2020年1月8日水曜日

株式会社サンパーク 代表取締役 髙木 健氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サンパーク 代表取締役 髙木 健氏登場
本文より~

受験勉強はイヤだから、猛勉強を開始する?

父親は代々京都に伝わる名家の出身。母方の祖父は、繊維事業で得た資金で全国に土地を買い、多彩な事業を始めた、政治家も一目置くような立身出世の人物だったそう。
そんな家系のDNAを受け継いだからだろう。「小さな頃からビジネスに興味があった」と今回、ご登場いただいた髙木氏は語る。
「そうですね。いつかはオレもって思っていました。小学生の頃は勉強もでき、灘中をめざし勉強に明け暮れていました。でも、失敗。それで、中学は公立に進むのですが、もう受験勉強はイヤだって/笑」。
灘中の試験といえば、大学生でも解けない難問ばかりだ。相当、勉強されたに違いない。その反動ももちろん理解できる。
中学の時は陸上部。スポーツに打ち込む一方で、3年には、「もうイヤだ」と思っていた勉強を開始する。
「とにかく大学受験をしたくなかったから、一貫校に進みたかった。その一心で、もう1回、猛烈に勉強します。おかげで慶應の付属に進むことができました。そして、勉強は終了です」。
高校では、器械体操部に所属する一方で、空手道場にも通ったそう。校舎は埼玉にあったから、当然、寮生活。
「入学早々、先輩らに『行くぞ』って言われて、連れていかれたのが新宿のディスコです。カクテル光線を受けてね。いがぐり頭の坊主が踊るわけです。そりゃもう、はたからみたらヘンですが、本人は、もう最高って/笑」。
ぜんぜん勉強しなかったというものの、無事、法学部にストレートで進んでいる。当時は、外交官になりたかったそうだ。もちろん、うんざりするくらい勉強しなければならないことを知り、断念している。

就職先は、丸井。

「大学時代は目黒に住んでいて、バイトして30万円の中古車も購入しました。大学には4年と2ヵ月、通ったんです」。ひとつ単位を取り忘れていて。
大学には、何年通っても悪くなかっただろう。
「当時は、慶應っていうだけでモテましたしね」。そう言って、髙木氏はニンマリと笑う。
正式に大学を卒業した髙木氏は、「丸井」に就職している。
「丸井だったのは、先輩がいたからなのですが、サービス業も案外、性に合っていたんでしょうね。1万人の社員の中で、毎週ベスト5に入る売り上げを達成していました。このあともホテルに転職し、ホテルマンを務めます」。ホテルマン時代には、スタッフエクスチェンジという制度を使って、半年間、オーストラリアでも働いていたそう。
むろん、ホテルマンで終わる人でもない。
「30歳で結婚するんですが、その時には知人と起業する計画も進んでいたんです。ただ、うちの創業者から『会社を売却する予定だが、キミがやってみないか』と」。事業継承の話が回ってきた。
悩んだ末、髙木氏は了解する。
「私を思ってのお話だったのですが、それでも、けっこうな決断でした。当時、年商3億円。社員10数名。ガソリンスタンド1つと、レストランが2つ。じつは赤字で倒産寸前でした。」。
それがサンパーク?
「そうです。サンパークは、1966年に大阪市北区に、サン石油を設立したのがはじまりです。1967年に吹田市に移転し、ガソリンスタンドとレストランの複合店舗を開業しました。これが飲食事業のはじまりです」。
ホームページによれば、そのあとも大阪府の北摂エリアを中心にレストランを出店されていたようだ。

改革の狼煙。


「売上の大部分が、ガソリンスタンドです。だから、利益は薄い。レストランも赤字で、いうなら真っ赤かです/笑」。
「勝算なんてまったくなかったですが、ただ一つ、当時は職人の世界だったんですね。料理人が、トップに君臨しているようなね/笑。レストランには店長もいるのですが、みんなうつむいて仕事をしています。料理長のいる厨房とホールの間のコミュニケーションもまったくとれていないことに気づき、これだ、と思ったのです」。
入社早々、白い目で観られた。最初の肩書きは企画室室長。
「当時は10人です。でも、みんな私より年上。最初にあいさつにいった時に、部長がバンとぶつかってきて、『邪魔だ』って。これが、最初の洗礼です。子どもじゃないんですからね。笑っちゃいますよね。でも、その時は笑うこともできなかったですね」。
自分を奮い立たせるために「20XX年に、売り上げ100億、経常利益10億、関連会社10社」と目標を掲げ、壁に飾って毎日見ていました。2019年、売り上げは100億に到達。やはり願えば叶うものだ。
ともかく、古い体質だった。のちに社長になった髙木氏は、これを徹底的に改善していく。
「最初にやったのは、職人がいなくてもできる業態への転換です。まずは赤字経営のお店をフランチャイズ加盟店に変えるところから始めました」。
髙木氏が、1号店というのは1992年4月、千里中央セルシーにオープンした「洋麺屋ピエトロ」千里中央店のこと。なんでも様々な店を食べ歩き、「これだ」と思ったのが、福岡で出会った「洋麺屋ピエトロ」と愛知で出会った「びっくりドンキー」だったそう。まるで神が降りてくるような感覚すらあったそうだ。
首を横にふる「ピエトロ」の首脳陣を口説き、自身も福岡でオペレーションを学び、そして、既存の店舗をリニューアルし、オープンする。これが、大爆発。
「それまで、年間1000万円の赤字だった店が、1年後には6000万円の黒字です」。
改革の狼煙が、高々と舞い上がる。
「そして、今度はびっくりドンキーです。150坪の店を全面改装して、同じ年の11月にオープンします。こちらもおかげさまで大ヒットします」。
・・・続き
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