本文より~
博多ラーメンと、手嶋少年。
博多ラーメンの発祥には諸説あるそうだ。なかでも、有力なのが1941年創業の「三馬路(さんまろ)」。
今回、ご登場いただいた株式会社ヴィガーの代表取締役、手嶋雅彦氏にとっては、ある意味、家のルーツの一つとなっている。
「上海帰りの森堅太郎氏が、三馬路の創業者です。『三馬路』っていうのは、向こうでいう通りの名だそうです。この『三馬路』にうちの父と、父の義兄が弟子入りします。だからいうならば、『三馬路』が、うちの源流なんですね」。
のちに父と義兄は独立し、「五馬路」を開業する。それからしばらくして、父は義兄から「五馬路」を譲りうけることになった。
「小さな頃は、絶対、飲食なんかしないと思っていました。丸まった父の背中も、母の背中もみていましたからね」。
五馬路(屋台)は、福岡の祇園にあった。
「食卓に夕食が1人分置いてあるんですね。まだ、子どもだった頃はさみしてくってね。つい、屋台まで行ってしまうんです。それで、親父に怒られたりするんですけどね/笑」。
店を構えるようになっても、さみしさはかわらない。
「1階が店で、2階が住居です。よくあるやつですね。そうなっても、やっぱり飲食はイヤだった。トイレは店だし、ね。母親もあいかわらず仕事をしていましたし…」。
ちなみに、手嶋氏は1958年生まれ。昭和のど真ん中で生まれ、育っている。
「当時、私が暮らしていた祇園は、商売をしている家の子ばかりでした。サラリーマンの子なんて、いなかったんじゃないかなぁ。ま、祇園が飲食街っていうこともあったんだと思いますが」。
手嶋氏は、大学2年までこの祇園で暮らしている。
祇園や福岡という街を通して、高度経済成長期をみた1人にちがいない。
今回、ご登場いただいた株式会社ヴィガーの代表取締役、手嶋雅彦氏にとっては、ある意味、家のルーツの一つとなっている。
「上海帰りの森堅太郎氏が、三馬路の創業者です。『三馬路』っていうのは、向こうでいう通りの名だそうです。この『三馬路』にうちの父と、父の義兄が弟子入りします。だからいうならば、『三馬路』が、うちの源流なんですね」。
のちに父と義兄は独立し、「五馬路」を開業する。それからしばらくして、父は義兄から「五馬路」を譲りうけることになった。
「小さな頃は、絶対、飲食なんかしないと思っていました。丸まった父の背中も、母の背中もみていましたからね」。
五馬路(屋台)は、福岡の祇園にあった。
「食卓に夕食が1人分置いてあるんですね。まだ、子どもだった頃はさみしてくってね。つい、屋台まで行ってしまうんです。それで、親父に怒られたりするんですけどね/笑」。
店を構えるようになっても、さみしさはかわらない。
「1階が店で、2階が住居です。よくあるやつですね。そうなっても、やっぱり飲食はイヤだった。トイレは店だし、ね。母親もあいかわらず仕事をしていましたし…」。
ちなみに、手嶋氏は1958年生まれ。昭和のど真ん中で生まれ、育っている。
「当時、私が暮らしていた祇園は、商売をしている家の子ばかりでした。サラリーマンの子なんて、いなかったんじゃないかなぁ。ま、祇園が飲食街っていうこともあったんだと思いますが」。
手嶋氏は、大学2年までこの祇園で暮らしている。
祇園や福岡という街を通して、高度経済成長期をみた1人にちがいない。
台風一過。
「もともとは落語家になりたかった」と手嶋氏はいう。
「ただ、ある時、紅テントの公演があって、友人と観に行くんですね。今もなんで行ったのか、ハッキリしないんですが」。
とにかく、すごい熱気だったそうだ。
これが、手嶋氏の人生の方向を決める。
座長はご存知、唐十郎氏。脇を固めるのは、根津甚八氏、小林薫氏など、今でも語り継がれる錚々たる面々だ。
「舞台も、凄かったんですけどね」と手嶋氏は、目を細める。
その日の福岡は、台風の影響で空が荒れていたそう。
「だから、テントの外で濡れながら待っていたんです。ようやくテントに入っても、なかなか舞台が始まらない。台風で準備が整っていなかったんでしょうね」。
観客は200人ほど。
「そのうち、しびれを切らした観客が『はやくしろよ』って怒鳴るんです。そうしたら、ドーランを顔半分だけ塗った唐十郎さんが、舞台に駆け上がってきて、『いま、いったのはどこのどいつだ』なんて。ええ、もう、喧嘩ごしです」
客も黙っていなかったらしい。
『おれだ。文句あんのか。さっさとやれ』
『なんだと、てめぇ』
「そうしたら、今度は、根津甚八さんとか、小林薫さんとかも次々でてくるんですね」。
舞台が終わった時には、深夜の12時を回っていたそうだ。終電を逃した人もいたようだ。ただ、手嶋氏は、終電などを気にすることもできなかった。あまりの衝撃だったからだ。
「あの、数時間で私の人生は決まったというか。そういう意味では、私の心のなかでの台風一過ですね。ものすごい嵐だった。おかげで、大学も2年で辞め、上京することになります。ええ、役者になるための、長い旅のはじまりです」。
「ただ、ある時、紅テントの公演があって、友人と観に行くんですね。今もなんで行ったのか、ハッキリしないんですが」。
とにかく、すごい熱気だったそうだ。
これが、手嶋氏の人生の方向を決める。
座長はご存知、唐十郎氏。脇を固めるのは、根津甚八氏、小林薫氏など、今でも語り継がれる錚々たる面々だ。
「舞台も、凄かったんですけどね」と手嶋氏は、目を細める。
その日の福岡は、台風の影響で空が荒れていたそう。
「だから、テントの外で濡れながら待っていたんです。ようやくテントに入っても、なかなか舞台が始まらない。台風で準備が整っていなかったんでしょうね」。
観客は200人ほど。
「そのうち、しびれを切らした観客が『はやくしろよ』って怒鳴るんです。そうしたら、ドーランを顔半分だけ塗った唐十郎さんが、舞台に駆け上がってきて、『いま、いったのはどこのどいつだ』なんて。ええ、もう、喧嘩ごしです」
客も黙っていなかったらしい。
『おれだ。文句あんのか。さっさとやれ』
『なんだと、てめぇ』
「そうしたら、今度は、根津甚八さんとか、小林薫さんとかも次々でてくるんですね」。
舞台が終わった時には、深夜の12時を回っていたそうだ。終電を逃した人もいたようだ。ただ、手嶋氏は、終電などを気にすることもできなかった。あまりの衝撃だったからだ。
「あの、数時間で私の人生は決まったというか。そういう意味では、私の心のなかでの台風一過ですね。ものすごい嵐だった。おかげで、大学も2年で辞め、上京することになります。ええ、役者になるための、長い旅のはじまりです」。
ラーメンの匂いが立ち上がる。
「役者」という位置づけは、難しいと思う。はっきりとした線引きがないからだ。手嶋氏はどんな役者人生を歩むんだろうか?
ともかく、20歳で上京した手嶋氏は、無事、「劇団青年座」の研修生に合格する。
「青年座っていうのは、西田敏行さんがいらした劇団です。こちらの研修生としてスタートするんですが、正式な団員には採用されませんでした。それから、いろんな芸能事務所を転々として。TVのレポーターとか、ドラマのちょい役とか、そうですね、役者だけじゃ食べていけないから、結婚式の司会とか、飲食店の仕事もしました。なかなか役者で独り立ちはできなかったわけです」。
しかし、役者であったのも事実だ。辞めなければ、役者だといいつづけることもできる。
「奥さんも、元々タレントだったんです。私よりは、仕事があって、それで、5年くらいかな、彼女の世話になっていました/笑」。
何でも、最後の事務所は、有名なスポーツ選手が立ち上げた事務所だったらしい。
「35歳になった時ですね。当時、お世話になっていた事務所も自然消滅したりと、いろんなことがあって。もう、役者らしいことはしていなかったのに、『役者は辞めよう』って決意するんです」。
20歳から15年追いかけてきた役者という背中を、もう追いかけないことにした。気力も、気概もなくなっていた、という。
「でも、そうすると、何もないんですね。追いかけるものが…。どうしようか? もう、奥さんと結婚もしていましたし。そんな時、ふと、うちの店が、頭のなかに登場するんですね。なんなんでしょうね、アレって/笑」。
ラーメンの匂い、焼鳥の匂いまで、立ち上がる。目線は小さな頃だから、まだ低い。見上げると、酒の匂いをプンプンさせた大人たちが屈託なく笑っている。父親もまた、笑っている。
「飲食をやろう、と思ったのは、その時です。父も私が店を継ぐなんて思っていなかったから、そろそろ廃業しようと思っていたそうなんです。だから、タイミングも良かったっていえるかもしれませんね」。
ともかく、20歳で上京した手嶋氏は、無事、「劇団青年座」の研修生に合格する。
「青年座っていうのは、西田敏行さんがいらした劇団です。こちらの研修生としてスタートするんですが、正式な団員には採用されませんでした。それから、いろんな芸能事務所を転々として。TVのレポーターとか、ドラマのちょい役とか、そうですね、役者だけじゃ食べていけないから、結婚式の司会とか、飲食店の仕事もしました。なかなか役者で独り立ちはできなかったわけです」。
しかし、役者であったのも事実だ。辞めなければ、役者だといいつづけることもできる。
「奥さんも、元々タレントだったんです。私よりは、仕事があって、それで、5年くらいかな、彼女の世話になっていました/笑」。
何でも、最後の事務所は、有名なスポーツ選手が立ち上げた事務所だったらしい。
「35歳になった時ですね。当時、お世話になっていた事務所も自然消滅したりと、いろんなことがあって。もう、役者らしいことはしていなかったのに、『役者は辞めよう』って決意するんです」。
20歳から15年追いかけてきた役者という背中を、もう追いかけないことにした。気力も、気概もなくなっていた、という。
「でも、そうすると、何もないんですね。追いかけるものが…。どうしようか? もう、奥さんと結婚もしていましたし。そんな時、ふと、うちの店が、頭のなかに登場するんですね。なんなんでしょうね、アレって/笑」。
ラーメンの匂い、焼鳥の匂いまで、立ち上がる。目線は小さな頃だから、まだ低い。見上げると、酒の匂いをプンプンさせた大人たちが屈託なく笑っている。父親もまた、笑っている。
「飲食をやろう、と思ったのは、その時です。父も私が店を継ぐなんて思っていなかったから、そろそろ廃業しようと思っていたそうなんです。だから、タイミングも良かったっていえるかもしれませんね」。
ラーメン店、店主は、ソムリエ。
35歳になった時、手嶋氏は、福岡の祇園にあるラーメン店をつぐ。
「世の中のことをぜんぜん知らない。これが、仕事をはじめて最初に気づいたことです。役者の頃は、そういうことを勉強するもんじゃないと思っていましたからね。だから、お客様と話すのが新鮮で、接客がたのしくてしかたなかったですね。でも、最初は戸惑いました。嫁もいっしょに連れて帰ったわけですよ。でも、店の売上は、父と母が食べていくだけで精一杯。社員も、1人いましたしね」。
連日、満席とは言わないが、繁盛していたはずだ。いや、そういう記憶だっただけかもしれない。
「父親とは5年、いっしょにやるんですが、喧嘩ばかりでしたね。私は『ビジュアルだ』、というし、父は『味だ』と譲らない/笑」。
ただ、もめていても、客が来るわけがない。どうなっただろうか?
「話題になったのは、ワインのおかげ」と手嶋氏はいう。ワインのおかげ?ともう一度、質問すると役者時代の話になった。
「じつは、役者の頃、食べられないんで、ホテルで司会とかの仕事をしていたって言ったでしょ。その時、親しくなったホテルの人から『ソムリエ』って資格があるのを聞いていました。そこで福岡に戻ってラーメン屋をやりながら。独学で勉強しソムリエの資格を取ったんです。お金はなかったんですが、ワインには割と詳しくなっていきました。それで、当時の祇園にはまだないような、ヴィンテージ物のワインなんかをお出ししたんです。そうです。これが、バカ当たりするんです」。
父の店は10坪とけっして大きくなかった。しかし、それまでは空席が目立っていた。だか、ワインをだすようになってからは、逆に席がなくなった。外に列ができたのも、この頃。
手嶋氏が、商売人として、独り立ちした時と言えるだろう。
「世の中のことをぜんぜん知らない。これが、仕事をはじめて最初に気づいたことです。役者の頃は、そういうことを勉強するもんじゃないと思っていましたからね。だから、お客様と話すのが新鮮で、接客がたのしくてしかたなかったですね。でも、最初は戸惑いました。嫁もいっしょに連れて帰ったわけですよ。でも、店の売上は、父と母が食べていくだけで精一杯。社員も、1人いましたしね」。
連日、満席とは言わないが、繁盛していたはずだ。いや、そういう記憶だっただけかもしれない。
「父親とは5年、いっしょにやるんですが、喧嘩ばかりでしたね。私は『ビジュアルだ』、というし、父は『味だ』と譲らない/笑」。
ただ、もめていても、客が来るわけがない。どうなっただろうか?
「話題になったのは、ワインのおかげ」と手嶋氏はいう。ワインのおかげ?ともう一度、質問すると役者時代の話になった。
「じつは、役者の頃、食べられないんで、ホテルで司会とかの仕事をしていたって言ったでしょ。その時、親しくなったホテルの人から『ソムリエ』って資格があるのを聞いていました。そこで福岡に戻ってラーメン屋をやりながら。独学で勉強しソムリエの資格を取ったんです。お金はなかったんですが、ワインには割と詳しくなっていきました。それで、当時の祇園にはまだないような、ヴィンテージ物のワインなんかをお出ししたんです。そうです。これが、バカ当たりするんです」。
父の店は10坪とけっして大きくなかった。しかし、それまでは空席が目立っていた。だか、ワインをだすようになってからは、逆に席がなくなった。外に列ができたのも、この頃。
手嶋氏が、商売人として、独り立ちした時と言えるだろう。
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