in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ブロスダイニング 代表取締役社長 鈴木一生氏登場。
本文より~主食は、ささみとミンチ。
牛肉を克服したのは高校生になってから。それまでは、ささみとミンチが主なメニューだったと、こちらを笑わせる。
今や生粋の料理人であり、ブロスダイニングの社長でもある鈴木氏の言葉だから、にわかに信じられなかった。「中学になっても背が低く、高校でも150センチくらい。高校になって小学校からやっていた野球を辞めるんですが、背が低かったのも理由の一つです/笑」
なんでも、小学校の頃から、前へならえをしたことがないそうだ。
鈴木氏が生まれたのは、1972年12月8日。パナソニックの本社もある守口市出身である。小学校は5クラス、中学校は12クラス。「からだは小さかったですが、野球はそこそこうまかったですね。守備は、ショートやセカンド」。
じつは、苦労もされている。
「私が中学に上がる頃、両親が離婚します。お金もなかった。中学になると、野球が軟式から硬式になるんですが、硬式になると、グローブも万単位です。だぶん、母が借金をして買ってくれたんでしょうね」。
野球を辞めたもう一つの理由は経済的な問題だった。
「高校時代から様々なバイトをしました。今思えばいい経験です。大学進学は、最初から頭になかったですね。私たちの頃って、ITとかPCとか、そういう流れが加速する時代でした。じつは、私も最初、そちらへ、と思っていたんですが、何しろ、難しい/笑」。
だから、料理に進んだ。もっともミンチとささみで育った人間だ。食材も、そう知らないし、料理に対する関心も薄い。
「ただし、母が仕事に追われていましたから、興味はなくても料理は経験しています。父親の知り合いが辻調の先生だったこともきっかけになりました」。
大学進学という選択肢もなかったし、ITに進むことも、断念した。残り物には、「福」があるともいうが、さて?
料理人の道が始まる。
辻調理師専門学校で専攻したのは、フレンチだったそう。たぶん、それ以外は未知だったのではないか。イタリアンも、中華も、食べたことがない。しかしフランス語を覚えるのが大変だったため和食の道に。
「1年制なんですが、正直言うと勉強はそっちのけで、あんまりしていない。にもかかわらず、就職するなら、吉兆だ、なんて思っていましたから、吉兆さんには、失礼な話です。しかも、笑っちゃうんですが、大事な吉兆さんの説明会の日を失念して、ともだちと旅行に…。思い出したのは、どこでだったと思います?」。
答えは、鳥取県の砂丘の上。砂の丘に立ち、「あっ」と叫んだにちがいない。それでも、恵まれている。鈴木氏が、就職したのは、株式会社なだ万。吉兆と双璧をなす、和食の料理店だ。
「今思うと、たしかに恵まれていたと思います。時代的にも、売手市場だったんでしょうね。早く家を出たいとも思っていた私は、東京のホテルニューオータニのなだ万を希望します」。
いきなり東京へ。
「守口の田舎者が、思い切ったもんですね。でも、これが、私の人生をひらくんです」。
鉄人との出会い。
鈴木氏が19歳だから、1991年のこと。バブルの残滓は至るところに残っていた。「料理人も、そうですね。私の同期だけで20人はいたと思います。その時の、料理長が中村孝明さんだったんです」。
孝明氏といえば、フジTVの「和の鉄人」ですよね?
「そうです。2代目、和の鉄人です」。
「同期ですか? 1週間、2週間とだんだん人が減ります」。「あの頃は」と言いながら、当時の様子を教えてくれたが、文字に起こすのは、気がひけるので、そこは、想像にお任せすることにしよう。
「私の場合は、帰るところがなかった。だから、辞められなかったが、正直なところですね」。辞めない、辞められない。どちらが正しいかはわからないが、しがみつき、残ったことは正解だった。
ところで、料理人になるには、問題があったのでは? と聞いてみた。
「偏食のことですよね」といって、鈴木氏は、笑う。
そう、ミンチとささみと、多少の牛肉の話です。
「料理人になって100%、なんでも食べられるようになりました。昔は、のどを通らなかった牛肉も、もちろんへっちゃら」。
仕事ですからね、そんな言葉がついてでてきそうだった。
「私が辞めなかったのは、先輩たちにかわいがってもらっていたから。孝明さんにも目をかけていただきました。たぶん、要領のいい小僧だったんでしょうね」。
料理の上手い下手より先に、機転や気遣いといった人間力が試されると昔、料理のプロ中のプロに聞いたことがある。もって生まれた才能と言っていんだんだろうか? それとも、苦労した結果なのだろうか?
とにかく、和の鉄人にとっても、鈴木氏は大事な部下の1人になっていく。
香港へ。そして、中村孝明氏とともに。
「なだ万には、合計8年いた計算です。ニューオータニに4年、大阪で1年、2年半ほど、香港です」。鈴木氏は、25歳で香港に渡り、「香港シャングリラホテルなだ万」に勤務している。
「海外旅行に行ったことがないし、和食なのに、なんで中国なんやろ? と、抵抗があったのも事実です。それでも、辞令をうけて、香港に向かうわけですが、ちょうど香港が中国に返還されて、3ヵ月くらい経った頃だったんですね。だから、向こうも新時代の時だったんでしょうね」。
日本人は鈴木氏を含め9人だったそう。鈴木は下から2番目。使いっ走り。ただ、この香港行きも、結果として鈴木氏を育てることになる。
「だって、日本にいたら、下っ端ですからね、魚もさわれません。それがスタンダードだったんですが、香港ではそうは言ってられなかったんでしょうね。9人ですから。だから、私にも魚を下ろさせてくれた。料理人としては、貴重な経験です」。
たしかに、実践できるかどうかは、大きな差を生む。
「最初は2年契約だったんですが、結局2年半いました。孝明さんにお誘いいただいたのは、帰国してからですね」。
じつは鈴木氏、27歳で「なだ万」を辞めると決めていたそうだ。料理人として、独立するか。それとも、大手チェーン店で料理人の仕事をそつなくこなすか。そのいずれか、で。
そんな鈴木氏に、中村孝明氏が声をかける。
「会社をつくるから、ついてこないか」と。
鈴木氏は、どんな思いでその一言を聞いたんだろう?
ノバレーゼへ。
とにもかくにも、孝明氏のチャレンジに参加した鈴木氏は、孝明氏の期待通り、頭角を現す。副料理長、料理長を経て、30代で取締役総料理長にも就任している。
「結局、36歳の頃まで在籍しました。それから、いったんノバレーゼに移るんですが、また舞い戻りました/笑」。
その間、苦労もされている。そのすべてが、いまにつながるというと、客観的なものいいになってしまうだろうか。「じつは、ノバレーゼと、孝明さんの会社は、同時期の創業なんです。ただ、こちらは10億円、向こうというのはノバレーゼですが、100億円ですからね、正直、えらい違いやな、と。」。
ノバレーゼはブライダルがメイン事業ですよね?
「そうです。ただ、レストランもブライダルの一つの柱です。最初にお誘いいただいた時は、諏訪湖のお店だったんですが、あまりに田舎すぎて/笑。それでいったんご遠慮したんですが、そのあともう一度お誘いいただいて、今度は広島の『三瀧荘』という由緒ある料亭をノバレーゼが賃借として扱い、そちらで6~7年、料理長をさせてもらいました。ノバレーゼでは今で合計11年くらいになります」。
ノバレーゼから、レストラン事業に特化するためにつくられたのが、ブロスダイニング。鈴木氏が社長に就任したのは、2019年のこと。
「孝明さんの下にいた頃も役員をさせていただいたんですが、ノバレーゼで改めて経営について教えていただいたと思います」。
料理の道に人生を託し、なだ万で修業し、中村孝明という巨匠に出会い、経営の神髄をノバレーゼで学ぶ。これだけ恵まれた環境を手にした人も少ないだろう。
実力があったからこそなのだが、鈴木氏はそうとは言わない。
「孝明さんはもちろんですが、ノバレーゼの役員の方々にひっぱっていただき、私の下についた部下たちが、私をかつぎ、押し上げてくれてからこそ、いまがあるんだと思っています」と素直に感謝の言葉を口にする。この一言が、鈴木氏という人の人格を物語っている気がしてならない。
・・・続き
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