10月17日(土)~11月14日(土)の5連載で日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店(旧 グルメ社長の食い倒れ日記)”に「ティーケーエス」斎藤浩司社長が推薦の5店舗が紹介されました。
2020年11月30日月曜日
9月12日(土)より5連載で日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる”に「神楽坂くろす」黒須ゆきこ女将が推薦の店舗が紹介されました。
2020年11月24日火曜日
株式会社つばめ 代表取締役社長 石倉知忠氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社つばめ 代表取締役社長 石倉知忠氏登場。
本文より~
創業1930年。
「特急 つばめ」が走る。デビューは1930年。「つばめグリル」と同い年。名に、由来がある。
ホームページによれば、もともと「特急 つばめ」は「新橋」駅にも停車していたそう。それが停車しなくなったことで、「つばめ」の名を惜しむ声があがり、同駅ちかくにあった小さなレストランに、その名が刻まれたということだ。
ちなみに、「特急 つばめ」は、東京・大阪間を8時間20分で走破している。はるか昔の話。
この超特急の名を受け継いだグリルにも年が流れ、いまや4代目の店主となる。その4代目が、今回ご登場いただいた石倉知忠氏。社長に就任したのは2020年の5月。このインタビューが同年7月のことだから、まだ1年も経っていない。どんなお話が聞けるだろう。
「今年で弊社は90周年になります。創業者は曾祖父です。2代目の祖父は戦時中にシベリアで抑留されていて、シベリアから帰国した際に2代目になったと聞いています。ただ、色々な理由が重なり、比較的すぐに父にバトンタッチしています。私には兄がいますが、兄は子どもの頃から『継がない』と公言していまして、おかげで私にお鉢が回ってきたということです」。
もっとも子どもの頃になりたかったのは、「つばめグリル」の4代目ではなく、アナウンサーか、化石発掘者か。
「ただ、食には関心があったほうだと思います。日曜になると、よく外食に連れて行ってもらいました。銀座のお店が多かったように思います」。
英才教育?
「今思えば、そうかもしれないですね/笑」。
1998年、つばめに、入社する。
子どもの頃、どんな少年でしたか?という質問には、「トゲトゲした子ども」という回答。
学校は小学校から慶應。
「英語と美術以外はあまりできませんでした。スポーツは軟式テニス、バドミントン、また、グライダーもやりましたが、特段はハマったものはない。大学時代は、カヌーをしていました。その一方で、映画にはハマりました。年間400本は観ていたと思います」。
高校3年の時には、アメリカにも行っている。今も年2回はフランスなどのヨーロッパや20年来の付き合いがあるワイナリーを視察するため、チリ、アルゼンチンにも行っているそうだ。
ちなみに大学を卒業して、就職したのはサッポロビール。サッポロビールで3年間、勤務している。
「私がつばめグリルに入社したのは、1998年のことです。それからもう22年になります。今年、社長に就任したわけですが、10年くらい前から、すでに自由にハンドリングしていましたので、社長になったことでなにか違いがあるわけでもないですね。あるとすれば、やはり新型コロナウイルス。リーマンショックといった世界的な不況は経験してきましたが、今回はそれ以上にやっかいですね」。
たしかに、いままでの不況ともちがう。予測がつかないのも、その一つ。
「現在26店舗あり、そのうち6店舗が惣菜店です。レストランのほうは4月から自粛しましたが、惣菜店に関しては社会のインフラの一つだと思い、営業をつづけてきました」。
「レストランの営業を再開したのは6月1日から。だんだんとお客様も戻ってきてくださって、この調子でいけばと思っていましたが、7月に入り感染者数の増加と共にまた急下降です」。
たしかに、7月に入り、出口はまだ先の先ということを思い知らされた。
「BSEの問題とかもありましたが、その際は今思えば比較的短時間で解決しました。ただ、今回は先が長い。だとすれば、時間が解決してくれるのを待つのは最悪の手です。どうすればいいか、問題はそこにあります」。
創業90周年目の大波乱。
「昨年、消費税が10%になってから雲行きが悪くなってきましたが、それでもオリンピックがあると思っていました。しかし、コロナウイルスでその望みもなくなりました」。
まさに、創業90周年目の大波乱。
「5月の就任ですからね。年始は、こんな事態をまったく想像していませんでした。とくにうちのようなつくり方のハンバーグだと原価が高くなります。そのため、売上が前期比70%に戻ったと言っても、経営的には赤字です。これが50%やそれ以下になるわけですから大変です」。
とはいえ、手をこまねいているわけではない。じつは光明もある。やはり老舗のちからだ。
インタビューの冒頭で、石倉氏は「つばめグリルによく行っていた」というお客様からの言葉について、「何故か過去形の方が多い。そこが課題」と言っていた。「よく行っていた」ではなく「たまに行っている」と言われたいというわけだ。
しかし、このコロナ下において「よく行っていた」というお客様の存在と価値があぶりだされている。
「今までは売上の比率はレストランがメインで、総菜の比率は15%くらいだったんですが、この総菜の比率を大きくしていこうと計画しています。実際、レストランがほとんど前年比50%なのに比べ、総菜店は90%くらいまで回復している店舗もあります」。
総菜。なるほどレストランに「よく行っていた人」が購入されるのだろう。
「ええ、もちろんそれもあるんですが、じつは総菜のノウハウを活用し、通信販売を進めていこうとしています。その時に、自社でSNSなどの情報発信ツールをつくろうと、遅ればせながらインスタグラムに力を入れはじめたところ、数ヵ月でフォロワー数が約2万人近くになりました」。
ハンバーグの作りかたの動画なども投稿したそうだ。
「これが思いのほか、けっこう話題になりました。大阪や北海道といった地方からの反響が大きかったです。そう、全国から『昔よく行った、あのつばめグリルの味を』というわけです。ありがたいですね。これがたぶん、うちの商売を永く続けてきた飲食店のパワーであり、そんなお客様が大事な財産なんでしょうね」。
これを活かす。通販には早々に着手したいとのこと。つばめグリルの味が簡単に家庭で楽しめるとなれば消費者にとってはありがたい限り。
・・・続き
新型コロナウイルスの「第3波」に備えて、キイストンでは・・。
新型コロナウイルスの「第3波」の到来で、全国の新規陽性者数が過去最多を更新なか、
キイストンは社内の忘年会&新年会取りやめにしました。
出勤時の検温、アルコール消毒、手洗いに加えて、今回席と席の間にパーテーション設置しました。
少数精鋭でやっているため、もし社内で誰かが感染すると全面的に営業活動停止の可能性のありますからね・・・。
自分たちの身は自分たちでも守る。
また、関わる皆さんにも安心していただけるよう、事前にやれることから対応していきます。
11月6日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」に肉汁餃子のダンダダン(ナッティースワンキー様)を3連載で掲載しました。
2020年11月17日火曜日
株式会社浪漫家グループ 代表取締役 福井将一氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社浪漫家グループ 代表取締役 福井将一氏登場。
本文より~
飲食は儲かる。
「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー♪」「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー♪」
福井氏の歌がこだまする。テーブルには、福井氏の渾身のスイーツ。「最初はうちのアルバイトもモジモジやっとったんやけど、だんだんみんな調子でてきて」。小さな店がバースデイソングに包まれる。「本人らは、ボロボロやったんちゃうやろか」。
30年以上も前の、小さなお店での話。
「24歳の時に『低資金でも開業できる』が謳い文句の、あるフランチャイズに加盟して、京都伏見にある赤字店をひきつぎます。そりゃ、赤字ですからね/笑」。
最初から、全力。
「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー♪は、『今日、彼女のバースデイやから、なんかしたってな』っていう一言のリクエストからはじまります。まだ、お客さんもついてない頃やったからね。そりゃ、心込めますわ」。
いまもそうだが、なんでも、全力。
「口コミで、『おもろい店長がおる』って広がったんかな。県をまたいでぎょうさんお客さんがきてくりゃはるようになって。ありがたいことに、赤字はどこへやらですわ」。
「飲食は儲かる」。これが、最初の体験。
フランチャイズの研修店にもなって、本部のスタッフになり30店舗だったFCを126店舗まで広げたそう。「うちの店は遠隔操作でカバーしながら、私自身は今日は名古屋、明日は金沢みたいな、もう寝る間もない。睡眠いうたらサービスエリアでウトウトするくらい。で、さっきいうたみたいに、『2年で126店舗まで広げる』わけです。その126店目が、じつは、うちの京都、赤池のお店なんですけどね」。
フルーツ・パーラーは儲からへん。
「独立から2年で5店舗まで拡大しました」と、福井氏は笑う。「採算はぜんぜんあいませんが、『オレは、できる』という自信が確信にかわったのは、この時ですね/笑」。
福井氏が生まれたのは、1963年。京都市中京区。
「親父はもともとサラリーマンだったんですが、独立して染工場をはじめます。親父の、社員にやる気を与えている姿がめっちゃ格好よかった。こうやって仕事するんやぞ。そんな姿を見て『オレも社長になろ』と思っていました」。
そんな父親からは、小さい時から「やるなら、現金商売」と言われていたそう。「昔は、おとなしい子やったんです。でも、中学で陸上やるようになって性格がかわって。高校は、ラグビー、工業高校です」。
ハナから、大学進学は頭にない。「ただ、これをやるというのもなかった。最初に就職した会社は1年半しかつづけへんかった。あとは、フリーター。あの頃は、転職のオニでしたね、まさに」。
自身でみつけた、最初の未来は、「フルーツ・パーラー」。「19歳の時ですね。とつぜん、フルーツ・パーラーをやっている夢をみるんです」。
思い立ったら、行動は早い。
「すぐ、中央市場の仲卸の果物店で社員として働かせてもらいます。そりゃ、フルーツを極めなあかんから。ただ、これもまた、あほみたいに頑張りましてね。19歳で市場の世界に入って、20歳の時にはもうセリに立っていました。たぶん、最年少記録です/笑」。
21歳になると、軽トラックにフルーツを積んでビジネスを開始。「定期便みたいになって、飲食店からも注文をいただきます。もちろん、フルーツ・パーラーをするための軍資金獲得が目的ですかね。でもある時、ふと、コーヒー飲んだり、パフェ食べたりしてもろうて、いったいいくら儲かるんやろって」。
計算機をたたいた。「でね。結論は、利益がない!みたいな/笑」。
つまり、起業のきっかけはフルーツ・パーラー。だけど、やったのはフルーツ・パーラーじゃやないってことですね?
「そうそう。いろいろ準備を進めているうちに、フルーツ・パーラーは儲からへんという事実に思い至ったわけです」。
もう、とまらへん。
タイミングもあった。ある喫茶店のオーナーが「いまどき、喫茶店は儲からへん」と、串かつ店をオープンする。
「オープン前から話を聞いていたもんですから、もう興味津々なわけです。ええ、毎晩、出勤です/笑。だいたい観てたらわかるんです。サラリーマンばかりやったんですが、食べて、飲んで、『ごちそうさん』いうて、帰らはる。だいたい1人3500円。フルーツ・パーラーの3.5倍の客単価です。こりゃ、儲かるやん!って/笑」。
「この時、はじめて、本を読んだ」と笑う。ワタミフードサービスの渡邉美樹さんの自叙伝「青年社長」だ。「最初は、パーラーやったんが、これで完全に方向転換です。でも、ぜんぜんお金がない/笑」。
でも、もうとまらない?
「そうですね。とまらへん。そんな性格ですから/笑」。
そんな時に、知人から「大吉」の独立システムの話を聞く。「ええやん、これやと思うんですが、京都でやりたかったから、私は大吉さんとは異なる会社と契約します。あとは、さきほどお話した通りです。けっきょく、私の店は研修店になって、私自身は本部スタッフともなって、126店舗まで店を広げます」。
父親は「現金商売をしろ」といった。じつは、福井氏だけではなく、弟も、おなじやきとりで独立し、現金商売をしている。京都駅にある「きんぎょ」という店舗らしい。
「焼き鳥の本部スタッフとして出店を伸ばし11年で退職、1998年10月に有限会社 浪漫家グループを創業しました。これが、ドル箱。13坪、40席で、月商500万円。スタッフは4人に。月商の1/2が残ります。ええ、毎月です」。
けっきょく、創業から2年で5店舗まで拡大。
「経営の神かもしれへん」。
自信は、やはり確信にかわる。しかし…。
・・・続き
2020年11月11日水曜日
有限会社モグモグ 代表取締役社長 中村保和氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社モグモグ 代表取締役社長 中村保和氏登場。
本文より~1966年、生まれ。
ホームページを観ると、色鮮やかなページが目にとびこんでくる。「アロハカフェ カウカウ」「ブルーウォーターシュリンプ」「スマイルカフェ」「Go!Go!Crepe」などなど、目にも鮮やかな料理や商品が並ぶ。
その一方で、いぶし銀のように光る、たい焼き、たこ焼き、と日本人の定番も、いい色を醸しだしている。
今回、ご登場いただいたのは、有限会社モグモグの中村 保和氏。1966年、千葉県富里市生まれ。この、いい色のカンパニーが育つまでの軌跡をお伺いした。
「実家は、酒屋を営んでいました。千葉の田舎だったんですが、私が小学6年生の頃に、近くに成田空港が開港します。もともと1学年が2クラスだったのが、卒業する頃には6クラスになり、人も一気に多くなりました」。
ネットで調べてみると、中村氏が生まれた富里市は、成田市に隣接する市だとわかる。スイカが有名なようで「富里スイカ」は、皇室献上品となっているそうだ。人口推移もみてみたが、たしかに1970年代半ばから急拡大している。
「小学校の頃は野球、空手、中学からはバスケットボールに夢中になっていました。外食には小さな頃から興味がありましたね。転機をひとつ挙げるとすれば、高校受験に失敗したことでしょうか」。
もともと公立の高校を希望していたが、そちらが不合格。進んだのは私立の学校。どんな転機がやってきたんだろう?
転機と、子ども時代から決めた道と。
「コンプレックスっていうか」と中村氏。
「先生も受かると言っていましたし、私もまぁ、いけるだろうと。勉強はしなかったんですが、頭は悪くないと思っていましたから、そういう意味で自信はあったんです。だから、不合格の時はけっこうショックでしたね」。
ただ、落ちたことよりも、私立に進んだことが、転機ということ。
「そうですね。私にとって転機になったのは、その私学に進んだことでしょうか。クラス委員長を3年間勤めましたし、成績も、勉強はやっぱりあまりしなかったんですが、それでも常にトップクラスでしたし。その後、推薦で大学に進むんですが、結局高校受験の失敗が、私が進む道を決めたといってもいいと思うんです」。
たしかに、そうだ。人生はわからない。
「ただ、道という意味では、実は子どもの頃から父親の事業を継ぐつもりでいましたから、ゴールは決まっていた。高校時代から、酒屋の手伝いもしていますし、大学を卒業してからも酒屋を継ぐことを想定し、流通系の会社に就職します」。
その流通系の会社では、2年間、勤務している。奥様とも「こちらの会社で出会った」と、笑う。
酒屋の経営。
「2年で退職したのは、親父から『もどってこい』と言われたからです。ただもう、私の子どもの頃とはわけがちがう。事業を取り巻く風景はすっかりかわっていました」。
<ディスカウントストア、コンビニですね?>
「そう、昔は免許があれば、それで守られもしたわけですが、もうそんな時代じゃない。酒屋だけでは生きていけない、そんな時代だったんです」。
それでも、3年くらい酒屋の経営を続ける。しかし、さすがに選択に迫られる。
「平成7年に決断します。酒屋を辞め、飲食事業を開始しました。この年が今のモグモグの創業年です。最初に出店したのは、『ジョイフル本田』に出店しました。たこ焼きやラーメンやアイスクリームの、何でも屋的なショップです」。
会社の経歴をいただいたので、そちらを見ると、たしかに、「平成7年ジョイフル本田富里店内に「MOGMOG富里店」をオープン」とある。翌年、有限会社モグモグを設立と続き、平成9年には長崎屋成東店内に「天たこ成東店」をオープン。その後は、毎年のように出店を重ねている。
「2号店の『天たこ』をオープンした頃から、たこ焼きがブームになり、業績が拡大します。ただ平成13年あたりから今度は、たい焼きがきます」。
たこ焼きに、たい焼き。日本人なら、だれもが大好きな食べ物だ。しかし、ハワイとはかなり離れている。
たこ焼き、たい焼き、ブームに乗る。
もう一度、経歴に目をむける。平成12年までは「天たこ」のオープンが続いていたが、翌13年からは、たい焼きの「あんたろう」のオープンラッシュが始まっている。
「たい焼きも、おかげさまでブームになり、業績が拡大します。平成12年には、『m cafe』というカフェの出店も行いました。一つのものを掘り下げつつも、常にあたらしい発想で挑戦する、それがうちのDNA。かたちになるのは、このあたりからですね」。
「酒屋」というブランド価値が低下するなか、生き残りをかけ飲食事業を開始した時から、このDNAは生まれ、育ったと言っていいだろう。
ただ、ふつうなら、どこかで躓くはずだ。しかし、年表を観る限り、「停滞」の二文字がみあたらない。冒頭で書いた通り、いまやハワイアンカフェもある。
右から左までならべれば、それこそ色鮮やかで、バラエティ豊かという表現がぴったりになるに違いない。
飲食も、経営も、スピードのちからが大事。
「『アロハカフェ カウカウ』もそうですが、正直言って、緻密な計算というより、ひらめきです/笑。『ブルーウォーターシュリンプ』も、計算ありきではスタートできなかったブランドです」。
どういうことだろう?
「『ブルーウォーターシュリンプ』っていうのは、文字通り、シュリンプ、海老ですね。海老をガーリックソースで食べるハワイで大人気のショップです。日本では、うちが独占しているんですが、そもそもはイオンさんのテナントでスタートするっていう会社さんがあって。そちらさんが、オープンの直前に降りられてしまうんですね」。
<イオンさんにとってはたいへんですね?>
「そうなんです。『ハワイアンタウン』って名称でオープンされるつもりだったから、尚更ですね。とくに『ブルーウォーターシュリンプ』は、目玉の一つです」。
「かわりに手を挙げる会社さんもあったそうですが、海老って日本じゃ高い。だから、計算が立たないとぐずぐずしておられたんですね。で、じゃあ、うちがやろうじゃないかと。ハワイの本部にメールを送って、翌日にはハワイの本部にうかがっていました/笑」。
<それが功を奏した?>
「その通りです。すぐに契約が済み、正確には、『横浜ワールドポーターズのビブレ1Fのハワイアンタウン』にオープンするんですが、そちらが成功したことをもって日本でうちが独占することになります」。
「スピーディ」。
飲食のキーワードもそうだが、経営のキーワードも、たしかに、スピードだ。その意味で、中村氏の行動力と決断のスピードが、成功のキーとなっているにちがいない。
一言でいえば、「スピード力」とでも、いえばいいのだろうか。それが波に乗る力にもなる。
・・・続き
2020年11月5日木曜日
株式会社クラマ計画 代表取締役社長 佐竹伸彦氏登場。
ディープな街、天満。
ご両親は昔から大阪天満で商売をされているそうだ。「アパレル系ですね。祖父の代からだそうです」。兄弟は兄が1人。ネイリストをされているそう。
「自宅がショップやったんで、商売がふつうというか、生活と商売の境目がないっていうか。戦後はもっと繁盛していたそうですが、私が物心ついた頃でも10人くらいの従業員さんがいたんとちゃいますか」。
天満といえば、下町。ただし、ここ数年は、飲食の街というイメージで、実際、出店もつづいている。とはいえ、交通整理がされず、思い思いの店がオープンするから雑然とした状態だ。ただ、この混沌さがディープな街、天満の象徴かもしれない。
「性格ですか? 昔から大人しいタイプですね。絵を描くのが好きで、小学1年から高校3年生まで授業中にはずっと絵を描いていました/笑」。
絵を描いていたというと、不勉強な生徒をイメージするが、そうでもなかったようだ。「高校時代は、西洋の哲学の本とか、宗教の本を一通り読みました」。
哲学も、古典も好きだったそう。
その一方、漫画家になりたかったそうで、授業中に描いた絵は、漫画家志望の青年の思いの表れだったかもしれない。
物理学の修士。飲食に向かう。
「でも、けっきょくは大学院で物理を勉強して、東京の大手電機メーカーに就職します。会社の未来をつくるプロジェクトマネジメントの仕事を経験して2年半で退職します」。
じつは、最初から辞めるつもり満々だったそう。
もともと起業にも興味があったんだろう。そのあと、ITか、デザイナーか、飲食かの三択で迷ったそうだ。「たた、三択といっても、ITはとんでもなく賢い人が多そうだし、やめておこうとなり、デザイナーは言っても食べていけへんやろな、と」。
残るのは、飲食。海外志向もつよく、料理も好きだったから、まちがいない道。さて、残りものに「福」はあったのだろうか?
学生時代にアルバイトの経験はあったが、それだけ。経験をプラスする意味もあって、退職後、サッポロライオンでアルバイトをはじめる。これが、25歳の時。すでに、結婚もしていたから、失敗も許されない。
「結果として、バイトでしたが、サッポロライオンでよかったです。焼き場をさせてもらうんですが、バーベキューをしているみたいで。これで、給料もろてええんかなと思うくらい楽しかった。メーカーの時は、会議が仕事みたいなところがあったんで、ぜんぜんちがうんです。たぶん、初日から仕事をしているっていう意識もなくなっていた/笑」。
バーベキューからだんだん料理のグレードもあがる。
「あの頃はもう朝から晩まで料理の勉強をしていました。いちおう2年つづけたので、修業は一段落ってなるわけですが、今度は、包丁1本でアメリカに渡ります。27歳の時です」。
帰国。そして、天満にデビューする。
「渡米したその日から、評判のいい和食店に突撃します。『採用してくれ』と。けっきょく、向こう、サンフランシスコですが、3年いました。向こうで独立とも思ったんですが、ピザの関係で断念。30歳の時に妻といっしょに帰国します」。
どうするか? 選択肢は、ありうそうで、そう多くはない。
「あれは、たまたま実家に泊まっていた時ですね。天満に空き物件があったんです。よし、ここでやるかと」。佐竹氏、30歳。
「いちおう貯金もしていたんですが、出店したのは裏路地の裏みたいな/笑。ハイ、妻といっしょに2人ではじめました」。ところが半年して奥様の妊娠がわかる。「思ったより、しんどかったですね。売上は過去最高になるんですが、1人で閉店作業していて、これの何が楽しいんやって」。
精神的にまいった。いっしょに笑ったり、励ましたりできない。
「それで、採用しようと思って求人広告をだしたんですが」。
ひょっとして、応募がなかった?
「そう、ぜんぜんです/笑。 でも、なんでかな? と思うんです。その時、なにかひらめていて。ただ、仲間になってくれっていっても、それはあかん。大事なことは『仲間に何をしてやれるか』とちゃうかな、と」。
それが、じつはいまのスタイルにつながっている?
「まさにそうですね。その時、『店あげる』みたいな広告だしたら、めっちゃ人が来て。独立前に経営を経験したいって人を採用します。彼はもう、めでたく独立しています」。
社員が、自走する組織。
「2店舗目も、その時、来てくれた人に半年待ってもらっていっしょに立ち上げます。そりゃ、むっちゃ楽しいですよね。店も流行ります。きずなもばっちりやし、みんな熱い思いがあったから」。
店舗数が拡大すると、信用力も高まり、資金面でもなにかと有利になった。とはいえ、佐竹氏がめざすのは、やはり、個人店。組織のメリットは活用するが、組織のルールにしばられない、そんなスタイルでもある。
「3店舗目くらいから、いっても会社組織にしないとなと思います。『セントラルキッチンやマニュアルもつくらなあかん』みたいな話もあったんですが、『でも、待てよ』って。だって、みんな独立したいとか、料理したいとか、そういう思いで入社してくれているのに、それはないんちゃうかって思ったわけです。だって、組織やからって、やりたいことはみんな少しずつちがうんやから。そもそも、組織の論理っていいますが、だれのための論理なんでしょうね」。
「決まりごとはない」と、佐竹氏はいう。いや、一つだけある。「店長がいない」。
「そもそも店長っているんやっけ?みたいなところから、話が始まりました。いらんのちゃう、ということになって。だったら、料理長も、SVも、ついでに社長もいらん、と/笑」。
これは、ルールではなく、流儀にちかい。
「私にしたって、社長っていう意識がない。給料を払っている感覚ないですね。利益がでれば、山分けするがうちのイメージにちかい。でも、これって、利益が少なきゃ取り分も少ないわけで/笑」。
セーフティネットはちゃんと設けている。「利益をいったんあつめて、セーフティネット的なところも加味しつつ、分配する。私の役割はいうたら、それです」。
いうなら、全員が自立した経営者、というノリ。これはつよい。そのうえ、会社という組織に対するエンゲージメントも高い。「いま、正社員は40名で、アルバイトは60名以上です。ケンカもするけど、仲はいいですよ。ただし、出入りはそれなりにあります。去年も5名希望通り無事独立してくれましたから」。
こういうこと自体、一つの組織のなかで、全員が自走している証ではないだろうか。
・・・続き
キイストン29年目、身体も完璧になってるので「全集中」で頑張らなくては・・・。。
1992年の10月22日に武田と一緒に会社立ち上げ、早いもので28年経ちました。
これも関わってきた皆さんに助けてもらったおかげです。
30周年には、キイストン内で世代交代も考えてるので、
2020年11月2日月曜日
10月16日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて3連載でS・H・N様を掲載しました。