2020年3月24日火曜日

株式会社ピエトロ 代表取締役社長 高橋泰行氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ピエトロ 代表取締役社長 高橋泰行氏登場
本文より~

ピエトロ交響曲。

「頭の中がピエトロで埋め尽くされた」と笑うのは、ピエトロ代表取締役社長の高橋泰行氏である。
大学時代はボート部。その時の先輩に誘われて、運輸関係の大手企業に就職する。
「ピエトロに転職したのは34歳の時です。飲食とはまったくちがう仕事をしていましたから、まったくの畑違いの会社からの転職組なんです」。
知人を通じ、創業者である村田邦彦氏と出会う。
「当時、村田社長は59歳で、ピエトロは、創業20年。海外展開を志向されていた時です。社長の野心的な話を聞き、人柄に触れるうちに、だんだんと頭の中がピエトロばかりになってしまいました」。
転職するなら、年齢的にもこれが最後だと思ったそう。しかし、そう簡単に決断できない。「子どももまだ小さかったですしね。ただ、妻は薄々気づいていたようです」。転職の話を切りだすと、奥様はためらうことなく賛成してくれたそうだ。「でも、親の説得が大変でした。当時は今とちがって転職は稀なことでしたから。まして、畑違いの飲食業でしょう?」。
ただ、いかに反対されても、ピエトロという会社と、その創業者が指揮する「ピエトロ交響曲」は、頭から離れなかった。

創業者・村田邦彦氏の未来図。

いろいろ不安もあったとおっしゃいますが、そうはいっても高橋社長のなかには、飲食の世界で広がる未来図があったんじゃないですか?と問いかけてみた。
「もちろん、そうですね。希望観測的な…。ただし、入社まもない頃は、創業者である村田社長がつくった未来図を観ていただけかもしれませんね。なにしろ、村田社長は、最初にお会いした時から、私にとっては英雄だったんです」。
村田氏は、いうまでもなく日本を代表する経営者の1人で、いち早く、スパゲティに魅了され、その料理に可能性を見出し、さらに、レストラン生まれのドレッシングを世に送り出した人でもある。
「村田社長も私と同じサラリーマンの経験者なんです。ただ、それ以前が料理人だったんですね。ピエトロのレストラン1号店をオープンしたのは、39歳の時だったとおっしゃっていました」。
むろん、創業シェフは、村田氏本人。
始まりは、1980年。福岡市・天神に創業したパスタ専門店「洋麺屋ピエトロ」である。翌1981年には、早くもレストランで提供していた手作りのドレッシングの店頭販売を開始している。
「当時はスパゲティといえばまだミートソースかナポリタンの時代ですね。そんな時代に、高菜や明太子、納豆などの「和」の具材で、「洋」のスパゲティにチャレンジしていきます。当初から海外にも目を向けていました。海外1号店は、ホノルルにオープンした『アンジェロピエトロホノルル店』。1992年のことです」。
高橋氏が転職したのは、34歳の時、1999年のこと。企業力はあったが、まだ、東証二部上場も果たしていない。
「それでも、村田社長の頭のなかには、壮大なスケールの絵があったんです」。
むろん、当時、村田氏に惹かれたのは高橋氏だけではないだろう。店舗や工場で仕事をするスタッフたちも、きっと、そうであったはずだ。

創業者の宿題。

「私は、社長の秘書として、ピエトロに入社しました。出張がある度に、ご一緒させていただきました。正直にいうと不安もありましたが、昔から一度、心が動いてしまうともう止まりません」。
高橋氏をそこまで動かしたのはなんだったんだろう? 改めて聞いてみた。
「事業の将来性とかそういうのもありましたが、何より英雄の下で仕事ができることですね。村田社長に心をわしづかみにされ、動かされてしまったわけです」。
時代を切り開く、英雄。立身出世という言葉が適切かどうかわからないが、村田氏もまた一介の料理人から経営者となり、日本を動かした人である。その英雄の下で、高橋氏は仕事の喜びを見出したにちがいない。村田氏の発想は、空を駆けた。それを、高橋氏が追う。
「怒られることばかりだった」と高橋氏は、当時のことを懐かしそうに語る。
「秘書からスタートして、まずは海外事業、それから通信販売部門や食品部門、製造部門の役員なども経験しました」。
村田氏による英才教育?
「う~ん、そうかもしれませんが…」。
それから、社長ですか?
「そうですね。村田社長が急逝されて、会長と、専務と私の3人が代表取締役となり、私が社長に就任します。村田社長が現役の時に、東証二部から一部に上がったのは大きな喜びだったと思います。ずっと望んでいらっしゃいましたから」。
村田氏はどんな人だったんですか?
「創業者ですからね。パワフルだし、厳しかった。でも、スタッフをことのほかかわいがった。私も、かわいがっていただきました」。
ところで、社長に就任されてからレストラン部門を立て直されていますね。
「ドレッシングなどの食品部門は好調だったんですが、レストラン部門は、赤字が続いていました。レストラン事業は、我々の創業事業ですし、そこから商品開発など食品事業にフィードバックされることも少なくない。だから、この部門が元気でなきゃいけないんです」。
村田氏が残された宿題かもしれませんね? そういうと高橋氏は、「そうかもしれませんね。社長として出席した最初の株主総会では、株主のみなさんに『もう少し時間をください』と言いましたしね」といって笑う。
創業者の宿題ともいえるレストラン部門の再生に向けて、スタッフと一丸となって動き始め、手応えをつかんでいる。社長に就任した翌々年には6期ぶりに黒字化となった。
2019年3月期の短信では、レストラン事業のセグメント利益は32百万円。前期は、72百万円の損失だったからV字回復だ。
・・・続き
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