2021年1月29日金曜日

夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にてTGAL 様のVR(バーチャルレストラン)事業を掲載しました。

夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にてTGAL様第2弾を1月8日(金)、15日(金)、22日(金)の3回に渡り掲載しました。

3業態やっておられ、今回はVR(バーチャルレストラン)事業です。

記事の取材は千葉哲幸氏によるものです。
(1/8発行 電子版/カラー)
(1/15発行 電子版/カラー)
(1/22発行 電子版/カラー)

2021年1月28日木曜日

株式会社てんてん 代表取締役 中島一薫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社てんてん 代表取締役 中島一薫氏登場。


本文より~

お山の大将、態度がでかい。

「おい、ジュースもらってこい」。従兄弟の兄が、命令を下す。「いちぃ、にいぃ、さん~」。
「一つ屋根の下に、祖父母とおじさん家族といっしょに暮らす大家族です。私に命令を下していた従兄弟の兄は元阪神タイガースの川尻選手です。彼は、野球ですが、私はサッカー/笑」。
運動神経は、2人とも抜群。中島氏もサッカーをはじめるといきなり頭角を現す。当時は、「ドラえもんに登場するジャイアンのような存在だった」と笑う。
お山の大将。サッカーはだれより巧かった。なまいき。敬語もつかわない。中学生になっても、でかい態度はかわらない。上級生にすぐ目をつけられた。
休みのベルが鳴れば、上級生が獲物を襲いにくる。多い時には、13人いたそうだ。獲物はむろん、中島氏。
「殴る、蹴るですよ。ともだちも、できやしない。だって、私と親しくしていると、奴らから目をつけられますからね」。殴られても、蹴られても、ビビらなかった。その態度が、いけなかったのだろう。いじめは、加速するばかり。
「1年間、毎日です。あいつらも、よう頑張ったもんですね。こっちは、いくらいじめられても、心は折れへんかったんですけどね」。
話すトーンは軽いが、中身は重い。サッカーはつづけたが、そちらも高校の時に断念している。もっとも、いじめは関係ない。代わりにはじめたのが、キックボクシング。

「お兄ちゃんはできる」というまじない。

自信家。「とにかく、『オレは、できる』と思っている」と中島氏は、笑う。「45歳になった今でも、無限の可能性があると思っているくらいですから」。こちらは、真剣に。
自信があるから、心が折れない。
「私は1975年生まれです。兄弟だけで4人。さっきも言ったように親戚も祖父もいっしょだから大人数です。あのなかもまれて育ちます」。
ただ、小学1年生の時には、東京を離れ、姫路にある父親の実家に移り住んでいる。
サッカーを始めたのは、3年生の頃
「経済的には、そう恵まれてなかったと思います。兄弟も多かったし。それが、だいたいわかっているから、何かをねだったことはなかった。外で、やりたい放題でしたからストレスはなかったですね/笑」。
父も、母も、どんな時も中島氏を信じ、応援してくれたそうだ。「お兄ちゃんは、なんでもできる」。
そう母に、言葉をかけられる度に力がわいた。
心が折れなかったのは、実は、父や母の応援があったからかもしれない。

バイトで、手にした未来図。

大学は大阪の阪南大学に進んでいる。「大学時代はバイトですね。料理にも目覚めます。サッカーのインストラクターもやりましたが、長いのは炉端居酒屋です」。
「できるバイトだったと思いますよ」と中島氏、会心の笑み。なんでも、料理もできるし、接客もできるスーパーバイトだったそう。将来、起業しようと思ったのも、このバイト時代。
「大学2年からですね。お客さんとのふれあいがたまらなく、楽しかった」。バイトのおかげで、将来のしっぽをつかむ。
「大学を卒業して、着物屋に就職します。独立資金のため、給料のいい会社を選びました」。話を聞くと、たしかに、給料がいい。当時で初任給25万円は、なかなかなかったはず。
ただし、営業会社。数字がすべて。ストレスはなかったんだろうか?
「飲食もそうですが、こちらも天職だったんでしょうね/笑。3ヵ月で50人中、3位の成績をおさめます。ただ、かなり引き留めてはいただいたんですが、半年で辞めて、大学時代にアルバイトをしていた店にもどりました。この店には、バイト時代を含めてトータル12年間います」。
「修業だった」と、中島氏。
「一瞬で心の距離をゼロにするコミュニケーションを会得してやろうと思っていました。正直、だれよりファンが多かったのとちがいますか」。お客さんにも、スタッフにも愛され、慕われていた。今の中島氏を観れば、ほぼイメージできる。ただし、このあと、起業するのだが、起業して半年、社員が逃げ出している。

起業と、ともだち。

「独立したのは、32歳の時です。半年くらい経った頃でしょうか。仕事をさぼったスタッフの1人を、キックボクシングの教え子だったこともあって、かなり痛めつけたんですね。それをみた、ほかのスタッフが辞めっていっちゃいます。かなり凹みましたね。当時は、いうなら恐怖で支配するみたいなイメージです。ぜんぜんいいマネジメントじゃないのはわかっても、それしか知らんかったから」。
中島氏がつぶやく。
「あの時、なんで起業しようと思ったのか、真剣に考えました。けっきょく、中学の時のいじめに行き着くんです。1年間、ともだちが1人もいなかった。『これだったんだ』って思います。なんで飲食をしようと思ったのか、独立して店をやろうと思ったのか、それは、ともだちが欲しかったからなんです」。
小さな時から、何一つねだったことのない中島氏が、はじめてねだったものが、ともだちだった。
2020年現在、中島氏は、飲食事業を軸に、通販事業、SDGs社会貢献事業、教育・飲食プロデュース事業を展開している。店舗数は4業態、10店舗。従業員数はアルバイト・パート含め150名。
60社が参加する「楽花成の会」の会長等で多忙を極める。「それ以外にも、小学生のPTAの会長を5年つづけている」と笑う。
大学でも講演し、小学生でも授業をしているというから、驚かされる。お山の大将が、いつの間にか人のために汗を流している。3人の師匠に巡り合ったからだろうか。
負けたくないから、人知れずがむしゃらにがんばった、その時から比べると、人間のスケールが何倍にもなったように映る。人として成長するというのは、こういうことなんだろうか。

・・・続き

株式会社てんてん 代表取締役 中島一薫氏


2021年1月22日金曜日

株式会社カワード・チャレンジ 代表取締役 新井翔碩氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社nadeshico 代表取締役 細川雄也氏株式会社カワード・チャレンジ 代表取締役 新井翔碩登場。


本文より~

サッカーと、ラグビーと。

新井 翔碩。名は「しょうせき」と読む。
「翔碩は、お坊さんに決めてもらったありがたい名です。父親は染め職人で、母親は飲食店を経営していました。小さなお店です」。
女きょうだい3人と、新井氏。
「私は末っ子で唯一の男子です。おじいちゃんとおばあちゃんともいっしょに住んでいましたから、大所帯です」。
小学生の頃の話も聞いた。
「ふつうでしたね。ちがうといえば、気が短かったくらいかな。喧嘩ばかりしていましたから。もっとも連敗つづきでしたが/笑」。
野球選手になりたかったが、なぜかサッカーをしていた。中学生になっても、けっきょくサッカー選手。サイドバック、センターバック、ボランチ、ぜんぶ経験した。京都でベスト8まで進んだ。「チームのなかでは、いちばん巧かった」と笑う。
将来は?
「そうですね。どこかで親父の仕事をつぐのかなというのはありましたね。もちろん、まだ子どもだから突き詰めなかったし、高校に進学してから、ラグビーを始めるんですが、すっかりラグビーの世界観にハマってしまいます」。
なんでも「いずれ高校のコーチをしたい」とまで思ったそう。
「生涯つづけたいものに初めて出会ったって感じです。ただ、問題が一つあった。大学に進んでラグビーしようにも勉強はイヤだし、簡単に進学できないこともわかっていましたから。でも、ラグビーはやりたい。『どうしたら、ええんやろ』って」。
ひらめいた。クラブチームがあるやん。

ハローワークに列ができる。

「で、就職してサラリーマンになるんですが、性に合ってなかったんでしょうね。3ヵ月くらいで、『もう辞めたい』って泣き言をいっていました」。
なんでも1年間は、留守番専任だったそう。「さすがに、1年半くらい経って、親父も『もう辞めたら』って。で、退職するんですが…」。
新井氏、19歳。1996年。バブルが弾け、金融危機がスタートした頃。「ハローワークに行ってびっくりです。人があふれています。職を求めて、列をつくっているんです。こりゃ、正社員というのは無理だなと思って、それで飲食店でアルバイトをはじめます」。
いつのまにかラグビーどころじゃなくなっていた。
だが、飲食と出会って、また、ハマる。
「みなさんはどう思うか知りませんが、私はたのしかった。だって、目の前に課題があって、それができるようになるってスポーツといっしょでしょ。最初は、野菜。野菜が切れるようになると、つぎは、魚。今度は、魚がさばけるようになる。どんどん、巧くなる。ラグビーの時といっしょです」。
がむしゃらにはたらいた。これぞ、天職と思ったかもしれない。ただ、社会は好きだけでは渡れない。

脱、京都。

「正社員になるつもりでいたんですが、社長と店長の仲が悪くて、そういうのがイヤになって辞めるんですが、依然、猛烈な氷河期でしたから、ぜんぜんうまくいきません」。
かろうじて中堅クラスの和食の居酒屋に滑りこんだが。「もう、ボロカスです。一体、なにに怒られているか、なにを怒っているのかもわからない。それでも1年ちょっとつづけるんですが、ある時、社長が『くびや』いうてね。くびを宣言されます/笑」。
転々とした。「22歳になって、オレ、何やってんねんって/笑」。
「さすがにそうなるでしょ。それで、知り合いもいない神戸でゼロリセットや、と」。新生活を開始する軍資金は20万円。幸い、住まいもみつかり、職にもありつけた。
「京都とはぜんぜん違った」と新井氏。
「京都時代は朝6時に出勤して、きっつい仕事して、それでも虫の居所が悪かったら怒鳴り散らされます。でも、こっちは違った。おなじことやっても評価がちがうんです」。
京都時代とおなじように、朝いちばんで出勤した。楽しかった頃が蘇り、調子があがる。店長にもなった。「27歳くらいの時ですね。自分の店をやりたいなと思ったのは。でも、そのまままっすぐ開業ってわけじゃないんです」。
「このまま飲食だけでいいんだろうか」と思ったそう。「ちがった世界もみておくべきだと思ったし、19歳からの1年半の、消化不良のサラリーマン生活。あれがすべてじゃないと思いたい、と」。

リクルートで、2回目のサラリーマン生活。

「こんなに、楽しくてええんかと思いました」。
転職したのは、リクルートのホットペッパー事業部。
「才能っていうのがあるんでしょうね。神戸エリアで1位になりましたし、全国でも2回、表彰されています。飲食ではたらくっていうのは、いろんな意味で修業です。でも、リクルートでは同年代と、熱く、楽しく、はたらける。修業じゃないんですが、修業とおなじように、ちからが付きます」。
ただ、限界も知る。新井氏は才能といったが、上には上がいたそうだ。
「でも、この数年間は、私にとって業種はちがっても貴重な経験になりました。飲食だけでは気づけなかった世界。逆に、飲食で、こんな世界観やチームがつくれたらな、と」。
リクルートを退職し、「おかげ小町」をオープンしたのは、新井氏が31歳の時。新井氏は、人生を消去法で選択してきたというが、けっしてそれだけじゃないだろう。
削って、削って、残ったものはピュアなかたまり。飲食は、新井氏のピュアな思いがかたちになったものに違いない。スタートは、アルバイトのみ。
「けっこう、自信はあったんですが、スタートから大きく躓きます。うちのオープンといっしょに、『豚インフルエンザ』が流行ります。1ヵ月は、ぜんぜん客もいない。誤算どころか、大誤算です/笑」。
「とはいえ、それほど長引かなかったのが、幸いしました。ホットペッパーの営業をしていましたから、来店数を上げる方法は知っていました。だから、あとは、来たいただいたお客様をいかに大事にするかで勝負が決まる」。
お茶の葉も、「一杯ごとにちがうものにした」という。「とにかく必死です。ルールも、マニュアルもなんにもない。ただ、目の前のお客様に必死です」。
2号店は、韓国料理店。今度は、出店と同時にブームが来た。「だから、スタートダッシュは最高だったんです。でも、すぐに、どこにいってもサムギョプサルになって。これはあかんと、すぐにクローズしました」。
イメージでいえば、1勝1敗。 でも、本質は0勝だった。

迷走する経営。

「お金はなくなるし、揉め事だらけやし、かげで社長、つまり私ですが、私の悪口はいうとるわで、いっしょにはたらいてくれてた子が鬱にもなってしもたり。そりゃもう、客サービスどころやない。なかの人間関係がぐちゃぐちゃなんですから」。
4年間で、韓国料理の店を含めると、計3店舗出店した。当初、思い描いた世界とは、ぜんぜんちがう。豚インフルエンザのせいでも、ブームのせいでもない、もっと本質的なこと。
「けっきょく、もう一度、やり直すしかないと思いました。私自身が先頭に立って。『くずし割烹 こまじろ』をオープンさせて、そうですね、半年は休んでいません。10キロは体重が減りました」。
「正直いうと、2009年に創業してから2016年までの7年間は、もうかってもいなかった」と新井氏は笑う。人間関係がぐちゃぐちゃになり、経営体制もつくることができなかった。
どうすればいい。
「むちゃくちゃ勉強しました」。4年目、頭を打ちに打って、リクルート時代にできなかったもう一つの修業がスタートする。
「決算書や、政治の本も読みました。松下幸之助さんや稲盛和夫さんの本にもかじりついて。ヒントは本の、いろんなところに落ちていました。経営理念だと思ったのも、この時です」。
迷走していた経営に、終止符が打たれるのだろうか。とにもかくにも、今度の修業は新井という「人」を試す修業だったのかもしれない。

・・・続き

株式会社nadeshico 代表取締役 細川雄也氏株式会社カワード・チャレンジ 代表取締役 新井翔碩


株式会社nadeshico 代表取締役 細川雄也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社nadeshico 代表取締役 細川雄也氏登場。

本文より~

子どもの頃と、卒業前の、二つの誓い。

おとなしい少年だった。太っていたし、コンプレックスもあった。
「だいたい活発なタイプじゃなかったし、スポーツも勉強もぜんぜんパッとしない/笑。勉強でも、スポーツでも勝たらへんから、いつか社長になっていちばんになると思っていた」と細川氏。
小学校でもいろいろ習い事をしたが、卒業と同時にやめた。代わりに中学から始めたソフトテニスは、大学まで10年間つづけている。「補欠だったが、楽しかった」と笑う。特に、試合が好きだったそう。
「高校になって、初めてなりたい職業ができます。建築士です。これは、いまでも好きなんですが、神社、ビル、個人宅…といった建造物がとにかく好き。だから、大学も建築系に進もうと思っていました」。
ただ進んだのは山口県にある「東亜大学」の、建築ではなく、コンピューター学科。
「4年間通いましたがプログラミングはイマイチ」と笑う。
「とにかく、初めての一人暮らしです。それに、地方からいろんな奴が進学してくるでしょ。私は、滋賀のいなか育ち。出会う奴はみんなインパクトがあったし、そんな出会いも含めて、楽しくてしかたなかった4年間でした」。
なかでも、いつも一緒だった5名のメンバーとは大の仲良し。サーフィンも、多少の悪さも、いつも一緒にした。卒業前には、「大物になって再会しよう」という誓いまで立てている。

滋賀のJA(農業協同組合)に就職。農業との出会い。

「大阪のほうで就職が決まっていたんです。でも、親父が『どうしても滋賀で』というもんですから、けっきょく滋賀県のJAに就職しました」。
JAの仕事は楽しかったですか?
「常々、辞めたいとは思っていました/笑。でもね、ちゃんと仕事はしていたし、楽しんでもいましたよ。ただ、30歳までには独立すると決めていましたから、仕事だけではなく、何をどうすればいいかアンテナはつねに立てていました。けっきょく、28歳で独立するんですが」。
「社長になる」「大物になって再会する」。
二つの誓いを果たすには、独立は、たしかに効率的な手段。しかし、経験のない飲食での独立には、リスクもなくはない。
けっきょくのところ、なにがきっかけで、「飲食で」となり、なにが細川氏の背中を押したのだろう。
「JAには6年間いたんですが、やりたいことがみつからなかったから離れなかったというのが正解です」。
つまり、やりたいことがみつかったわけですね?
「そうです。それが飲食。きっかけは和民の渡邉美樹さんをTVで観たこと。渡邉さんの話に感動して、渡邊さんの本を読んで。渡邉さんは水商売を産業にした人でしょ。スケールがでかい。尊敬もしましたし、オレも、そんなかいことをやりたいと思ってしまったんです」。
とはいっても、農業しか知らない?
「そうなんです。だから、本屋に行って片っ端から独立関連の本を読み漁ります。だいたい書いてあるのはおなじなんですね。だから、そっちはいいというか、わかったんですが、料理ができない。飲食なのに、致命的でしょ。それで、最初の失敗です/笑」。

失敗と起業と、ロケットダッシュと。

「学生時代のバイトもガソリンスタンド。飲食はもちろんですが、料理に至ってはやったことがない。だから、じつは料理のコンサルタントと契約したんです」。手付金200万円。けっして小さな額ではない。「2006年の年末に辞表をだし、翌年の3月に退職します。コンサルタントとは、2006年に契約。年が明け、3月に退職できそうだったんで、正月にコンサルタントに連絡を入れたんですが」
つながらない?。
「そうなんですよね。最初は、お正月だからかな、と思っていたんですが」
虎の子でもある200万円はむろん、返済されず。「ともだちに観に行ってもらったんですが、倒産したあとでした」。ある意味、致命的な失敗。
しかし、これであきらめないのが、細川氏の真骨頂。
「別のコンサルタントにお願いしました。だって、ここであきらめては何も始まらないですから。今度は、無事、サポートしていただいて、2007年の10月に1号店をオープンします。メンバーは大学のともだちとサーフィン仲間の2人です」。
スタートダッシュは、どうでしたか?
「これが、すごい。ロケットダッシュです。爆発的だったといってもオーバーじゃないくらい。2号店、3号店とパンパンと出店します。ただ、しばらくして、リーマン・ショックと道路交通法が改正され、Wパンチです。1号店が郊外だったものですから、道路交通法の改正は、直撃です」。
おまけに育成が追い付かず、2号店、3号店もうまくいかない。細川氏が現場を離れると、顕著に業績が悪化した。「かべにぶつかった」と細川氏は表現している。「飲食のある、あるですね」。今なら笑えるが、当時は表情もひきつったはずだ。
どうなっていくんだろうか?

・・・続き

株式会社nadeshico 代表取締役 細川雄也氏


2021年1月3日日曜日

謹賀新年!2021年もよろしくお願いします。

明けましておめでとうございます。

2021年、いよいよスタートしましたが、新年早々首都圏の知事による非常事態宣言の要請が出ました。

どんな状況になってもキイストンは常にコツコツ前を向き、今何をやれば喜ばれるか考え行動する!

5日より仕事始めですが、この1年もエキサイティングな年になりそうです。

ところで余談ですが、

・2007年よりブログを書き、今年で14年。

・会社も、前職から転職せず創業し、29年目に突入。

・仕事も人材採用業務を天職としメイン業務は変わらず。

・「飲食の戦士たち」も第818回と飲食経営者の記事を800以上連載中。

「全てにおいて継続は力なり」

(東京タワー1月2日)