2020年3月10日火曜日

株式会社T.H.S 代表取締役 金本正彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社T.H.S 代表取締役 金本正彦氏登場
本文より~

青森から東京へ。

青森県五所川原市は、津軽半島の中南部に位置する。
「田舎だから、小学校の校庭だって広いんです。冬になるとね。雪がいっぱい降るわけです。その雪で、雪山をつくって、みんなでスキーとかをしていました」。
青森の少年はたいていスキーができるんだそう。そのあたりはいっしょだが、家庭の様子はもちろん異なる。
「うちは、父が絶対君主でした。当然、敬語です。そうですね。豪快な人でしたね。うちは、5人きょうだいなんですが、長男が秀才で。父の接し方も、長男と、そのほかってイメージです/笑」。
上京したのは、金本氏が小学6年生の時。
「兄が東京の学校に進む時に、みんなでいっしょに東京に来ます。父にすればいいきっかけだったんじゃないでしょうか。いつまでも青森の田舎でっていう人じゃないですから。父の仕事は、不動産と金融です。商才にたけた人でした」。
東京で、父親の事業は拡大する。
兄は医者をめざし、まっしぐら。
「中学は四谷にある中学なんですが、野球部がなかったんです。それで、ソフトボールなんですが、あの3年間がもったいなかったです」。
最初はジョークかなと思ったが、真剣だった。野球の話である。
「青森ですからね。当然、ジャイアンツ。長嶋です。むろん、小学校から野球をはじめた私はサード、四番。目標は長嶋です。しかし、野球部がない中学を選択したのは、痛恨のミス。高校になって帝京に進み、野球部にも入部して、さぁ、長嶋へ向けまっしぐらだと思ったんですが、3年のブランクはいかんともできませんでした」。
けっきょく、1年で野球部を退部している。「だいたい、これが高校までの私ですね。う~ん、そうですね。やっぱり、中学に野球部があったら。いまじゃ、どっかのプロ野球の監督になっていたかもしれません」。

理容の道をまっしぐら。

「長嶋になる目標がなくなった私は、もう、やることがないんです。その時ですね。いつも通っていた床屋さんに、そんな話をしたら、『床屋がいいんじゃないか』って言われたんですね。たしかに、当時、床屋っていうのは、いいビジネスだったんです」。
それで、理容の専門学校?
「そうなんです。家族も賛成してくれましたし。専門学校のなかにも、美容と理容があるんですが、私は理容のほうに進みます。断然、美容が人気だったんですが、ビジネスとしてかたいのは理容のほうだ、と。男女の割合は6:4くらいでしょうか。そうです。意外に男性が多いですね。ともだちにも恵まれました。おかげで悪い道には進まず、1年で卒業し、当時、5店舗くらいだったかな。有名な理容店に就職できました」。
「これは、飲食もおなじだと思うんですが、朝6時から夜9時まではたらき詰めで、仕事が終わってから、練習です。ええ、ふだんから店で寝泊まりです。それでも、1年目は何もさせてもらえません。観ているだけ。時々、タオルをもっていったりはしますが。2年目からはシャンプー、シェイビングです。実際に仕事をするのは3年目から。給料は1万7000円くらいだったんじゃないかな。大学初任給が7万円くらいでしたから、まぁ、劣悪ですね/笑。3年、経験し、一つ目の店は退職しました」。
「ある程度のことはできるようになった」のが、退職理由。
「独立って目標がありましたから。理容っていうのも、飲食とおなじで、店によって違うんですね。だから、いろいろな店を経験するのも大事なんです。10社くらい転々としました。最終的には一つの会社に落ち着き、それなりの地位で仕事をしていたこともあって、なかなか独立というわけにはいきませんでした。独立したのは、息子が小学1年の時で、私が39歳の時です。資金もなかったので、国からお金を借りて、平成3年に1号店をオープンします」。

2号店は、やきとり?

悪くなかった。業績の話である。
「駅からちかくて、お客さんにも通っていただきました。私の城です。たいへんでしたが、たのしかったですね。最初はチラシをまいて。口コミで、次々、新しいお客様がいらしてくださるんですから、うれしくないわけがありません」。
金本氏は、飲食とは異なる世界でずいぶんと長く仕事をする。
どうして飲食に?と聞いてみた。
「じつは2号店を出店するつもりだったんです。カット中心の安い理容店です。融資も下りて、場所も決まったんですが、理容師がいない/笑」。
「その時、知り合いが、『だったらやきとりはどうだ? 儲かるらしいぞ』っていうんですね。まだ、内装には手をいれていなかったので、『そうだよな。やきとりをやれば、最悪でも、やきとりが食べられるな』って/笑。だいたい、こんな軽い気持ちでやれば、失敗します」。
失敗?
「そうなんです。私は料理ができないから、人にお願いするわけですが、ちょっと問題がある人というか、ぜんぜん売上もあがらなかったですね。けっきょく違う人にお願いして、いい感じになっていくんですが、いい教訓ですね。最初にお願いした人の時は、理容店の利益をだいぶもっていかれました/笑」。

もつ鍋から、ラーメン、イタリアンバル、そして、ハレパン。

それでも「飲食を辞める」道はなかったようだ。
「現在、うちは、やきとりから、もつ鍋、ラーメン、そして食パンをやっているんですが、起爆剤となったのは、新宿の東口にオープンした2号店『もつ鍋 もののふ』です。10坪くらいのお店なんですが、次々とお客様がいらして。その時、息子が会社に入ります。忙しくて、手伝ってくれと声をかけたのが始まりです。息子がいたおかげで、ラーメンの話がきて、息子があるラーメンの塾に入って。彼が、その塾の一期生なんです」。
そこから生まれたのが「マルキン」ですか?
「そうなんです。らーめんを教えてやるという話が来て、息子を預けて。彼の卒業を待ってスタートしたのが百年味噌ラーメン『マルキン』です。いまでは12店舗を出店します」。
2019年現在でいうと、その百年味噌ラーメン「マルキン」が12店舗。<もつ鍋&串焼き「鳥正」><「絶品博多もつ鍋「もののふ」><イタリアンバル「38炭リッチ」>各1店舗。そして、2018年5月にオープンした、<純生食パン工房「HARE/PAN」>。こちらがいま猛烈なスピードで成長している。
「直営は1店舗ですが、フランチャイズが20店舗あって、年度内に40~50店舗出店するのが、だいたい決まっています。店で焼いていますから、ショップは5坪でも、工房を入れれば全体で18坪はいりますね。ただ、加盟金は高く設定していませんので、はじめていただきやすいスキームになっています。もっとも飲食をやっている人に限定させていただいています。パンですから食中毒の心配などはないんですが、ブランドを守るという意味でも、ご理解いただいています」。
・・・続き
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