2020年1月31日金曜日

株式会社ひょうたんや 代表取締役 中嶋和義氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ひょうたんや 代表取締役 中嶋和義氏登場
本文より~

近江八幡にて日本料理「瓢箪屋」開業。それが、すべての始まり。

0.8ミリの豚腹肉をお湯に浸すと「ちりちりっ」と白い花が咲くという。
「『ちりちりっ』となるのは高品質の豚肉を0.8ミリに薄切りスライスした特別製法によるもの」と解説してくれるのは、「つゆしゃぶ」の生みの親、ひょうたんやの2代目店主、中嶋氏。
たれも「ポン酢」や「ごまだれ」ではなく、ひょうたんや特製五段仕込みの和風のつゆでいただくのが特徴だ。湯にくぐらせることで、適度に脂が抜けた豚バラ肉は甘く、口のなかでとろける。「ダイエットにも効果的」というから、女性にもうけがいいのだろう。
ちなみに、特製五段仕込みの和風のつゆのなかに、白ネギ、柚子唐辛子を入れていただく。丁寧に作られた「つゆ」を薬味が引き立てる。
もともと、「ひょうたんや」は、滋賀の有名料理店だった。ホームページの沿革によれば、1949年、創業者である中嶋泰蔵が、終戦後、近江八幡にて日本料理「瓢箪屋」を開業したことから始まる。2代目の中嶋氏は1972年に修業先から帰郷し、12代目社長に就任している。
創業者であり、父親でもある泰蔵氏について、中嶋氏は、とても怖い父だったと話している。「酒が大好きな人でした。ただ、素面の時でも勉強していたらカミナリが落ちるんです。『お前は修業に行くんだ』っていって。修業に行くんだから勉強なんかしなくていい、と、そういうことです」。
当初から、2代目にと決められていたんだろう。ただ、父親と過ごした思い出はほとんどない。「周りに見習いの人とかがいっぱいいましたからね」。
話はつづく。

厳しい修業を経て、2代目経営者へ。新たな道が始まる。

「高校は八幡高校に進学し、サッカー部に入ります」。
八幡高校は、滋賀のなかではトップクラスの進学校である。
「べつにしたいわけじゃなかったんですが、先生に目をつけられて入部しました。しんどかったですが、いまでも関係がつづいているのは、この時の仲間たち。いい財産です」。
高校2年の時、中嶋氏は父親を亡くしている。店主である父が亡くなったあと、母と姉がおばんざいのお店として、父が残した瓢箪屋を守ってくれたという。
「私にはまだちからがなかったから。だから、進学せず料理の道に進みます。昔、父親がそうしたように、です」。修業先は大阪の名店に決まる。修業期間は2年半。長いか、短いかは月日の数だけではないだろう。どれだけ高い志をもって臨んだかで結果はかわる。
「料理が終わった鍋は、見習いの間で奪い合いなんです。鍋の底に残ったものを舐めることができるからです。そうです。当時の先輩たちは何も教えてくれませんから」。
罵声といっしょにフライパンが飛んできた。包丁の切っ先を突き付けられた。当時を知る料理人たちからは、そんな話を何度も聞いた。それから思えば、今はたしかに修業のあり様も、当時とはずいぶんかわっている。
「2年半で修業が終わったわけではないんです。まだ、これからだったんですが、姉が結婚することになってタイミング的には今だろう、と」。
「瓢箪屋」にもどれば、一介の料理人というわけにはいかない。2代目店主、つまり、経営者としてのちからも試される。中嶋氏は、どんな店主になっていくのだろうか?

一か八かの大勝負。

最初に中嶋氏が取り組んだことをうかがって、目を丸くした。思い切ったことをしたものだ。
「店を改装しなければとは思っていたんです。父がつくって年数も経っていましたし、日本料理店だったのがおばんざいの店のようになってもいました。瓢箪屋とは何か、それを改めて確立したかったんです。アイデンティティみたいなものですね。そういうことから始めないと未来がないと思ったんです」。
中嶋氏21歳。借入金は3000万円に及ぶ。
「ただ、当時の金利は15%でしたから、たいへんな決断でした」。たしかに、借入額3000万円は、大きな決断だ。いまなら1億円くらいだろう。いうなら一か八か。
「ただ、この時の改装はのちに大きな意味をもちます。結婚式ブームに乗ることができたんです。売上は倍増しました。ただ、それで今度は違った問題が起こるんです」。
営業停止。
「じつは、うちのちかくに大きな農協会館が建設され、5Fに披露宴会場ができたんです。その披露宴の料理を注文する店の一つに『ひょうたんや』も入れてもらったんですが、だんだんと、指名がうちだけになるんです」。
「料理はひょうたんやで」と次々に、指名がくる。たまらなく面白かった、と中嶋氏も回顧している。
「そりゃそうです。滋賀のなかでも料理人はトップクラスですし、何より、うちは会館にいちばんちかいから、あったかいうちにお届けできます。2年間、正直いうて儲かりに、儲かりました。ただ、周りのお店が反発して、それで2年間、営業でけへんようになったんです」。
2年間は長い。
それを乗り越え、平成元年に2店舗目(姉妹店「ひょうたんから駒吉」)を出店するまでになる。こちらも流行りに、流行る。

一度、食べれば、

「いまのメイン料理である、『つゆしゃぶ』は、『とんしゃぶ』の組合から豚でおいしい料理をつくれないかと相談されたことがきっかけでした。当時はというか、今もそうですが近江牛が主流です。その一方で、豚のおいしさを広げるにはどうしたらいいかと。それで生まれたのが、つゆで食べる『つゆしゃぶ』です」。
「ちりちりっ」となるあれだ。
「今思えばなんですが、最初はぜんぜん相手にされませんでした。『なんで、近江牛やないんや』と。そりゃ、さんざんでした。ただ、そう言っていた人も、一度、『つゆしゃぶ』を食べるとぜんぜん違う表情になり、箸がとまらないんです/笑」。
「つゆしゃぶ」は、いうまでもなく、いまや日本人だけではなく、海外からの観光客の間でも大人気だ。その足跡を追うと中嶋氏という人物の輪郭が明瞭になる。いわば、近江商人の発想をベースに日本料理界にイノベーションを起こしてきたる料理人であり、経営者である。それが、中嶋和義という人なのだ。
そんな中嶋氏にいまからのビジョンについて、伺った。

見据えるのは、大廃業時代。

「日本の現状は深刻です。今まで日本経済の中心だった団塊の世代が引退し、人口減少、少子高齢化が進むなかで、2025年には大廃業時代が訪れると言われています。そのなかで我々はどうあるべきか。それが今の、私のテーマの一つです」。 「いつの時代でも残る、日本料理」と中嶋はいう。
「昨今の人手不足も、かなり深刻です。幸いなことに、うちはまだ深刻とまではいきませんが、今から手を打っておかなければいけない課題の一つです」。
「つゆしゃぶCHIRIRI」のアルバイト時給は1600円。これだけの高時給なら、人には困らないだろう。
「そうです。でも、今はよくても、今から手を打たないといけない。だから、我々は『CHIRIRI』にかわるもう一つのブランドを立ち上げようとしているんです」。
それが、「和蔵義」ですか?
「そうです。宴会業を中心とした『つゆしゃぶCHIRIRI』に対して『和蔵義』は高単価の接待業です。一つ星を狙っています」。
なるほど。しかし、それがなぜ、人手不足の解消につながるか?
「わかりやすく言えば、量より質ということです。職人が少数で回すことができ、一方ではちゃんとお客様にもご満足いただける店、それがカギになると思っています。実際、『和蔵義』は、職人1人で、ほかには調理補助レベルが数人いれば回せる割烹スタイルです」。
「ただ、これを実現していくには、日本料理のルーツと地域ブランドを掛け合わせたストーリーが必須です。その時、キーコンテンツとなるのが、我々では、滋賀のブランド牛である『近江牛』となるかもしれません」。
・・・続き
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2020年1月30日木曜日

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にてポッカクリエイト様の2連載させて頂きました。

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にてポッカクリエイト様(カフェ・ド・クリエを運営)を1月17日(金)、24日(金)で2連載させて頂きました。
(1/17発行 電子版カラー)
(
(1/24発行 電子版カラー)
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外食アワード2019の表彰式に顔出ししてきました。

外食アワード2019の表彰式に顔出ししてきました。
例年と違い今回の会場は個人的な意見言うとよくなかったな・・・。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2020年1月27日月曜日

ステーキハウスB&Mの青沼弘会長の生きざまを綴った書籍『「五歩前進三歩後退」の人生』が24日納品されました。


1977年(昭和52年)に創業され、今年で創業43年目のステーキハウスB&Mの青沼弘会長の生き様を綴った書籍“「五歩前進三歩後退」の人生”がようやく完成しました!
キイストンから出版し、Amazonにて展開します。
キイストンプロデュース第2弾、創業者の熱い想いを伝承できれば嬉しいです!!
http://in-shoku.info/foodfighters/vol166.html
(書籍「五歩前進三歩後退」の人生)
書籍「五歩前進三歩後退」の人生
(青沼会長&青沼社長)

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

1月21日、今年も坂東太郎様の新年会にお招きいただきました。

1月21日、今年も坂東太郎グループの事業発展計画発表会&新年会にお招き頂きました。
いつも熱量感じますが、すごい規模の新年会です。
その中でも社員代表として900人の前で、モンゴル出身の女性がスピーチされました。
昨年5月、モンゴルから7人採用されましたが、モンゴルの国立大学出身だけあって、日本語はもとより、スピーチの内容も素晴らしかったです。
今年もまた感動させて頂きました。
(青谷社長のご挨拶)
(鏡割り)
(各店舗店長登壇スタート)
(900人の前でモンゴルから昨年5月入社された方のスピーチ)
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2020年1月23日木曜日

株式会社ワイエスケー 代表取締役社長 山岸裕明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ワイエスケー 代表取締役社長 山岸裕明氏登場
本文より~

経営者の椅子に座ったのは、22歳の青年社長。

「YSKの歴史は、私の祖父が創業した10坪の小さな米屋から始まります」。ホームページのメッセージは、そんな一文から始まる。
2代目となる父親がパン屋をスタートし、昭和51年にセブンイレブン五反田店をオープンする。西暦でいえば1976年。山岸氏によると、コンビニという言葉もなく、セブンイレブンの店舗自体、100店舗程度だったそうだ。今や2万店を超えているのだから、走りの、走りということだろう。
「私が20歳の時に父が他界し、父の跡を継いで、私は経営の道を歩むことになります」。セブンイレブン1店舗。のちに山岸氏は、ゼロからラーメン店を立ち上げるのだが、そもそも経営者としてもゼロからのスタート。予行演習もなにもない。いきなり、実戦に身を投じる。
「私が大学を卒業するまでは、母の義理の弟さんが手伝ってくれましたから、それなりの準備はできましたが、1店舗といっても経営はたいへんです」。
「もっとたいへんになったのは、なんとかやりくりし、もう1店舗を出店し、社員数も4名になった、そんな頃ですね。ある銀行の支店長がささやくんです。『山岸さん、これはいい条件です。値上がりします』って/笑」。
山岸氏が29歳の時というから。1990年。いうまでもなく、バブル経済のなかで、人間がもっとも浮かれた年だ。「20坪の土地です。アホだから、最高値で買っちゃいました」。
浮かれて買ったが、数年後、買値の1/4になる。
「あれだけ勧めた銀行さんですが、そうなったら冷たいもんです/笑」。正確な金額は聞かなかったが、想像はできる。返済だけで、とんでもない額になったはずだ。「セブンイレブンの利益だけじゃぜんぜんおいつかなかった」と山岸氏も語っている。
「あの時はね。もう、毎日、どうしようかの連続です。すでに完済していますから笑って言えるんですが、当時は、きつかったですねぇ」。
それ以降、山岸氏は、一切、融資を受けたことがないそう。それだけつらい経験だったわけだ。
ただし、その苦しい何年間の間に、未来の芽も生まれている。
「30歳の時ですね。もともとうちは米屋でしょ。その頃も細々とですが、アルバイトを採用して配達だけはやっていたんです。10坪だから、コンビニにも転用できない。でも、米の配達だけじゃ儲からない。それでは借金の返済ができないから、思い切ってなにかできないかと思ったんですね」。
その時、思いついたのがラーメンですか?
「そうなんです。ラーメン店だったら、10坪あれば充分だし、うまくいけば行列だってできる。うちの土地だから家賃もいらないから、リスクも少なかったわけですね」。
社員に諮ってみる。その場は、笑い話で終わったそうだ。
「だって、だれもつくったことがないし、ぜんぜんリアリティがない。『社長がするんですか?』『それとも?』。料理がうまそうなのはだれもいない。だから、笑い話にしかならなかったんですね」。
しかし、山岸氏は、笑っていなかった。行列ができれば、借金の返済も進む。コンビニとラーメン店は、おなじサービス業。やってできないことはないはずだ。

飲食経験ゼロでラーメン店、開業。無謀か、英断か。

「やると思ったものの、私は、飲食の経験がぜんぜんなかったんです。頼りになりそうなのもいない。シェフを採用する、そんな余裕もないわけです。そんな時、飲食の専門誌に繁盛しているラーメン店が取り上げられていたんですね。その記事に取り上げられていたのが、ホイッスル三好さんだったんです」。
じつは、社長の三好比呂己氏と面識があったそうだ。すぐに記事に掲載されていたホイッスル三好の経営者、三好比呂己氏の下に向かう。藁にもすがる思いだったのではないか。
この思い切った行動は「吉」とでた。
「三好さんっていうのは、人がいいんですね。しかも、三好さんもゼロからの人だから、私とおなじ。だから、そんなのは無謀だとはいわず、1ヵ月、ちゃんと教えてくださったんです」。
むろん、その時の恩は今も忘れていない。
しかし、すごい行動力だ。人間、追い込まれれば、ちからがでる。
とはいえ、1ヵ月。どうなる?
「コンビニも、サービス業です。しかし、おなじサービス業でも飲食はちがいます。だけど、当時の私は、素人集団でもなんとかなるだろうって。そういう意味では、多少は楽天的なところもあるんでしょうね」。
いや、かなりの楽天家だ。ただ、当時は、何もしないという選択肢がなかったのだろう。けっきょく、どうだったんだろう?
「最初の半年くらいは、苦しかったですね。赤字がつづいたと思います。でも、そうですね。ギリギリ赤って感じですね。ただ、1年くらい経った頃には、いままで想像の世界だけで観ていた行列がうちの店にもできはじめたんです」。
成功の鍵は?というと、山岸氏は「マーケティング戦略」を挙げた。
「私たちが得意としたのは、マーケティング戦略です。だれもがイメージが湧き、食べたこともある。しかし、マーケットがない。そのマーケットをつくりだすこと。それが、私たちの戦略でした」。
「広州市場」のワンタン麺ですね?
「そうです。ワンタン麺の認知度は高いです。にもかかわらず、食べるかと聞かれたら、たいていの人が『あまり食べない』と答える。なぜか、といえば、専門店がないからです。私は、そこに、素人集団でも勝てるチャンスがあると思ったんですね」。
つまり、ワンタン麺がキラーコンテンツ?
「そうですね。ほかでは、食べられない商品を軸に、私たちの戦略は成り立っています」。
戦略の意味はわかった。しかし、いかに戦略にマッチした商品であっても、旨くなければ、心は動かせない。そう思ってホームページを観ると、頭ではなく、からだが反応した。旨そうなのだ、ワンタンが。こりゃ、行くしかない。

受け継がれているチャレンジ精神。

2号店のオープンは、案外遅く6年経ってからだそう。その間にセブンイレブンを、もう1店舗オープンしている。2軸だからといえばそうだが、実際、どうだったんだろう?
「私はもう借金ができない体質ですからね/笑。融資もお断りです。だから、そのぶん、時間がかかったと思います」。
現在では、広州市場」のほかに「HOT SPOON」などの別業態もリリースしている。
「HOT SPOONっていうのは、ちょっとの間ですが、広州市場を別のところで、間借りしてやっていた時があって。そちらを撤退しようとしたら、オーナーから『もうちょっとの間、借りてくれないか』って言われて。それで、『じゃぁ、カレーだろう』と。ラーメンの次っていえば、カレーだっていう、私の短絡的な発想です」。
今度も、社員に諮った。「15名くらいになっていましたね。カレーをやるけど、みんなどうだ。やりたい奴はいるか?っていったら、1人、24歳の青年が手を挙げるんですね。『オレにやらせてください』って。でも、そいつも料理の経験ゼロだったんですね/笑」。
当の本人(Hot Spoon 五反田店/店長、飯嶋玄考さん)は、ホームページで当時の心境を語っている。「私の立ち位置は4、5番目だったんです。だから、待っているだけでは店長にはなれないだろう、と。それで、手を挙げたんです」。
「もちろん、私も素人。調理経験もほぼなし」と話している。思わぬところで山岸氏のチャレンジ精神が受け継がれた格好だ。
「今でも笑い話です」と、山岸氏。どういうことかというと、最初の試食会が、散々だったらしい。「社員全員で、試食会をやったんですが、まずいとか、そういうレベルじゃなくって…」。
一口食べて、全員が黙ったそうだ。
「試食会を終わってから、本人と2人でね。『こりゃ、やばいぞ』って頭を抱えます。それからですね。本を何冊も購入して、有名店でカレーを食べまくって。奴もまだ若いからできたことですね。ええ、おかげさまで、こちらも今では繁盛しています。『牛すじ煮込みカレー』が思わぬヒット商品にもなって」。
現在、広州市場6店、Hot Spoon 4店ほか、居酒屋とバルを経営している。むろん、セブンイレブンも継続中である。
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2020年1月15日水曜日

千房ホールディングス株式会社 代表取締役 中井貫二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”千房ホールディングス株式会社 代表取締役 中井貫二氏登場
本文より~

千房、3代目社長。野村證券で奮闘す。

今回は「ぷれじでんと千房」などで有名な千房ホールディングス株式会社の2代目社長、中井貫二氏に話をうかがった。ちなみに「千房」といえば、お好み焼にうるさい関西人なら、だれもが知っている。創業は1973年、難波千日前にオープン。父親であり、現会長の中井政嗣氏が、創業者である。
「私は3人兄弟の三男です。長男は7つ上、次男は5つ上です。この2人は店の片隅のダンボールの中で育てられたそうですが、私は、ごくふつうに育てられました。心斎橋に2号店をオープンしたあとで、事業もうまくいっていた頃です。母親ももう専業主婦でしたし/笑」。
子供の頃、「ゴットファーザー」のような兄弟だった。長男は、ヤンチャで人気者。次男は、大人しく、三男の中井氏は、とにかく要領が良かった。
お父さんはどうでしたか?
「父ですか? 父は365日会社です。いっしょに遊んだ記憶も、旅行に行った思い出もほとんどない。そういう意味では、ふつうの家族とはちょっと違いますね」。
子どもの頃から、勉強が大好きだったそう。成績も、常に上位でした。大学は京都大学を目指していたというから察しがつく。2度、受験し、慶應義塾大学に進む。「中・高は男子校です。高校ではサッカーをしていました。大学ではアメフトです」。
慶應義塾大学のアメリカンフットボール部。企業の採用担当者ならどこでも欲しがる人材だ。もっとも超氷河期だったそう。「そうですね。かなり厳しい環境だったと思います。そのなかでも私はいろんな意味で、いちばん厳しい野村證券に就職しました」。
野村證券は、いうまでもなく日本を代表する証券会社だ。とはいえ、社内での競争は猛烈だったはず。証券会社の守備範囲は広い。
「私は、野村證券の新宿野村ビル支店に配属されます。こちらで、徐々に上位に位置するようになりました。もっとも仕事ができると私自身が思うようになったのは3年目くらいでしょうか」。
入社式で、中井氏は、新卒者の代表に選ばれている。
最初から期待の大型新人だったわけだ。
「じつは、組合の議長も務めています。野村證券で勤務したのは14年です」。25歳の時に、2歳上の先輩とめでたくゴールインしている。
「辞めようと思ったこともなかったし、実際、辞めるつもりもなかった」という。

千房、入社。会長から託された羅針盤。

「千房に転職したのは、6年前です。もともと長男が2代目社長予定だったんですが、急逝してしまいます。その跡を継ぎます。野村證券は、さっきも言ったようにぜんぜん辞めるつもりではなかったんです。収入も半分くらいに下がりそうでしたし…」。
それでも、決断したのは何故ですか?
「昔から、父に『従業員のおかげで食べていけてるんやぞ』って話をずっと聞かされて育ってきたんです。だからだと思います。長兄がいなくなり、従業員が困っていると聞いて、『やらない』という選択肢は私のなかにはなかったんです」。
これが、中井氏、37歳の時の選択である。「理解してくれた家族にも感謝」といっている。「正式に社長になったのは、じつは去年で、45周年の時です」。
なんでもゼロリセットが、45周年のテーマだったようだ。「本社も移転しましたし、組織も変えました。ぜんぶ、ゼロリセットです」。
会長のOKはよくでましたね?
「もちろん、創業者の思いは絶対です。千房は、これはマスコミにも取り上げてもらっていますが、昔から過去不問です。受刑者も受け入れています。反対という幹部もいましたが、これは絶対続けていきます。そういう大事なことは守り続けたうえで、たとえば、評価制度や、給料制度などですね。そういう仕組みをチェンジしていきました。働き方改革も、いま猛烈に進めています」。
会長はなにか、言われましたか?
「会長に言われたのは、一言でした」。
「従業員が幸せになれるんやったら、それでいい」。創業者であり、会長の政嗣氏は、そうおっしゃったそうだ。なんと、強い言葉だろう。明確な思いが詰まっている。
従業員が幸せになれるかどうか。この尺度は、3代目、社長に託した宝物であり、羅針盤かもしれない。

ボーナスゼロは、経営者の責任。

「まだ、うちは上場していないんですが、会社は、パブリックでなければいけないと思っています。受刑者を受け入れているのは、その一つですし、従業員を尊重しようとしているのも、その表れです」。
エピソードを一つ。これは、中井氏が千房に入り、はじめての経営会議でのこと。
「上半期が赤字だったんですね。で、ボーナスゼロって話だったんです。『え、それは、ちがうでしょ』と」。
中井氏は、問いかける。
「従業員は、頑張ってないんですか?」
答えは「頑張っている」だった。「だったら赤字は、経営陣の責任だ。銀行からお金を借りてでも、ボーナスは払うべきだ」と言い放った。
まっすぐ。そんな性格である。しかし、いきなりの一言に、経営陣たちは驚いたことだろう。
「そりゃ、そうです。だって、従業員たちも薄々ゼロだろうなって思っていたくらいです。つまり、いつものことだったんですね/笑」。
型破り、異端児といえば父親の政嗣氏も負けてはいないが、息子の中井氏も、立派な型破りタイプだ。従業員には、そんな中井氏の思いは伝わったんだろうか?

腹をくくった改革者。

「生産性を2倍にするのは、簡単じゃないですよね。新たな設備を入れても、そりゃ、無理です。でもね。人はちがう。モチベーションがあがれば、2倍、3倍…、10倍にも生産性があがる。もちろん、その逆もあるわけで。だから、経営っていうのは難しいんですが」。
たしかに、そう。いいと思っても、逆効果の時だってある。
「その時は、生産性をあげるというより、ふつうのことです。だって、頑張っているのに、ボーナスゼロはないでしょ。だから、私にすれば、ふつうの主張だったんです。でも、従業員たちもびっくりして。『ボーナスでるみたいやで』ってなって」。
「ゲンキン」という一言で、片づけてはいけないと思う。経営者の思いが伝わり、今までとはちがうという思いが従業員一人ひとりに芽生えたのではないか。いうならば、最初にできた、中井氏と従業員との「きずな」。
「それで下半期で、なんと上半期の落ち込みをカバーし、通年で予算を見事に達成します。飲食だけに限らないとは思うんですが、とくに飲食は『人』ですね。このエピソードを通して、私自身が、それを知ります」。
これ以来、中井氏は改革を進めていくのだが、改革には痛みもともなう。もちろん、なかなか思い通りにも進まないことあっただろう。
「改革に大事なのは、『よそ者・若者・バカ者』なんですね。これがそろって、はじめて改革が進んでいく」。たしかに、中井氏はよそ者。しかもある意味、バカ者でもある。
「じつは、働き方改革の一環として、定休日もつくりました。売上はめちゃめちゃ下がっているんですが」と笑いながらも真剣な表情で、中井氏はつづける。
「家族といっしょにいる時間とかね、ぜったい大事な時間をちゃんとつくれるようにする。海外進出や、何百店舗の出店なども、たしかにいいんですが、私のミッションは、飲食の社会的な地位の向上だと思っています。だから、バカ者にだってなる。だれかがやらないと進まないでしょ。これが、経営者の務めです」。
腹をくくっている。そこが、すごい。
・・・続き
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

1月10日(金)発行の夕刊フジ「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にてクラウドプロスパー様を掲載させて頂きました。

1月10日(金)発行の夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にてクラウドプロスパーの羽中田英治社長を掲載させて頂きました。
(1/10発行 電子版カラー)
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2020年1月8日水曜日

株式会社サンパーク 代表取締役 髙木 健氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サンパーク 代表取締役 髙木 健氏登場
本文より~

受験勉強はイヤだから、猛勉強を開始する?

父親は代々京都に伝わる名家の出身。母方の祖父は、繊維事業で得た資金で全国に土地を買い、多彩な事業を始めた、政治家も一目置くような立身出世の人物だったそう。
そんな家系のDNAを受け継いだからだろう。「小さな頃からビジネスに興味があった」と今回、ご登場いただいた髙木氏は語る。
「そうですね。いつかはオレもって思っていました。小学生の頃は勉強もでき、灘中をめざし勉強に明け暮れていました。でも、失敗。それで、中学は公立に進むのですが、もう受験勉強はイヤだって/笑」。
灘中の試験といえば、大学生でも解けない難問ばかりだ。相当、勉強されたに違いない。その反動ももちろん理解できる。
中学の時は陸上部。スポーツに打ち込む一方で、3年には、「もうイヤだ」と思っていた勉強を開始する。
「とにかく大学受験をしたくなかったから、一貫校に進みたかった。その一心で、もう1回、猛烈に勉強します。おかげで慶應の付属に進むことができました。そして、勉強は終了です」。
高校では、器械体操部に所属する一方で、空手道場にも通ったそう。校舎は埼玉にあったから、当然、寮生活。
「入学早々、先輩らに『行くぞ』って言われて、連れていかれたのが新宿のディスコです。カクテル光線を受けてね。いがぐり頭の坊主が踊るわけです。そりゃもう、はたからみたらヘンですが、本人は、もう最高って/笑」。
ぜんぜん勉強しなかったというものの、無事、法学部にストレートで進んでいる。当時は、外交官になりたかったそうだ。もちろん、うんざりするくらい勉強しなければならないことを知り、断念している。

就職先は、丸井。

「大学時代は目黒に住んでいて、バイトして30万円の中古車も購入しました。大学には4年と2ヵ月、通ったんです」。ひとつ単位を取り忘れていて。
大学には、何年通っても悪くなかっただろう。
「当時は、慶應っていうだけでモテましたしね」。そう言って、髙木氏はニンマリと笑う。
正式に大学を卒業した髙木氏は、「丸井」に就職している。
「丸井だったのは、先輩がいたからなのですが、サービス業も案外、性に合っていたんでしょうね。1万人の社員の中で、毎週ベスト5に入る売り上げを達成していました。このあともホテルに転職し、ホテルマンを務めます」。ホテルマン時代には、スタッフエクスチェンジという制度を使って、半年間、オーストラリアでも働いていたそう。
むろん、ホテルマンで終わる人でもない。
「30歳で結婚するんですが、その時には知人と起業する計画も進んでいたんです。ただ、うちの創業者から『会社を売却する予定だが、キミがやってみないか』と」。事業継承の話が回ってきた。
悩んだ末、髙木氏は了解する。
「私を思ってのお話だったのですが、それでも、けっこうな決断でした。当時、年商3億円。社員10数名。ガソリンスタンド1つと、レストランが2つ。じつは赤字で倒産寸前でした。」。
それがサンパーク?
「そうです。サンパークは、1966年に大阪市北区に、サン石油を設立したのがはじまりです。1967年に吹田市に移転し、ガソリンスタンドとレストランの複合店舗を開業しました。これが飲食事業のはじまりです」。
ホームページによれば、そのあとも大阪府の北摂エリアを中心にレストランを出店されていたようだ。

改革の狼煙。


「売上の大部分が、ガソリンスタンドです。だから、利益は薄い。レストランも赤字で、いうなら真っ赤かです/笑」。
「勝算なんてまったくなかったですが、ただ一つ、当時は職人の世界だったんですね。料理人が、トップに君臨しているようなね/笑。レストランには店長もいるのですが、みんなうつむいて仕事をしています。料理長のいる厨房とホールの間のコミュニケーションもまったくとれていないことに気づき、これだ、と思ったのです」。
入社早々、白い目で観られた。最初の肩書きは企画室室長。
「当時は10人です。でも、みんな私より年上。最初にあいさつにいった時に、部長がバンとぶつかってきて、『邪魔だ』って。これが、最初の洗礼です。子どもじゃないんですからね。笑っちゃいますよね。でも、その時は笑うこともできなかったですね」。
自分を奮い立たせるために「20XX年に、売り上げ100億、経常利益10億、関連会社10社」と目標を掲げ、壁に飾って毎日見ていました。2019年、売り上げは100億に到達。やはり願えば叶うものだ。
ともかく、古い体質だった。のちに社長になった髙木氏は、これを徹底的に改善していく。
「最初にやったのは、職人がいなくてもできる業態への転換です。まずは赤字経営のお店をフランチャイズ加盟店に変えるところから始めました」。
髙木氏が、1号店というのは1992年4月、千里中央セルシーにオープンした「洋麺屋ピエトロ」千里中央店のこと。なんでも様々な店を食べ歩き、「これだ」と思ったのが、福岡で出会った「洋麺屋ピエトロ」と愛知で出会った「びっくりドンキー」だったそう。まるで神が降りてくるような感覚すらあったそうだ。
首を横にふる「ピエトロ」の首脳陣を口説き、自身も福岡でオペレーションを学び、そして、既存の店舗をリニューアルし、オープンする。これが、大爆発。
「それまで、年間1000万円の赤字だった店が、1年後には6000万円の黒字です」。
改革の狼煙が、高々と舞い上がる。
「そして、今度はびっくりドンキーです。150坪の店を全面改装して、同じ年の11月にオープンします。こちらもおかげさまで大ヒットします」。
・・・続き
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