2021年6月29日火曜日

株式会社デフ イート 代表取締役 高村峻允氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社デフ イート 代表取締役 高村峻允氏登場。 

本文より~

ダンサー、もしくは、公務員。

ダンサーで食べていけるとは思っていなかった、と高村氏。15歳からダンスをはじめ、進学校に進むも大学ははやくから断念。街にくりだしては、ストリートで踊った。
「横浜のビルの下、アパレルのショーウィンドウにすがたを映しながら、練習していました。大会には出場していません。イベント中心です。大手事務所から仕事をいただいたりもしました」。
当時は、まだダンスで食べている人はいなかったそう。だから、冒頭の言葉になる。けっきょくダンスは、23歳で卒業している。
「20歳でダンスチームを解散して、それからは個人で活動をつづけます。その頃、アメリカに行こうと思い立つんです。そのためには英語がしゃべれないといけないでしょ」。
どうするか、と思っていた時、先輩が声をかけてくれた。「だったら米軍基地の両替所でバイトすればいい」と。これが、第二のストーリーの始まり。
なんでも、面接でしゃべったのは「マイ ネイム イズ」だけだったらしい。それでも、合格し、21歳で社員にもなっている。立場は、副公務員。
基地は、東京ドーム10個がすっぽり入るくらいの広さだったそう。副公務員というのは、両替書を運営していたのが防衛庁だったから。いうなら、ダンスを踊る、公務員だ。

開業。ともだちに誘われ、社長になる。

高村氏は1984年、横浜に生まれている。いわゆるジャパニーズスラムの、団地っ子だった、と笑う。ダンスは、姉の同級生から影響を受けてはじめたそう。
スポーツは野球を少し。「大学に進む気はなかったですが、理学療法士がいいかな、と専門学校に進むことも考えました」。
けっきょく、ストーリーは既述の両替所につづく。
結婚は24歳の時。独立は28歳の時だそう。
「私たちは、副業がOKだったんです。だから、基地での仕事と並行して飲食の仕事もしていました。この店は、28歳の時に、同級生2人と創業した、もつ肉の立飲みです」。
同級生が「のれん分けで独立するから、いっしょにしないか」と声をかけてくれたそう。おもしろい話をする。「その時ね、社長になりたかったし、『社長にしてくれるならいいよ』って言って。それで、私が今も社長です/笑」。
高村氏は飲食未経験だが、なぜか調理師免許を取得していたという。本人曰く、「米軍基地時代に暇だったから、独学で取得した」んだそう。結果、それが役立ったから、人生わからない。
「基地の仕事を辞めるのは30歳ですから、2年ちかく、二足の草鞋です。オープンから半年は、給料をとってなかったですね」。
オープンしたのは、ホームグラウンドの関内。1・2階合わせ、15坪の立飲み。「安定したのは、半年くらい経った頃ですね。2年目になって2号店、最初から、3年で3店舗と計画していました。私も基地を辞めて、こちら専業に」。
リスクはさして感じていなかったようだ。

コロナ禍の模索。

「もし、最初のメンバーだけなら、3店舗でよかったかもしれません。ただ、そのあとも同級生が3人参加することになって。だったら、3店舗では少ないでしょ」。
創業は、2012年。インタビュー時で9年が経っている。「最初は、都内へ、なんて思ったこともありましたが、いまのところ全店、横浜の中区です」。
5業態、7店舗すべてですか?
「そうです。だいたい遠くに行くのが苦手な性格なんです/笑。経営は楽じゃないですね。5月で10周年になりますが、いちばんたいへんだったのは、昨年(2020年)の4月。都や国のサポートもぜんぜん整っていなかったから」。
「とても不安だった。今は、雇用助成金などもありますから、なんとか」とつぶやく。
全店ではないが、長らく閉めている店もあるそう。とはいえ、指をくわえているわけではない。振興会から依頼を受けて、療養ホテルに療養患者向けの弁当をつくり、配達している。多い時は、夜だけで100食ちかくになったりするのだそう。
新ブランドのラーメン店も始めるそう。「都内の有名なラーメン店と組んで仕掛ける予定です」とのこと。着々と布石は打っている。
「じつは、この会社の前にも、いろんな事業をしているんです。パーソナルジムのトレーナーとかね」と、高村氏。そういう経験があって、逆に飲食は未経験からスタート。その経歴を紐解けば、コロナ禍のなかでも、一般の飲食店とちがうアプローチができるかもしれない。
「飲食店=店舗展開というのも、ちょっとヘンだなと。だから、通信販売や卸売り、スーパーさんにも販路を広げていければと思っています」。
いまはまだ模索中のことも多い。

・・・続き

株式会社デフ イート 代表取締役 高村峻允氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年6月28日月曜日

6月26日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」第8回“ラーメンジャーニー”立ち上げられたイートアンド様を取り上げました。

6月26日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は冷凍麺で食感を再現し名店の味を家庭でと“ラーメンジャーニー”(お取り寄せサイト)立ち上げられたイートアンド様を取り上げました。

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

顧問業務。

ありがたいことに今期になって顧問業務を6社ほど依頼受けてます。

うれしい限りです。

最近、企業様と企業様つなげることが主になってます。

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

6月26日(土)、宮迫博之の超大型料理番組『有頂天レストラン』第二弾が配信されました。

6月26日(土)、宮迫博之の超大型料理番組『有頂天レストラン』第二弾がYouTubeにて配信されました。
おもしろいので是非ご覧ください。
チャレンジャーの五味祥夫シェフの会社を背負ってモンスター澤田州平シェフに挑戦する姿勢と実力に感銘しました。

この飲食業界を応援するYouTube番組は本当にすごいです。

2021年6月25日金曜日

5月23日(土)、宮迫博之の超大型料理番組『有頂天レストラン』がYouTubeにて配信されました。

5月23日(土)、宮迫博之の超大型料理番組『有頂天レストラン』がYouTubeにて配信されました。

コロナ禍で苦境に立たされている飲食業界を応援したいというこの企画は本当にすごいです。
こんなこと普通はYouTubeではやらない・やれないですから、きっと伝わると思います。
おもしろいので是非ご覧ください。
解説の森田さんはさすがの一言!
またチャレンジャーの永瀬シェフは、モンスターシェフに挑んだ料理含め素晴らしかった!
私どもも、飲食業界を盛り上げていくため貢献していきます。

2021年6月24日木曜日

株式会社ビースマイルプロジェクト 代表取締役社長 桑原 豊氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ビースマイルプロジェクト 代表取締役社長 桑原 豊氏登場。 

本文より~

親会社はカミチク。その会社なら知っている。

最後の3年間は香港やカンボジアだったと社長も務めた事があるワタミ時代を振り返る。
「ワタミの社長を退任し、ワタミインターナショナル社長に就任します。むろん、渡邉とは情報を共有していました。ワタミグループを退社するのは香港から帰国し数ヵ月した時です。元々起業するつもりでしたので、それがこのタイミングになったと言う事です」。
「起業することをすかいらーく創業者の横川 竟さんに報告すると『やめておけ』と言われます/笑」。
「少なくとも『今すぐじゃないんだろうから』と、人材紹介のエージェントに会うよう勧められました。私も半年位はインターバルをみていましたし、尊敬する横川さんの勧めなので一度会ってみるかと割と気軽な思いでエージェントにお会いしました。その時に紹介されたのが、今私が社長を務めるビースマイルプロジェクト(以下、BSP)だったんです」。
「BSPと言われても全然ピンと来ませんでした。聞いた事も無い社名でした。ただ、親会社の話になった時には、逆にピンと来て『それってカミチクでしょ』って言ったら『そうです。よくご存じですね』と/笑」。
実は7年前に、桑原氏は「カミチク」と出会っている。
「皆さんもご存じだと思いますが、ワタミは1次産業も行っています。酪農・畜産もその一つで、私が代表の時も北海道で広い牧場を経営していました」。
いち早く短角牛の飼育も行い、牛は全部で900頭いたと言うからスケールもでかい。
「かなり投資もしていたんですよ。有機の牧草で飼料から吟味していましたので、チーズやアイス等の乳製品にも自信があった。当時肥育数の少なかった短角牛にしてもパイオニアです。A5ランクのサシ入りより、赤身系の体にいい、牛もダメージを受けていない牛肉がいいだろうと短角にいち早く目をつけたのがワタミです。短角だけで200頭はいたんじゃないかな」。
山の向こうまで続く広大な牧場。牧草は全て有機。牛達は、その牧草を食みながら育つ。「ただ、お金をかけると言っても、メイン事業ではない分限界がある。ワタミは1次産業に進出する事で、循環型のスタイルを作りたかった訳ですが、メインはやはり3次産業ですから」。
視察の度に苦笑する。
「牛舎が汚い」と桑原氏は笑う。
「屋根には穴が開いている。匂いもきつい。とはいえ、飼料も有機で育てて貰っている事からも分かる通り、『想い』がない訳じゃない。ただ思いだけでは収益は上がらない/笑。生産性も含めて、事業としてやって行くにはどうすればいいか、それが当時ワタミの経営者であった私の悩みでした」。
確かに資本力があっても事業化は難しい。それが農業である。
「その時、ある農機具メーカーさんに『お手本になる会社はないか?』と尋ねます。勿論、当社と同程度の規模で、尚且つ収益をきちんと上げている会社です。そうしたら『日本に1社だけある』って言うんですね。そう、その日本に1社の会社が『カミチク』だったのです」。

7年ぶり。縁は繋がっていた。

縁があるとはこう言う事なのだろう。
「カミチクは鹿児島の会社です。『早速、1泊2日で行きましょう』と言う事になります。初日に鹿児島の繁華街『天文館』で鉄板焼を頂くんですが、それがカミチクの牛肉との最初の出会いでした」。
いい肉だった。むろん、文句なしで旨い。
「翌日、牧場に行く訳ですが、その場に降り立って『え?』って首をかしげます。牧場に行く時はいつも覚悟して行くんです。匂いがきついでしょ。でも、カミチクの牧場は全く匂わない。微かに漂っている位で」。
当時、訪問した牛舎では、約3000~4000頭の牛を飼育していたそうだ。
「それ以上に驚いたのは多数の若い人達が働いている事。すれ違う度に『お元気様です』って、独特の挨拶をしてくれる。礼儀も正しい。同じ牧場なのに異なった世界を観ている感じでした」。
牛舎も綺麗に掃除されていて、これにも驚いたと桑原氏。
「正直、驚きの連続でした。視察が終わり、最後に社長(カミチクグループ代表 上村 昌志)にインタビューさせて頂くんですが、その話を聞いて絶句しました」。
飼料も契約農家にお願いして、自社で作っているとの事だった。「しかもね、耕作放棄地を使っているとおっしゃるんです。耕作放棄地を使って、牛の為の米やコーンを育ててもらう。しかも、年間契約で全量買い取り。その結果、耕作放棄地も蘇り、安定的に収益が上がるから後継者も育つ。牛の飼育は勿論ですが、土地も、農業も、人も蘇生する」。
「絶句」と言うより、「気絶」と桑原氏は表現する。生産性からしてまるで違う。お手本というより、理想。その時、もう一つ質問を重ねている。
「巧くいく秘訣は?とストレートに尋ねました。そうしたら『農業が難しいと思うのであれば、やめた方がいいですよ』って言われるんです」。
農業は難しい。片手間ではできない。ひょっとしたら上村氏はそう言いたかったのかもしれない。
「その後私も海外に赴任しますから、その後のお付き合いはありませんでした。ただ、酪農は勿論ですが、当時から海外に目を向ける等、先進的な会社と言うイメージは残っていました」。
「カミチク」と言う社名もインプットされた。
その会社に再度、出会う事になる。
今度は銀座で。
それが2018年の事。

上村氏と渡邉氏。

「『副社長』と言うお話でしたが、私は起業を計画していたので、顧問として携わりたいとお願いします。2018年7月の事です。色々とお手伝した中で、一つ挙げるなら、2019年12月渡邉さんと上村さん・・・つまり、ワタミとカミチクとで合弁会社を作るんですが、そのきっかけを作ったのが私です」。
2人は同い年だし、どこか似ていると両者を良く知る桑原氏は言う。経営理念やビジョンも近い。それで一度、セッティングしようと思ったそうだ。しかし、会って5分で合弁会社設立の話がまとまるとは、きっかけを作った本人も驚いている。
「渡邉さんが先に興味を持って、事前に上村さんには合弁会社の話を伝えてはいたんですが、さすが創業者同士ですね。会って5分。相手をみるなり『やりましょう』となり5分で構想が固まります。桁違いのスピードです」。
それが「かみむら牧場」ですか?
「そうです。合弁会社を作り、海外戦略も含めやっていこうとなります。いわば、生産のプロと飲食のプロががっちり手を握ったと言う話です」。
上村氏は事業化が困難な農業でいくつもの答えをだしている。一方の渡邉氏については今更言うまでもないだろう。
カミチクのホームページには「日本の農業に、答えを。」と言うキャッチフレーズが掲げられている。ただ、農業だけですべての解が揃う訳ではない。ワタミとの合弁会社は、新たな解の一つに加わるに違いない。
「すでに相乗効果が生まれています。元々渡邉さんも農業を憂慮されていましたから、積極的に動かれています。かみむら牧場は東南アジアを皮切りに北米にも進出予定です。それをきっかけに最終的には日本の畜産を向こうに持って行く。これが、お2人の構想です」。
壮大なスケールだ。
BSPでも、この「かみむら牧場」を運営している。肉の質は言うまでもなく文句なし。グルメサイトの評価も高い、高い。
ちなみに、カミチクでは2年半ほどあれば飲食店が売りたいスペック通りの牛が作れると桑原氏は言う。「ブランドにマッチしたオリジナルの牛肉ですね。餌と血統を組み合わせて作ります」。つまり、肉質は勿論、お肉の味も好みに合わせて作ることができるのだ。
「かみむら牧場」では、こうした上質の牛肉をリーズナブルな価格で提供する。
「回転ずしのしくみを採用する事で実現した生産性の高い食べ放題が、『かみむら牧場』の基本コンセプトであり、スキームです」。
肉は黒毛和牛をメインに、輸入牛もカミチクで加工し、使用する事になっている。
「私どもが今運営しているのは大阪の守口と深井の2店舗です。来春には福岡にも出店予定です。かみむら牧場の出店はフランチャイズをメインにするつもりです。カミチクにとっては肉を卸す先が拡大します。それ以外にも兵庫県の丹波にカミチクの新たな工場ができたのですが、元々はワタミの工場だったところを、従業員も一緒に譲り受けたものです」。
経営スタンスが近いからスタッフも困惑する事なく異動できたそう。カミチク、ワタミ、いずれにもメリットがあったと桑原氏。
桑原氏が落とした一滴の水は波紋をつくり、農業と外食の世界に広がっている。
ところで、社長に就任されたのは2020年の事ですよね?
「そうです。コロナ禍の最中です」。
一番難しい時だったのでは?
「大変な時はどこに行ってもある。大事な事は、どう乗り越えるかです」。

・・・続き

株式会社ビースマイルプロジェクト 代表取締役社長 桑原 豊氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年6月20日日曜日

6月17日(木)、渋谷クロスFM【ALICE矢沢透の飲食応援団! 】に、弊社の武田あかねが出演しました。

6月17日(木)、渋谷クロスFM「オーナーズ11 〜飲食の戦士たち」プレゼンツ【ALICE矢沢透の飲食応援団! 】に、弊社の武田あかねが出演し、「オーナーズ11」誕生秘話を話しました。
また、今回の飲食経営者のゲスト出演はclassic(クラシック)の萱場社長でした。

MCの矢沢透さんも創業35年になりますが、おしゃれな串焼き屋”阿雅左(あがさ)”を経営されております。

6月18日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」第7回は二毛作営業の「カスタマーズディライト」様を取り上げました。

6月18日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」第7回は二毛作営業の「カスタマーズディライトを取り上げました。

苦しい中、「1つの店舗で時間別に2つのお店を営業できないか?」と中村氏は考えた。このアイデアは既にやっている店舗もあり、斬新とは言えなかったが、今年3月に開始した「博多やきとり 筑前屋 東陽町店」と「中華そば 満鶏軒」との“二毛作営業”は、「目新しい」と大いに話題になった。

 11~15時は満鶏軒、16時以降は筑前屋の営業へと変化する最大の特徴は、業界初となる昼と夜で完全に様変わりするファサードだ。看板にデジタルサイネージを採用し、専用アプリのボタン1つで瞬時に看板が切り替わり、まったく別の顔になる。(緊急事態宣言中は16時以降も満鶏軒で営業)

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年6月18日金曜日

6月11日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」第6回は「TACMOS(タコムス)」様を取り上げました。

6月11日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」第6回は「TACMOS(タコムス)を取り上げました。

複数社のデリバリー注文を一括管理サービスを開発したTACMOS(タコムス)様、なんと代表は現役東大生です!
飲食業界に新しい風を送り込むのはきっとこんな若い力だと思います。

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年6月16日水曜日

6月4日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」第5回は「日と々と様」を取り上げました。

6月4日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」第5回は「日と々とを取り上げました。

コロナ禍のなか、パン棚には各種パンのサンプルと「パンカード」が置いてあり、客は、欲しいパンのカードを取りレジへ。トングとトレイも使うことなくパンを購入することが出来きます。
この新しいベーカリー様式は、山本氏が「IKEAにヒントを得て考えた」もの。パンは購入直前まで厨房側にあるため、接触や飛沫を気にせず安心して食べられます。

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

5月28日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」の第4回は「六花界グループ」を取り上げました。

28日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」の第4回は「六花界グループを紹介しました。

日本のアートオークションをリードするシンワオークションにて開催された「WINE/LIQUORオークション」で、「ロマネコンティ」をおさえ、日本酒の「十輪(とわ) 旅スル日本酒」に最高額440万円がつき、落札された。
ギネスブックにも申請中の、世界一高価な日本酒を造ったのは、六花界グループの森田隼人社長。六花界グループは、東京初の立ち焼肉「六花界」に始まり、「クロッサム モリタ」など6店舗を経営している

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

バナナの神様株式会社 代表取締役 高橋英樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”バナナの神様株式会社 代表取締役 高橋英樹氏登場。 

本文より~

高校までの神様。

今回、ご登場いただいたのは、「バナナの神様」の代表取締役の高橋氏。このインタビュー時(2021年)で、まだ41歳だが、「バナナの神様」を含め40社の会社を立ち上げている。モンゴルにも会社があるそう。いわば経営の神様。
「私は、1979年生まれ。高校から東京の学校に通っていました。父親は消防士だったのですが、私が中学1年の時に亡くなりました。その時から食べることに必死でした。中学3年から叔父が経営するセブンイレブンでアルバイトをさせてもらいます」。
消防士の父親はマジメだったが、母親はビジネスセンスに長けていたそう。フリーランスで仕事をされていたとのこと。
「高校時代もバイト三昧です。東京でも、埼玉でも、うちの近くでも、いろんなバイトをかけもちし、月に70~80万円かせいでいました」。
当時は、学校にもタクシーで乗りつけることがあったそうだ。
「とはいえ、大学に進学するつもりでしたから、1年、浪人を覚悟します。奨学金をいただくために、毎日新聞に入り、働きながら勉強するつもりでいました。ただ、営業が得意で、コンテストで表彰されたりもして、だんだんそっちが楽しくなって」。
高橋氏、初の挫折はここにある。中学まで一生懸命だった野球も周囲との実力差をまざまざと感じ高校でやめてしまう。その後入りたい大学も見つからず人生の目標を見つけられずにいたのだろう。

だれも追いかけられない営業成績。

結局、高橋氏は大学には進んでいない。「新聞配達奨学生で大学に行く予定だったのですが、当時、バイトしていた大手通信関係に急遽就職することになります。光通信の関連会社で、私も創業当時のメンバーの1人です」。
ここから急に話が、現実離れする。高橋氏だけではない。話に出てくる人たちが、まるでシンデレラストーリーの登場人物かのような。むろん、高橋氏は、その中心人物。
「初年度の年収は800万円でしたが、2年目には2000万円にはなっていました」。
2000万円!!と思ったが、営業成績を聞いて納得する。光通信グループ自体、急成長をとげるが、なかでも、高橋氏の売り上げは、すさまじいの一言だった。「当時、コピー機を売っていたのですが、月に3台売れればOKの時代に、私は30台売っていました。だれもついてこられなかったですね」。
むちゃくちゃな数字ですね? というと、案外、そうでもないらしい。「だって、特別なことをしているわけではないですからね」。
「コピー機ってだれから買っても値段はいっしょだろ。だったらキミから買う。だって、キミ楽しそうだからね」。
これは、高橋氏が「何故、ぼくから買ってくださるのですか?」とお客様に問いかけた時の、返答。「それからですね。私のなかで『楽しい』がキーワードになります」。
どうせなら、仕事は楽しんだほうがいい。だから、ちゃんと向き合う。「でも、いまは、あの当時のように若い子に指導すると、パワハラになっちゃいます。ちょっと難しいですよね」と笑う。
数字もハンパないが、やっていることもハンパない。1日のテレアポ400件。
「私が起業したのは、24歳の時。社長になんてなるつもりはなかったのですが、当時のメンバーたちに乞われて、じゃぁやろうかとなり、私を含め16名で営業代行会社を立ち上げます」。
この会社が数年で数百億円を叩きだす。お手伝いさせていただいている会社も従業員の数も、1万社1万人を超える。
「当時、流行っていたものには、たいていうちの営業がかかわっていました。名前をいえば、だれでも知っている会社のお手伝いもさせていただきました」。
次々、挙げられる社名や商品名を聞いて、改めて驚いた。

穴。

正真正銘の、ビジネスの神様。ただ、経営に穴があったのも事実。29歳で会社を一度、潰している。その時、ハンパない額の借金を背負うが、それを34歳で完済している。凡人には、それだけの借金もつくれないが、むろん返済もまず不可能だ。
「返済できてからが、いちばん楽しかったですね。毎日、フレンチを食べるより、吉野家で牛丼をかっこんでいるほうが幸せだと気づいたのも、この頃です」。
「34歳からの5年間は半分ボランティアしていました。つまり、5割がボランティアで、残り1割が営業代行のコンサルティング、4割が保育園の経営です」。
保育園? 「そう、保育園です」。なんでも、「待機児童の問題を解決しよう」からスタートしたそうだ。課題解決が好きなのだという。
また、「金儲けより、社会貢献」と当時の仕事軸を語る。東京メトロの保育園も高橋氏がかかわり、つくっている。モンゴルの会社はJC(青年会議所)とのつながりで。話はでかい。民間外交で向こうの外務省や日本の大使館の依頼をうけ、不動産開発や国際航空の開発、太陽光のメガソーラーの開発、医療問題解決のためにMRIなどの医療機器の輸出や医療法人経営なども行っているそうだ。
結局、冒頭でも書いたが41歳のいまに至るまで立ち上げた社数は、40社にのぼる。SDGsにも関心をもち、講演もしている。フードロスも気になるところだ。
もうすっかり、穴から這い上がっている。

・・・続き

バナナの神様株式会社 代表取締役 高橋英樹氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年6月8日火曜日

株式会社ブロスダイニング 代表取締役社長 鈴木一生氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ブロスダイニング 代表取締役社長 鈴木一生氏登場。 

本文より~

主食は、ささみとミンチ。

牛肉を克服したのは高校生になってから。それまでは、ささみとミンチが主なメニューだったと、こちらを笑わせる。
今や生粋の料理人であり、ブロスダイニングの社長でもある鈴木氏の言葉だから、にわかに信じられなかった。「中学になっても背が低く、高校でも150センチくらい。高校になって小学校からやっていた野球を辞めるんですが、背が低かったのも理由の一つです/笑」
なんでも、小学校の頃から、前へならえをしたことがないそうだ。
鈴木氏が生まれたのは、1972年12月8日。パナソニックの本社もある守口市出身である。小学校は5クラス、中学校は12クラス。「からだは小さかったですが、野球はそこそこうまかったですね。守備は、ショートやセカンド」。
じつは、苦労もされている。
「私が中学に上がる頃、両親が離婚します。お金もなかった。中学になると、野球が軟式から硬式になるんですが、硬式になると、グローブも万単位です。だぶん、母が借金をして買ってくれたんでしょうね」。
野球を辞めたもう一つの理由は経済的な問題だった。
「高校時代から様々なバイトをしました。今思えばいい経験です。大学進学は、最初から頭になかったですね。私たちの頃って、ITとかPCとか、そういう流れが加速する時代でした。じつは、私も最初、そちらへ、と思っていたんですが、何しろ、難しい/笑」。
だから、料理に進んだ。もっともミンチとささみで育った人間だ。食材も、そう知らないし、料理に対する関心も薄い。
「ただし、母が仕事に追われていましたから、興味はなくても料理は経験しています。父親の知り合いが辻調の先生だったこともきっかけになりました」。
大学進学という選択肢もなかったし、ITに進むことも、断念した。残り物には、「福」があるともいうが、さて?

料理人の道が始まる。

辻調理師専門学校で専攻したのは、フレンチだったそう。たぶん、それ以外は未知だったのではないか。イタリアンも、中華も、食べたことがない。しかしフランス語を覚えるのが大変だったため和食の道に。
「1年制なんですが、正直言うと勉強はそっちのけで、あんまりしていない。にもかかわらず、就職するなら、吉兆だ、なんて思っていましたから、吉兆さんには、失礼な話です。しかも、笑っちゃうんですが、大事な吉兆さんの説明会の日を失念して、ともだちと旅行に…。思い出したのは、どこでだったと思います?」。
答えは、鳥取県の砂丘の上。砂の丘に立ち、「あっ」と叫んだにちがいない。それでも、恵まれている。鈴木氏が、就職したのは、株式会社なだ万。吉兆と双璧をなす、和食の料理店だ。
「今思うと、たしかに恵まれていたと思います。時代的にも、売手市場だったんでしょうね。早く家を出たいとも思っていた私は、東京のホテルニューオータニのなだ万を希望します」。
いきなり東京へ。
「守口の田舎者が、思い切ったもんですね。でも、これが、私の人生をひらくんです」。

鉄人との出会い。

鈴木氏が19歳だから、1991年のこと。バブルの残滓は至るところに残っていた。「料理人も、そうですね。私の同期だけで20人はいたと思います。その時の、料理長が中村孝明さんだったんです」。
孝明氏といえば、フジTVの「和の鉄人」ですよね?
「そうです。2代目、和の鉄人です」。
「同期ですか? 1週間、2週間とだんだん人が減ります」。「あの頃は」と言いながら、当時の様子を教えてくれたが、文字に起こすのは、気がひけるので、そこは、想像にお任せすることにしよう。
「私の場合は、帰るところがなかった。だから、辞められなかったが、正直なところですね」。辞めない、辞められない。どちらが正しいかはわからないが、しがみつき、残ったことは正解だった。
ところで、料理人になるには、問題があったのでは? と聞いてみた。
「偏食のことですよね」といって、鈴木氏は、笑う。
そう、ミンチとささみと、多少の牛肉の話です。
「料理人になって100%、なんでも食べられるようになりました。昔は、のどを通らなかった牛肉も、もちろんへっちゃら」。
仕事ですからね、そんな言葉がついてでてきそうだった。
「私が辞めなかったのは、先輩たちにかわいがってもらっていたから。孝明さんにも目をかけていただきました。たぶん、要領のいい小僧だったんでしょうね」。
料理の上手い下手より先に、機転や気遣いといった人間力が試されると昔、料理のプロ中のプロに聞いたことがある。もって生まれた才能と言っていんだんだろうか? それとも、苦労した結果なのだろうか?
とにかく、和の鉄人にとっても、鈴木氏は大事な部下の1人になっていく。

香港へ。そして、中村孝明氏とともに。

「なだ万には、合計8年いた計算です。ニューオータニに4年、大阪で1年、2年半ほど、香港です」。鈴木氏は、25歳で香港に渡り、「香港シャングリラホテルなだ万」に勤務している。
「海外旅行に行ったことがないし、和食なのに、なんで中国なんやろ? と、抵抗があったのも事実です。それでも、辞令をうけて、香港に向かうわけですが、ちょうど香港が中国に返還されて、3ヵ月くらい経った頃だったんですね。だから、向こうも新時代の時だったんでしょうね」。
日本人は鈴木氏を含め9人だったそう。鈴木は下から2番目。使いっ走り。ただ、この香港行きも、結果として鈴木氏を育てることになる。
「だって、日本にいたら、下っ端ですからね、魚もさわれません。それがスタンダードだったんですが、香港ではそうは言ってられなかったんでしょうね。9人ですから。だから、私にも魚を下ろさせてくれた。料理人としては、貴重な経験です」。
たしかに、実践できるかどうかは、大きな差を生む。
「最初は2年契約だったんですが、結局2年半いました。孝明さんにお誘いいただいたのは、帰国してからですね」。
じつは鈴木氏、27歳で「なだ万」を辞めると決めていたそうだ。料理人として、独立するか。それとも、大手チェーン店で料理人の仕事をそつなくこなすか。そのいずれか、で。
そんな鈴木氏に、中村孝明氏が声をかける。
「会社をつくるから、ついてこないか」と。
鈴木氏は、どんな思いでその一言を聞いたんだろう?

ノバレーゼへ。

とにもかくにも、孝明氏のチャレンジに参加した鈴木氏は、孝明氏の期待通り、頭角を現す。副料理長、料理長を経て、30代で取締役総料理長にも就任している。
「結局、36歳の頃まで在籍しました。それから、いったんノバレーゼに移るんですが、また舞い戻りました/笑」。
その間、苦労もされている。そのすべてが、いまにつながるというと、客観的なものいいになってしまうだろうか。「じつは、ノバレーゼと、孝明さんの会社は、同時期の創業なんです。ただ、こちらは10億円、向こうというのはノバレーゼですが、100億円ですからね、正直、えらい違いやな、と。」。
ノバレーゼはブライダルがメイン事業ですよね?
「そうです。ただ、レストランもブライダルの一つの柱です。最初にお誘いいただいた時は、諏訪湖のお店だったんですが、あまりに田舎すぎて/笑。それでいったんご遠慮したんですが、そのあともう一度お誘いいただいて、今度は広島の『三瀧荘』という由緒ある料亭をノバレーゼが賃借として扱い、そちらで6~7年、料理長をさせてもらいました。ノバレーゼでは今で合計11年くらいになります」。
ノバレーゼから、レストラン事業に特化するためにつくられたのが、ブロスダイニング。鈴木氏が社長に就任したのは、2019年のこと。
「孝明さんの下にいた頃も役員をさせていただいたんですが、ノバレーゼで改めて経営について教えていただいたと思います」。
料理の道に人生を託し、なだ万で修業し、中村孝明という巨匠に出会い、経営の神髄をノバレーゼで学ぶ。これだけ恵まれた環境を手にした人も少ないだろう。
実力があったからこそなのだが、鈴木氏はそうとは言わない。
「孝明さんはもちろんですが、ノバレーゼの役員の方々にひっぱっていただき、私の下についた部下たちが、私をかつぎ、押し上げてくれてからこそ、いまがあるんだと思っています」と素直に感謝の言葉を口にする。この一言が、鈴木氏という人の人格を物語っている気がしてならない。

・・・続き

株式会社ブロスダイニング 代表取締役社長 鈴木一生氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年6月6日日曜日

求職者、独立志向の方、是非ご相談ください。

 「いんしょくハイパー」を立ち上げましたが、数年ずっと放置してました。(汗)

それをうちの社員の提案で少しコンセプト変え、復活させてはどうかということで再スタートさせました。

飲食に強い人材紹介会社の皆さん、また、転職お考えの求職者の方は是非登録してみてください。

http://in-shoku.info/

まずは小さなコミニティから少しずつ拡げ、1人でも多くハッピーになればと、うちの強みでもあるきめ細かいフォローをしていきます。


また、一方で制作責任者が飲食FC加盟サポートのホームページも新たに作成してくれました。

https://in-shoku.info/foodfighters/soudan.html


転職し社員になるだけが幸せではないと思います。

業務委託からの独立、FC加盟しての独立、50代ならその選択肢も応援します。

今はビジネス街でなくても、郊外の方がうまくいってます。

また、デリバリー専門のバーチャルレストランを導入すればプラスアルファの売上も期待出来ます。

アドバイスも出来るので、是非ご相談ください。

キイストンは、知恵と工夫、そしてネットワークを活用し、飲食業界の灯りを消さないため、どんどん新たな試みしていきます。

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年6月4日金曜日

株式会社ワン・ダイニング 代表取締役社長 髙橋 淳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”「ワンカルビ」」を展開されている株式会社ワン・ダイニング 代表取締役社長 髙橋 淳氏登場。


本文より~

1人で140億円を動かす。

「淳くん」と言われたのだろうか、それとも「淳」と言われたのだろうか? 髙橋淳氏が、創業者であり、現会長の髙橋健次氏に出会ったのは奥様を介してだ。「私がまだ商社マンだったときに、後輩の紹介で知り合ったのが会長の娘さんだったんです。当時から会長は相当、怖い人で、会長と話すときは、子どもたちだって敬語です。ただ、私の場合、最初から気に入っていただいて」。
最初から話は盛り上がり、尽きなかった。そのとき、健次氏は、娘婿となる髙橋氏に「男なら経営を仕事にすべきだ」と語っている。
髙橋氏が、生まれたのは1961年。ダイリキの創業は1965年だから、両者は同年代生まれである。ダイリキは昭和47年に法人化(大力食品株式会社としてスタート)、昭和53年には商店街のなかに食肉店を開設するなど高度経済成長の波をとらえ事業拡大をつづける。
一方、髙橋氏は有名大学を卒業し、大手商社に就職するなど、こちらもすくすくと育っていく。
「商社では繊維を担当していました。裁量の幅が広く、自由度も高い会社だったもんですからヤリガイがあり、たいへんでしたが楽しかったですね。私1人で、年間140億円を扱っていましたから、スケールの大きさはいうまでもありません」。
140億円を自身の裁量で動かす。たしかに、ダイナミックだし、楽しいはずだ。髙橋氏も商社を辞めるつもりはなかったと言っているが、ではどうして、義父の下にはせ参じることになったのだろうか?

「男なら経営者に」という期待と暗示。

「商社を辞めるつもりはぜんぜんなかったんですが、義父と話をするうちに、経営という仕事に魅了されていきます。『男なら経営を仕事にすべきだ』という言葉の意味もだんだんわかってくるんですね」。
それで決断?
「そうなんです。私も男ですからね。やってみるか、と。ただ、ダイリキに入社しても当然のことですが、経営者の切符が約束されていたわけではありません」。
ダイリキに入社した髙橋氏は、店舗開発課長からスタートする。ある意味、商社マンだった髙橋氏には、最適な仕事だ。「今思えば、いきなり経営に参加するのではなく、下から上がっていったことに意味がありました。外部の人間がいきなりトップというのは、ダイリキの風土になじみません。ダイリキは、プロ集団なんです。義父からは、店舗経営や組織について、レクチャーを受けつづけていました」。
健次氏は早くから髙橋氏を2代目候補と認めていたのかもしれない。健次氏はつねに期待し、髙橋氏は、つねに、その期待に応えた。2人の関係が糸を織りなすようにして強固なものとなり、同時にダイリキもまた、強力な会社に育っていく。

社長就任。

髙橋氏が、ワン・ダイニングの社長に就任するのは、2008年に会社が分社化したとき。すでに髙橋氏は、プロ集団のなかでも、たしかな地位を確立していた。
「私が、入社した当時は焼肉に対する物件オーナーのイメージが悪くて。私が入った時に、ダイリキの焼肉店はまだ2店舗だったんですが、この2店舗が大爆発して。そう、それで『事業のもう一つの柱に育てていくぞ』ってなるんですが、物件がない/笑」。
店舗開発課長の髙橋氏はいきなり重要なミッションが課せられる。「それで、郊外に目をつけたんです。郊外なら、イチから作れますからね。だれにも文句は言われない。そうやって、店舗数を広げ、BSEも乗り越えきたんですが、分社化した2008年には、リーマン・ショックです」。
焼肉は言っても、庶民には高根の花だ。財布の紐が締まれば、来客も少なくなる。どうやって、乗り越えたんだろうか?
社長に就任し、もっとも注力したのは「サービス力と接客力」と髙橋氏は言っている。
「もともと、うちはダイリキからスタートしていますから、肉のプロなんです。だから、肉のプロと、サービス・接客のプロがいっしょになれば、最強でしょ。うちが、テーブルオーダーバイキングというスタイルを取っているのは、サービスと接客に挑んでいるからなんです」。
ただ、注力するといっても、そうそう向上しないのが、サービス力と接客力だ。「人」を動かすのは、難しい。
「社長に就任してから、取り組んだのが新卒採用です。とくにインナー採用にちからを注ぎました。じつは店舗社員の6割が元アルバイターなんです。そのアルバイトも45%が紹介による採用です。採用経費はもちろんですが、互いを知ったうえでの『就職』であり、『採用』ですからね。そこがいいと思っているんです」。
いい循環が生まれている。
「そういう好循環を生み出しているのが、うちの様々な制度、また高い給料や休日などです」。
実際、どうなんだろう?と同社の採用ページを観てみた。
イキイキとはたらく、スタッフたちのいい絵が並んでいる。髙橋氏がいう通り、待遇もよく、様々な制度が整っている。だが、それだけではなかった。
先輩のインタビューのなかに、次のような一文があったので引用する。
「『お前がこの店を変えるんや』。そう、熱く語ってくれたブロック長の一言。思えばあの言葉が、僕の人生を変えたんだと思います」。
当時、この先輩は、アルバイトだったそう。アルバイトにもまっすぐ向き合う。こんな素敵な会社は、たしかに少ない。これなら、たしかにインナー制度も機能だろう。トップの髙橋氏が何を大事にしているかも観えてくる。

・・・続き

株式会社ワン・ダイニング 代表取締役社長 髙橋 淳氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

飲食FCの加盟サポートを進めていきます!

キイストンFC加盟サポート

フランチャイズ 独立開業

夕刊フジにて連載した「飲食FCで第二の人生」で、30社のFC本部を紹介させて頂きました。

おかげで、ここがお薦めという企業様と出会い、かつ書籍『飲食業で起つ!』という武器も揃いました!

となれば、案内しない訳にはいきません。

ということで、FC加盟サポートを本格的に案内していきます。

キイストンFC加盟サポート

コロナ禍で飲食業界は緊急事態宣言発令から延長・延長と大変な環境下で、大きな変革期でもあります。

キイストンは飲食業界に助けていただき今日があるので、キイストンしかできないことにチャレンジしていきます。


ご紹介企業

ダイキチシステム、奴ダイニング、シーユナイテッド、イートアンド、ディーアール、ギフト、T.H.S、サブウェ 、J-AR 、キングファクトリー、ポッカクリエイト、鶏ヤロー、グロービートジャパン 、サンメレ 、セガフレード、元祖からあげ本舗、ナッティースワンキー、ゆで太郎システム、ディーズプランニング、ファッズ、スタイル、ビープラウド、TGAL、和僑ホールディングス、サガミ ホールディングス、アントワークス、やる気、IFC、等

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年6月2日水曜日

“脱”居酒屋も視野に入れたFC加盟の提案もしてます。

 飲食企業様に、介護関連のFCやデリバリー専門のFC、テイクアウトや食パン専門店のFCなど今までとは違った提案をさせてもらってます。

(何よりも投資額が飲食店オープンされるより低い)

おかげさまで、飲食企業様に介護マッサージのFC契約を1案件決めさせて頂きました。

提案した理由の一つに、転職サポートさせて頂きもう長い付き合いの方が昨年脱サラされ、なんといきなり初年度MVPを獲得されました!

「飲食業経験者は強いですよ」と実情聞いたので自信持ってうちの営業マンが案内しました。


また、居酒屋でコロナで売上立たないなか、自社でウーバー等利用してデリバリーやられてたのですが、月数十万だったのでうちの営業マンがゴーストレストランのFCを案内。

結果、1日に10万の日もあるらしく、2店舗目も契約されました。

また、こんな時でももともとテイクアウトが強い業態の食パン専門店やドリンクは安定してるので、ご提案しています。

ある意味、大手・中堅企業がアクション起こすには時間かかりますので、10店舗未満の飲食企業様は今がチャンスです!

学生時代に飲食店でアルバイトしていた方が営業マンでも力発揮してるように、コミニュケーション力ある飲食出身者は、介護のお客様を獲得するのも、店頭で販売するのも人好きが多いので強いです。

業界にどっぷりいると潜在的な強さわからないので、少しだけ考え方と業態変えられたらいいので、応援させてもらいたいです。


また、サラリーマンからの独立もお薦めしてます。

一から独立された方ははお金がないので、郊外や住宅街の家賃の低い居抜きで狭い店舗(10坪前後)からスタートされるが多いですが、コロナ禍ではそんな立地が強いんですよね…。

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン