in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ヴィガー 代表取締役 手嶋雅彦氏登場。
今回は、なんとカナダ・トロントからTORJA様経由です。
本文より~
白バイ隊員か調理師か。
生まれは東京、育ったのは神奈川県の逗子市。父親は普通のサラリーマンで、祖父は床屋だった。「兄弟にサラリーマンはいないんですよ。」弟たちは床屋と、病院食を作る仕事だという。
昔から体を動かすのは好きだった。中学時代は陸上と水泳、高校時代は山岳部に所属していた。興味があるのは、体育、図工、理科など。「正直、勉強は好きではなかったです。」
また一方で、高校時代からオートバイにはまっていた。「友達のお兄さんがHONDAの250ccのバイクに乗っていて、それに乗せてもらってからですね。」もの凄いパワーに衝撃を受けた。バイクを買うために借金をして、その借金を返すために、週末は飲食店でアルバイトもしていた。
進路を決めるにあたって、最初は父親に「警察官か調理師か」と言われ、オートバイは好きだったが「白バイ隊員になったらみんなに嫌われるよ」という父親からの一言に加え、食べることが好きだったこともあり、調理師学校への進学を決めた。特に昔からの夢、という訳でもなかった。「免許も取れて手に職をつけられる、そういう考えが親父にはあったんじゃないかなと思います。」
仕事が終わると、箱根の山に登ってオートバイを走らせた。50cc,70cc,オフロード,125cc,250ccと色んなバイクに乗った。行動範囲も広がるのが、楽しく大好きだった。調理師学校を卒業した後は数年間、地元の寿司屋で修行を積んだ。
もともと海外への憧れはあった。カナダ・オタワへ。
「子供の頃、親父はシカゴで駐在をしていたのもあって、もともと海外への憧れはどこかにあったと思います。」
海外へ行くきっかけとなったのは先輩だった。彼は、寿司屋の板前としてハワイで働いていた。寿司職人として「海外で仕事ができる」ということを知った。柏原氏の行動は早かった。海外へ行きたいということを父親へ相談した。すると、父親の知り合いから「カナダのオタワで寿司屋の板前を探している」という情報を貰った。その頃、「ビザの取得は今ほど難しくなくて、英語が得意だった親父が書類も用意してくれて。移民ビザを取ってカナダに渡ったのが25歳の時ですね。」
そこから2年間、寿司シェフとしてオタワで働いた。「給料が安く、一緒に働き出した人は続々と辞めていきました。」父親の知り合いの紹介だったため、すぐに辞めることはできず3年ほど働いた。「それからオタワで一緒に働いていた人の紹介で、トロントにある『笹屋』という日本食レストランに移りました。」そこでも数年働いた。そして同じくトロントにある老舗の日本食レストラン『まさ』へ移る。その店はトロントの中でも老舗として知られ、忙しい店だった。「なんで忙しいのか知りたい気持ちもあって。」そこで10年間働いた。「実はその間に、中国人のお客さんに誘われて、別の店でも1年ほど働いていたことがありましたが、ほぼ騙されたと言っても過言でないことも経験しました。これもひとつ勉強だ。と思って、再び『まさ』に戻りました。」思い立ったら動くのが、柏原氏の行動力だ。
いざ独立。
オタワで働いていた時から「自分で店をやりたい」という思いが強まっていったという。「興味のあることは、勉強していました。繁盛店へ移ったこともそうだし、夜中まで働いているマネージャーからお金についても教えてもらいましたね。」ヘッドシェフとしてキッチンを任されるまでになっていたが、店主が亡くなってことで『まさ』は閉めることに決まった。当時は仕事を探そうにも、トロントで寿司を扱うレストラン自体がそんなに多くなかった。そんな時に、トロントのスカボロ地区にあった別のお店の店主から「リタイヤしたいが、仕事のできる人に店を譲りたい。」という話が、柏原氏に舞い込んできた。
メニューは当初、そのまま受け継いで徐々に変えていった。「家賃を払いながらだったので、要はビジネスを買った状態でした。『お金がなくて出来ないと言っている人は、お金があっても出来ない』という言葉もあるように、今こそやる時と決めてやりました。」
カナダでの日本食。
こちらにきた当初は、魚が全然なかった。あったのは冷凍のハマチ程度。「鮮度の良い、生簀に入った獲れたての魚を見て、喜んでいる夢まで見るほどでした。」それが次第に流通が良くなってきて、トロントにも入ってくるようになった。「それを積極的に仕入れて使うようになったのは私たち『ZEN』が最初だと思います。」日本食へのこだわりは強い。「日本人が、日本のモデルを作っていかないと。日本と同じものを提供していきたいですね。そうでなければ日本食が変な方向にいってしまう。日本食の伝統文化を正しく伝えることもひとつの使命だと思っています。」
日本で修行を積んだ和食の職人が数多く働く。
食材だけではない、こだわりもある。「和食というのは見えないところにもお金がかかっているんですよ。寿司だけのほうがはっきり言って楽。え、これ捨てちゃうの?というようなものも、『美味しいところだけを使おう!』という料理人の気持ちがある。それを理解しないと。お皿もそう。自分が作った一品を、納得のいくお皿にもらなかったら価値が出てこないんですよ。魯山人の『器は着物』という言葉もあって、シェフを日本へ連れて行って、お皿を探しにいくこともしています。ひとつひとつ自分で作り上げた作品がお客様に喜んでもらえる、それが彼らの喜び、自信にもつながると思っています。」
さらに柏原氏は、移転を機に割烹、会席、おまかせのメニューなども考案していった。「食べたくてもなかったんですよ、うどんもそうでした。」と続ける。2019年には、粉と出汁にこだわった本格的な讃岐うどんの店もオープンさせた。「今後も、トロントにないもの、自分が食べたいと思うものを時間をかけても作っていきたいですね。」
独立前から支えてきてくれた妻・和子さんに感謝。
今でも現場でともに働く妻への感謝も忘れていない。「オタワで知り会い結婚、和子に知り会うことでどんなに助けられたかわからないです。オタワで大使館の会計にいたのでお店の経理を手伝いながらお店も手伝ってもらい、今があると思います。感謝しています。」
『ZEN』グループの未来。
「ジャパネットタカタの社長の言葉に『知らなかったら、ないのと同じ』というのがあって、その通りだなと思っています。」どれだけ自分が美味しいものを作って、満足できるものを作っても、誰も知らなければ来て貰えない。「自分たちがどういうことをやっているのかを知ってもらいたいですね。」と、雑誌などへの露出やSNSでの発信、さらには動画制作にも力を入れていこうとマーケティングが大事だと語る。
人材育成については「コック45で野垂れ死ぬ、という言葉もあるくらいなので。うちで働くシェフたちも独立はしたかったらすればいいというスタンスではいます。」とのこと。「任せて考えさせてやらせる。自分たちでやることによって、楽しさも出てくると思っています。」