表取締役社長 清家幹広氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社かどや 代表取締役社長 清家幹広氏登場
本文より~

愛媛県宇和島市。

「山の幸も、海の幸もあった」と「かどや」の社長、清家氏はいう。愛媛県宇和島市出身。1953年生まれ。「愛媛は、みかんでしょ。むかしはうちもみかん農家だったんです。ただ、私の父の代になって、『食』にかわるんです」。
清家氏の父親は7人きょうだいの長男だったそうで、もともと農家の跡取りである。
「父の弟、私には叔父ですが、その叔父といっしょにお菓子の製造・販売と食堂をはじめます。まだ戦後ということもあったんでしょうね。『これからは食だ』と10坪程度の食堂をはじめます。それが『かどや』のはじまりです」。
「最初は食堂と言っても素人の『うどんや』ですが、父が寿司を修業に行ったりしてメニューも本格化します。昭和40年代には、そのあたりではいちばん背が高いビルを建てていましたから、相当、儲かってもいたんでしょうね」。
地方といっても、父親は、それなりの事業家となる。
「ただ、小っちゃい頃は、食堂屋の子って言われるのが、イヤでした。中学までは家と店がいっしょでしたから、とくにそう思ったのかもしれません」。
とはいえ、その食堂屋のおかげで、不自由な思いはしたことがない。「中学はテニスです。バスケは高校からですね。当時ですか? 飲食には進みたくないと思っていました。朝から夜まで仕事でしょ。休みも年に数回。そういう父と母を観ていますからね、そりゃ、やりたいって思わないでしょ。ふつうは」。
いつしか、父親とは距離ができ、高校生になった頃からは口もきかなくなったらしい。ひたすら事業に打ち込む父親が、理解できなかったのかもしれない。

守りと攻め。父と子、それぞれの意見。

「大学は東京の『東京経済大学』に進みます。就職したのは、広島にある飲食会社です。そちらで2年はたらき、25歳の時に『かどや』に転職します。母が亡くなったのが、大きな理由です」。
母親がいなくなると「かどやもこれで終わり」と、囁かれたらしい。「かどや」にとって母親は、それほど偉大な存在だった証である。「たしかに、母の接客は心が行きとどいていましたね。いまでいえば、最高レベルの接客といってもいいんじゃないでしょうか」。
母親のためにも、「かどや」をこのままにはできないと思ったのだろう。「そうですね。2年ですが、飲食の経験がありますからね。じつは父とも、少しずつ話をするようにもなっていたんです。とはいえ、父は経営者であると同時に、職人気質の人でもあります。私は、料理もできないし、そもそも経営者志向ですからね」。
意見が衝突したことも少なくなかったそうだ。「まだ、私も若かったから、父の厳しい創業者精神が理解できなかった。今なら、もちろんわかることばかりなんですが(笑)」。
父親と清家氏。
清家氏は何度も出店しましょうと迫ったが、父親は頑なに首を縦にふらなかった。業績は悪くない。冒険を犯す理由はなかったのだろう。でも、業績だけの話なんだろうか。
どうしてでしょう?と話をふってみた。
「どうでしょう。とにかく出店したいと、それしか思ってなかったからでしょうね。それじゃだめだ、と。じつは、私をOGMの榊さんの講演に誘ってくれたのも父なんです。まだまだ、経営者として私の思いも、言葉も軽かったんでしょうね」。
・・・続き
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