本文より~
お堀の向こうの、大屋敷。
父親の実家は、京都の老舗染物店だった。父親は、京都大学出身の技術者。
「ものごころついた時には、お屋敷に住んでいました」と、今回ご登場いただいた田中氏は、語りだす。兵庫県が、技術者の父親のために用意してくれた屋敷だったとか。4人家族には広すぎて、部屋を区切って暮らしていたらしい。
「庭もそうなんです。迷子になってしまうからロープで仕切って『ここから、向こうはよそさんだ』って言われていました。あの時、『怖いのは何?』って聞かれたら、まっさきに『家』って叫んでいました」。それだけ、古臭く、広かった。
「丹波篠山って、ご存知ですか?あそこに篠山城っていう城があって、そのお堀の向こうに、私たちは住んでいたんです。昔のご家老のお屋敷だったみたいです」。
それなら、広いわけだ。
「篠山の伝統工芸の一つに『立杭焼』っていうのがあるんですね。うちの父親は、兵庫県に頼まれ、当時はその『立杭焼』の窯の設計をやっていたそうです」。
親子関係はどうだったのだろう?
「うちにいる父は、ずっと書斎にいましたから。じつはあまり話したことがないんです」。
父上はいくつかの本も執筆されている。技術サポートのために、台湾に渡られたこともあるそうだ。
「本人曰くですが、台湾ではけっこうな有名人だったらしいですよ」。
田中氏本人に、反抗期はなかったという。それどころか、絶対服従に近かったかもしれない、年の離れた兄が1人いるが、兄にも、父親にも敬語だったそうだ。
「それが、ふつうと思っていたんでしょうね。父も、兄も、リスペクトの対象でしたからね。公園でキャッチボールをしてくれたのは、兄だったかな」。
「兄は、みんなから期待されて育つんですが、京都の実家からすると、長男のそのまた長男で、しかも初孫ですからね。兄に言わせれば、それはそれで、大変だったようです/笑」。
「ものごころついた時には、お屋敷に住んでいました」と、今回ご登場いただいた田中氏は、語りだす。兵庫県が、技術者の父親のために用意してくれた屋敷だったとか。4人家族には広すぎて、部屋を区切って暮らしていたらしい。
「庭もそうなんです。迷子になってしまうからロープで仕切って『ここから、向こうはよそさんだ』って言われていました。あの時、『怖いのは何?』って聞かれたら、まっさきに『家』って叫んでいました」。それだけ、古臭く、広かった。
「丹波篠山って、ご存知ですか?あそこに篠山城っていう城があって、そのお堀の向こうに、私たちは住んでいたんです。昔のご家老のお屋敷だったみたいです」。
それなら、広いわけだ。
「篠山の伝統工芸の一つに『立杭焼』っていうのがあるんですね。うちの父親は、兵庫県に頼まれ、当時はその『立杭焼』の窯の設計をやっていたそうです」。
親子関係はどうだったのだろう?
「うちにいる父は、ずっと書斎にいましたから。じつはあまり話したことがないんです」。
父上はいくつかの本も執筆されている。技術サポートのために、台湾に渡られたこともあるそうだ。
「本人曰くですが、台湾ではけっこうな有名人だったらしいですよ」。
田中氏本人に、反抗期はなかったという。それどころか、絶対服従に近かったかもしれない、年の離れた兄が1人いるが、兄にも、父親にも敬語だったそうだ。
「それが、ふつうと思っていたんでしょうね。父も、兄も、リスペクトの対象でしたからね。公園でキャッチボールをしてくれたのは、兄だったかな」。
「兄は、みんなから期待されて育つんですが、京都の実家からすると、長男のそのまた長男で、しかも初孫ですからね。兄に言わせれば、それはそれで、大変だったようです/笑」。
甲南中学入学。その時のいろいろ。
六甲山の麓になるだろうか。阪急「芦屋川」駅から徒歩20分。山間にある、自由な校風の中学だ。甲南大学の付属校である。
「当時、身体が弱かった私を心配した母が、一貫校に進めるように父を説得します。それが甲南大学の付属中学でした。ここではバレー部に所属します。主将になり、それが一つの教訓を生むんですが…。そうですね、それは、もう少しあとで/笑。高校でもバレーを続け、監督からまた主将に命じられるんですけど、『いや、先生、それはだめです』って」。
なんでも、中学の時、主将になったことでハリキリすぎ、メンバーと齟齬が生まれたらしい。
「だれにでも、命令口調でね。ハッキリいえば、嫌われ者だったんです。だから、『また主将なんて、無理』って思ったんですが、1人の同級生が『やれよ』って言ってくれて。私にとっては、大きな一言でした。あの一言がなければ、人生もかわっていたかもしれません」。
たしかに、そんな一言はある。
「じつは、この時もう1人の貴重な人物と会っているんです。のちに上司となる、吉本さんです」。
そんな時から縁があったのですね!
「そうなんです。私は、サントリーで吉本さんの下につくんですが、中学・高校の学園際で、すでに実行委員長だった吉本さんに指導されているんですね。模擬店をやる私たちに『値段は、いくらにしろ』とか、『よし、今から値下げだ』とかね。当時から、商才があったんでしょうね/笑。吉本さんは、私の4歳上です。出身が一緒だということで、ずいぶん可愛がってもらいました。今あるのは、言うまでもなく、吉本さんのおかげです」。
田中氏が「吉本さん」というのは、サントリーのグループ会社である「ミュープランニング」を育てた故吉本隆彦氏のことだ。以前、このサイトにもご登場いただいている。
人が好き、ビジネスが好きな素晴らしい経営者だった。
「そうですね。サントリーのなかでも、だれよりも抜きんでていました。私がサントリーに入社した時は、吉本さんもまだ営業をしていて、距離が近かったもんですから、当然、影響も受けているんですが、勝負する気にはなりませんでしたね」。
直接、吉本氏にも、そう言ったこともあるそうだ。
「すると、『お前だって、京都の老舗だろ』って言われたんですね。でも、それは間違っている。いうまでもなくスケールが違いますよね/笑」。
ちなみに、吉本氏の父上は、関西人ならだれでも知っている「大阪マルビル」の創業者である。
ところで、話をもどすと、主将をもう一度拝命した田中氏。今度はチームをうまく運営し、弱小チームを強くしている。「今でも高校のホームページに残っているはずです。私らの代が『何十年ぶりに、勝利した』って」。
もっとも、バレーは高校までで、大学に進んでからはテニス部に入部することになる。
「当時、身体が弱かった私を心配した母が、一貫校に進めるように父を説得します。それが甲南大学の付属中学でした。ここではバレー部に所属します。主将になり、それが一つの教訓を生むんですが…。そうですね、それは、もう少しあとで/笑。高校でもバレーを続け、監督からまた主将に命じられるんですけど、『いや、先生、それはだめです』って」。
なんでも、中学の時、主将になったことでハリキリすぎ、メンバーと齟齬が生まれたらしい。
「だれにでも、命令口調でね。ハッキリいえば、嫌われ者だったんです。だから、『また主将なんて、無理』って思ったんですが、1人の同級生が『やれよ』って言ってくれて。私にとっては、大きな一言でした。あの一言がなければ、人生もかわっていたかもしれません」。
たしかに、そんな一言はある。
「じつは、この時もう1人の貴重な人物と会っているんです。のちに上司となる、吉本さんです」。
そんな時から縁があったのですね!
「そうなんです。私は、サントリーで吉本さんの下につくんですが、中学・高校の学園際で、すでに実行委員長だった吉本さんに指導されているんですね。模擬店をやる私たちに『値段は、いくらにしろ』とか、『よし、今から値下げだ』とかね。当時から、商才があったんでしょうね/笑。吉本さんは、私の4歳上です。出身が一緒だということで、ずいぶん可愛がってもらいました。今あるのは、言うまでもなく、吉本さんのおかげです」。
田中氏が「吉本さん」というのは、サントリーのグループ会社である「ミュープランニング」を育てた故吉本隆彦氏のことだ。以前、このサイトにもご登場いただいている。
人が好き、ビジネスが好きな素晴らしい経営者だった。
「そうですね。サントリーのなかでも、だれよりも抜きんでていました。私がサントリーに入社した時は、吉本さんもまだ営業をしていて、距離が近かったもんですから、当然、影響も受けているんですが、勝負する気にはなりませんでしたね」。
直接、吉本氏にも、そう言ったこともあるそうだ。
「すると、『お前だって、京都の老舗だろ』って言われたんですね。でも、それは間違っている。いうまでもなくスケールが違いますよね/笑」。
ちなみに、吉本氏の父上は、関西人ならだれでも知っている「大阪マルビル」の創業者である。
ところで、話をもどすと、主将をもう一度拝命した田中氏。今度はチームをうまく運営し、弱小チームを強くしている。「今でも高校のホームページに残っているはずです。私らの代が『何十年ぶりに、勝利した』って」。
もっとも、バレーは高校までで、大学に進んでからはテニス部に入部することになる。
負け組ペア。
「こうやって振り返ると、いろいろなことがありましたね。やはり主将を経験できたことと、吉本さんと出会えたことが大きいです。そうそう、大学のテニス部の時に、もう1人、面白い人に会います」。
それが、負け組ペア?
「そうなんです。先日、新聞にも載っちゃいましたからね。私とその人はダブルスのペアで、当時は『負け組ペア』って、かなり有名だったんです」。
その相手は、いま象印マホービンの社長をやっておられる市川典男氏だ。
某新聞のコーナーで、市川氏は当時のことを語り、そのなかで、ダブルスのペアだった田中氏の話もでてくるそうだ。負け組ペアの相棒として。
「高校の時、席が隣だった奴が、テニスのインターハイの優勝者だったんです(現在は、日本テニス協会の理事も務めている人物だそうだ)。互いに主将だったから気もあって。大学に入った時に、何かの大会に応援に行くんですが、その祝勝会でテニス部の先輩らにつかまってしまうんです」。
なんとなく、あるある話である。
「『酒を飲んだからには、もう、うちの部員だ』って。一緒に何人か連行されるんですが、私だけがまったくのド素人で。甲南のテニス部って、けっこう強豪なんですね。だから、私の出番なんてなくて、練習だって、みんなが終わってからでないとできない。ただ、そんな私も、いちおう大会には出してもらうんですね。ダブルスです。でも、相手がいない。その時、先輩が『そうや、市川がおるやろ』と。それで、市川・田中ペアが生まれました。もっとも市川さんは、選手ではなくマネージャーだったんですが」。
大会で、市川、田中ペアが登場すると、会場がどっと沸いた。「今日は、どれだけずっこけシーンが観られるか」。
その2人が、いまやともに大企業の社長である。
これを知ったら、当時の観客は何を思うだろうか?
それが、負け組ペア?
「そうなんです。先日、新聞にも載っちゃいましたからね。私とその人はダブルスのペアで、当時は『負け組ペア』って、かなり有名だったんです」。
その相手は、いま象印マホービンの社長をやっておられる市川典男氏だ。
某新聞のコーナーで、市川氏は当時のことを語り、そのなかで、ダブルスのペアだった田中氏の話もでてくるそうだ。負け組ペアの相棒として。
「高校の時、席が隣だった奴が、テニスのインターハイの優勝者だったんです(現在は、日本テニス協会の理事も務めている人物だそうだ)。互いに主将だったから気もあって。大学に入った時に、何かの大会に応援に行くんですが、その祝勝会でテニス部の先輩らにつかまってしまうんです」。
なんとなく、あるある話である。
「『酒を飲んだからには、もう、うちの部員だ』って。一緒に何人か連行されるんですが、私だけがまったくのド素人で。甲南のテニス部って、けっこう強豪なんですね。だから、私の出番なんてなくて、練習だって、みんなが終わってからでないとできない。ただ、そんな私も、いちおう大会には出してもらうんですね。ダブルスです。でも、相手がいない。その時、先輩が『そうや、市川がおるやろ』と。それで、市川・田中ペアが生まれました。もっとも市川さんは、選手ではなくマネージャーだったんですが」。
大会で、市川、田中ペアが登場すると、会場がどっと沸いた。「今日は、どれだけずっこけシーンが観られるか」。
その2人が、いまやともに大企業の社長である。
これを知ったら、当時の観客は何を思うだろうか?
負け組ペアの片割れ、サントリーに進む。
さて、大学4年。当時はまだ就職にコネがきいた時代である。
「なんでもよかったんですが、日常で使われるモノをつくっているメーカーがいいな、と。なかでもサントリーに興味をもったのは、図書館で『サントリーの一族』の本を読んだのが、きっかけです。こいつは、すごいわって」。
コネがあれば有利だが、コネがないと逆に不利になる。
「そんな時、友達がふと『田中ってまだサントリーに入りたいん?』って聞いてくるから『せやなぁ…』って答えたら、人を紹介してくれるっていうんですね。だれって聞いたら、副社長だって。『え?』あの時、私はどんな顔していたんでしょうね/笑」。
どれだけ、紹介が功を奏したのかはわからないが、ともかく、サントリー入社が決まる。
サントリーに入社してからの話は、さきほど少しふれたが、もう少しつづけよう。
新卒でサントリーに入社した田中氏は、東京の品川・目黒の営業担当になる。その時、六本木を担当していたのが、吉本氏だ。これが、1981年のこと。
85年に田中氏は、吉本氏を追いかけるように、業態開発部に異動している。
「以来30年以上、外食ですね」と田中氏。吉本氏以外にも、様々な経営者の話がでてくる。
プロント、ファーストキッチン、サブウェイ…の社長たちの話。「プロント以外は現在、サントリーグループから離れていますが、社長たちは、私と同年代で、みんな吉本教だったと思います」。
たしかに、田中氏と同年代の人たちは、サントリーの外食部門に大きな影響を与えている。むろん、田中氏も、その三銃士、四銃士の1人だ。
「なんでもよかったんですが、日常で使われるモノをつくっているメーカーがいいな、と。なかでもサントリーに興味をもったのは、図書館で『サントリーの一族』の本を読んだのが、きっかけです。こいつは、すごいわって」。
コネがあれば有利だが、コネがないと逆に不利になる。
「そんな時、友達がふと『田中ってまだサントリーに入りたいん?』って聞いてくるから『せやなぁ…』って答えたら、人を紹介してくれるっていうんですね。だれって聞いたら、副社長だって。『え?』あの時、私はどんな顔していたんでしょうね/笑」。
どれだけ、紹介が功を奏したのかはわからないが、ともかく、サントリー入社が決まる。
サントリーに入社してからの話は、さきほど少しふれたが、もう少しつづけよう。
新卒でサントリーに入社した田中氏は、東京の品川・目黒の営業担当になる。その時、六本木を担当していたのが、吉本氏だ。これが、1981年のこと。
85年に田中氏は、吉本氏を追いかけるように、業態開発部に異動している。
「以来30年以上、外食ですね」と田中氏。吉本氏以外にも、様々な経営者の話がでてくる。
プロント、ファーストキッチン、サブウェイ…の社長たちの話。「プロント以外は現在、サントリーグループから離れていますが、社長たちは、私と同年代で、みんな吉本教だったと思います」。
たしかに、田中氏と同年代の人たちは、サントリーの外食部門に大きな影響を与えている。むろん、田中氏も、その三銃士、四銃士の1人だ。
・・・続き
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