2020年2月11日火曜日

株式会社幸楽苑ホールディングス 代表取締役社長 新井田 昇氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社幸楽苑ホールディングス 代表取締役社長 新井田 昇氏登場
本文より~

憧れの職業は、会社員。

祖父は近衛兵として天皇陛下にお仕えしていたそうだ。その後、祖父が「幸楽苑」の源流となる「味よし食堂」を創業したのは1954年。むろん、こちらは昭和の話である。
6坪の店がはじまり。ホームページに当時の料金が載っている。うどん「20円」、天ぷらうどん「25円」。そして、ラーメン「35円」。
「私の父で、今の会長が、大学浪人の時だと聞いています。店の手伝いをしていると、散々、悪口を叩かれたそうなんです。店名に偽り有ってわけですね。そういう言葉を聞いた父は、大学に進学している場合じゃないと、進学を辞めて東京へ修業にでかけます。それが、いわば『幸楽苑』の始まりです」。
今回、ご登場いただいたのは3代目社長、新井田昇氏。1973年生まれ。父の代で「幸楽苑」となり、第二の創業を実現してから、だいぶ経つ。「小学校の時は、親が自営業っていうのがイヤだったんです。友達や先生から『食べに行ったよ』って言われるのもイヤだったし、友達のお父さんはみんな会社員でしょ。だから、当時の私の、憧れの職業は、会社員だったんです」。
憧れただけじゃなく、会社員になるために猛勉強もした。
「とにかく、いい会社に入らなければいけないと思って、小学校の頃には中学の、中学の時には高校の勉強をしていました」。
先取りという奴だ。おまけにトイレのなかにも参考書を持ち込み、信号待ちの間にも、問題を解いた。父親や母親が外食にさそっても、行かなかったというから筋金入りだ。
ゴールは、だれもが知る「〇×電気」「〇×自動車」。
言いかえれば、それくらいしかまだ知らない。

三菱商事で、自営業を知る。

大学を卒業した、新井田氏は三菱商事に入社する。ついに憧れの会社員だ。
どうでしたか?というと、苦笑する。
現実の世界は、憧れの世界とは、どうやら異なっていたようだ。
「とにかく、上司がね。きっつい人だったんです。もちろん、今では感謝していますが、当時は、会社を何度、辞めてやると思ったことか。だってね。毎日、怒られるんです。そりゃ、イヤになりますよね。会社に行くのもつらかった/笑」。
今なら、パワハラとなるのかもしれないが、怒るだけではなかったから性質が悪い。「そうなんです。本来はむちゃくちゃやさしい人で。私のことを思って怒ってくれている。それが、だんだんわかってくるんですね。大人になるって、こういうことなんでしょうね。今、私があるのは、三菱商事にいた愛がある先輩たちのおかげです」。
「愛情と厳しさ」と新井田氏は表現している。
「これも新人の頃ですが、今、サントリーホールディングスの社長をされている新浪剛史氏とお会いし、可愛がっていただきました。経営者になりたいと思ったのは、たぶんに新浪さんの影響ですね/笑」。
いっしょにランチを食べたりしたそうだ。むろん、新浪氏もまだ若い。しかし、当時から頭一つ抜けていたようだ。「新浪さんから教えていただいたのは、勉強とネットワークです。それが大事だと。ええ、今も私の大事な羅針盤です」。
様々な先輩諸氏から薫陶を受けた三菱商事時代、長いようだが、じつは在籍期間は、わずか5年。小学生から憧れの職業も、5年でいったんピリオドを打つ。
どうして、ですか?と聞いてみた。
「私が、三菱商事に入社した時に、父の会社、つまり『幸楽苑』が上場します。そういうのを間近で観ているわけでしょ。もちろん、自営業って意味は、もうさすがにわかっています。そうですね。会社で仕事をしているうちに、今度は、だんだんと父親というか、独り立つことに惹かれていくんです」。
結局のところ、サラリーマンと自営業者どちらがいいかではなく、新井田氏に、新井田家、とりわけ、創業者の血が流れていたということかのかもしれない。

幸楽苑、入社。出向で向かった先は?

「『幸楽苑で働かせてください』と言った時、父は見たことがないくらい大喜びでしたね。何度も『ほんとか?』って聞いてきて。その度に、『ほんとうです』って/笑」。
親子の会話を想像すると微笑ましくもある。
「三菱商事」と「幸楽苑」。
規模はむろん、比較にならない。「幸楽苑」では、できる仕事も限られている。父親はだから、重ねて問うたのかも知れない。「ほんとか?」「それでいいのか?」と。
言葉が親子の思いを一つにする。
「そういう風にして、『幸楽苑』に入社します。ただ、『幸楽苑』に入社してから、一度、出向しているんです。出向先は、まったく異なるIT会社です」。
どういうことだろう?
「ホント、偶然なんですが、六本木ヒルズの道路で偶然、三木谷さんとばったりお会いするんです。ええ、もちろん、三木谷さんが私を知っているわけはありません。ただ、私はかなり前から注目させてもらっていたんです。だから、三木谷さんだと思った時には、走りだしていました/笑」。
かけていく。頭を下げる。言葉をつむぐ。
「新浪さんと三木谷さんは親しいんですね。それで、新浪さんの話を切り口にして/笑」。
インターネットとリアルショップの融合を熱く、熱く語ったそうだ。
「この時は、連絡先を交換しただけだったんですが、後日、もう一度、お会いします。その時、三木谷さんから『楽天に来ないか』と言っていただいたんですが、そんなことをすると、さすがに父が怒る(笑)と思って。ただ、そのあと『東北楽天ゴールデンイーグルス』の立ち上げにご協力させていただくんです。それで、今度は、三木谷さんのほうから食事に誘っていただきました。その時、出向の話をさせていただきました」。
新井田氏は、出向の狙いを語る。
「外食産業においても、ITはキーになると思っていたんですね。楽天といえば、ネットショップの先駆けですし、巨大なECサイトをつくりあげている業界の巨人ですからね。勉強するなら、楽天が一番だと思っていましたし、何より三木谷さんの下で仕事がしたかった/笑」。
営業やECコンサルタントという仕事を経験する。営業時代には、楽天賞も受賞している。「幸楽苑」とは、まったく畑違い。しかし、新井田氏はとまらない。
「結局、約3年間、出向します。『幸楽苑』の次期社長というレッテルを貼られるような仕事はしていません。それが、力になったんだと思っています」。

社長就任。


「『幸楽苑』では、取締役海外事業本部長という役職でした。当時、タイ王国に出店していましたからね。でも、これが、うまくいっていなかったんですね。だから私が最初にやったのは、この事業の尻ぬぐいというか、ま、そういう仕事です。私自身は、海外に興味があったもんですから、会長にも『インドネシアはどうでしょう?』などと海外の話をしたんですが、会長は首を縦にふらない。会長にすれば、海外ではなく、全体をみて欲しかったんでしょうね。つまり、跡継ぎの仕事です」。
父親の傳氏が、息子の決断を聞いて大喜びしたのは、もう何年も前だったが、その時から構想を練られていたんだろう。事業継承。新井田氏も、むろん、そのつもりだ。しかし、父親の存在が大きいだけに、そう簡単に継承も行えない。社長になるまでのいきさつを伺った。
「じつは、2016年のことです。あってはならないことですが、店舖で異物混入事件が起こります。報道でも大きく取り上げられました」。
たしかに、その事件はあった。ブランド価値が毀損する。その影響もあり、たしか、赤字決算になったはずだ。
「その年はもちこたえましたが、翌年に赤字になりました。。たしかに、異物混入事件の影響は大きかったですが、それだけではありませんでした。2015年に看板の290円ラーメン(税抜き)を値上げしています。その影響もあり、既存店の前年割れもつづいていました」。
けっしていいことではないですが、それが社長就任のきっかけとなったわけですか?
「そうですね。決心がついたというか、オレがやらなければと。社長になるのは、まだ先ですが、その頃から私が実質的に経営を担います。ステーキチェーン店の『いきなり!ステーキ』さんや焼肉チェーン店『焼肉ライク』さんのフランチャイズを開始したのは、この頃ですね」。
ある意味なりふり構わぬ戦略に映る。だが、したたかな計算があってのことにちがいない。仕事で大事なことは、ともかく、勉強とネットワーク。新浪氏の言葉が頭に浮かぶ。
「あの時は、とにかく走りつづけましたね。業績は少しずつ改善し、昨年(2018年)の8月、9月からぐっと上向きます。そして、その年の11月に社長に就任しました。ありがたいことに業績は、この1年、順調に推移しています」。
・・・続き
株式会社幸楽苑ホールディングス 代表取締役社長 新井田 昇氏

2020年1月31日金曜日

株式会社ひょうたんや 代表取締役 中嶋和義氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ひょうたんや 代表取締役 中嶋和義氏登場
本文より~

近江八幡にて日本料理「瓢箪屋」開業。それが、すべての始まり。

0.8ミリの豚腹肉をお湯に浸すと「ちりちりっ」と白い花が咲くという。
「『ちりちりっ』となるのは高品質の豚肉を0.8ミリに薄切りスライスした特別製法によるもの」と解説してくれるのは、「つゆしゃぶ」の生みの親、ひょうたんやの2代目店主、中嶋氏。
たれも「ポン酢」や「ごまだれ」ではなく、ひょうたんや特製五段仕込みの和風のつゆでいただくのが特徴だ。湯にくぐらせることで、適度に脂が抜けた豚バラ肉は甘く、口のなかでとろける。「ダイエットにも効果的」というから、女性にもうけがいいのだろう。
ちなみに、特製五段仕込みの和風のつゆのなかに、白ネギ、柚子唐辛子を入れていただく。丁寧に作られた「つゆ」を薬味が引き立てる。
もともと、「ひょうたんや」は、滋賀の有名料理店だった。ホームページの沿革によれば、1949年、創業者である中嶋泰蔵が、終戦後、近江八幡にて日本料理「瓢箪屋」を開業したことから始まる。2代目の中嶋氏は1972年に修業先から帰郷し、12代目社長に就任している。
創業者であり、父親でもある泰蔵氏について、中嶋氏は、とても怖い父だったと話している。「酒が大好きな人でした。ただ、素面の時でも勉強していたらカミナリが落ちるんです。『お前は修業に行くんだ』っていって。修業に行くんだから勉強なんかしなくていい、と、そういうことです」。
当初から、2代目にと決められていたんだろう。ただ、父親と過ごした思い出はほとんどない。「周りに見習いの人とかがいっぱいいましたからね」。
話はつづく。

厳しい修業を経て、2代目経営者へ。新たな道が始まる。

「高校は八幡高校に進学し、サッカー部に入ります」。
八幡高校は、滋賀のなかではトップクラスの進学校である。
「べつにしたいわけじゃなかったんですが、先生に目をつけられて入部しました。しんどかったですが、いまでも関係がつづいているのは、この時の仲間たち。いい財産です」。
高校2年の時、中嶋氏は父親を亡くしている。店主である父が亡くなったあと、母と姉がおばんざいのお店として、父が残した瓢箪屋を守ってくれたという。
「私にはまだちからがなかったから。だから、進学せず料理の道に進みます。昔、父親がそうしたように、です」。修業先は大阪の名店に決まる。修業期間は2年半。長いか、短いかは月日の数だけではないだろう。どれだけ高い志をもって臨んだかで結果はかわる。
「料理が終わった鍋は、見習いの間で奪い合いなんです。鍋の底に残ったものを舐めることができるからです。そうです。当時の先輩たちは何も教えてくれませんから」。
罵声といっしょにフライパンが飛んできた。包丁の切っ先を突き付けられた。当時を知る料理人たちからは、そんな話を何度も聞いた。それから思えば、今はたしかに修業のあり様も、当時とはずいぶんかわっている。
「2年半で修業が終わったわけではないんです。まだ、これからだったんですが、姉が結婚することになってタイミング的には今だろう、と」。
「瓢箪屋」にもどれば、一介の料理人というわけにはいかない。2代目店主、つまり、経営者としてのちからも試される。中嶋氏は、どんな店主になっていくのだろうか?

一か八かの大勝負。

最初に中嶋氏が取り組んだことをうかがって、目を丸くした。思い切ったことをしたものだ。
「店を改装しなければとは思っていたんです。父がつくって年数も経っていましたし、日本料理店だったのがおばんざいの店のようになってもいました。瓢箪屋とは何か、それを改めて確立したかったんです。アイデンティティみたいなものですね。そういうことから始めないと未来がないと思ったんです」。
中嶋氏21歳。借入金は3000万円に及ぶ。
「ただ、当時の金利は15%でしたから、たいへんな決断でした」。たしかに、借入額3000万円は、大きな決断だ。いまなら1億円くらいだろう。いうなら一か八か。
「ただ、この時の改装はのちに大きな意味をもちます。結婚式ブームに乗ることができたんです。売上は倍増しました。ただ、それで今度は違った問題が起こるんです」。
営業停止。
「じつは、うちのちかくに大きな農協会館が建設され、5Fに披露宴会場ができたんです。その披露宴の料理を注文する店の一つに『ひょうたんや』も入れてもらったんですが、だんだんと、指名がうちだけになるんです」。
「料理はひょうたんやで」と次々に、指名がくる。たまらなく面白かった、と中嶋氏も回顧している。
「そりゃそうです。滋賀のなかでも料理人はトップクラスですし、何より、うちは会館にいちばんちかいから、あったかいうちにお届けできます。2年間、正直いうて儲かりに、儲かりました。ただ、周りのお店が反発して、それで2年間、営業でけへんようになったんです」。
2年間は長い。
それを乗り越え、平成元年に2店舗目(姉妹店「ひょうたんから駒吉」)を出店するまでになる。こちらも流行りに、流行る。

一度、食べれば、

「いまのメイン料理である、『つゆしゃぶ』は、『とんしゃぶ』の組合から豚でおいしい料理をつくれないかと相談されたことがきっかけでした。当時はというか、今もそうですが近江牛が主流です。その一方で、豚のおいしさを広げるにはどうしたらいいかと。それで生まれたのが、つゆで食べる『つゆしゃぶ』です」。
「ちりちりっ」となるあれだ。
「今思えばなんですが、最初はぜんぜん相手にされませんでした。『なんで、近江牛やないんや』と。そりゃ、さんざんでした。ただ、そう言っていた人も、一度、『つゆしゃぶ』を食べるとぜんぜん違う表情になり、箸がとまらないんです/笑」。
「つゆしゃぶ」は、いうまでもなく、いまや日本人だけではなく、海外からの観光客の間でも大人気だ。その足跡を追うと中嶋氏という人物の輪郭が明瞭になる。いわば、近江商人の発想をベースに日本料理界にイノベーションを起こしてきたる料理人であり、経営者である。それが、中嶋和義という人なのだ。
そんな中嶋氏にいまからのビジョンについて、伺った。

見据えるのは、大廃業時代。

「日本の現状は深刻です。今まで日本経済の中心だった団塊の世代が引退し、人口減少、少子高齢化が進むなかで、2025年には大廃業時代が訪れると言われています。そのなかで我々はどうあるべきか。それが今の、私のテーマの一つです」。 「いつの時代でも残る、日本料理」と中嶋はいう。
「昨今の人手不足も、かなり深刻です。幸いなことに、うちはまだ深刻とまではいきませんが、今から手を打っておかなければいけない課題の一つです」。
「つゆしゃぶCHIRIRI」のアルバイト時給は1600円。これだけの高時給なら、人には困らないだろう。
「そうです。でも、今はよくても、今から手を打たないといけない。だから、我々は『CHIRIRI』にかわるもう一つのブランドを立ち上げようとしているんです」。
それが、「和蔵義」ですか?
「そうです。宴会業を中心とした『つゆしゃぶCHIRIRI』に対して『和蔵義』は高単価の接待業です。一つ星を狙っています」。
なるほど。しかし、それがなぜ、人手不足の解消につながるか?
「わかりやすく言えば、量より質ということです。職人が少数で回すことができ、一方ではちゃんとお客様にもご満足いただける店、それがカギになると思っています。実際、『和蔵義』は、職人1人で、ほかには調理補助レベルが数人いれば回せる割烹スタイルです」。
「ただ、これを実現していくには、日本料理のルーツと地域ブランドを掛け合わせたストーリーが必須です。その時、キーコンテンツとなるのが、我々では、滋賀のブランド牛である『近江牛』となるかもしれません」。
・・・続き
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