in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に ライブコーヒー株式会社 代表取締役 大塚 徹氏登場。
本文より~
空襲を聞く。
好きになることは以外と難しい。コーヒーも一緒かもしれない。今回、ご登場いただいたのは、コーヒー豆の老舗ショップ、ライブコーヒー株式会社の代表取締役、大塚徹氏。
大塚氏が生まれたのは、1940年。その翌年に日本は、英米に対し宣戦布告している。
「私の両親は、神戸でぜんまいのつくりかたを教える仕事をしていました。国内はもちろん海外でも行っていたようです。戦後は、組合の長にも就いていました」。
父親は180センチ、体重100キロの堂々たる体躯の人だったらしい。「怖かったですね」と大塚氏。「もっとも父も怖かったが、母もまた怖かった。母は、聖路加国際病院の初代看護婦なんです」。
3歳の頃の思い出は、空を飛ぶ敵機。音が近づく度に、空襲警報がなる。太平洋戦争は1945年に終戦するから、大塚氏が5歳の時。街は焼け野原になるが、のち強烈なスピードで、復興を遂げ、近代国家の道を進む。
「父からは勉強せず好きなことをしろと言われ育ちます。私が大学に進んでいないのも、それが理由です。父から商売をしろと言われ、大阪の、赤いダイヤ、これ、小豆ですが、そういうのや、ゼンマイやらを扱っている店で丁稚奉公をはじめます。住み込みで、月給3000円。朝4時起きです」。
丁稚奉公だったが、大学に進むよりいい経験ができたにちがいない。この頃すでに、「コーヒーのビジネスをしたいと思っていた」と語っている。
20歳、東京に参上。
「東京のど真ん中は中央区でしょ。だって、そういう名前だし。でも、そうじゃないんですよね。中央区といったって、ど真ん中じゃない」と、上京した当時の話を伺うと、そう言って笑う。
大阪で2年間の丁稚奉公をしたのち、高い志を抱き、東京進出。「仕事をするなら、東京のど真ん中」。だから、中央区で仕事を探す。
「友達の寮でお世話になって、中央区の中を歩きます。その時、就職したのが『ライブコーヒー』とともに先代がされていた、もう一つの事業である『とらや商店』です。先代とはもちろん、そこで出会います。私が20歳の時です」。
先代はどんな人でしたか? と伺うと、「厳しい人だったが、なんでも自由にやらせてくれる人だった」とのこと。無論、商売人の鏡。どんなお客さんに対しても、謙虚な人だったそう。海外に何度も行かせてくれたのも、先代。感謝は尽きない。
とにかく、大塚氏、20歳。コーヒーを追いかける大塚氏の旅がスタートする。
コーヒー豆の味は、大地の味。
「コーヒーは、深煎りだとしても甘みが残っているかどうか。ブラックといっても、ただ、苦いだけではない」と教えてくれたのは、3代目となることが決まっている川島氏。大塚氏と同様、社長の大塚氏とは何の血縁もなく、「アルバイトからスタートした」という。
「私だって、血縁もなにもなく、社長に抜擢いただいたんですから。彼が社長になっても、うちでは普通。伝統かもしれませんね」と大塚氏。ただし、コーヒーを嗜む流儀はちゃんと伝わっている。
「コーヒー豆の味は、大地の味」と大塚氏はいう。だから、国ごとに味が異なる。「あと大事なのは、太陽」。収穫後の乾燥でも豆の味が決まるそうだ。
「綺麗な水、肥沃な大地、雨期乾期も大事」という。だから、赤道直下、またその周辺にある国が、栽培にも適しているのだろう。
直接、それぞれの国に行き、コーヒーを飲み、吟味する。それが、大塚氏の仕事でもある。
「私は、砂糖を入れる派なんですが、1日に何十杯も飲むわけで、それだけ飲んで砂糖を入れていたらからだに悪いでしょ。だから、10杯目以降は、ブラックかな/笑」。
好きな豆はどこの国の豆ですか?
コーヒーを知り尽くしている人には、誰もが聞いてみたい質問だろう。即答されると思ったが、大塚氏は、聞かれたくないのか、しばし答え方を探し、沈黙する。
・・・続き
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