本文より~
横浜国立大学、3日で、卒業。
父は、大学教授。都庁にも勤務されていた。とにかく、まじめな人だったそう。その点、息子の小林淳氏とはちょっと異なっている。
小・中とサッカーをやっていた小林氏は、サッカーがつよく、偏差値も高い進学校に進学する。
なんでも進学時点では成績は、そう悪くなかったらしい。しかし、もともとはサッカーがしたくて、選択した学校だ。勉強は、そっちのけで好きなサッカーに没頭する。テストも常に最下位。
「とにかく、サッカー部の練習がきつかった。はじめ60名はいた部員も、3年まで残ったのはたった7名なんです。みんな、サッカーバカですよね。もちろん、ぼくもその1人で、勉強はぜんぜん。先生にも『小林はだめだ』と烙印を押されます」。
その一言が、今度は起爆剤となり、巻き返しを試みる、だが、残すのはあと半年。「真剣にやるから予備校にも行かせてくれ」と、ご両親に頼み込む。
「要領がよかったんだと思います」。
そもそも最初から、やればできるタイプだ。軽く巻き返しをやってのけた。進学したのは、横浜国立大学。他に難関私立も2校合格し、3連勝。
担任も、目を見張ったことだろう。それとも、「奮起のための一言だった」と言うんだろうか。それはともかく、横浜国立大学に進んだ小林氏は、ここでとんでもないことをやらかす。担任が胸をはったとすれば、卒倒するようなことだ。
「3日で、いやになって辞めちゃいました。『やっぱり、大学なんか行ってられっか』って」。
小・中とサッカーをやっていた小林氏は、サッカーがつよく、偏差値も高い進学校に進学する。
なんでも進学時点では成績は、そう悪くなかったらしい。しかし、もともとはサッカーがしたくて、選択した学校だ。勉強は、そっちのけで好きなサッカーに没頭する。テストも常に最下位。
「とにかく、サッカー部の練習がきつかった。はじめ60名はいた部員も、3年まで残ったのはたった7名なんです。みんな、サッカーバカですよね。もちろん、ぼくもその1人で、勉強はぜんぜん。先生にも『小林はだめだ』と烙印を押されます」。
その一言が、今度は起爆剤となり、巻き返しを試みる、だが、残すのはあと半年。「真剣にやるから予備校にも行かせてくれ」と、ご両親に頼み込む。
「要領がよかったんだと思います」。
そもそも最初から、やればできるタイプだ。軽く巻き返しをやってのけた。進学したのは、横浜国立大学。他に難関私立も2校合格し、3連勝。
担任も、目を見張ったことだろう。それとも、「奮起のための一言だった」と言うんだろうか。それはともかく、横浜国立大学に進んだ小林氏は、ここでとんでもないことをやらかす。担任が胸をはったとすれば、卒倒するようなことだ。
「3日で、いやになって辞めちゃいました。『やっぱり、大学なんか行ってられっか』って」。
2人の親父。
で、どうしたんですか? そう質問すると、「それがね」と小林氏。その話がしたかったんだよ、といいたげな様子。「ここにさ、もう1人の親父がいたんだよ」。
「ここ」というのは知り合いの紹介で、入社した会社のこと。もう1人の親父は、村山幸一さんというらしい。この「村山さんとの出会い」を、人生でいちばん大事な出会いだという。「なんていうんでしょうね。その生き様ですね」。
生き様? 小林氏を魅了した村山氏とは、どんな人なんだろか?
「中学時代の知人の紹介ではいったのが、村山さんの会社。ガスの配管。簡単にいえば、土建業です。村山さんは、親方。とんでもなく、苦労され、いちばん金になるからと、この仕事に就かれたそうです」。
1つエピソードも話してくれた。
「仕事中にガラの悪い連中と、もめたことがありました。そのことが原因で、小林をクビにしろと、お偉いさんに言われたことがあったんです。その時に親方が、会社までいっしょに謝りに行ってくれて、私を守ってくれたんです」。
四六時中、いっしょだった。年齢は、むろん親子ほど違っている。
小林氏のほかにも社員はいたが、だいたい50歳オーバー。いちばん若い小林氏が、いちばんかわいがられた。まっすぐで、素直だったからだろう。
そんな村山氏の下を離れるのは、村山氏が「もう歳だから会社をたたむ」といった時。「取引先もぜんぶやるから、お前が主体でやってみろと言われたんですが、村山さんのいない会社には、どうもね。で、ぼくも辞めますっていうわけ。まぁ、勝手と思われるかもしれないけど、村山さんが、俺のぜんぶだったから」。
それで「楽」ですか?
「そうです。もともと『楽』の店舗には、お酒とお店の雰囲気が好きで通っていたんです。それに、独立支援もありましたからね。『よし、ここだ』と。もう27歳になっていたんですが、ド素人のまま、今度は宇野のおやじに、会いに行くんです」。
宇野のおやじとはいうまでもなく、楽コーポレーションの総帥である宇野隆史氏のことである。
「ここ」というのは知り合いの紹介で、入社した会社のこと。もう1人の親父は、村山幸一さんというらしい。この「村山さんとの出会い」を、人生でいちばん大事な出会いだという。「なんていうんでしょうね。その生き様ですね」。
生き様? 小林氏を魅了した村山氏とは、どんな人なんだろか?
「中学時代の知人の紹介ではいったのが、村山さんの会社。ガスの配管。簡単にいえば、土建業です。村山さんは、親方。とんでもなく、苦労され、いちばん金になるからと、この仕事に就かれたそうです」。
1つエピソードも話してくれた。
「仕事中にガラの悪い連中と、もめたことがありました。そのことが原因で、小林をクビにしろと、お偉いさんに言われたことがあったんです。その時に親方が、会社までいっしょに謝りに行ってくれて、私を守ってくれたんです」。
四六時中、いっしょだった。年齢は、むろん親子ほど違っている。
小林氏のほかにも社員はいたが、だいたい50歳オーバー。いちばん若い小林氏が、いちばんかわいがられた。まっすぐで、素直だったからだろう。
そんな村山氏の下を離れるのは、村山氏が「もう歳だから会社をたたむ」といった時。「取引先もぜんぶやるから、お前が主体でやってみろと言われたんですが、村山さんのいない会社には、どうもね。で、ぼくも辞めますっていうわけ。まぁ、勝手と思われるかもしれないけど、村山さんが、俺のぜんぶだったから」。
それで「楽」ですか?
「そうです。もともと『楽』の店舗には、お酒とお店の雰囲気が好きで通っていたんです。それに、独立支援もありましたからね。『よし、ここだ』と。もう27歳になっていたんですが、ド素人のまま、今度は宇野のおやじに、会いに行くんです」。
宇野のおやじとはいうまでもなく、楽コーポレーションの総帥である宇野隆史氏のことである。
おまえには、ストーリーがある。
面を食らったのは、どちらのほうだろう。楽コーポレーションの面接に向かった小林氏は、その日のうちに宇野氏と盃を傾けることになる。「楽の面接は、だいたい酒飲みながらなんですけどね/笑」。
小林氏の話を聞いた宇野氏は、一発で興味を惹かれたのだろう。「すぐうちに来い」と。
たしかに、村山氏の生き様を見習って、育ってきた小林氏である。宇野氏が魅了されたのも、わからなくもない。
さて、どちらが、面を食らったのか?
小林という人間をみた宇野氏か。それとも、宇野という偉人から、「すぐ来い」とオファーされた、小林氏か。ただ、一つ、「おまえには、ストーリーがある」と宇野氏が小林氏を評価しているのは、事実だ。
「楽に入社してからは、楽の総本山みたいな店にぶち込まれるんです。ド素人だから、マジ、何にもできない。にもかかわらず、『まかないをつくれ』って言われるわけですよ。本当にしんどかった」。
シャベルも、ツルハシも、ハイレベルだ。しかし、フライパンも、菜箸も、包丁も今までににぎったのは、数回程度。「それでも、なんとかやんなくっちゃって。レシピ本もみるんです。そこに、大さじ1杯とか書いてあるんですね。でも、そもそも、大さじ1杯がわからない。だから、ぼくがまかない担当の時には、店長が、『どうせ、食べられないものつくるんだから、納豆買って来ておけよ』っていうんです/笑」。
確率的には、だんぜん納豆が多かった。
しかし、大学を3日でやめた人間が、ここでは、辞めずにつづける。
「7年ですね。34歳の時に、独立させてくださいとおやじに言いました。反対されましたね。『やるんだったら、沖縄でやれ』って。ぼくが、地元の吉祥寺でオープンすると知って、そういうんです。理由ですか? 『縁もゆかりもない場所でチャレンジしてみろ、小さくまとまるな』っていうわけです。もちろん、いくらおやじのいうことでも、そりゃ勘弁してもらいました」。
たしかに、宇野氏のいうことにも、頷ける。矜持といえば、それこそが、矜持だ。しかし、小林氏が切羽詰まっていたのも、事実。「だって、独立しようとしたときは、結婚して、子どもも生まれるって時でしたから。もう、背水の陣です」。
小林氏の話を聞いた宇野氏は、一発で興味を惹かれたのだろう。「すぐうちに来い」と。
たしかに、村山氏の生き様を見習って、育ってきた小林氏である。宇野氏が魅了されたのも、わからなくもない。
さて、どちらが、面を食らったのか?
小林という人間をみた宇野氏か。それとも、宇野という偉人から、「すぐ来い」とオファーされた、小林氏か。ただ、一つ、「おまえには、ストーリーがある」と宇野氏が小林氏を評価しているのは、事実だ。
「楽に入社してからは、楽の総本山みたいな店にぶち込まれるんです。ド素人だから、マジ、何にもできない。にもかかわらず、『まかないをつくれ』って言われるわけですよ。本当にしんどかった」。
シャベルも、ツルハシも、ハイレベルだ。しかし、フライパンも、菜箸も、包丁も今までににぎったのは、数回程度。「それでも、なんとかやんなくっちゃって。レシピ本もみるんです。そこに、大さじ1杯とか書いてあるんですね。でも、そもそも、大さじ1杯がわからない。だから、ぼくがまかない担当の時には、店長が、『どうせ、食べられないものつくるんだから、納豆買って来ておけよ』っていうんです/笑」。
確率的には、だんぜん納豆が多かった。
しかし、大学を3日でやめた人間が、ここでは、辞めずにつづける。
「7年ですね。34歳の時に、独立させてくださいとおやじに言いました。反対されましたね。『やるんだったら、沖縄でやれ』って。ぼくが、地元の吉祥寺でオープンすると知って、そういうんです。理由ですか? 『縁もゆかりもない場所でチャレンジしてみろ、小さくまとまるな』っていうわけです。もちろん、いくらおやじのいうことでも、そりゃ勘弁してもらいました」。
たしかに、宇野氏のいうことにも、頷ける。矜持といえば、それこそが、矜持だ。しかし、小林氏が切羽詰まっていたのも、事実。「だって、独立しようとしたときは、結婚して、子どもも生まれるって時でしたから。もう、背水の陣です」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
0 件のコメント:
コメントを投稿