2020年7月30日木曜日

株式会社スマイルリンクル 取締役社長 須藤 剛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社スマイルリンクル 取締役社長 須藤 剛氏登場。
本文より~

冷めた、野球熱。

小さな頃から畑仕事をしていた。ものづくりの原点は、ここにあるのかもしれない。

将来の職業は、コックさん。

「それでいいと思っていたんですが…」。人生は、面白い。何がきっかけになってかわるか、わからないからだ。

3日目、辞めようと心に決めた。

手取り18万円。家賃5万5000円。残り12万5000円。そのなかでやりくりする生活がスタートした。「私は新卒でスマイルリンクルに入社します。もちろん、上京して。浦安に住みます」。

創業者、森口氏との距離。

何年くらい経った頃だろうか。いつしか2人の距離はなくなっていた。
・・・

2020年7月22日水曜日

株式会社Key table 代表 周郷 海氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Key table 代表 周郷 海登場
本文より~

140キロとの別れ。

漁師町。祖父も若い頃は、漁師だったそう。いまの幕張からはイメージできない。「両親が離婚したのは、私が小学2年生の時。それからは母と妹と祖母の3人で暮らしました」。
野球が、うまかった。小・中の時には、選別にも選ばれた。友達のなかには、プロに進んだ者もいる。
高校は、市立船橋。スポーツの名門校だ。
「1年からレギュラーでした。ピッチャーです。球速は、140キロくらい。プロを目指していました。ただ、2年の秋にケガをして」。
140キロとの別れ。リハビリ生活が卒業まで続いたという。プロもあきらめた。これが、最初の挫折。ヒーローが、ヒーローになれなくなった時だ。
 大学は、大東文化大学の経営学部に進む。「経済的な問題があり、就職も念頭にあったのですが、先生の勧めで進学します」。
大学進学は、いままでとはまったく違う選択だった。プロというゴールに進む道から外れた選択。周りにいるのも、いわば、ただの学生。
「正直、温度差があった」と周郷氏。当然、目は、学内ではなく、学外に向いた。
「経営学を勉強したくて、指定校推薦で大東文化大学に進学したわけですが、大学には、全然行っていないっていうか」と笑う。
大学で出会ったのは、デール・カーネギーの「人を動かす」。
経営者を意識するようになる。

志は飲食へ。目標は「改革」の二文字。

「『人を動かす』には、かなり影響を受けました。ビジネスに関心があったから、在学中から株式投資をしていました。そんな中で飲食に興味を持つんですが、これはホテルで配膳のバイトをしている時です。だって、飲食って面白いでしょ。バイトの方が、時給がいいとか。ホテルで仕事をしていると分かるんですが、けっこうダークな面もあって」。
それを逆に、面白いと思った?
「そうです。私たちの時代でも、就職先としてみたら、飲食はやはり敬遠されます。労働時間が長く、給料が少ない。問題点は明白です。ちょうど大手の残業問題がクローズアップされて、社会的にも、益々評価が下がるんですが。私は、逆に、それが面白いと思ったんです」。
経営者の発想で?
「そうです。問題が明確なんです。でも、何年経ってもクリアできない。でも、だからこそ、チャレンジする価値があるのでは、と。私が経営者となって、どれだけのことができるか、試してやろうという」。
そうは決めたが、卒業ができない。半年、留年。就職先は、やはり飲食。当初の「志」は変わっていなかった。
「就職させてもらったのは、学生時代からバイトしていた飲食店です」。学生時代から早くも店長を務めていたそう。「それで、半年遅れで卒業し、そのままお世話になります。スーパーバイザーも経験させていただいて、そうですね。仙台から石川まで、17店舗の統括マネージャーをしていたこともあります」。
志は飲食へ。
目標は「改革」の二文字を実現すること。

つぎは北海道かも。

そして、2018年、独立。学生時代から始めた資産運用で貯めたお金も、ぜんぶ、つぎ込んだ。「現在(2020年6月)で、丸2年、3期目のスタートです」。快調なことは、出店ペースでも明らか。早くも、7店舗だ。
出店数もそうだが、周郷氏のユニークな点は、千葉の2店舗以外にも、福岡に3店舗、宮崎に2店舗を出店していること。しかも、全店、直営。さらに、いまからの出店計画をたずねると、「7月に福岡にもう1店舗、また、長崎にも1店舗」と、平然と言われ、驚いた。
青息吐息の会社が多いなかで、異彩を放っている。
「コロナの影響はなくはなかったですね。ただ、キャッシュアウトもしましたが、正直に言って、そんなにきつくはなかったですね。スタッフもみんなで頑張ろうと言ってくれていますし」。
いままでは、出店資金も借り入れなしでまかなっていたそう。だから、財務的にも健全で、融資も下りやすく、攻めの資金もできている。
「今回、福岡と長崎に出しますが、つぎは北海道かもしれません」と笑う。
ドミナント戦略など、まったく頭にないのだろうか?
「テーマは低投資なんです。創業時から、初期投資を抑えて負担を軽くしています。今回も、コロナの影響が軽微だったのは、家賃を低くしていたからです。東京のど真ん中に出店していたら、こうはいかなかった」。
たしかに、そうだ。家賃は、売上の10%が、適正範囲と言われている。売上100万円なら、家賃は10万円。しかし、いまや家賃比率が100%オーバーの店舗があってもおかしくない。
「長崎や北海道というのも、そこ。家賃が低いだけではなく、素材もいいものが入る。どっちがいいんでしょうね。家賃の高い東京で、頑張るのもいいですが」。
とはいえ、「いつかは、都内に出店するかもしれない」と言っている。ただし、あくまで、広告宣伝費のなかで。「渋谷にある…っていうと、それだけで宣伝効果につながりますから」。
・・・続き



2020年7月21日火曜日

2020年7月17日金曜日

株式会社ディーズプランニング 代表取締役 義元大蔵氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ディーズプランニング 代表取締役 義元大蔵氏登場
本文より~

那覇高校卒。

あと少し中心から離れたら、市が町になるところだった、と義元氏は笑う。義元氏が、那覇市のはずれの、小さな町に生まれたのは1975年。かろうじて、那覇市だった。
父親はサラリーマン、母親は薬剤師。母方の祖父がユニークな人で、沖縄にパチンコを持ち込んだ人だという。伝統的な祭を復活したことでも知られているらしい。
「100歳以上の長生きで、私が中学3年の時、祖父は70歳だったんですが、腕相撲をしてもぜんぜん勝てなかった」。剛毅な方だったんだろう。「祖父以外は、ふつうの家庭だと思います」。
頭の良さは、誰から譲り受けたんだろうか。
「けっこう遊んだりもしていたんですが、勉強もちゃんとしていて、進学校だった那覇高校に進みます」。偏差値が68というから、かなり高い。
「高校では弓道です。友達に誘われて始めるんですが、県の大会で個人優勝もしています。あのスポーツは集中力がカギなんです。だから、精神的なところは育まれたと思います」。
勉強や、スポーツだけではない。
「若気の至りで、いろいろとやった」と笑う。
しかし、高校時代を通して言いつづけた「渡米」に関しては、若気の至りでもなんでもなかったようだ。

高校卒、渡米する。

「高校1年の時には、もう決めていました。進学した時から『進路相談はいらない』って言っていたほどです」。
米軍がいる沖縄という街が、義元氏をアメリカに向かわせたのだろうか。
「どうでしょうか。日本がつまらない、それだけだったかもしれませんね。日本でどこに行くかっていえば、みんな『東京』っていうでしょ。私は、ぜんぜん惹かれないです。これは、昔からです」。
友達と親交を深めるなかで、準備も着々と進めた。今なら言ってもいいだろう。授業をサボって、バイトに向かうため、迎えのトラックに乗り込んだこともある。
「結局、アメリカに行くのは卒業した年の8月です。バイトで貯めた50万円が軍資金。語学学校に行き、そのあと短大に進みます。もちろん最初はボディランゲージだけが頼りです。今は、しゃべれますよ。結局、10年いましたから」。
9.11が、帰国のきっかけになったそう。
「あれがなければ、今もまだアメリカにいるかもしれないですね」。
帰国は28歳の時。
「次は東南アジアかな、と思っていました。向こうで義兄といっしょに事業を興す話もあったので」。

駆け抜けた10年。

義元氏に分岐点をひとつ挙げてくれるようにお願いすると、「渡米したことはもちろんですが、28歳の時でしょうか」、という返答。帰国したあと、東南アジアに向かうはずだったが、けっきょく日本にとどまり、28歳の時にある人物に出会う。その人物との出会いが、分岐点というわけだ。
「破天荒な人でしたね。キミならできるだろうって、コンサルの仕事をいきなり任されます。業績はけっして悪くなかったんですが、その人が体調を崩されたこともあって、その人と交友のあった、安里さんという社長さんが、うちの会社を買われます」。
義元氏が、安里さんというのは、現シンバホールディングス株式会社、会長の安里繁信氏のこと。安里氏の下で義元氏は、様々な事業にタッチする。
「今思えば、働きすぎですね。40数時間、寝なかったこともあるくらいです。カフェの立ち上げもしましたし、国内だけじゃなく、国際物流もやりました。広告代理店もしたし、結局7社くらいは、グループの会社を転々としました。私の異動は、トップダウンで直接降りてくるんです。だから、現場の上司が知らないこともあって/笑」。
その後、インターネットの仕事もし、最終的には、年商30億円程度の食品会社に、ヘッドハンティングされている。ポストは営業部長。
食品の仕入れのノウハウを知れたことは大きい。
「40歳で独立するので、ほぼ12年くらいですね。いろんな仕事をさせていただきました。すべていい経験です」。
どんな環境でも、事業でも精一杯、仕事をした。広告代理店の時は、30半ばにして飛び込みも経験している。むろん、この間、様々なネットワークも出来上がる。
「限界なんて考えなかった。だからこそ、力になったんでしょうね」。
やるといえば、やる。シンプルな発想は、強い。しかも、義元氏はぶれない。そこがいい。

24席が、1日に30回転する。

「バカじゃないの」。
3坪6席、カウンターだけのステーキショップをオープンするといった時の、周りの声をまとめれば、こうなる。ショップといっても、通路の一角。家賃3万2400円は破格だが、そのぶんロケーションに難ありだ。
しかし、最初に答えを示すと、この小さなショップが、すぐに評判になり、月商280万円、日商15万円をたたき出す。
3坪で、280万円? 経営論的みて、まったく無茶苦茶な話だ。
「読み通りと言いたいですが、予想以上の結果です/笑。当時から営業時間は長く、朝11時~翌朝5時まで。2号店をオープンしたのは半年後です」。
こちらが、さらに無茶苦茶とか?
「そうですね。1号店に比べ初期投資はかけましたが、それでも800万円です。20坪、24席。ある程度、いけると思っていましたが、3ヵ月くらい経った頃の週末には、日商が90万円ちかくになっていました。その月の月商は1700万円です」。
24席が1日に30回転したという。ふつうあり得ない。
「ひみつは、営業時間です。1号店より長く、朝7時まで営業していましたから」。
朝にステーキですか?
「そうです。バーとかで朝まで飲んで、ステーキで〆る。これが、〆にステーキって文化です」。
〆にステーキ? 〆はラーメンではないのか。
「石垣島や宮古島の文化です。沖縄本島に、そういう習慣ははっきりとはなかったようですが、今ではちゃんと定着しています/笑」。
いうまでもなく、「やっぱりステーキ」の仕業、つまり、義元氏の仕掛けである。

やっぱり、ステーキ?

ところで、ステーキといえば「いきなりステーキ」との対比が、否応なく行われる。いろいろなメディアで、義元氏は、ネーミングに関して「模倣ではない」と言っている。つまり、パクリじゃない、と。
 その点についても、ストレートに聞いてみた。
「〆は何にする? これが、ネーミングの生みの親です」。
どういうことだろう? ひょっとして、さっきの、〆にステーキ、つまり、〆は、やっぱり?
「そうなんです/笑。『〆は何にする?』『やっぱりステーキだろ』。ここから生まれたネーミングなんです」。
それで、全てがつながった。
そもそも、〆にステーキと聞いても、ステーキショップが朝7時まで営業することに違和感があったが、このネーミングの経緯を聞いて、逆にしっくりきた。
「ランチはやっぱり」「ディナーはやっぱり」「今宵はやっぱり」、そして、沖縄では、それらと同じように、お酒の〆に、やっぱりステーキなのだ。
そうした文化がある、沖縄じゃないと思いもつかないネーミング。
この言葉以外ない、というネーミングだ。
それは、ともかく、そんな「やっぱり」がついに東京へ、というニュースが流れた。
・・・続き

2020年7月16日木曜日

武井港区長から、感謝状頂きました!

武井港区長から、コロナ感染防止の一つとして、港区立の全幼稚園・小中学校40校へ次亜塩素酸水を寄付し、感謝状頂きました。

2020年7月13日月曜日

次はミストラルのホームページリニューアルを!

キイストンのホームページをリニューアルし、次はミストラルのホームページをリニューアル準備開始!
キイストンの業務内容もだいぶ伝えられるホームページになった。
ミストラルは知る人ぞ知るで、まだまだ認知度が高くないのでこれを機にもっと認知してもらえるように手を入れます。
今回、コロナを機にキイストングループの各サイトを整えていきます。
何よりも嬉しいのは、自社で全てやれるようになったことです!



キイストンを次世代にバトンタッチするため課題を沢山出してます(笑)

今期、キイストンは新任役員の2人選出しました。
一般社員でないので、自分だけではなく他の従業員のこと、外部ブレーンのこと、取引先のこと含め、まわりを元気&幸せにすることにやりがいと責任持って行動に移せる人材に成長してもらいます。
役職が上がったことで、人を上から見る勘違い人材は作らないようにしないと皆が不幸になりますからね。

自分が50代後半になり、つくづく人生というのは本当にあっという間です。
なので、今この瞬間・瞬間を一生懸命、大事に過ごしたいです。
そしてキイストンを次世代にバトンタッチして、成長させてもらいたいです。

2020年7月10日金曜日

5月29日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて5連載で“元祖からあげ本舗”様掲載しました。

5月29日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて変則的に5連載で“元祖からあげ本舗”様掲載しました。 この業態はコロナで大打撃を受けておられる飲食店様に良いかもしれません。
(5月29日発行 電子版カラー)
(6月5日発行 電子版カラー)
(6月12日発行 電子版カラー)
(6月19日発行 電子版カラー)
(6月26日発行 電子版カラー)

2020年7月9日木曜日

株式会社和僑ホールディングス 代表取締役社長 坂田敦宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社和僑ホールディングス 代表取締役社長 坂田敦宏氏登場
本文より~

看護師とリハビリの先生の言葉に、号泣す。

死ぬかと思った。43歳の時のこと。
「マンションで倒れました。脳幹出血です」。
幸い、命は取りとりとめたが半身不随は免れない。「2年間くらいはリハビリに専念しました。仕事はすべてキャンセルというか、かかわっていた事業をいったん、ぜんぶリリースしました/笑」。
借金も、残ったそうだ。半分、詐欺にかけられた結果。とはいえ、ひるんでいる暇はない。「治る」「治す」。目標はそれ。「倒れてから2週間はひたすら落ち込んでいました。そりゃそうですよね。言語障害と半身不随ですから。医者だって、治るとはいわない。でも、そんな私をみて、看護師さんとリハビリの先生が、ね。『かならず治るから』と励ましてくれたんです」。
嬉しくて、号泣した。それからだ。何もかも忘れ、治療だけに専念した。「かならず治るから」。その言葉を嘘にしないために。
看護師をはじめ、理学療法士など、様々な人が、けんめいに治療に専念する坂田氏を励まし、サポートした。「感謝しかないですよね」と、坂田氏は目を細める。表情は、いたって普通。言葉も明瞭。身体も観ているかぎり、不便なところはなさそうだ。
「ここまで回復するのは、珍しい事らしいです。数年前にNHKから取材も受け、珍しい症例としてテレビ出演しているんです」。奇跡かどうかは別にして、坂田氏を励ました看護師とリハビリの先生の言葉は、嘘にはならなかった。

恩返しのため、経営者に復活。

「たまたま、あの時は人生の休憩中だったんです。22歳に起業してから、40歳まで働き詰めです。働きづめの20年でしたから。それでいったん経営から手を引いて、事業家から投資家みたいな仕事をしようと。そんな矢先のことでした」。
リハビリ生活は2年間にわたった。「2年間、ひたすらリハビリに専念し、それから、もう一度、事業を開始します。リハビリをサポートしてくれた人たちに、恩返しする事業です」。
2014年「訪問看護ステーションリカバリー」を運営するRecovery International株式会社設立。
「今も(この取材は2020年6月に行っている)そうですが、看護師さんやリハビリの先生たちは、わたしたち一般人がわからないところで頑張っている。そんな人たちにもっとスポットをあてたい、と思ってスタートしました。そこで訪問看護ステーション事業です。私自身が利用者でしたので、在宅医療の必要性を知っていたからです」。
起業から3年間、取締役会長を務めている。
「訪問看護ステーションリカバリーに在籍しているのは、看護師や理学療法士など、すべてのスタッフが国家資格をもっています。150名くらい在籍していますから、これは、日本の訪問看護事業の中ではすでに大手の訪問看護ステーションですね」。
坂田氏自身は、現在、株主という立場だそう。設立から6年だが、はやくもIPOが視野に入ってきたらしい。それ以外にもリハビリが明けてからいままで様々な事業を生み育てている。
アパレルを起業したほか、出資し、経営をサポートしている会社も少なくない。「1時間ごとにミーティングの内容がかわる。医療だったり、アパレルだったり、そして、飲食だったりね」。
多彩な人はいるが、1時間ごと異なるテーマの話を聞き、判断できる人も、また珍しいのではないだろうか。

永ちゃんの本を買う。

坂田氏が生まれたのは、1968年。東京都の東村山市。父親は早稲田大学に勤務されていた。
「今になっちゃね、親父を尊敬するしかないんですが、昔は親父みたいになりたくないって。私は15歳、つまり、中学を卒業してから、働き始めます。それも、サラリーマン的な父親への反抗からと言ってもいいでしょうね」。
父親にすれば、「なんでだ」となるが、ナイーブな少年には、父親はもっとヒーローでなければいけなかったのかもしれない。愛情が、歪な形を結ぶ。
「中学3年の時に日雇いのバイトをして、それが1日3000円だった。普通に就職しても、給料は全然無い。だったらバイトの延長で、と、それで建築の仕事をスタートします」。
「でもね。あの頃は、仕事を長く続けられるような人間じゃなかった。とび職とか、そうですね。日払いのバイトで食い繋いでいました/笑」。
そんな日々を送るなか、現場に行くダンプの中で毎日のように親方が語りかける。「坂田さぁ、学歴がない奴が金持ちになろうと思ったら、独立するしかないんだぜ」。
「その話に刺激されたのか、今まで漫画本しか買ったことがなかった私が本屋に行きます」。手にしたのは「成り上がり」。ご存じ、矢沢永吉氏のベストセラーだ。チョイスが、当時の若者らしい。
「それで22歳で、独立ですか?」
「そうです。それから40歳まで、走り続けます」。
正確にいうと、22歳でハウスクリーニングの会社を設立。26歳までひたすら働き、オフィスを設立。バブル崩壊の、影響は軽微だった。
そして、冒頭で書いたように、40歳でビジネスの世界から一線をひき、43歳で病に倒れる。起死回生は、45歳の時。

創業者、高取宗茂氏からのオファー。

「和僑」との接点もうかがった。
「う~ん、どういうかな。一本のやきとりかな/笑。当時病気になる前、私の住まいは麻布十番で美味しいものを食べるのも好きで、割とアッパーな、芸能人も来るようなところで食べていました」。
退院後、実家の東村山で数か月療養、その後西新宿へ引っ越しリハビリをしながら過ごしていた。
「そんなある時ですね。知り合いに紹介され、新橋の『ヒノマル食堂』に連れていってもらい、やきとりを食べるんですね。新橋だから、もちろん安い。でも、味はぜんぜん負けていないんです。私の行きつけの、高いやきとりと比べて」。それに衝撃を受けたのが、はじまりだったそう。
無論、創業者の高取宗茂会長とも親交が生まれた。「高取さんっていうのは、料理の達人なんですが、実は彼の曽祖父さんは炭鉱王と言われた人で、曽祖父さんが建てた旧高取邸は、いまや国指定の重要文化財になっています。岩崎弥太郎と交流が深かったようです。さらにその後高取一族は九州で一番大きい料理学校を設立するんです。だから高取は幼いころから最高の味に触れて育っているので、絶対舌感を持っているんです」。
「旧高取邸」。調べてみたら簡単にヒットした。一般の入場料が520円。「すごいですね?」というと、「そう、すごいんです。そんな彼から手伝ってくれないかって相談を受けるんです。これが、実質的な『和僑』との接点のはじまり。ちょうど日本橋茅場町『不二楼』をオープンする前の年ですね」。
ひょんなことから、飲食の戦士になる人もいる。坂田氏も、ひょっとすれば、そんなひょんな人の、1人かもしれない。とはいえ、経営という観点からいえば、外食とて同じということになる。
「私が社長になるまでは、割と採算度返しで味にこだわるという店もあった。それを、そうですね。直営からフランチャイズにするなどして、経営のスリム化を進めます。いまは、直営は『不二楼』と『ヒノマル食堂』『新潟発祥ラーメンなおじ』の3つです」。
「これが、今回のコロナ騒動の中では幸いした」と坂田氏はいう。
・・・続き

2020年7月1日水曜日

株式会社フードアソシエイツ 代表取締役 幾田陽也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社フードアソシエイツ 代表取締役 幾田陽也氏登場
本文より~

ネバダ州の砂漠の真ん中で起業家を助ける。

「アメリカで中古車を購入し、3ヵ月かけ様々な州と国を横断した」と今回、ご登場いただいた幾田氏は笑う。「ネバダ州の砂漠で立ち往生している3人の日本人を助けて、それが縁で、贅沢な思いもさせていただきました」。
そのうちの1人が起業家だったようで、幾田氏は、その起業家に影響を受け、「志」をみつけている。
「私は1979年、神奈川県の二宮町で生まれます。父親の転勤で、2年近く仙台で過ごしましたが、それ以外は、こちらがホームです。小学3年生まで軟式野球、中学からはスラムダンクを観て、バスケットボール。高校時代からは、特別じゃないと思いますが、都内まででかけてクラブ通いです/笑」。
父親は、日本を代表する大手メーカーで勤務されていた。
ところが、幾田氏は、案外、冷たい目を向ける。「私自身は大手という響きには昔から関心がなかったです。 むしろ、父親の姿をみていましたからサラリーマンという仕事に抵抗を感じていたといったほうがいいと思います」。
幾田氏が、社会を意識するようになった10代後半から20代前半は、ネットバブルと言われた時代である。才覚のある若者は「起業」の二文字に惹きつけられる。幾田氏も例外ではなかったようだ。
「そうですね。私も、起業というものを漠然と考えていました。ネバダで知り合った社長に影響をうけたのは、そういう背景があったからだと思います」。
高校を卒業した幾田氏は、アメリカのコミュニティ・カレッジで2年間過ごしている。冒頭の話は、その時のこと。漠然とした起業への思いが明確な意思をもって屹立したのも、この時である。
帰国した幾田氏は、さっそくITベンチャーでインターンを開始する。

レインズインターナショナル、入社。

「ITのスタートアップ企業で、インターンをさせていただきました。きついことも少なくありませんでしたが、楽しかったし、いい経験にも財産にもなりました。何より、起業という言葉がまだ息づいているような会社でしたから、そういう意味でもインターンをしてよかったと思っています」。
インターンを終了したあと、幾田氏はレインズインターナショナルに入社する。「起業家排出機関」というキャッチフレーズに惹かれたからだそう。
「牛角」や「土間土間」など。当時の、レインズインターナショナルは、それらのブランドをメインに「食」という事業に新たな価値観をもたらした会社の一つだったように思う。「起業家排出機関」という位置づけも、その表れだ。
「レインズには、2年半在籍します。そりゃぁもう、たいへんでした/笑」。たいへんだが、そのぶんちからもつく。「レインズをやめて1年半、温野菜のFCを経験し、26歳で独立します」。
いつ頃から、飲食で独立と考えるようになっていたんだろうか? 「26歳というタイミングですが、これは不動産会社に店を紹介されたからなんです。お金はありませんが、体力も、気力もある時に独立できたのは幸いだった気がします」。
1号店は、2006年、上野の御徒町に出店している。当時は、家も借りず、オープン後一カ月は店で寝泊まりしていたそう。たしかに、若くなければできないような生活だ。
「10坪で、居酒屋店を始めます」。

下町、上野にて。

6ヵ月後には2号店を、今度は高田馬場に出店。ただし、こちらは、焼肉。「1号店が順調だったので出店し、油断をしていたわけじゃないんですが、私はこちらの店にばかり出勤していました。そうするうちに、1号店の売上が下がります。横領事件なども起こって。ええ、それで2号店は、売却し、上野に帰りました」。
高校時代から慣れ親しんだ東京である。とはいえ、上野は下町。プレイヤーとなった幾田氏は、上野でどんな店を作り出していくんだろう。
会社の沿革を覗いてみた。それによると、2006年9月に1号店の居酒屋をオープン。半年後の2007年3月、高田馬場にもつ鍋屋をオープン。この店は売却したが、同年9月には「やきとん縁 御徒町店」をオープンしている。2008年4月には「炙り酒場 縁 -yukari- 本郷三丁目店」をオープン。以降、2010年に「炙り酒場 縁 -yukari- 西浅草店」、2012年に「炙りDining 縁 -yukari- 三ノ輪店」、2014年に「唐屋 錦糸町店」と次々オープン。むろん、それ以降も1年ペースで、新店をオープンしている。

もう一つの冒険。

「ペリペリチキンって知っていますか?」 逆に質問されたのは、インタビューも後半に入った時。「これは南アフリカの料理なんですが、じつはオセアニアや東南アジアではすっかり定着している料理なんです」。なんでも、スパイスをかけ、直火焼きしたチキンに、特製のソースをかけた料理のことらしい。調べてみると、南アフリカ発祥のレストランは、すでに各国に店を展開するまでになっている。
「いち早く、取り入れて日本にも広めていきたいです」と幾田氏。目の付け所がいい。「今後は、業態を集中して、居酒屋業態とチキンの2業態で、店舗展開を図っていくつもりです」。
2019年現在、幾田氏、39歳。いよいよ本格的な展開を果たす時期だ。来年にはフランチャイズ本部となり展開してく計画がある。ホームページで幾田氏は、1000店舗という目標を掲げ、「壮大な冒険」と謳っている。
最後に幾田氏は「この仕事は社員の幸福度が上がらないと継続しないビジネスだと思っている。なので社員の様々なキャリアパスを真剣に考えている。」と語っていた。
壮大な冒険。
ネバダ州からはじまった、もう一つの冒険は、まだまだ楽しみに充ちている。ちなみに、ネバダ州にはラスベガスがある。知り合った日本人と、カジノに興じたのは、もうはるか昔。しかし、道はつながっている。
・・・続き