in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社デフ イート 代表取締役 高村峻允氏登場。
本文より~ダンサー、もしくは、公務員。
ダンサーで食べていけるとは思っていなかった、と高村氏。15歳からダンスをはじめ、進学校に進むも大学ははやくから断念。街にくりだしては、ストリートで踊った。
「横浜のビルの下、アパレルのショーウィンドウにすがたを映しながら、練習していました。大会には出場していません。イベント中心です。大手事務所から仕事をいただいたりもしました」。
当時は、まだダンスで食べている人はいなかったそう。だから、冒頭の言葉になる。けっきょくダンスは、23歳で卒業している。
「20歳でダンスチームを解散して、それからは個人で活動をつづけます。その頃、アメリカに行こうと思い立つんです。そのためには英語がしゃべれないといけないでしょ」。
どうするか、と思っていた時、先輩が声をかけてくれた。「だったら米軍基地の両替所でバイトすればいい」と。これが、第二のストーリーの始まり。
なんでも、面接でしゃべったのは「マイ ネイム イズ」だけだったらしい。それでも、合格し、21歳で社員にもなっている。立場は、副公務員。
基地は、東京ドーム10個がすっぽり入るくらいの広さだったそう。副公務員というのは、両替書を運営していたのが防衛庁だったから。いうなら、ダンスを踊る、公務員だ。
開業。ともだちに誘われ、社長になる。
高村氏は1984年、横浜に生まれている。いわゆるジャパニーズスラムの、団地っ子だった、と笑う。ダンスは、姉の同級生から影響を受けてはじめたそう。
スポーツは野球を少し。「大学に進む気はなかったですが、理学療法士がいいかな、と専門学校に進むことも考えました」。
けっきょく、ストーリーは既述の両替所につづく。
結婚は24歳の時。独立は28歳の時だそう。
「私たちは、副業がOKだったんです。だから、基地での仕事と並行して飲食の仕事もしていました。この店は、28歳の時に、同級生2人と創業した、もつ肉の立飲みです」。
同級生が「のれん分けで独立するから、いっしょにしないか」と声をかけてくれたそう。おもしろい話をする。「その時ね、社長になりたかったし、『社長にしてくれるならいいよ』って言って。それで、私が今も社長です/笑」。
高村氏は飲食未経験だが、なぜか調理師免許を取得していたという。本人曰く、「米軍基地時代に暇だったから、独学で取得した」んだそう。結果、それが役立ったから、人生わからない。
「基地の仕事を辞めるのは30歳ですから、2年ちかく、二足の草鞋です。オープンから半年は、給料をとってなかったですね」。
オープンしたのは、ホームグラウンドの関内。1・2階合わせ、15坪の立飲み。「安定したのは、半年くらい経った頃ですね。2年目になって2号店、最初から、3年で3店舗と計画していました。私も基地を辞めて、こちら専業に」。
リスクはさして感じていなかったようだ。
コロナ禍の模索。
「もし、最初のメンバーだけなら、3店舗でよかったかもしれません。ただ、そのあとも同級生が3人参加することになって。だったら、3店舗では少ないでしょ」。
創業は、2012年。インタビュー時で9年が経っている。「最初は、都内へ、なんて思ったこともありましたが、いまのところ全店、横浜の中区です」。
5業態、7店舗すべてですか?
「そうです。だいたい遠くに行くのが苦手な性格なんです/笑。経営は楽じゃないですね。5月で10周年になりますが、いちばんたいへんだったのは、昨年(2020年)の4月。都や国のサポートもぜんぜん整っていなかったから」。
「とても不安だった。今は、雇用助成金などもありますから、なんとか」とつぶやく。
全店ではないが、長らく閉めている店もあるそう。とはいえ、指をくわえているわけではない。振興会から依頼を受けて、療養ホテルに療養患者向けの弁当をつくり、配達している。多い時は、夜だけで100食ちかくになったりするのだそう。
新ブランドのラーメン店も始めるそう。「都内の有名なラーメン店と組んで仕掛ける予定です」とのこと。着々と布石は打っている。
「じつは、この会社の前にも、いろんな事業をしているんです。パーソナルジムのトレーナーとかね」と、高村氏。そういう経験があって、逆に飲食は未経験からスタート。その経歴を紐解けば、コロナ禍のなかでも、一般の飲食店とちがうアプローチができるかもしれない。
「飲食店=店舗展開というのも、ちょっとヘンだなと。だから、通信販売や卸売り、スーパーさんにも販路を広げていければと思っています」。
いまはまだ模索中のことも多い。
・・・続き