~飲食業で起つ! FC、業務委託、パートナー契約にライセンス契約 そこにある成功~
2021年5月25日火曜日
5月19日大安吉日「飲食業で起つ! 」FC、業務委託、パートナー契約にライセンス契約 そこにある成功をキイストンより出版しました。
株式会社DORAYAKI 代表取締役 塚本洸介氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に「究極のブロッコリーと鶏胸肉」を展開されている株式会社DORAYAKI 代表取締役 塚本洸介氏登場。
本文より~
守護神に徹した秀才。
小学6年生からサッカーを始めるまではスポーツとはあまり縁がなかった、と笑う。周りより遅く始めたサッカーのポジションは、競合の少なさを考えてゴールキーパー。高校まで守護神をつづけた。学校の成績も上位をキープ。
「高校時代にはもう、独立志向がありました。ミクシィが流行って、IT起業家がもてはやされた頃。そういった起業家たちに刺激されたんだと思います。」。
大学は早稲田。18歳の塚本氏にとって、滋賀から東京までは、どんな距離があったんだろう。ちなみに、塚本氏が進んだ高校は滋賀県で偏差値トップ。「最初のテストで440人中120番くらいになっちゃったんです。それが悔しくて、結局最終的には10番内に入りました」。
あの洛南高校にも合格していたというから、勉強は、得意だったにちがいない。
「ただ、サッカーでは、一番が取れなかった。そういう意味では挫折です/笑」。
会話をしていれば気づく。分析力は高い。客観性もある。IT起業家を彷彿とさせる今風のスタイリッシュな秀才だ。
就職。ITの先端企業へ。
「大学ではフットサルのサークルに入ります。塾の講師も4年間。DeNAでインターンもしました。新規事業のチームに入って、刺激的でしたね。就職したのはワークスアプリケーションズです」。
サイバーエージェントや楽天もウオッチしていたそうだが、選択したのは、システム会社。ワークスアプリケーションズでは1年間セールス、3年間エンジニアで計4年在籍。エンジニアに転身してからは、全社のMVPも獲得。年収も800万円以上になっていたそうだ。しかし、独立心は抑えきれない。
「2社目に就職したのは、教育系のスタートアップ企業です。1年間働かせてもらいましたが、会社が資金調達に失敗したことで従業員数も半数になり、将来に不安を覚えて退職。そのあとはしばらくフリーランスをしました」。
そのあと、トランスコスモスの子会社立ち上げの時に声がかかり、執行役員になったという。「在籍は2年くらいですね。安定したポジションにいたこともあって、このままでは私自身の成長が鈍化していくと思ったんです。独立したほうがいいじゃないか、と」。
高校生の時から思い描いた独立の道へ進む。しかし、どうして飲食だったんだろう。いままでとはずいぶん世界がちがう。
究極のブロッコリーと鶏胸肉。
「もともと飲食でスタートしようとしたわけではないんです。私がめざしたのは、いま世の中にある課題を解決することでした。そこにビジネスのチャンスがあると思ったんです」。
世の中が抱える課題の解決
「そうです。じつは、いまもそれが、我々の事業の目的です」
つまり、最初に目をつけた課題解決の方法が糖質制限だったわけですね?
「そうです。『糖質制限』を課題解決と設定して気づいたのは、糖質制限やダイエットの飲食店がないということでした。それで『これだ』と思ったんですが、カベにぶち当たります。開業資金が多く必要で、融資も別業界出身のわたしにはなかなか下りないんです/笑」。
「ゴーストレストランなら」と思い切って起業する。
これが、2019年8月のこと。
「最初は店舗を間借りしてデリバリーメインでいこうと考えました。メニューはサラダ。ダイエットといえばサラダという発想です」。
だが、サラダだと競合も少なくない。いかにも、安直は発想という気もしなくはない。
「そうなんです。サラダでやろうと思って色々シミュレーションしたんですが、うまくいく気がしなくて/笑。いろんな人と会食しているなかで、不意に鶏胸肉とブロッコリーだ!とひらめいたんです」。
思いついたときは「電撃が走った」と言っている。
「すぐに、『究極のブロッコリーと鶏胸肉』と名付けました」。むろん、「究極の」である。そうすぐに究極は生まれない。「そうなんです。どうすればおいしくなるのか。試行錯誤がスタートします」。
その頃の塚本氏は、飲食店で働いた経験はおろか、自炊の経験すらない一般男性。発想はいいが、果たして、「究極のブロッコリーと鶏胸肉」は完成するんだろうか。
初日のオーダー、2食。
「最初は渋谷のバーを間借りして始めます。Uber Eats1本です。アルバイトもなし。最初のロゴはインターネットのAI作です。いまはデザイナーにつくってもらっていますが」。
4ヵ月、昼間のバーにこもって試作を繰り返した。鶏胸肉とブロッコリー。シンプルだから、ほかに逃げようもない。ストイックな食事メニューは、ストイックな研究から始まったと言っていい。
もしもの話だが、塚本氏が、飲食出身だったとしたら、そぎ落とし作業ではなく、付け足すことを繰り返したのではないか、と思う。少なくとも、塚本氏以外がつくれなかったのは、塚本氏が、飲食出身でなかったからではないだろうか?
ともかく、店舗は8月5日にオープン。「最低30食が目標だったんですが、初日は…、2食です/笑」。
2食はつらいですね?
「そう。でも、日に日に注文数がふえて、おかげ様で、六本木に2号店を出店することになります」。
食事制限という課題解決の方法にひとつの答えを提示できたわけですね。
「そうですね。課題があって、それを解決するために生みだされた食事です。ただ、2店舗目の時に、直営だけでは、無理だと思ったんですね。出店スピードもそうですし、エリアもスピーディに広げられない。だから、フランチャイズにシフトします」。
いよいよ今のかたちが誕生する。
・・・続き
21日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」の第3回は「オーナーズ11」を紹介しました。
21日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」の第3回はカロスエンターテイメント様の「オーナーズ11」を紹介しました。
2021年5月21日金曜日
株式会社ジーフェイス 代表取締役 吉邨一仁氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ジーフェイス 代表取締役 吉邨一仁氏登場。
本文より~
サラリーマンは、何をしている?
「カウンターの向こうに大倉さんがいた」というのは、今回ご登場いただいた株式会社ジーフェイスの代表取締役、吉邨氏。義兄に連れていかれたそうだ。
吉邨氏が「大倉さん」というのは、鳥貴族の創業者、大倉忠司社長のこと。「当時は、鳥貴族もまだ3店舗くらいの頃。義兄に連れていかれたのは1号店。大倉社長がまだ店に立っていらした頃の話です」。
鳥貴族の創業は1985年。大学生になったばかりの吉邨氏が、大倉社長と出会ったのは、その3年後の1988年の頃のことだろう。
「義兄は以前から、大倉さんと親しくさせてもらっていたようです。私が店に入ると、いきなりカウンター越しに面接のようなものがスタートして、『じゃぁ、明日から』みたいな/笑」。
吉邨氏が生まれたのは1970年。東大阪市の瓢箪山出身だそう。父親は腕の立つ板金工で、会社を経営されていた。母親も吉邨氏が小学2年生になった頃から鉄板焼のお店をスタート。「自宅の1階がお店だった」と、吉邨氏はなつかしげに呟く。
「親父の板金は魔法みたいでした。親父は、いつか私に継がせたかったんでしょうが、どんなキズでも、凹みでも完璧に直してしまう。あんなのをみせられたら『できっこない』って思っちゃいます/笑」。
「母親は私が小学2年から10年くらい鉄板焼のお店をやっていました。ありがたいことに、常連さんも多かったですね。自宅兼ですから、お客さんの周りをうろちょろしていた気がします」。
当時、吉邨氏はネクタイをしている人が、宇宙人に思えたそうだ。「会社というところに行って、彼らはいったい何をしているんだ?」
子どもの頃のつぶやきだった。
経営者一族。
「父だけじゃなく、母も、いったら経営者ですから、私にもそのDNAが流れていたんでしょうか。先生やともだちから『あいつはいずれ経営者になる』なんて言われていました」。
いまになって思えば、先生やともだちの予想はズバリ的中しているが、本人が、それを意識するのは高校になってからだそう。
「小学校時代は、ソフトボールや野球、中学からはハンドボールにハマっていましたから、将来のことは…。あ!ただ、ハンドボールをやっていた時は、将来、実業団へ、なんて思っていましたね/笑」。
高校になっても、ハンドボールをつづけるが、部の雰囲気と水が合わず、中学時代の先輩にさそわれて水泳に転向。水泳部のほうは、水があったのだろう。キャプテンまで務めている。
「で、大学ですね。大学は大阪経済大学です。東大阪から抜け出したくて/笑」。
で、大倉社長と出会うと?
「そうです。ただ、大学時代は鳥貴族だけではなく、ほかにも運送会社や食品会社などいろんなアルバイトを経験しています」。} 大倉忠司という偉大な経営者も、まだ、社会に知られていない頃。最初の出会いは、すれ違いに終わったといっていいかもしれない。実際、大学を卒業した吉邨氏は大手建設会社に就職している。
大手建設会社退職は、賭けでもなんでもない。
東証一部上場企業である。橋梁やトンネルの大規模な工事がメイン事業の会社。この会社で、吉邨氏は10年間勤務している。
「資格なども取得しました。営業に移ってからは、けっこういい業績だったと思います。仕事は楽しかったですね。たいはんが公共事業ですから、規模も、金額も大きい。がっつり相手のふところにはいって」。
情報戦争。駆け引きも、ネゴシエーションもある。いえば、大人の世界だ。「そういう世界を楽しんでいたんですが、私を鳥貴族に連れていった義兄がいちはやく鳥貴族のフランチャイズになり、それにつづくようなかたちで私も33歳の時に独立します」。
辞めるにあたっては、反対もあったそう。そりゃ、そうだろう。所長に推薦しようと思っていた、という話もあったそうだ。それ以上に、吉邨氏の決断を危ぶむ声が、そこかしこからあがった。
「何しろ、3月に下の子が生まれ、4月に退職ですからね。ただ、そんななかでも、うちの奥さんだけは何もいわないでいてくれました。あ、そうって/笑」。
奥様の「あ、そう」が、背中を押してくれたといってもいいのではないか。
「大倉社長からは、いろいろアドバイスをいただきました。ええ、もちろん、最初から鳥貴族1本です。やるなら、鳥貴族。それ以外は、眼中になかったです」。冷静に自分自身で分析をしたうえで間違いない、と判断したという。
「まとまった資金はもちろんないから、国金にお金を借りに行くわけじゃないですか。当然、事業計画とか説明するでしょ。大倉社長にもアドバイスいただいて仕上げたものなんですが、それをみせると、担当者が私の不思議なものをみるようにして、『上場企業を辞めて、やきとり屋?』って/笑」
「当時は鳥貴族っていってもまだ知られていなかったんでしょうね? 知り合いも、おんなじような反応でした。『280円均一? なにそれ?』って。
とはいえ、下の子が生まれたばかり。いくらなんでも不安がゼロだったはずはないだろう。ただ、それを口にすると「そう思うのは、鳥貴族のスキームや、そのビジネスを知らないからだ」と言われてしまいそうだから、口をつぐんだ。
オープンの初日にダウン寸前? 以来、16年。
「33歳の時、昭和町に1号店を出店し、現在(2021年)で16年目です。店舗数は16店舗。この1年は、どこもいっしょですが、コロナ禍で経営はたいへんでした。時短営業はもちろん休業した店もありましたので、売上的にはきつい。ただ、いつまでもつづくわけでもないでしょうから」。
もう、未来をみすえている。つよがりではないが、「不安」という言葉を口にしない人かもしれない。キャプテンシーにあふれた人は、そういう人が多い。
「この道にはいって、苦労したことですか? う~ん。忘れちゃったのか、そもそも苦労していないのか/笑」。
とはいえ、1号店オープンの時は、初日に熱をだされたとか?
「あ、そうですよね。あの時はオープンの準備やらで。バイトの面接だけでもたいへんでしたから疲れ切っていたんでしょうね。当日は本部や義兄の店から、助っ人が駆けつけてくれましたので、助かりました。もちろん、私も熱があるのに、ふつうに仕事をしていましたが/笑」。
「出店でいえば、2店舗目をだすまで3年かかっています。そこは苦労の一つですよね。なかなかいい物件がなくて、というのが正直なところです。あ、そうそう、2店舗目を出店する時も金融機関の人から『今のままでも生活できるでしょ。なんで2店舗目をだすの?』なんて言われました。あの時は、『勉強不足だろ』って逆にアドバイスしたかったくらいですね。鳥貴族のことをぜんぜん知らないわけですから」。
・・・続き
株式会社ティー・エフコーポレーション 代表取締役社長 福島孝志氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ティー・エフコーポレーション 代表取締役社長 福島孝志氏登場。
仙台生まれ。東京に勤務するまで。
「仙台愛」だという。その言葉通り、仙台がホーム。2019年現在10店舗ある店舗のうち、8店舗が仙台にある。残り2店舗が東京。仙台は、福島氏の出身地。正確にいうなら仙台市青葉区生まれ。
「ゲームとか、おやつもそうですが、ひんぱんには買ってもらえなかったですね。うちも県営住宅ですし。とはいえ、小学生の頃から活発な少年だった気がします。みんなが私の周りにいましたしね。そうです。勉強はぜんぜんやらないような/笑」。
「小・中は野球をしていました。高校からは柔道部ですが、ここからは、もっぱらアルバイトです。ええ、いろいろやりましたよ。居酒屋はもちろんゴルフの打ちっぱなし、清掃の仕事もしました。高校は、あの当時ですから、オーソドックスだと思うんですが、ビーバップハイスクールのような、ま、ガラが悪い高校でした。先輩に、無理やりケンカさせられたことだってあるくらいですからね」。
アルバイトをしたのは、欲しいものを買うためだ。ある意味、自立が早い。「私が高校を卒業する時に両親が離婚します。同時に私も就職しました。就職してからは、東京勤務です」。
挫折からスタートした社会人、人生。
仙台を離れ、東京で独り暮らし。自由だが、けっして、すべてが自由でもない。
「あるスーパーに就職し、2年間、サラリーマン生活を送りましたが、挫折します。辞めてからは、大阪の自動車メーカーで期間工としてはたらきます。飲食に入ったのは、仙台にもどった23歳の時です。23歳から6年間、修業させていただいた店があるんですが、この店のオーナーが私の師匠です」。
「飲食は、学歴も関係がない。だから、私にもチャンスがある。そう思えたのも、このオーナーのおかげです。6年間、接客や経営のノウハウを叩き込んでいただき、29歳で独立させてもらいました。2001年のことです」。
創業店はビルの4階、9坪。スナックのようなタイプだったそう。「社長さんとかも多く、若い子もたくさんいらしてくださって。一時は4店舗まで広がったんですが、ぜんぶ手放します」。
そして、2005年、株式会社ティー・エフコーポレーションを設立。
「最初の店の時は、もうお金がなかったですからね。なけなしの軍資金100万円と、借入60万円からスタートです。今度は、それらを手放して、2010年にocean fatare - SEAFOOD RESTAURANT BARをオープンします」。
このショップは、船上レストランをイメージしてデザインしたという。コンセプトは魚介を中心としたスパニッシュイタリアン。
「いままでとは違って料理もちゃんとしたものをお出ししたい、と。ええ、料理人も採用しました。仙台にはいままでないような店だったので、おかげさまで、繁盛します」。
ところが、2店目ですね?
「そうなんです。2011年3月に、震災の10日前に2号店をオープンするんです。ocean fatare - PRIVATE LOUNGEです」。
大事にするのは「人」。
だれもが苦しかった。「そうですね。営業どころじゃない。だから、売上もない。数ヵ月つづきました。正直、きつかったですね。周りの経営者のなかには自然災害だからといって、給料を払わない人もいました。いや、そういう人が大半だったと思います。なかでもうちは、オープンしたところです。運転資金も潤沢にない。だから、スタッフに給料が払えないといっても納得してくれたと思うんです」。
「でも、それは経営者の甘えでしかない。そう思った私は政府系の金融機関から2000万円をお借りして給料を払いました。それだけしかできなかった、と言い換えてもいいかもしれませんが」。
経営者の思いは、スタッフに伝わる。
「おかげさまで、スタッフは1人も辞めずついてきてくれた。じつは、そのあとにプチバブルが起こるんですが、うちはだれも辞めないから、波に乗ることができました。数ヵ月で、営業利益が2000万円出て、お借りしたお金は全額返済できました」。
なかには、逆にスタッフが辞めてしまい、波に乗れなかったお店もあったそうだ。「うちは、いろんな業態をやっています。スペインやメキシコ料理のショップなども、そうですね。仙台にはなかった店です。だから、評判をいただき、繁盛していると思うんですが、うちがいちばん大事にしているのは、人です。私は、人を大事にしたい。そういう経営をしていきたいと思っているんです」。
じつは、現在、仙台にある8店舗のなかには、フードコートに入っている店がある。「みんな結婚したりして。1歳とかのね、子持ちのスタッフがだんだん多くなってくるでしょ。フードコートなら終わるのも早い。だから、寝顔だけじゃなく、笑い顔もみれるんじゃないかな、と思って」。
飲食店の経営者の話はたくさん聞いてきたが、はじめて聞く、素敵な話である。
・・・続き
株式会社Earth Food 代表取締役 小林史和氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社Earth Food 代表取締役 小林史和氏登場。
本文より~
カーテンは閉めておくこと。
小林氏は1976年10月23日、広島に生まれる。
「父親は、サラリーマン。母親は、1人で食堂をやっていました。親父は、ヤンチャだけど明るくて、一緒にいて楽しい人です。ただ、私が物心がつく頃まで会社を経営していましたが、うまくいかず。そのうえ、知人の借金の肩代わりもしていたようです」。
「裕福じゃないのは、小さな時から薄々わかっていた」と小林氏。
「私が時々、留守番をするんですが、その時、母親が『カーテンを閉めておきなさい』というんです。昔は、用心のためとだと思っていたんですが…/笑」。
兄弟は2つ違いの兄が1人。
「今も仲がいいですよ。最初は一緒に仕事もしていましたからね」。兄とは背格好も似ている。ただし、兄は、どこにいても中心的な存在だった。逆に小林氏は目立つことも少なく、ともだちを進んで作るタイプでもなかったそうだ。
小学校ではサッカー、高校ではバスケットボール。
電気工事士になって、借金返済す。
「借金の額を知ったのは、私が高校を卒業する時です。3000万円はあったかと思います。みんなで返済する計画を立て、私と兄が返済するのは、それぞれ800万円でした」。
高校を卒業して、いきなり800万円の借金を抱えた格好。
「あの時は『やるしかない』わけですから。卒業してすぐにパチンコ店でアルバイトをはじめます。時給がいいですから。1年後に、兄がやっていた電気工事士の仕事をはじめます。手に職がつくことはもちろん、給料も悪くなかったからです」。
当時は、電気工事の仕事が豊富にあった。「これだ」と思ったと、小林氏は、電機業界に先見の明があったことを明かす。技術もあり、人もいい。小林兄弟の名は、業界内で知れるまでになったそうだ。
「借金の、私の持分800万円は3~4年で返済することができました。当時の月給は27万円程度だったと思いますが、私のお小遣いは2万円です/笑」。
すべて、借金返済に回したと思っていたが、そうでもないそうだ。「返済と同時に少しずつですが、貯蓄もしていました」。堅実なタイプといえばそうだが、欲しかった車も買わずに貯蓄に回したのは、お金の大事さを知っていたからだろう。しかし、こののち、お金ではない選択をする。
退職と結婚、新たな一歩。
電気工事の仕事をはじめて5年。借金を返済したことで、結婚も視野にはいった。仕事でつかっていた1BOXカーのデートも、もうしなくていい。
「でも、そんな時ですね。5年で、電気工事士の仕事を辞めます。業界に先がないというのがわかったからです。案外、古いんです」。
習慣が古い、と小林氏は言う。「古いなかでは、なにもできない」。これが、小林氏の選択。
「じつは、結婚した時には無職です。向こうのお父さんにも、辞めるのは反対されました。ただ、昔からやりたかった飲食の世界に入るなら、いまがラストチャンスだ、と。ええ、奥さんは、理解してくれていましたね」。
旦那は、ハローワーク通い。それでも、奥様は、信じておられたのだろう。その思いが、背中を押した。
「飲食で、どこがいいかっていうのは、食べてみるのが一番じゃないですか。でもね。お金がないから、それはできない。だから、店を見張ってたんです/笑」。
お客さんの流れをウオッチしていたそうだ。これは、と思えば、3時間。その話を聞いて、がんこの現会長、小嶋 淳司氏から聞いたお話を思い浮かべた。小嶋氏も「最初に何をするか」という時に、これはと思う店に張り付き、外から客の流れを観察されていたそうだ。
「私が、寿司をやろうと思ったのは、その結果」といっておられたと記憶している。
ラーメンに恋する。
Earth Foodも、ウオッチされた一つだったのですか?
「そうです。噂は聞いていたんです。すごいラーメン店があると。行列が長すぎて、道路まで出てしまうもんだから、バス会社からクレームが入ったなんてね。人気がある繁盛店なのは、外から観ていてもわかったのですが、決め手になったのは、じつは求人誌のキャッチコピー」。
なんて書いてあったんですか?
「何をやってもいい!です/笑」。
「私は、『居酒屋をつくって独立する』ということを、ラーメン店の面接で言っています。『何をやってもいい』って書いてあったから、言ってもいいでしょ/笑」。
たしかに。
「しかも、大繁盛といっても、当時はまだ2店舗で、従業員も社員5名の零細企業です。将来を託すには、少し不安もある。だから、まさか、その会社にずっといて社長になるなんて思ってもいなかったですね/笑」。
入社されていかがでした?
「最初の3ヵ月は時給です。その後、月給になるんですが、それでも20万円くらい。しかも、朝から晩まで仕事漬けで、その給料です。じつは、飲食に進むとき、妻に『覚悟してくれ』といったんですね。1年後、妻が私に『こんなに覚悟がいるとは思わなかった』ともらしました。
無我夢中。記憶も飛ぶくらいだったそう。しかし、そんななかでも、少しずつラーメンに恋するようになる。「入社して初めてうちのラーメンを食べるんですが、『これは、旨い』と。サイドメニューもとてもおいしい。ええ、だんだん社長(創業者)にも惹かれていきましたね。
社長(創業者)と福岡に出張に行ったことがある。「あの時に、ラーメンのちからを見た気がします。もともと、麺好きだったこともあって、食べることもそうですが、それを事業にすることにも抵抗がなかったですね」。
ビジネスのアンテナも動いたということですか?
「そうですね。福岡のラーメン事情をみて、業界として広がる未来への可能性がある、と。実際、当時、うちはたった2店舗でしたが、月商合計は3400万円でしたからね」。
なかでも1号店は34席で1800万円をたたき出していたそうだ。
このあと、小林氏は、3店舗目で店長になり、その2年後に統括、そして29歳でエリアマネージャー、営業部長を経て、39歳で取締役になり、2020年の11月、現職の社長に就任することになる。
・・・続き
2021年5月20日木曜日
5月14日(金)、 夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」の第2回は麺屋武蔵様でした。
5月14日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」の第2回は麺屋武蔵様でした。
2021年5月19日水曜日
日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけたバッカスがいる店”に「アイロム」の森山義佳和社長が推薦の5店舗が紹介されました。
3月20日(土)~4月17日(土)の5連載の日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店(旧 グルメ社長の食い倒れ日記)”に「アイロム」の森山義佳和社長が推薦の5店舗が紹介されました。
2021年5月9日日曜日
夕刊フジ、新連載「飲食業 新時代への挑戦」スタートしました!
夕刊フジ、新連載スタートしました!
2021年5月6日木曜日
4月23日(金)&30日(金)の2連載で夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」に「韓丼」を展開されてるやる気様を掲載しました。
夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて京都本社で「韓丼」を展開されてる、やる気様を4月23日(金)&30日(金)の2連載で掲載しました。
2021年5月5日水曜日
緊急事態宣言で身動きできない今。
キイストン創立後、ほぼ未経験の営業マンを複数人育ててきました。
前職のリクルートでもそこは自信あります。
ただ、内部のスタッフの業務は営業以外わかならいので育ててません。
でも、うちのスタッフは上場断念しましたが、十分に対応出来るほどのメンバー(平均18~20年勤続)が頑張ってくれてるので、
キイストンが今も存続できています。
もし、経理や制作、ホームページ、そして社内システムとやれないところばかりなので、各スタッフ辞めてたらが、営業に集中出来ないかったので考えたら恐ろしい。
長くやってきたので、業界内での信用もそこそこある。
あとは同じベクトル向けるだけ。
まあ、それが一番大変ですが、今はただ頑張るだけです。
GWもコロナ、コロナか…。
テレビはコロナ、コロナ!
もう1年以上続いてる。
こんな報道が続けば、飲食業界は働くことが悪に見える。
飲食店の酒類の提供禁止、休業要請するなら、法律的に難しいが外出禁止をやるべきだ。
そして東京、大阪を中心に先にワクチン接種すべき。
このままの状態が続けば、間違いなく多くの自殺者が出る!
ただ、苦労知らずの政治家や官僚たちでは飲食経営者の気持ちなんてわからないから難しいだろうな。
最終的には、世論の力なのかな。
そんななかでもキイストンは常に新たな道も模索してます。